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閑話「竜と泉の歌姫」

それは、まだ世界が今よりほんの少し若かったころの話。


 竜の名が恐れられ、尊ばれていた時代。紅蓮の空を翔けるアグニス・ファルブレイズもまた、誰にも近づかぬ孤高の存在だった。


 かつて、アグニスには仲間がいた。空を舞い、雷と炎で天を裂く、誇り高き竜たち。だが、ある年の終わり、人間たちが現れた。親しげに微笑み、交易を持ちかけ、言葉を尽くして信頼を得ようとした。


 だがそれはすべて、罠だった。


 眠っていた幼竜がさらわれ、仲間のひとりが鱗を剥がされ、竜の血を薬に変えられた。人間の欲望は、アグニスの想像を遥かに超えていた。冷酷で、計算高く、そして貪欲だった。


 その夜、アグニスは怒りの炎で人間の里を焼いた。空が紅く染まり、地が裂ける中、彼の咆哮は空を割き、燃え広がる業火は、大地に深く爪痕を残した。


 そして、彼は誓ったのだ——二度と人間に心を開くまい、と。


 それから幾年も、彼は山の奥に棲み、誰とも交わらず生きてきた。

 かつてのように空を翔けることもなく、地に足をつけ、静かに時をやり過ごすように。


 季節は何度も巡り、森の木々は何度も色を変えた。雪の重みに枝がしなり、春には草が芽吹いた。


 孤独は彼にとって、もはや恐れではなかった。静けさは、時に癒しとなる。


 だが、その夏——


 山深き静かな谷にある泉のほとりに、ひとりの少女が現れた。


 その日は夕立のあとの午後で、泉の水面は薄く霞み、霧が立ち上っていた。

 小さな影が岩場を伝い、そっと草を踏みしめる音が聞こえた。


 アグニスは岩陰からその姿を睨みつける。人間だ。

 痩せぎすの体に、薄汚れた靴。けれどその歩みには、ためらいも恐れもなかった。


 少女は泉のほとりに腰を下ろすと、そっと口を開いた。


 ——歌だった。


 風にそよぐ草のような、素朴な旋律。言葉は幼く、音程も不安定だったが、どこか耳に残る優しさがあった。


 アグニスは、動けなかった。

 火竜である彼の胸の奥で、なにかが、微かに揺れていた。


 少女は彼の存在に気づいていたはずだ。それでも逃げることなく、しばらく歌い続け、そして立ち上がり、静かにその場を去っていった。


 その日を境に、少女は何度も泉を訪れるようになる。

 歌を歌い、ときには小さな布を川で洗い、ときには花を摘んで帰っていった。


 アグニスは毎回、岩陰から彼女を見ていた。声もかけず、姿も見せず——ただ、見守るだけ。

 そして、彼の心には、かつて知らなかった微かな好奇心が芽生え始めていた。


 ____________________________________________


 少女は今日もやって来た。


 草を踏みしめる音と、鳥のさえずりに混じるような細い鼻歌。

その旋律が、泉の静寂にふわりと溶け込んでいく。


 アグニスは、岩陰からそっと顔を出していた。

 すでに何日も見守り続けているが、今日だけは少し違う。

 彼の胸の奥で、何かが疼いていた。


「……人の娘よ」


 岩の影から、低く響く声が放たれた。

 少女はぴたりと動きを止め、振り返る。泉の向こう、木々の隙間から覗く金の瞳に目を見開いた。

 だが、やはり逃げない。


「……やっぱり、本当にいたんだ。泉の神様」


 「神ではない。竜だ。我はアグニス・ファルブレイズ、火の王なり」


 彼女は一瞬だけ戸惑ったように眉をひそめたが、すぐに微笑みを浮かべた。


「アグニスさま、ですね。なんだか、歌に出てくる名前みたい」


 その言葉に、アグニスの眉がわずかに動く。


「歌……ふん。人間の唄など、騒がしく、軽薄なものばかりだ」


「じゃあ、今のはどうでしたか?」


 少女は、少しだけ胸を張って問いかける。

 アグニスはしばらく黙っていたが、やがてふうっと息を吐いた。


「……耳障りでは、なかった」


 それは、彼にとって最大限の賛辞だった。

 少女は嬉しそうに笑い、泉の縁に腰を下ろした。

 両足を水に浸し、波紋がゆらゆらと広がっていく。


「わたし、エルミナっていいます。あなたに会えるかもしれないって、おばあちゃんに聞いてたの」


「……おぬしの祖母は、我を知っているのか」


「ううん。昔この泉の近くで暮らしててね、火竜が泉を守ってるって。子どもだったおばあちゃん、歌ったら優しい風が吹いたんだって」


 アグニスは、目を細める。記憶の片隅に、誰かの笑い声がよぎったような気がした。


 「おぬしも……そのまじないを信じて、ここに?」


 「うん。誰も信じてくれないけど……わたしだけは、本当にいるって思ってた」


 少女は泉に映る水面を見つめながら、そっと言葉を継いだ。


「ここに来ると、なんだか心が落ち着くんです。静かで、風が優しくて……それに、寂しくない」


 アグニスは答えなかった。

 けれど、心のどこかが確かに震えていた。


 この娘は、人間のくせに——

 我を恐れず、否定もせず、まるで……かつての仲間のように、ただ、そこにいる。


「……また来るのか」


「来てもいいですか?」


「……好きにしろ」


 そう告げたあと、アグニスは翼をたたみ、再び岩陰に身を潜めた。

 だが、少女の歌声はその後もずっと、泉の水面に溶け続けていた。


____________________________________________


それからの日々、アグニスとエルミナは、泉をはさんで言葉を交わすようになった。


 エルミナは毎日のように泉を訪れ、花の冠を編んだり、小石を並べたり、時には水面に指で歌詞を書きながら、静かに歌っていた。


「今日はね、村のお祭りなんです。でも、私は行かないの」


「なぜだ?」


「足が悪いから、踊れないし……みんなと一緒に歩くのも遅くて。だから、ここに来た方が楽しいんです」


 そう言って笑う少女の声は、どこか強がりに聞こえた。


 アグニスは、炎を操る者でありながら、彼女の中に確かに灯る“小さな火”を見た気がした。


「……おぬしの歌には、力がある」


「ほんとですか?」


「我の心が、騒がなくなる」


 その言葉に、エルミナは目を丸くし、照れたように頬を染めた。


「ふふ……じゃあ、また歌いますね」


 歌声が、泉の波紋に溶けていく。


 アグニスは、少しずつ彼女の隣に近づいていった。

 最初は岩陰から、次は木の根元から、そして今では泉の縁に座って話すようになっていた。


「人間とは、こうも穏やかなものだったか……」


 ある日のこと。

 エルミナは泉のほとりにそっと手帳を置いた。


「これ、わたしの“うたの本”です。歌ったものを、書きためてるの」


 ページには、ぎこちない筆跡で歌詞が並んでいた。どれも素朴で、飾り気がなく、それでいて胸に響く言葉ばかりだった。


「一つ、我にも教えよ」


「えっ?」


「おぬしの“うた”を、我も……口ずさんでみたい」


 それは、アグニスにとって初めての“人間への願い”だった。


 エルミナは驚いた後、にっこりと微笑んで、歌の一節を口ずさみながら教え始めた。


「風の向こうに 誰かの声が やさしく残る 忘れたはずの 遠い調べ」


 それを真似て、アグニスも低く、ぎこちなく口を動かす。


 その様子を見て、エルミナは声を立てて笑った。


「うん、アグニスさま、ぜんぜん合ってないけど、なんだか素敵です」


「む……貴様、それは褒めておるのか……?」


「もちろん!」


 笑い声が泉に響く。

 アグニスは気づかぬうちに、口元がわずかに緩んでいた。


 彼にとってこの泉は、かつて“誰も入らせぬ聖域”だった。

 だが今は、心を洗い流す場所になっていた。


____________________________________________


 夏の終わりが近づいていた。


 泉のほとりには、どこか張りつめた静けさが漂っていた。

 風はゆっくりと草を揺らし、水面に映る空は、かすかに霞がかっている。

 木々の葉先は色を深め、夜になると涼しさが肌を刺すようになってきた。


 アグニスは、毎日のようにこの泉に足を運ぶようになっていた。

 エルミナの存在が、心に染み入るように居座っていた。

 彼女の笑い声、拙いながらも心に残る歌声。それらが、かつて炎にすべてを焼き払った竜の心に、いつの間にか根を張っていた。


 この季節になると、アグニスは決まって空を見上げていた。何もなかった頃の空だ。だが今年は違う。隣に“誰か”がいる。


 ——エルミナ。


 彼女の歌が泉に響き、アグニスの心にやわらかく残り続けていた。


 しかし、ある日——その流れが変わる。


 エルミナは、いつになく静かだった。歌もなく、笑い声もない。ただ、水面をぼんやりと見つめるその背中は、どこか遠くを見ているようだった。


「……何かあったのか」


 アグニスが、穏やかな声で尋ねると、エルミナはわずかにうつむき、唇を結んだ。


「……お別れ、なんです」


「……何?」


「父が……重い病にかかってしまいました。今の暮らしでは療養が難しくて、もっと空気の良い静かな場所に移ることになったんです」


 言葉が、泉の水面に落ちた。波紋はすぐに消えたが、その余韻だけが、アグニスの胸の奥に広がり続けた。


「……戻ることは、ないのか?」


「……たぶん、無理だと思います。父の体は、もう長い旅に耐えられない。私もずっと付き添わなくちゃいけなくて……」


 エルミナの声は、微かに震えていた。

 それでも彼女は、アグニスの方をまっすぐに見て、静かに微笑んだ。


 その笑顔は、決意の笑顔だった。

 だが、アグニスは理解できなかった。

 彼女の存在が、これほどまでに自分の中に根付いていたことに、気づいていなかったのだ。


「……そうか」


 それだけが、彼の口から出た。


 燃え上がる怒りも、抗う声もなかった。

 ただひとつ、「どうしようもなさ」が胸の内にのしかかっていた。

 炎を吐き、空を割く存在であるはずの自分が、ただの一言さえ返せないことに、アグニス自身が驚いていた。

 泉は静まり返り、風が木々の間を通り抜け、水面が小さく震える。

 夜の森の奥から、かすかな羽ばたきの音が聞こえる。


 アグニスはその夜、山の高みにひとりたたずんでいた。

 そしてただ、空を見ていた。かつてのように何かを見下ろすためではない。

 ただ、そこにあるはずの小さな声が、耳の奥から消えてしまわないように。


____________________________________________


 翌朝、アグニスは泉に向かった。

 夜が明けるよりも前、まだ空が薄青く濁っていた頃に、彼は静かに泉の岩に腰を下ろした。

 風が水面を揺らし、湿った空気に草の匂いが混じる。その中に、かすかな足音が重なった。


 エルミナが現れた。手には一冊の小さなノートが抱えられていた。


「最後に、伝えたいことがあるんです」


 彼女は泉の縁に座り、ゆっくりとノートを開いた。ページには、あの時の“うた”が記されていた。


「この歌、アグニスさまにあげます。わたしがいなくても、歌がここにあれば、きっと何かが残ると思って」


 そして彼女は、声を震わせずに歌い始めた。


 「風の向こうに 誰かの声が やさしく残る 忘れたはずの 遠い調べ 

  響け ひとときの 願いのように また会えなくても 心に灯る」


 アグニスは黙って聞いていた。

 心の奥に、熱くて優しい火が灯るのを感じながら。


「……我は、おぬしの名を永遠には覚えていられぬかもしれぬ。だが——」


 アグニスは手を胸にあてた。


「おぬしの“うた”は、忘れぬ」


 エルミナは笑った。ほんの少し涙を浮かべながら。


「それだけで、充分です」


 その後、ふたりは言葉を交わさず、ただ並んで泉を眺めていた。

 水音と風のさざめき、遠くの空に昇る光。

 それらすべてが、ひとつの記憶として静かに刻まれていく。


 別れの言葉はなかった。

 けれど、それでもふたりは知っていた。今日が、終わりのときであることを。


 そして、数百年の時を経た今——


 “紅蓮の湯”の中で、アグニスはかすかに口ずさむ。


  風の向こうに 誰かの声が……


 記憶は曖昧でも、旋律は確かにそこにあった。

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