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第四話「ドラゴンさん、入浴の時間です」

魔女の家には、実にさまざまな利用者がいる。


 エルフにドワーフ、妖精にリザードマン、スライム族まで。中には、一目見ただけでは「本当に高齢者か?」と疑ってしまうほど威圧感を放つ存在もいた。


 その筆頭が——


「我が名はアグニス・ファルブレイズ。かつて紅蓮の空を支配した、炎翼の王なり!」


 今、入浴を拒否して廊下で仁王立ちしているこの老人——もとい、元・ドラゴンがまさにそれだった。


 身長は二メートル超。全身に赤褐色の鱗がまだらに残っており、人間に近い姿に変化しているとはいえ、爪や牙は現役時代の名残を思わせる。


「入浴など不要! 火竜族は自らの体温で常に清潔を保つのだ!」


「いやいや、最近廊下がずっと硫黄臭いんですよ! アグニスさん、頼みますよ〜……」


 職員のセリーヌが眉をひそめながら説得するが、アグニスは頑として動かない。


 その後ろで、俺はぽつりとつぶやく。


「……この人、ほんとに風呂入ってないんだな」


 結論から言おう。

 この施設で、アグニスは“風呂嫌いの長命種”として有名だった。


 洗髪を断固拒否、ボディソープを見ると「液体の魔具か!」と叫び、湯船に誘導しようとすると「火に水を浴びせるとは何たる無礼か!」と炎を吹きかけようとする(未遂)。


 だがここ最近、問題は一段と深刻になっていた。


「セリーヌさん……入浴させないと、衛生管理的にマズいですよね?」

「マズいわよ。てか昨日、廊下に“うろこ”落ちてたのよ。誰が掃除したと思ってんの?」


 ついに、リリスが重い腰を上げた。


「では、今週の特別ケア担当——あなたね」


 と、指名されたのは俺だった。


「えっ」


「腰痛予防スキル、発動時なら、あの巨体にも対応できるでしょ?」


 そんな理屈あるか!? と思ったが、俺は完全に押し切られた。


 こうして、俺とアグニスの“風呂攻防戦”が幕を開けたのだった。


_____________________________________________


 「まずは情報収集からだな」


 俺はその日の昼休み、職員食堂の片隅で“アグニス風呂対策本部”なる非公式作戦会議を始めた。

 メンバーは俺、セリーヌ、そしてなぜか隣にいたアメリアも巻き込まれていた。


「アグニスさんが最後に入浴したのって、どれくらい前なんでしょう?」


「半月前ね。あのときは“紅蓮の日”っていう火竜族の祝日で、気分が良かったみたいでさ。珍しく自分から入るって言い出したのよ」


「祝日……なるほど、気分次第ってことか」


 俺がメモを取っていると、アメリアが神妙な顔で口を開いた。


「アグニスさん、夜中になると時々“焚火の夢”を見てるって話してました。……昔、誰かと一緒に温泉に入っていた記憶もあるとか」


「へぇ……それ、ちょっと鍵になるかもな」


 そんな中、セリーヌが「じゃあさ」と茶碗を置き、手を組みながらにやりと笑った。


「“アグニス様専用湯船”を作るってのはどう? 名前も“紅蓮の湯”。壁に竜の紋章貼ってさ」


「テーマパークじゃねぇか」


「香りも大事よ。火竜は煙草っぽい香りが好きって文献で読んだわ。あと湯気の色、赤くしたい」


「それ本当に風呂か!?」


 ツッコミが追いつかない。だが、セリーヌの思考の飛躍には妙な説得力があった。


 アグニスは誇り高く、過去の栄光を大切にする性格だ。

 ならば、“尊厳”を刺激するアプローチは理にかなっている。


 翌日、魔女の家の一室が改造された。


 壁には即席で描かれた紅蓮の紋章。湯の表面には赤い魔法光が反射し、湯気の中を漂うのは……セリーヌ特製“焚火の香油”。


 すべては、“アグニス・ファルブレイズを風呂に入れるため”だけに用意された。


「さぁ、準備は整ったわよ」


 セリーヌがバスタオルを巻いて仁王立ちしている姿は、もはやどちらがドラゴンかわからない気迫だ。


「じゃあ、呼びにいきますか……」


 俺は少しだけ緊張しながら、アグニスの部屋をノックした。


「アグニスさん。今日は、あなたのために特別な風呂をご用意しました」


「ふん。くだらん誤魔化しなどに乗ると思うか?」


「“紅蓮の湯”です。紋章入り、香り付き、特別室——すべて、かつての栄光を称えて」


 一瞬の沈黙。


 “紅蓮の湯”の準備が整っても、アグニスはすぐには動かなかった。


「貴様らの手間には敬意を払う。だが、それとこれとは話が別だ」


 俺たちは、そこで最後の“説得”を試みていた。


 セリーヌはすでに戦線離脱し、部屋の隅で「もう口説いてやって」とうんざり顔。俺は正面からアグニスと向き合っていた。


「アグニスさん。俺たちは、あなたをただ“清潔に”したいわけじゃないんです」


「……ふむ?」


「皮膚の状態も、うろこの乾燥も、そりゃ大事です。でも一番は、“今のあなた”をちゃんと見ていたいからです」


 アグニスの目が細くなる。


「我を“今の姿”と見なすか。かつての威容を捨てたこの身を、か?」


「ええ。昔は空を駆けてたって聞きました。すごいですよ。でも、今ここにいるあなたが、俺たちと生きてるアグニスさんなんです」


 沈黙が落ちた。


 その間に、俺はそっと、アメリアから借りた1冊の古い詩集を差し出す。


「これは……」


「“竜のうた”という昔話に出てくる歌です。アグニスさんがかつて泉で一緒に過ごした少女、もしかしてこの伝承の——」


 アグニスの指先が震える。


「……その名を、覚えてはおらぬ。だが、その旋律は、記憶の底にある」


 その声は、かすかに震えていた。


「誰かと一緒に風呂に入った記憶って、けっこう残るんです。ぬるい湯、鼻をつく石けんの香り。誰かと笑った時間——忘れてるようで、ふと蘇ることもある」


 アグニスの表情がわずかに揺れる。


「……風呂など、弱き者のものだと思っていた。我らは、炎の熱で身を清めてきたからな」


「でもその熱、今では肌を焦がすだけでしょう? たまには、温かさに包まれても、いいんじゃないですか」


 しばしの沈黙の後——


「……案内せよ、小僧」


 その声に、俺は深く一礼した。


 入浴の許可。それは、身体を委ねるという信頼の証。


 それがどれだけ大きな決断か、俺にはよく分かっていた。


「……貴様、名をなんという」


「えっ。あ、俺ですか? 俺は深谷達也です。」


「その名、記憶に刻んでおこう。案内せよ」


 まさかの了承。

 俺とセリーヌが思わず顔を見合わせ、慌てて準備に走る。


______________________________________________


 湯殿に向かう廊下を、俺とアグニスは並んで歩いた。

 アグニスの足取りは重くも威厳に満ち、彼の後ろ姿を見ていると、まるで王の凱旋のようだった。


 風呂場の扉を開けると、そこには“紅蓮の湯”の名にふさわしい空間が広がっていた。

 赤く染まった湯、温かな蒸気、壁に描かれた竜の紋章。そして、焚火のような香りがほんのりと漂っていた。


「……ふむ。見事なもんだな」


 アグニスは鼻を鳴らしながら、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。

 鱗の残る肌が露わになるたび、彼の過去と誇りがその体に刻まれているように思えた。


「段差がありますから、気をつけてください」


「心得ておる」


 俺は慎重に手を添え、彼の身体を湯へと導いた。

 アグニスの巨体が湯に沈むと、湯面が一気に持ち上がり、周囲の湯気が厚くなる。


「……温かいな」


 その呟きは、まるで長旅の末に辿り着いた休息地を味わう旅人のようだった。


「体が芯からほぐれていく感覚、ありますよね」


「ふん。悪くない」


 湯の中で、アグニスはしばらく目を閉じていた。

 その表情は穏やかで、どこか遠くを懐かしむようなものだった。


 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「かつて、共に泉に浸かった少女がいた。名はもう思い出せぬが、彼女も、こんな風に笑っておった」


 アグニスは薄く笑いながら、手を湯に浸した。


「……あのときは、炎のように焦がれる心ばかりを抱えていた。だが今は、ただ……温もりが、ありがたい」


 その言葉を聞いて、俺はそっとバスタオルを用意し、湯船のそばに置いた。


「アグニスさん、無理せず、上がりたくなったらお声かけください」


「ああ。達也よ……よく、付き合ってくれたな」


 その声は、まぎれもなく“信頼”の声だった。


 風呂を出たあと、アグニスはタオルを羽織り、しばらく湯殿の天井を見上げていた。


「たまには悪くないな。湯というのも」


 彼の背中は少し軽くなったように見えた。


 俺は記録ノートに、こう書き残した。


『アグニス・ファルブレイズ。かつて紅蓮の空を翔けた竜。

 今、湯けむりの中でひとときのやすらぎを得る。

 誇り高きその背に触れる許可を得られたことは、介護士・深谷達也として、かけがえのない経験となった』


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