第七話『孤影の墓標』
秋の風が、森の縁を撫でていた。
魔女の家は、丘の上の静かな場所にある。
朝晩の気温がぐっと下がるこの季節、木々は色づき、風に舞う落ち葉が庭のあちこちに降り積もっている。どこか寂しげな空気の中にも、利用者たちの笑い声や、炊事の香りがほんのり漂っていた。
だが、達也はここ数日、気がかりなことがあった。
それは、施設の敷地の外——森の向こう側に、ほとんど毎日のように立っている「誰か」の存在だった。
最初にその姿を見たのは、ちょうど洗濯物を干していた時だった。
夕暮れの薄明かりの中、ふと木立の向こうに黒い影が見えた。
フードを深くかぶった細身の人影。人か魔物か、見分けがつかない。こちらに気づいたその人物は、すぐに身を翻し、森の奥へと姿を消した。
「……誰だったんだ、今の」
達也は気になったが、そのときはただの通りすがりかと考えた。しかし翌日も、またその翌日も——同じ場所に、その影は立っていた。
近づこうとすると、必ず逃げてしまう。足取りは弱々しく、魔法で気配を消す様子もなく、ただ“こちらを見つめていた”。
それは“見張っている”というより、“眺めている”といったほうが近かった。
まるで、遠い昔に失った何かを、懐かしむように。
達也はある日、リハビリ帰りにその姿を見つけて、声をかけようとした。
しかし、相手はやはり森の中へ消えてしまった。地面には落ち葉が乱れ、足跡も残されていない。
帰ってきた達也は、小さな包みをひとつ用意した。
食堂で余った柔らかいパンと、温めるだけのスープ。加えて、ほんの一言だけの手紙を添えた。
《こんにちは。あなたが何者なのかは分かりませんが、魔女の家は誰にでも開かれています。もし、食べ物に困っているなら、どうか。》
達也はそれを、あの人影がいつも立っていた木の根元に置いてきた。
だが、翌日それは消えていたものの、入っていたパンも手紙も手つかずのまま落ちていた。
「……読んでくれなかったのかな。それとも、文字が読めなかったのか……」
そう呟いて、達也は思わず自嘲した。
——何をしてるんだろう、俺は。
魔女の家の職員として、目の前の利用者たちを支えるのが本来の役割。
だが、その影を見てしまったとき、どうしても他人事には思えなかった。
その背中には、どこか懐かしい“孤独”があった。
——人と関わることが怖い。
——誰かに助けを求めたい。でも、それができない。
それは、自分が高校時代に父の介護に疲れていた頃、誰にも弱音を吐けずにいた日々と、どこか重なっていた。
達也は翌日も、さらにその次の日も、小さな差し入れを置き続けた。温めたスープ、包み込むような毛布、そして拙い言葉で綴った手紙。
けれど、反応はなかった。
それでも——不思議と怒りや虚しさは湧かなかった。ただ、どうしようもない寂しさが胸に残った。
「なあ……俺の声、届いてるのか」
ある日の帰り道、誰もいない林の奥に、そう問いかけてみた。答えはない。風が葉を鳴らすだけ。
その日、木の根元に置いた手紙には、こんな一文を加えた。
《もし、ここがあなたにとって、ただ眺めるだけの場所でも……俺はそれで、いいと思ってます。》
答えのない会話が続く中、達也はただ——誰かを見つめる目に、かつての自分の面影を見ていた。
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その夜、風は冷たかった。
月のない空は深く沈み、森は一層その輪郭を曖昧にしていた。
魔女の家の灯りは温かく、どこか浮世離れした静けさを漂わせていたが、外に出ると、肌を刺すような寒さが現実を突きつけてくる。
達也は、一人、裏庭に立っていた。
今夜もまた、あの人影が来ていないかと——ただ、それだけを理由に。
風に煽られて、木々が軋む。目を凝らしても、そこに人の気配はない。
けれど、達也はなぜか、確かに「視線」を感じていた。
ふと、風が止まる。その瞬間だった。
林の向こう、影が揺れた。
遠くに、黒衣の姿。確かにそこに、立っていた。
達也はゆっくりと、歩みを進める。叫ばない。問いかけない。ただ、静かに近づこうとした。
すると、その人物が、こちらを見た。
フードの奥の顔は、光の加減でよく見えない。ただ、視線だけがぶつかった。吸い込まれるような暗さ。そして、かすかに光るもの——それが、涙だったのか、錯覚だったのかはわからない。
だが、達也は確信した。
——泣いていた。
——泣きながら、ここを見ていた。
「……あなたは、誰なんだ」
そう思った瞬間、その人物はゆっくりと踵を返し、森の中へと歩き出した。
逃げるような足取りではなかった。ただ、静かに、まるで“すべてを諦めた者”のような背中だった。
「……!」
達也は足を踏み出したが、その背中を追いきれなかった。足がすくんだのだ。
あの目を見たとき、自分の中の古い痛みが疼いた。
父に介護を押しつけられ、兄弟に頼ることもできず、社会との距離を感じ、孤独の中でひたすら「助けて」と心の中だけで叫んでいた、あの頃の自分。
誰にも気づかれず、気づかれても、声をかけられなかった——いや、声をかけられても、信じることができなかった。
——“どうせ、いなくなったら忘れるんでしょ”
あの目は、そう言っていた気がした。
それは、あまりにも痛い記憶だった。
だから達也は、声をかけることができなかった。
後悔と無力感が胸を締めつける。足元に、落ち葉が舞った。
「……また、来てくれるかな」
それは願いというより、祈りだった。翌日、その姿は現れなかった。
その次の日も。さらに、その次の日も。
風は日に日に冷たくなっていった。山の向こうに雪雲が見えるようになった。
そして達也は、気づく。
——あの背中を見なくなったことで、心にぽっかりと穴が開いたような感覚に襲われていることに。
たった一度も、会話を交わしたわけでもない。
名前も、素性も知らない。
それでも——そこに、確かに“誰かがいた”ことを、身体が覚えていた。
それに、なにもできなかった。
その事実が、じわじわと胸を締めつけていた。
達也は、最後にもう一度だけ、手紙を置いた。
《あなたが今どこにいるかは、もう分かりません。でも、見ていてくれたこと、俺は忘れません。いつか、話ができたら嬉しかった。どうか、どこかで、あたたかく眠れていますように。》
手紙は、翌日、風に散っていた。
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遺体が見つかったのは、魔女の家から歩いて十五分ほどの、細く朽ちた獣道の先だった。
木々の隙間にぽっかりと開いた草の窪地。
そこに、黒衣をまとったまま、ひとりの人物が静かに横たわっていた。
達也がそれを見つけたとき、その身はすでに冷たく、風にさらされた髪には枯葉が絡まっていた。
そして——その顔を見たとき、達也はある違和感に気づいた。
肌の色が不自然に白く、どこか土気色がかっていた。耳の形が、わずかに尖っている。まぶたの縁には、痣のように黒い模様が浮かんでいた。
「……これは……」
達也は、それが“人間”ではないと理解した。
それは、伝承や文献でしか見たことのない、ある特異な種族だった。
——《瘴を喰らう者》
異世界ではそう呼ばれていた。
その正体は、**「クロヴェル族」**と呼ばれる古代の亜種族だった。
かつて魔法文明が発展する遥か昔、魔力の流れが不安定だった大陸の辺境にて、人々の間に生まれた“魔素に敏感な種”がいた。クロヴェル族は、他の種族よりも圧倒的に高い魔力適応能力を持ち、その代わりに、生まれつき体に瘴気(負の魔素)を溜め込みやすい体質を持っていた。
彼らは瘴気に侵されても死なず、それを魔力へと転換するという特殊な能力を持っていた。
だが、その体質が災いを呼んだ。
クロヴェル族が通った土地では、周囲の植物が枯れることがあった。弱い魔物が近づかず、魔力の流れが乱れるという現象も確認された。
そしていつしか、人々は彼らを「災いの種族」と恐れ、忌避するようになっていった。
——作物が育たないのは、あいつらのせいだ。
——この子の病気も、隣の村のクロヴェルの仕業だ。
——不幸は、瘴を喰らう者が運んでくる。
迫害は加速度的に強まった。
家を焼かれ、集落を追われ、魔法の封印を施されて「人里に近づくな」と通告された一族もあった。
その一方で、瘴気地帯でのみ生き延びられる土地に追いやられた者たちは、やがて飢え、冷え、絶望の果てに命を落としていった。
その姿は、歴史の中で次第に忘れられていった。
「……そんな、種族だったのか……」
達也は、亡骸の傍らで膝をつきながら、かつて読んだ古文書の記憶を辿っていた。魔女の家の資料室に、クロヴェル族に関する記述があったことを思い出す。
そこには、こう記されていた。
《彼らの身は、瘴に侵されていながら、その内に温もりを宿している。
誰よりも“生きよう”と足掻き、誰よりも“拒まれて”生きてきた種族である。》
そして今、目の前にあるのは、その最後の生き残りだったのかもしれない。
達也は、その手のひらに、自分がかつて置いた小さな手紙の切れ端が握られているのを見つけた。
湿った土に染まり、ほとんど読めなくなった紙には、微かにインクの滲みが残っていた。
《……ここは……開かれた場所……誰にでも……》
きっとこの人物は、ほんの少し——ほんの一歩だけ、寄りかかろうとしたのかもしれない。
だが、その一歩が届く前に、身体は限界を迎えていた。
彼(あるいは彼女)が、最後の瞬間に何を思っていたのか、達也には分からない。
だが確かに、達也が見た“涙”は、本物だった。
この場所に、心を寄せていた。
なのに、自分には、何もできなかった。
名も知らず、言葉も交わせず、ただ遠くで見ていただけ。
それでも、そこには確かに“誰かの生”があった。
誰にも知られず、誰にも祝われず、そして今——
“誰にも弔われずに、忘れ去られようとしている”
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「——無縁仏として、処理します」
村の役人の言葉は、あまりに淡々としていた。
場所は、魔女の家から少し離れた街の役所。亡骸を一時的に運び込んだ木造の検分室の中、達也は、角張った机越しに報告を受けていた。
「名前も分からない、身寄りもなし。魔法印章の記録にも一致なし……それに、これを見てください」
役人が机の上に置いたのは、亡骸から採取した小さな鱗のような皮片だった。
光を浴びると、かすかに瘴気を帯びているのが分かる。
「これ、クロヴェル族の痕跡ですね。つまり、“忌種”扱いです。……正直、こちらとしても記録には残しません。人々を怖がらせるだけですから」
役人は事務的にそう告げ、手帳に何かを書き込んだ。
達也は、そのやり取りを、ただ黙って聞いていた。
「……それで、本当に終わりですか」
初めて口を開いた達也の声は、ひどく乾いていた。
「“無縁仏”って、そんなに軽い言葉でしたっけ。誰にも思い出されず、誰にも祈られず。名も、記憶も、なかったことにする。そういうこと、ですよね」
役人は、一瞬言葉を止めたが、すぐに答えた。
「……制度上、そうなっています。あくまで、秩序のために」
そのとき、達也は何も返さなかった。
ただ小さく頭を下げて、静かに部屋を出た。
***
その夜、魔女の家の裏庭に、達也はひとり佇んでいた。
手には、亡骸の傍から拾い上げた、くしゃくしゃになった手紙の端切れがある。紙はすでにボロボロで、もはや読める部分は少ない。だが、それでも達也は、捨てることができなかった。
風が吹く。
木々が揺れる。
夜の空気は冷たく、肌を切るような感触がする。
「……どうして、俺は……」
言葉が、喉の奥に引っかかった。
どうして助けられなかったのか。
どうして、もう一歩踏み出して声をかけられなかったのか。
——助けたかった。
——でも、どうすればよかったのか分からなかった。
——怖かった。
そのすべてが、いまになって胸の奥で爆ぜた。
「誰かを、失う瞬間をただ見ているだけしかできないなんて……こんな、無力なもんなのかよ……」
声が震えた。涙ではなく、悔しさだった。
まるで自分の無力さを、世界そのものが突きつけてきたような感覚だった。
目の前で命が失われ、名前も知られず、忘れ去られようとしている。自分はそれを、ただ見届けるしかできなかった。
助けられなかった。
話しかけられなかった。
気づいていたのに、近づけなかった。
届きそうな距離にいたのに。
「俺は、いったい何を見てたんだ……」
答えのない夜に、言葉だけが風に溶けていく。
その瞬間、どこからともなく、かすかに木の葉が揺れる音が聞こえた。
……音ではなかったのかもしれない。
ただ、達也の心の中に——誰かの“気配”のようなものが、そっと寄り添った気がした。
“わたしは、ここにいた”
そう言われた気がした。
達也は、長く目を閉じて立ち尽くした。
風が、通り抜ける。その冷たさの中で、達也はようやく少しずつ、呼吸を整え始めていた。
悔しさは、まだ胸の奥に残っている。
だが、同時に確かに感じていた。
——自分はこの死を、忘れない。
——そしてこの記憶は、誰かの生の証として、ここに残る。
その夜、達也は眠らなかった。
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翌日、達也は裏庭の奥、誰にも気づかれにくい場所を選んだ。
魔女の家の敷地の端、背の高い樹が三本寄り添うように並んでいる場所。朝は日が差し、昼は風が通り、夜には星が見える。施設の誰もが通りかからない静かなその一角に、彼は小さな石をひとつ、地面に置いた。
墓でも、供養塔でもなかった。名前も、肩書も、飾りもなかった。
ただ、重みのある石だった。
それはまるで——「ここに、誰かが生きていた」と証明するためだけの、最小限の印。
達也は、その前にしゃがみ込むと、小さな布袋を取り出した。
中には、先日亡骸の近くで拾った、破れた手紙の断片と、かつて置いた差し入れの包み紙が収められていた。インクの滲んだそれらは、もはや文字としての役割を果たしていなかったが、達也にとっては、確かに“つながり”を象徴する欠片だった。
その布袋を、石の下に、静かに埋めた。
「名前も、声も知らないままで……ごめんな」
土を手で被せながら、達也はぽつりとつぶやいた。
「だけど、あんたがここを見つめてくれていたのは、本当だった。それだけは、俺の中でちゃんと残ってる」
風が吹いた。木々が静かに揺れる。
「だから、ここに“あんたの場所”を残すよ。たった一つの、場所を」
祈りとは、誰かを忘れないという意志なのかもしれない。
声に出して祈らずとも、こうして想い続けること——その積み重ねが、誰かの“生きた証”になるのかもしれない。
達也はふと、小さな野の花を一輪、草むらから摘んだ。名前も知らない花だ。けれど、色あせることなくそこに咲いていた。
それを、そっと石の前に添える。
「無縁、って言葉……あんまり好きじゃないんだ」
そうつぶやいた声は、風に紛れて消えていった。
でもそれは、確かに空気に溶けて、この場所の一部になった気がした。
達也は立ち上がった。
石碑ではない。誰にも気づかれない、小さな石。
だけどそれは、達也にとって“ここに生きていた誰か”を証すに足る、確かな印だった。
もう、誰にも知られないかもしれない。
けれど、少なくともひとりは、ずっと覚えている。
それがたったひとりでも——「無縁」じゃない。
そう、達也は信じることにした。
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数日後。
魔女の家は、いつものように穏やかな時間を取り戻していた。
リビングでは、利用者たちが日向ぼっこをしながらお茶をすすり、庭には秋の風が吹き込んで、木の葉をくるくると踊らせていた。職員たちの声、食器の音、笑い声。それらすべてが、いつもと変わらない“日常”だった。
達也もその中にいた。
食事の準備を手伝い、軽いリハビリの誘導をし、洗濯物を干しながら空を見上げる。
まるで、何事もなかったかのように。
けれど、たったひとつだけ、変わったものがあった。
——心のどこかに、常に“ひとりの存在”を思い出している自分がいること。
仕事をしていても、夜の風に吹かれていても、ふと、裏庭の奥の“あの石”のことを思い出す。
あの人が立っていた木立の影、そっと揺れたフード、泣いていたかもしれない目。
名も知らない。言葉も交わしていない。
それでも、確かに「そこにいた」誰かのことを、達也は思い出す。
たったひとつの場所を、誰かのために守り続ける。
それが、祈りの形でもあるのだと、達也は今になって思う。
ある日の昼下がり、洗濯物を干し終えた帰り道、達也はふと裏庭の方向に目をやった。
すると、風が吹いていた。
まるで“そちらへ来い”と背中を押すように。
彼は静かに歩いた。
あの場所は変わらず、静かだった。風が吹き抜け、三本の樹が揺れている。
石は、少し土に埋もれていた。達也はしゃがみ込み、落ち葉をそっと払った。
花はすでに枯れていた。その代わりに、今日は別の草花がすぐそばに咲いていた。
名も知らない白い花。その小さな命が、そこに根を張っていたことに、達也はどこか救われる気がした。
「……また来たよ」
石に向かって、そう声をかける。
返事はない。でも、今はそれでいい。
声が届くかどうかより、「誰かがここにいた」という事実を覚えていられることが、何よりも大切だった。
——俺は、これからも誰かを“見届けて”いく。
たとえその人が、どれだけ孤独でも。
誰にも知られなくても。
世界から置いていかれたとしても。
せめて、自分は見ていたい。
そうして生まれた記憶を、どこかに、静かに、残していきたい。
風が、また吹く。
その音が、どこか優しく聞こえた。
「……無縁なんかじゃ、なかったよな」
そうつぶやいた声は、風に紛れて空へと溶けていった。
空は高く、どこまでも澄んでいた。