表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/12

第三話「職員フェロの夜」

 異世界での生活にも、少しずつ慣れてきた。

 魔女の家——多種族が共存する、不思議な介護施設。

 俺は日々、様々な種族の高齢者たちと向き合い、世話をし、時には呆れ、時には笑っている。


 この仕事は、どんな世界でも楽じゃない。だが、誰かの生活に寄り添えるという実感は、思っていたよりも心を支えてくれるものだった。


 特に、あのエルフの賢者——エレノアとの関わりを通して、俺はこの異世界でも、自分がやるべきことを少しずつ掴み始めていた。


 そんなある日のこと。

 夜勤を終えたばかりの職員・フェロが、目の下に濃いクマをつけて職員室に戻ってきた。


 フェロは獣人族の青年で、年齢は二十代半ば。狼のような耳と尻尾を持ち、見た目は精悍で力強い。

 だがその日、彼の背中はいつになく丸まっていた。


 フェロは他の職員とはあまり話さない。雑談の輪に入ることも少なく、いつも淡々と仕事をこなしていた。

 だが俺は、彼が「誰よりも利用者の変化に敏感」であることを知っている。


 リネン交換のとき、彼はさりげなく利用者の手の震えに気づく。

 食事の介助では、呑み込みにくそうな瞬間を見逃さず、スプーンを小さく切り替える。


 ……だからこそ、気になった。


「フェロさん、お疲れ様です」


 声をかけると、フェロは小さくうなずいただけで、着替えもそこそこに休憩室の隅に座り込んだ。


 その背中が、やけに重たく見えた。

 まるで、何かに押し潰されそうになっているような——そんな感じ。


 その日、俺が担当した入浴介助の際、ドワーフの利用者の腕に小さな痣を見つけた。

 ぶつけたのかもしれない。でも、どこかひっかかる。


 ドワーフの老人は、無口で頑固な性格だ。痛みや不調を口にしない。

 「大丈夫」が口癖で、本当のことをなかなか言わない。


 だからこそ、注意深く観察するしかない。


 その痣の古さ。位置。本人の認識のあいまいさ。

 すべてが、俺の中にある“過去の記憶”と重なった。


 昔、現実世界でも似たようなことがあった。

 忙しさやストレスが限界を超えると、人は自分を守るために「無感情」になる。

 感情を封じ込めた結果、思わぬ行動に出てしまう——そんな場面を、俺は何度も見てきた。

_____________________________________________


 夜勤明けのフェロの異常な疲労。

 ドワーフの利用者の様子。

 そして、なにより、フェロの尻尾が、まるで力なく垂れ下がっていたことが、気になって仕方がなかった。


 ——まさか、とは思う。


 でも、その予感は、決して的外れではなかった。

 その夜、俺はわざと遅めの巡回を入れ、フェロの担当フロアへと足を運んだ。


 廊下は静まり返り、魔導灯の淡い光がぼんやりと床を照らしている。

 利用者たちの部屋からは、時折いびきや寝返りの気配が聞こえるだけ。


 その中で、ひときわ鋭い声が響いた。


「だから、じっとしてろって言ってんだろ……!」


 思わず足を止める。声の主はフェロだった。


 俺はそっと扉の影から様子を覗いた。


 フェロはベッドから身を乗り出して立ち上がろうとする老ドワーフを、強引に押し戻そうとしていた。

 ドワーフは怒鳴り返す体力もなく、うつろな目でフェロを見上げていた。


「こっちは……眠いんだよ。いい加減にしてくれ……」


 フェロの耳がピクリと動いた。苛立ちと、疲労と、怒りと——

 全部が混ざって、今にも崩れそうだった。


「フェロ!」


 俺は思わず部屋に飛び込んだ。


 フェロがびくりと肩を揺らし、俺の顔を見て、咄嗟に手を引っ込めた。


「……見られてた、のか」


「悪い、盗み見るつもりじゃなかった。でも……見てしまった」


 フェロはうつむいたまま、尻尾を垂らし、黙っていた。

 怒鳴るつもりはなかった。叱るつもりも、ない。


 俺はゆっくりと椅子に腰を下ろした。


「フェロ……少し、話をしないか」


 沈黙の中、フェロはやがて、ぽつりぽつりと語り始めた。


 ——彼は元々、介護の仕事を誇りに思っていたという。

 魔女の家に配属されたときも、種族の違いなど関係なく、利用者と真剣に向き合ってきた。


 だが、うまくいかないことも多かった。

 言葉の通じにくい妖精族、身体が崩れやすいスライム種、魔法的暴走を起こす記憶障害の魔術師。


 真面目に取り組めば取り組むほど、自分の限界を突きつけられた。


「頑張っても、何も変わらないんです。感謝もされない。正解もわからない。ただ……日々が、重い」


 フェロの声は、ひどく静かだった。


 俺は、ゆっくりと息を吸った。


「……俺もな、似たようなことがあったよ。過去に、ずっと親父の介護をしてた。怒鳴られて、殴られて、泣いて、それでもまた、朝が来るんだ」


 フェロが、少しだけ目を見開いた。


「でも、あるとき気づいたんだ。たった一回、“ありがとう”って言われただけで……俺、続けようと思えた」


「……そんな、きれいな話、あるんですか」


「きれいじゃない。俺も何度も投げ出したかった。でも、逃げたら、あの一言に出会えなかった。——それだけは、ほんとに良かったと思ってる」


 フェロの耳が、少しだけ揺れた。


「……俺、もう少しだけ……やってみます」


 その言葉に、俺は小さく頷いた。


「一人で抱え込むなよ。俺たちはチームだ。誰かが限界のときは、誰かが支える。異世界だろうが、それは同じだ」


 フェロは照れくさそうに視線を逸らした。


 それでも、彼の尻尾がわずかに持ち上がっていたのを、俺は見逃さなかった。


翌日の早朝、俺とフェロは並んでドワーフの老人の部屋を訪れた。


 老人の名はバルグ。元は鍛冶職人で、頑固で無口な性格。

 夜間に混乱しやすく、介助を拒否することも多い。


 今朝も、布団の中から唸るような声が聞こえてきた。


「うるせぇ……誰だこんな朝っぱらから……」


「おはようございます、バルグさん。朝食前に、少し顔を見にきました」


 俺がそう言うと、布団から伸びた太い腕が、枕を放り投げてきた。

 見事にフェロの額に命中する。


「ぐっ……! ちょっ……」


 フェロがよろけながらも踏みとどまる。その顔には、昨夜とは違う覚悟の色があった。


「バルグさん、ベッド起こしますよ。腰に負担がかからないように、いつもの魔導クッション使いますね」


 そう言いながら、フェロは淡々と動作を進める。

 バルグの反応は鈍い。だが、少しずつ表情が柔らかくなっているのがわかった。


「……お前、最近は口調が柔らかくなったな」


 ぼそりと呟いたその一言に、フェロの耳がピクリと動いた。


「え? あ……そう、ですかね」


 気恥ずかしそうに笑うフェロの横顔を見て、俺も少しだけ肩の力を抜いた。


 ——暴力的な介護、荒れた言葉。それらは確かに問題行動だ。

 だが、誰かを責めて終わらせるだけでは、何も変わらない。


 その人がなぜ、そこに追い込まれたのか。

 その声なき叫びに、耳を澄ませなければならない。


 そうしてこそ、俺たちは初めて“介護”を語れるのだと思う。


 その日の業務後、職員室でフェロがぽつりとつぶやいた。


「……バルグさん、今日は一度も暴れなかったですね」


「ああ。お前の声が、ちゃんと届いたんだよ」


 フェロは少し間を置いて、照れくさそうに笑った。


「俺、まだまだですけど……この仕事、嫌いじゃないです」


 その言葉が聞けただけで、十分だった。


 俺はその夜、記録ノートを開いて、こう記した。


『職員フェロ。彼の声は、確かに届いていた。叫ばずとも、誰かの心に触れることができる。それが、この仕事の本質なのかもしれない』



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ