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第十一話『リリスと紅茶と秘密の記憶』


──それは、いつものように慌ただしく、そして静かに終わった一日だった。


 魔女の家の朝は早い。

夜勤担当のセリーヌから引き継ぎを受けた達也は、目まぐるしく変わる利用者の体調や、その日の予定を把握しながら、いつものように日勤の業務にあたっていた。


 午前中は、歩行訓練が日課のドワーフの老人に付き添い、昼は食事の介助を行いながら、認知症の進行したエルフの女性と、気長に会話を試みる。

そして午後には、薬湯に浸かりたがる精霊種を風呂場へ案内しながら、いつも通りの時間が流れていった。


 何度か小さなトラブルもあったが、それはもう「日常のうち」と言えるようなレベルで、達也の中で“普通”になっていた。


「──ふうっ、やっと終わった……」


 夕暮れの色が差し込む廊下を歩きながら、達也は肩を回す。

介護の仕事は、肉体よりも“気を使い続ける”という点で、独特の疲労を残す。それでも不思議と、心のどこかには充実感があった。


(よし、今夜はゆっくり風呂にでも……)


 そう思っていた矢先だった。


「達也さん、館長がお呼びです」


 廊下の角を曲がったところで、若い事務員の声がかかる。彼女は指で執務室の方向を示した。


「え、俺? なにかやらかしたっけな……」


 慌てて頭の中で今日一日を思い返すが、特に問題らしいことはしていないはずだ。

けれど、館長であるリリスに呼ばれるというのは、なにか特別なことがある場合が多い。


(もしかして、また珍しい利用者が来るとか……いや、それとも……?)


 不安と好奇心が入り混じった気持ちで、達也は重い扉をノックした。


「失礼します」


「入って」


 相変わらず澄んだ声が、部屋の奥から返ってくる。

リリス・ナイトレイブン──魔女の家を束ねる館長であり、元・王宮の魔術師。

歳を重ねてもなお、その姿は品格と神秘を宿していた。


 執務机の前で紅茶を口にしていた彼女は、目だけで達也を見つめると、静かに言った。


「今日の日勤、ご苦労さま。少し、話があるの」


「はい、なんでしょう?」


 背筋を正して尋ねる達也に、リリスは一呼吸おいて──、


「──あなた、明日は休みなさい」


「……え?」


「予定をずらして、他の職員で調整済みよ。ちゃんと、私が命令したの」


 達也は、一瞬きょとんとしたあと、戸惑いながら言葉を返す。


「いえ、あの……たしかに最近ちょっと忙しかったですけど、この前もお休みをいただきましたよ」


「だから、休みなさいって言ってるの」


 きっぱりと言い切るリリス。それは“思いやり”ではなく、“命令”の口調だった。


 またか、と思いつつ、達也は小さくため息をつき、観念したようにうなずく。


「……わかりました。でも、なにかあったらすぐ呼んでください」


「ええ、もちろん。ところで──」


 そう言いながら、リリスは手元のポットからもう一杯、紅茶を注ぐ。


「少しだけ、付き合ってくれないかしら? 久しぶりに、紅茶を誰かと飲みたくなったの」


 そういうことか、これは職権乱用だろうと思うが、

紅茶の湯気がふわりと立ち上り、部屋には静かな時間が流れはじめる。

何が始まるのかわからない、一抹の不安を抱えつつ宙に消える湯気を見つめる。


________________________________________


 湯気の立ち上るカップの向こうで、リリスは静かに紅茶を口に運んだ。

その仕草には、日常のひとときに身を委ねるような、どこか柔らかい安堵の気配があった。


 達也もまた、言われるがままに、机の対面に座っていた。

彼女が淹れた紅茶は、ほんのりとスパイスが香る。

飲み口は優しく、それでいて芯に残る深みがある──まるで彼女自身のような味だった。


「──どう? 口に合うかしら?」


「ええ、すごくおいしいです。香りがなんというか……落ち着くっていうか」


「それはよかった。夜勤前に私がよく飲むブレンドなの。頭が冴えて、心が穏やかになるわ」


 微笑みを浮かべながら、リリスは遠くを見るような目をした。部屋にはしばし沈黙が流れる。

けれど、それは気まずいものではなく、どこか「懐かしさ」を孕んだ、静かな時間だった。

薄暗い照明のもと、書棚に並ぶ古書や記録水晶の匂いが、達也の鼻をくすぐる。


書類の束を丁寧に整え始める。

彼女の横顔は、魔女の家で見せる凛とした姿と違い、どこか遠い記憶を見つめるように柔らかい。


リリスは古びた記録水晶のひとつを手に取ると、魔力を込めた。

淡い光が溢れ、空中にぼやけた映像が映し出される。


そこにいたのは、まだ若く、銀髪も長くはなかった頃のリリスであろうか。

そして、その隣には、白衣を纏った一人の青年の姿があった。


「彼は、王都の病院に勤めていた医術師だったわ。

貴族の屋敷にも招かれるほどの腕前だったけど、権力や金には興味がなくてね。

誰にでも優しくて……特に、苦しんでる人には、真っ先に手を差し伸べるような人だった」


リリスの声は、穏やかだっが、感情の震えを覚える。

次の言葉が紡がれる。


「私は当時、王宮に仕える宮廷魔術師だった。知識も技術もあったし、誇りも持っていた。……けれど、他人に感情を見せることは、弱さだと思っていたの」


 水晶に映し出されている、若き日のリリスは人々と距離を置いていた。


「ある日、傷を負った兵士の回復室で偶然出会ったの。

私は治癒魔法を使おうとした。けれど、彼はそれを制して……こう言ったのよ。

“この人は、心が壊れてる。魔法じゃ治らない”って」


 その言葉が、リリスの中で何かを変えた。

青年は、手で触れ、話し、共に涙を流しながら、患者に寄り添っていた。


「私は、そのやり方を知らなかった。

でも……彼の姿に、憧れたの。私も、あんなふうに、人と向き合えるようになりたいって」


 二人はそれから、幾度となく顔を合わせるようになった。

任務の合間に談笑し、たまに意見をぶつけ合いながらも、確実に距離は縮まっていった。


「けれど、彼は無理をしすぎていたのよ。

忙しさの中で自分の身体を後回しにして……気づいたときには、もう遅かった」


 病に伏した青年を、今度はリリスが支える側となった。

魔法では治せない。けれど、彼のそばにいたいと願った。


 彼の小さな療養部屋に、毎日のように通い、食事を用意し、話をして、手を握る。

その時間のすべてが、リリスにとっては新鮮だった。


「……彼は、何度も言ってたわ。“ありがとう”って。“君がいてくれて、よかった”って。

あの言葉を……私は、今もずっと覚えてる」


そして、ある冬の夜。雪が音もなく降る中で、彼は静かに息を引き取った。


リリスは言葉を詰まらせたまま、少しの沈黙を置いた。


「私が、魔術師を辞めたのは、それからよ。

力を持つことよりも、誰かのそばにいることが……大切だと気づいたの」


水晶の光が静かに消える。


「人と向き合うことは、怖いことよ。感情も、悲しみも、避けられない。

でも……あの人が教えてくれた“ぬくもり”を、私は今でも信じてる」


 リリスの瞳に映った達也は、彼女が歩んできた時間を、静かに受け止めていた。

そして、館の奥の方で、小さな鈴の音が鳴った。


「……行きましょうか。」


 リリリスは立ち上がり、再び館長としての表情を取り戻していた。

けれどその背には、確かに“誰かを想う”優しさが、宿っていた。


________________________________________


 館の西側の一室、重厚な木扉の向こう。

そこには、夜空を思わせる深い紺色のシーツに包まれた寝台があり、年老いた精霊種が目を閉じて横たわっていた。


“星読みのフィロス”と呼ばれたその利用者は、太陽ではなく、星の光で成長する植物種である。

だが近ごろは、体に生えた蔦の葉が色褪せ、芽吹かぬ枝が目立ってきていた。


 部屋の中に漂う空気は、穏やかでありながら、どこか張り詰めていた。

誰もが、この時がもう長くはないと、感じていた。


 リリスは、静かに扉を開けると、達也と共に足を踏み入れた。


「……ごきげんよう、フィロス。ご気分はいかが?」


 微かに目を開けたフィロスは、かすかに笑みを浮かべた。


「おや……リリス様。変わらぬお美しさ……星々も、うらやみますぞ」


その声は細く、風が葉を揺らすようなかすれ具合だったが、確かに彼の中には、誇りと気品が残っていた。


 達也はそっと、枕元の水差しを取り上げ、リリスに渡す。

彼女は慎重にフィロスの唇に水を含ませながら、優しく言葉を続けた。


「星を見上げる時間は、まだ終わっていないでしょう? あなたが語ってくれる星の名は、皆を癒してきたのですから」


 フィロスは、わずかに目を閉じると、肩を上下させながらかすかな笑みを浮かべた。


「もう……夜空は、夢の中で見るようになりました……でも、夢の星々も……美しいものですな……」


 彼の言葉に、部屋の空気がさらに静かになる。

その沈黙を破ったのは、リリスの柔らかな声だった。


「私も、かつて……ひとりの命を、手で支えたことがあります」


 達也が顔を上げ、リリスを見た。


「魔法では救えない命を、そばで看ることしかできなかった。

けれど、その日々が……私の生き方を変えました」


 リリスはゆっくりと椅子に腰掛けると、フィロスの蔦の枝にそっと触れた。

そこにはまだ、かすかに命の光が残っている。


「生きるということは、奇跡の連続だと思うのです。

そしてその奇跡は、誰かがそばにいてくれることで、ようやく意味を持つのだと……あの人が教えてくれました」


 フィロスの目尻に、ひとしずくの涙が伝った。


「私も……かつて……誰かを支えたことが……あります……

若き研究者だったあの子は……星の名を毎夜、私に尋ねてきました……

私は……語り、笑い……そして、あの子は……最後に……“ありがとう”と……」


 その言葉は、まるでリリスの過去と呼応するようだった。

互いに誰かを支え、見送り、記憶の中で今も共にある。


 達也は、そっと手を合わせた。

彼には、まだ多くを知らない人生があり、多くの別れを見送る日が来るのかもしれない。

けれど――今日、ここで見たものは、確かな“支え合う姿”だった。


 リリスは立ち上がると、ベッドのそばにあった古い望遠鏡を手に取り、窓辺に置いた。


「この部屋から見える夜空は、美しいのですよ。

今宵、あなたの好きな星が、また姿を見せるでしょう」


 フィロスは目を細め、深く息を吐いた。

その吐息は、春を迎える風のように、穏やかで澄んでいた。


「……ありがとう、ございます……館長殿……」


 やがて、彼は静かに目を閉じ、窓の外で風が木々を揺らす音だけが、部屋に残った。

リリスは黙祷を捧げる。彼女の中で、かつての青年の姿が重なった。


――人と寄り添うこと。

それは、魔術では測れない力。誰かの心に、静かに灯る光。

その光を胸に、リリスはまた“今”を支える魔女として、歩いていくのだった。


________________________________________



 夜はすっかり更けていた。

窓の外では風が枝葉を揺らし、満天の星々が空一面に広がっている。


 フィロスが最期の眠りについた部屋を後にし、達也とリリスはゆっくりと館の廊下を歩いていた。

照明は控えめに落とされ、床を照らす淡い魔光が二人の影を引き伸ばしていた。


 リリスは歩きながら、静かに息を吐いた。

その横顔は、いつもの凛とした彼女ではなく、どこかやわらかな寂しさを纏っていた。


「……達也、今日は……ありがとうございました」


 不意に向けられたその言葉に、達也は少し驚いた表情を浮かべた。


「いえ、俺のほうこそ……リリスさんが、あんな話をしてくれるなんて……」


「……あまり語ったことのない話でしたから」


 そう言って、リリスはかすかに微笑んだ。

その笑みに、達也はふと、フィロスの語った「星を夢で見るようになった」という言葉を思い出した。


 やがて二人は、部屋の前まで戻ってきた。

リリスは扉に手をかけながら、ふと達也に視線を向ける。


「終わりにまた紅茶を飲みましょう。悪くないでしょう?」


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


窓の外には、満天の星がまたたいている。

カップの中の香草茶はすでに飲み干され、やさしい香りだけが残っている。

達也はソファに背を預けながら、しみじみとつぶやいた。


「……魔術って、すごいと思ってました。子供の頃から、ずっと」


「今でも、すごい力ですよ。人の命を救い、癒し、生活を支える。けれど……万能ではないのです」


 リリスの瞳は、どこか遠くを見ていた。


「彼が亡くなる前、私は何度も魔術で助けようとしました。でも、どれも……意味をなさなかった」


「それでも、きっと支えになったはずです。……リリスさんのそばに、最後まで誰かがいてくれたってこと。きっと、それだけでも」


 静かな時間の中で、達也の言葉は、ぽつりと灯る燭台のように、リリスの胸に寄り添っていた。

彼女はその言葉を受け止めるように目を伏せ、小さく、しかしはっきりとうなずいた。


「……ありがとう。そう言ってもらえると、少しだけ報われた気がします」


 そうして、リリスは立ち上がり、部屋の奥――ひとつの引き出しを開ける。

そこから取り出されたのは、小さな手帳だった。


「これを、いつか渡そうと思っていたんです。……あなたになら、託せる気がして」


 達也は驚きながら、それを受け取る。

表紙には、かすれた筆記体でこう記されていた。


“人を支える手の記録”


「彼が残したノートです。施術の記録でもあり、思いの記録でもあります。

彼が誰かのためにどう寄り添い、どう悩んだかが……書かれています」


 達也は無言でページをめくる。

そこには、魔術とは違う、人の手による介助の工夫や観察、優しい字で綴られた詩のような言葉が並んでいた。


「痛みの声は聞こえなくても、表情は語ってくれる」

「人を支えるとは、背負うことではなく、そばにいること」


 達也は、ページをめくる指先を震わせながら、ふっと息をついた。


「……俺、この仕事を選んで、良かったかもしれない」


リリスは微笑んだ。

どこか、青年にかけたかった言葉を、ようやく届けられたような、安堵をたたえた微笑みだった。


「あなたがいてくれて、私は心からそう思います。

魔女の家を作った意味が、ようやく……ここに実った気がして」


 外で、星が流れた。

一筋の流星が夜空を裂き、まるで誰かが願いを届けたかのように尾を引いて消えていく。


達也は空を見上げた。

かつての彼も、きっとこんな星を見上げながら、誰かを支えたいと願ったのだろう。


「リリスさん、いつかこのノートの続きを、俺が書いてもいいですか?」


「もちろん。……あなたの言葉で、次の誰かへと繋いでください」


二人の間に、言葉では言い表せない確かな“信頼”が芽吹いていた。


「……あの人と見た星のように」

リリスはそっとつぶやいた。


それは、懐かしい景色への祈りであり、新しい明日への誓いだった。

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