第十二話「酒と泪と古い唄」
日勤を終えた夕暮れどき。
「魔女の家」の廊下には、まだほんのりと昼の暖かさが残っていた。達也はその空気を胸に吸い込みながら、ゆっくりと靴の紐を結び直した。介護という仕事は、やはり体力を削る。けれど、不思議と心は軽くなっていることも多い。今日もそんな一日だった――少なくとも、ほんの数分前までは。
巡回の最後に立ち寄った一室。そこには、長命種である高齢のエルフの男性が寝ている。名前はエルミン。かつては吟遊詩人として各地を旅し、多くの人々を歌で魅了した存在だったらしい。
しかし今の彼は、長い耳を枕に伏せ、虚空を見つめたまま、ただ時間を過ごしている。声を発することもほとんどなく、食事も最低限しか口にしない。職員たちの間でも「もう歌わなくなって久しい」と噂される、静かな老人だった。
達也は、部屋に漂う独特の空気に立ち止まった。
どこか、時間が凝り固まったような、澱んだ沈黙。窓から差し込む光に照らされて、部屋の隅に置かれた古びた楽器――一本のリュートが目に入る。
木目は乾き、弦は錆びつき、触れられなくなって久しいことが一目でわかった。
けれど、それはただの古道具ではない。
長い旅路を共にしたであろう証であり、彼の人生そのもののように見えた。
「これ……まだ、使えるのかな」
小さくつぶやきながら、達也はリュートに近づいた。手に取ると、埃が舞い上がり、独特の木の匂いが指先に移る。そっと弦に触れると、かすれた音が鳴った。まるで眠りから覚め損ねた声のような、不完全で寂しい響き。
その音に反応したのか、エルミンの目がかすかに動いた。
「……」
言葉にはならなかったが、確かに彼は達也を見ていた。その瞳は、長い間光を失っていたはずなのに、わずかに揺らめきを取り戻しているように思えた。
達也は胸の奥がざわつくのを感じた。
――この人は、本当はまだ歌いたいんじゃないか。
けれど、身体も心ももう昔のようには動かない。そのはざまで、ただ静かに衰えていくことを受け入れているのではないか。
リュートをそっと置き直し、深呼吸をした。介護士として、今できることは多くない。無理をさせれば、逆に体調を崩すことになる。
それでも――「唄」というものに触れたとき、エルミンの心に確かに波紋が走ったのを見てしまった。
その瞬間から、達也の中に小さな引っかかりが芽生えた。
「……何か、できるかもしれない」
自分にしかできないことではなくてもいい。
ただ、彼がもう一度「生きている」と感じられるような、そんな時間を作れないだろうか。
その思いを胸に、達也は部屋を後にした。
夜の気配が迫る廊下の向こうで、ランプの明かりがひとつずつ灯され始めていた。
その夜、達也はいつものように居室に戻り、肩の疲れをほぐしながら机に腰を下ろした。
窓の外には、魔灯の明かりが点々と夜道を照らし、遠くからは風に乗って虫の羽音のような音がかすかに聞こえてくる。
静かな夜だ。けれど、胸の奥は妙にざわついていた。
――昼間、古びたリュートを前にした老人の視線。
あの一瞬の揺らぎが、脳裏から離れない。
「唄か……」
ぽつりとつぶやいた声は、部屋の中でやけに大きく響いた。
そういえば、自分も昔、酒を飲みながら口ずさんでいたことがあった。
父の介護で心が折れそうになったとき、学生の頃に聴いた懐かしい民謡や演歌まがいの曲を、無意識に鼻歌にしていた。大きな声ではなかったが、それだけで少し救われた気がしたものだ。
そんな記憶がよみがえり、達也の胸に小さな衝動が生まれる。
「試しに……唄ってみるか」
翌日。
再びエルミンの部屋を訪れた達也は、食事の介助を済ませた後、椅子に腰を下ろした。
老人は相変わらず表情を変えず、視線も天井の一点に留めたままだ。
けれど、その沈黙に耐えかねるように、達也は喉を鳴らした。
最初は声が裏返りそうになる。
「……♪」
調子外れの音が小さく部屋にこぼれ落ちた。恥ずかしさで耳が熱くなる。だが、ここで止めるわけにはいかない。
思い出したのは、日本で聞いた古い民謡だった。旋律は単純だが、どこか郷愁を誘う響きを持っている。
低く、少し掠れた声で、ゆっくりと一節を口ずさむ。
「……」
沈黙。
だが、ふと気づく。エルミンの耳がかすかに震え、視線が達也の方へと動いた。
「……わ、笑わないでくださいよ。こっちは必死なんですから」
達也は苦笑しながらも、さらに続ける。
声は決して上手くない。けれど、心を込めることだけは忘れなかった。
やがて、歌の終わり際。
細くひび割れた声が、ベッドから漏れた。
「……その調べは……遠い谷で……」
達也の心臓が跳ねた。
かすれ、途切れ途切れではあるが、確かに老人が口を開いたのだ。
それは、歌の続きを探すように、記憶の奥底から絞り出される旋律だった。
「覚えて……いる……。旅で……何度も……」
その瞬間、エルミンの頬に微かな血色が差した。
達也は思った。
――まだ、この人の中に歌は生きている。
それをもう一度引き出すことができれば、きっと彼は「生きる喜び」を取り戻せる。
胸の奥に、熱いものが広がっていく。
「……よし。じゃあ、次は一緒に唄ってみましょうか」
そう言って、達也は再び声を張った。
古い唄が、静かな病室に少しずつ息を吹き返すように響いていった。
夜が更け、居酒屋の提灯の明かりがいっそう揺らめいていた。
常連たちはすでに帰り、店内には主人公とベルンハルト、そして奥の席に座る白髪の老人だけが残っていた。
ベルンハルトが盃を傾けながら低く呟く。
「……あの歌を聴くとよ、昔を思い出すんだ。俺がまだ若くて、戦場に出てた頃のことを」
黙って耳を傾ける。いつも豪快な彼が、こんなふうに声を落とすのは珍しい。
「仲間がな、よく歌ってたんだ。戦の後で……いや、死体のそばで、血の匂いの中でだ。妙に明るい調子なのに、泣きたくなるような歌だった。あいつは俺より先に死んじまったが、今でもあの旋律だけは耳から離れん」
言葉を区切り、ベルンハルトは笑った。しかしその笑みは苦く、唇の端が震えている。
「おかしいだろ? 飲み屋で客に陽気に出してるこの声も、元は戦場で死んだ奴らと交わした歌声なんだ」
返す言葉を探せなかった。ただ、手元の酒を口に運び、喉を焼く熱さを受け止めた。
そのとき、奥の席の老人がかすれ声で歌い出した。
震える声だったが、旋律は確かにベルンハルトの言う「古い唄」だった。
居酒屋の空気が変わる。提灯の灯りが揺れ、遠い昔の情景を呼び覚ますように。
ベルンハルトが顔を上げる。
「……おい、あんた、その歌を……」
老人は盃を手に、うつろな目をしながらも歌を続ける。その姿に、ベルンハルトは息を呑み、そしてゆっくりと立ち上がった。
「……そうか。あんたも、あの戦を生き残った口か」
重い沈黙。
達也は初めて、酒場の中で「過去」というものが生き物のように息づく瞬間を見た気がした。
居酒屋に残るのは、達也とベルンハルト、そして歌う老人だけ。
老人の声は震えながらも、途切れることなく旋律を紡いでいた。
ベルンハルトは、その声に導かれるように老人の前に座った。
「……俺はベルンハルトだ。あの戦で……仲間を、たくさん失った」
老人は歌を止め、酒で濡れた唇を拭った。
「……覚えている。あの夜、焚き火のそばで歌った連中がいた。あんたも、そこにいたのだろう」
ベルンハルトの大きな手が小刻みに震える。
「そうだ……俺たちは、疲れ果てた心をごまかすために歌ったんだ。剣よりも歌で……死を遠ざけようとしてた」
達也は息を呑んだ。
普段は豪胆に笑い飛ばすベルンハルトの、その脆さが露わになっている。
老人は盃を傾け、静かに目を伏せた。
「……わしは、あの歌を唄った若者の一人だ。名を呼ばれるほどの兵ではなかったが、あの旋律だけは、命より大事に胸に刻んで生き延びてきた」
ベルンハルトの目に光が宿る。
「そうか……あんた、生きていたのか……!」
だが次の瞬間、老人は首を振った。
「いや、もう長くはない。身体も声も限界だ。だが、死ぬ前にどうしてももう一度、あの唄を誰かと分かち合いたかった。……あんたが居てくれて、良かった」
その言葉に、ベルンハルトの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……馬鹿野郎……俺も同じだ。ずっと一人で歌ってきた……仲間の亡霊と一緒にな」
老人は微笑み、最後の力を込めて声を張った。
その歌は哀しくも温かく、酒場の木壁に染み込み、まるで遠い戦友たちの魂を呼び寄せるようだった。
達也は盃を置き、静かに手を合わせる。
それは慰霊でもあり、今生きる者たちへの祈りでもあった。
唄が終わると、居酒屋の空気はひどく静かになった。
盃を握りしめていたベルンハルトは、大きな肩を震わせながら、ゆっくりと息を吐き出す。
「……もう一度、仲間と歌えるなんて思わなかった」
掠れた声で言いながら、彼の頬にはまだ涙の跡が残っている。
老人は、微笑を浮かべたままうつむいた。
「わしもだ……もう十分だよ。これで、胸のつかえがほどけた」
達也はその様子を黙って見つめていた。
酔いが少し回っていたが、胸の奥にじんわりと温かいものが広がる。
――この二人にしか分からない痛みと絆が、確かにここにあるのだ。
ベルンハルトは大きな掌で老人の肩を支えた。
「おい……まだ話は終わってねえ。これからは、一緒に……」
だが老人は、その言葉を遮るように首を振った。
「いや……もういい。わしは長くは生きられん。あの歌を、あんたと最後に唄えただけで十分だ」
達也は思わず身を乗り出した。
「そんなこと言わないでくださいよ……。まだ、飲んで、話して……」
しかし、老人は穏やかに目を閉じた。
「若いの……あんたのように、寄り添おうとする人間がいる。それで、これからは……」
言葉はそこで途切れた。老人の手から盃が滑り落ち、木の床に小さな音を立てる。
ベルンハルトはその身体を抱きとめ、叫んだ。
「おい! しっかりしろ!」
だが返答はない。
老人は静かな眠りについたまま、二度と目を開かなかった。
達也はその場で両手を握りしめる。
生と死の境界に立ち会うことには慣れているつもりだった。
だが、目の前の出来事は、それ以上に重く心を突き刺してくる。
ベルンハルトは涙をこぼしながら、老人をそっと座敷に横たえた。
「……仲間を、見送るのは、何度やっても……慣れねえな」
その言葉に、何も返せなかった。
ただ、深く頭を下げ、静かに祈りを捧げることしかできなかった。
静まり返った座敷に、外から夜風の音が入り込んでくる。
提灯の灯りがわずかに揺れ、老人の顔を柔らかく照らしていた。
その表情は、どこか安らかで、苦しみから解き放たれたようにも見える。
ベルンハルトはしばらく何も言わずに座り込み、ただ肩を震わせていた。
やがて、大きな掌で目をぬぐい、深く息を吐く。
「……泣いてばかりじゃ、あの野郎に笑われちまうな」
声はまだ掠れていたが、その奥に強い決意がにじんでいた。
達也は静かに頷き、隣に腰を下ろす。
「ベルンさん……」
「達也」
呼ばれた名に顔を上げると、ベルンハルトの目が真っ直ぐに彼を射抜いていた。
「俺はな、この酒場を、あいつら仲間との思い出の場所にするんじゃなく、これからを生きる連中の拠り所にしてやりてえんだ」
太い腕でカウンターを指差す。
「笑って、飲んで、泣いて……そういう場所だ。あいつが最後に笑えたのも、酒場だったろう?」
達也は胸が熱くなるのを感じた。
老人の死は重く哀しい。けれど、ベルンハルトの言葉には確かに「生きる者の力」があった。
「……俺も、そう思います。支える場所があるから、人は前に進めるんですよね」
自然に言葉が漏れた。
かつて自分が介護で抱えていた感情と、今この異世界での役割が、一本の線でつながっていくような感覚だった。
ベルンハルトは豪快に鼻をすすり、無理やり笑みを作った。
「よし! もう一杯やろうぜ。……あの野郎の分もな」
二人は新たに酒を注ぎ、そっと老人の盃にも注いだ。
盃を掲げるベルンハルトの声は、涙をにじませながらも力強い。
「――乾杯だ、相棒!」
達也もその盃を掲げ、静かに合わせた。
酒は苦くも温かく喉を通り、胸の奥に深く沈んでいった。
この夜の出来事は、達也にとって忘れられないものとなる。
人の最期に立ち会う哀しみと、そこから紡がれる新たな決意。
そして、何気ない酒の席に宿る、確かな「生きる意味」。
居酒屋の片隅で、古い唄の余韻が、いつまでも静かに響いていた。