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第二話「賢者だったエルフ」

 俺の第二の人生は、思っていたよりも静かに始まった。


 街外れにある介護施設『魔女の家』。その名の通り、建物はどこか陰のある荘厳な雰囲気を漂わせていた。だが中に入れば、木造の温もりと魔法の光が同居する、奇妙に落ち着いた空間が広がっている。


 案内役のリリスは、魔女と呼ぶにはあまりに現実的で冷静な女性だった。施設長らしい威厳と落ち着きがありながらも、現場に精通したプロフェッショナルという印象だ。

「基本的な生活介助はあなたの担当になります。魔法道具の扱いには少しコツが要りますが、すぐ慣れるでしょう」


 彼女に案内されながら施設内を歩いていると、職員や利用者たちの姿が自然に目に入ってくる。空中を漂う妖精たち、小さなドラゴンを肩に乗せた猫耳の看護師、重そうな魔導器具を運ぶドワーフ。


 ここが異世界で、しかも介護施設であるという現実を、改めて実感する。

 リリスに連れられ、俺はとある一室の前で足を止めた。

「あなたに担当してもらうのは、“彼”です」


 扉が静かに開かれると、そこには窓辺の椅子に座る一人のエルフがいた。白銀の髪、尖った耳、そして背筋を伸ばして座るその姿は、気品に満ちていた——少なくとも、その時はそう見えた。


「彼は、かつて“森の賢者”と呼ばれていました。今はもう、その名を覚えているかどうか……」


 リリスの言葉に、俺は小さく頷いた。


「……おはようございます」


 自然と声が出ていた。かつての職場と同じように、いつも通りのあいさつだった。

 反応はない。ただ、エルフの男はゆっくりとこちらに視線を向けた。

 その瞳は、虚ろなようで、何かを見透かしているようでもあった。


「私の名前は……いや……名など、もはや必要あるまい」


 低く、かすれた声。続くように、彼は立ち上がり、両手を空に掲げる。


「大地よ、風よ、我が呼び声に応えたまえ……」


 詠唱だった。魔法の。

 だが、何も起きない。

 彼はそのまま数秒、空を見つめていたが、やがてその身体がふらりと揺れる。

「危ないっ……!」


 とっさに支えると、驚くほど軽い身体が腕の中に収まった。

 震えていた。

 ——この人は、まだ自分が“魔法使い”だと思っている。

 だが、体力も魔力も残っていない。

 それを理解できていない。あるいは、受け入れられていない。


「大丈夫ですよ。焦らなくていい。俺が、そばにいますから」

 その言葉に、彼は一瞬だけ視線を合わせた。

 ……ほんのわずかに、微笑んだ気がした。


 だが、それが“今の彼”の意思か、“かつての賢者”の名残かは、わからない。


 その日の夜、俺は施設の共有スペースで一人、記録ノートを開いていた。

 担当することになった“賢者のエルフ”——彼の名は、エレノア・ルーン。

 正式な記録にはそう記されていたが、本人の口からその名を聞けたことはない。


 夕食の時間になっても、彼はあまり箸を進めなかった。

 職員の一人によれば、最近は「食べることを忘れる」日もあるらしい。

 時折、廊下の奥でひとり呟きながら歩いていたり、昔の戦争について誰もいない椅子に語りかけていたりするという。

 ……認知症。それは、記憶の霧に包まれた人生の終盤戦だ。

 ただし、ここは異世界。

 寿命が千年を超える種族にとって、“老い”の概念すら人間とは異なる。

_________________________________________


 俺は、翌朝からエレノアの生活リズムを観察することにした。

 食事、排泄、睡眠。そこに混乱はないか、感情の波はどのように表れるか。

 数日が過ぎた。

 エレノアは、午前中に強い混乱を見せることが多かった。


「時の門が……開かぬ……我が魔力は……どこへ……」


 独り言のように繰り返すそれらの言葉は、かつての記憶の断片なのだろう。

 ある日は、「封印が解けた」と叫び、部屋のカーテンを剣に見立てて振り回した。

 そのたびに、俺はそっと近づき、言葉をかける。

「大丈夫です。今はもう、戦いの時間じゃありませんよ」


 エレノアは最初こそ警戒したが、次第にその言葉に耳を傾けるようになっていった。

 ある日、彼がぽつりと呟いた。


「……おぬし、見えるのだな」


「何が、ですか?」


「わしの、残り火よ」


 その目は確かに、どこかで燃えていた。

 魔法も使えず、記憶も曖昧な老エルフ。

 それでも、“かつての自分”と向き合おうとする意志だけは、確かにそこにあった。

 そしてある晩、俺が部屋を訪れると、エレノアは小さな木彫りの像を手にしていた。

 それは、若かりし頃の自分の姿だという。


「これを……かつて、弟子が作ってくれた。名も、顔も、もう思い出せぬが……大切なものだったのだ」

 震える指で像を撫でながら、エレノアは微笑んだ。

「わしはもう……賢者ではない。だが、おぬしがそう呼ぶなら、それもまた……良い」

 その言葉に、胸が締めつけられるような感情が込み上げた。

 魔法は使えなくても、記憶が欠けていても。

 この人は、確かに“生きている”。

 俺はそう思った。


 そして、記録ノートのその日の日付の下に、こう書いた。

『エレノア・ルーン。元賢者。現在は、人生の終章を、静かに歩んでいる。』

 彼の火が消えるその日まで、俺はそばにいようと思った。

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