第十話『達也の休日 ~やりたかったことリスト、この世界でも晩酌を。~』
朝霧が晴れかけた頃、魔女の家の中庭には静かな陽の光が差し込み、木々の葉が優しく揺れていた。利用者たちの一部はすでに朝食を終え、職員たちもそれぞれの業務に取りかかっていた。そんな中、食堂の奥で一人、黙々とシーツを畳んでいたのは達也だった。
「……よし、これで洗濯分は終わりか」
布に残るかすかな香りと、日に焼けた手触り。小さな達成感を胸に、達也は腰を伸ばした。
けれどその表情には、どこか疲労の色が滲んでいた。最近、利用者の急な体調変化や職員間のすれ違いで、現場は落ち着かない日が続いている。夜勤明けのセリーヌが「もう一人私が欲しい」と冗談まじりにこぼしていたのを思い出す。
「達也。少しいいかしら?」
不意に声をかけられ、達也は背筋を伸ばした。声の主は館長、リリス・ナイトレイブン。
紫のローブをまとったその姿は、相変わらず威厳がありながらも、どこか優雅だった。
「おはようございます、館長。何かあったんですか?」
「ええ、ある意味“事件”ね」
リリスはわずかに口元をゆるめると、手に持っていた一枚の紙を掲げた。
それは、達也の筆跡で書かれた“勤務表”だった。
「これ、あなたの出勤記録。見事に休みゼロじゃない。今月、一日たりとも休んでいないわ」
「……え?」
一瞬、達也の動きが止まる。言われてみれば、確かに。
誰かが休めば代わりに入り、急な呼び出しにも応じた。休日らしい休日は、思い出せないほど前だ。
「働きすぎは毒よ。特に、この世界では。異世界転生者は無理がきくと勘違いされがちだけど、身体は慣れないうちは尚更、負担が大きい」
リリスが、達也の前に立つ。
「なので、明日から三日間、強制的に休暇を取ってもらいます。命令です。異議は認めません」
「え、いや、それはちょっと……」
「異議は、認めません」
その響きに、達也は思わず背筋を伸ばす。
まるで裁判官の宣告のような口調だ。魔術師としての力だけでなく、その“言葉”にも逆らえない重みがあった。
「……了解しました」
観念したようにうなずくと、リリスは満足そうに微笑んだ。
「よろしい。せっかくだから、“やりたかったこと”でもやってみたら?」
リリスはくるりと背を向けると、ローブをなびかせて歩き去っていった。
残された達也は、ぽつんと一人、その背中を見送りながら苦笑する。
――やりたかったこと、か。
異世界に来たばかりの頃、何もかもが未知で、恐ろしくて、でも少しだけ楽しくて。
ふと思い立って書き出した、些細な夢のリスト。
「どうせなら、この機会に、いくつか叶えてみるか」
そうつぶやきながら、達也は小さな決意を胸に、久しぶりの“休暇”に向けて歩き出した。
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リリスから与えられた三日の休暇。
達也はその一日目を、いつもより少しだけ丁寧に布団を畳むことから始めた。
小さな屋根裏部屋の窓から差し込む朝の光は、いつもより柔らかく感じる。
魔女の家の朝は早く、普段であればすでに職員が廊下を行き交い、利用者の声が部屋の奥まで届いている時間帯だったが、今日はどこか静かだった。
「……まあ、せっかくの休みだしな」
ぽつりと呟くと、達也は小さな引き出しの中から一冊の手帳を取り出した。
表紙には、つたない魔法文字でこう記されている。
『やりたかったことリスト』
それは、転生してこの世界に来たばかりの頃、いつか叶えたいと思って書き留めた夢の断片たち。
ページをめくると、今でも少し照れくさいような願いが並んでいた。
・空飛ぶ生き物に乗ってみたい
・魔法道具の店を巡ってみたい
・居酒屋を見つけて晩酌する
「空飛ぶ生き物ね……。確か町の南側に、観光用の乗り場があるって聞いたな」
地元の子どもたちの遠足コースにもなっているという、ケルビム(天翔馬)やフライドラゴンと呼ばれる中型の生き物に乗れる施設。観光客用のため、魔力量が少なくても案内付きで体験できるらしい。仕事に明け暮れていた頃は気にも留めなかった情報だ。
「よし……」
ゆっくりと立ち上がり、軽装に着替え、久々に館の外へ足を向ける。
魔女の家の門を出て、風が揺れる草花の小道を抜けると、にぎやかな町の通りが見えてきた。
春の市が近いのか、露店がちらほらと出ており、子どもたちの笑い声が響いていた。
達也は目を細める。魔法の光を受けてきらめく商店のガラスや、空に浮かぶ郵便フクロウの群れ。どこを見ても“異世界”らしい風景だ。
最初の目的地――空飛ぶ生き物の体験施設へ向かうと、受付の初老の男性が達也を見てにっこりと笑った。
「今日は風も穏やかですし、いい飛行日和ですよ。どの子に乗ります?」
達也の目に留まったのは、灰色の毛並みに金色の瞳をもつ、小型のフライドラゴンだった。
どこか犬っぽい顔立ちで、じっとこちらを見つめている。
なんとなく安心感を覚えた。
「……こいつで」
鞍にまたがり、案内係の少女に支えられながら、ゆっくりと空に浮かぶ。
最初はふわっとした感覚に背筋がこそばゆくなったが、高度が上がるにつれ、視界が一気に開けていった。眼下には町の広がりと、魔女の家が小さく見える。その先にはなだらかな丘や、遠くに霞む山脈が広がっている。
「うわぁ……」
気づけば、声が漏れていた。
風の中で叫ぶことも、ただ黙って目を閉じることもできる――そんな自由が、空にはあった。
十分ほどの短い空の旅を終えると、達也は地に足をつけ、少し足元がふらつくのを感じながら笑った。
「やってみるもんだな……」
次に向かったのは、町の中心部――魔法道具の店が密集する区画だった。
そこには、奇妙な形のランタンや、浮遊する本棚、喋るほうきまで並ぶ、賑やかな世界が広がっていた。
「うぉ……これは時間かかりそうだな」
達也は店のひとつにふらりと入り、香炉のような形をした“香りで記憶を呼び起こす壺”や、“嘘発見器付きマグカップ”など、用途も不明な魔道具に目を輝かせた。店主が語る小話に相槌を打ち、他愛もないやり取りを交わすうち、知らず知らず笑っている自分がいた。
そして――
日が暮れかけた頃、彼はふと思い出したように、手帳の最後の項目に目を落とした。
『居酒屋を見つけて晩酌する!』
「……やっぱり、締めはこれだよな」
町の裏通りを抜けた先、小さな石畳の坂道の下に、柔らかな灯りがこぼれていた。
看板には、手書きで「酒と肴 風紋」とある。達也は軽く息を吐き、扉を押した。
中は木の温もりに満ちていて、年季の入ったカウンターの向こうに、どこか頑固そうなドワーフの親父が一人で切り盛りしていた。店内には、地元の労働者らしい数名が笑い声を上げている。
「一人かい? 空いてる席、好きに座りな」
勧められるままにカウンターに座ると、親父が小さな盃を差し出してきた。
「初めての客には、まずこれだ。地酒“風紋のしずく”。まあ、飲んでみな」
ひとくち、口に含む。
香り高く、少し辛口。けれど、どこか懐かしい味だった。
「……美味しいです」
自然と笑みがこぼれる。すると――
「おやおや? これはまた、珍しい顔」
ふいに背後から声がした。振り向くと、そこには休み中のセリーヌと、勤務終わりで立ち寄ったらしいフェロの姿があった。
「達也、お休み取れたんだ」
「まさか、あんたが一人酒なんてねぇ。あーびっくり」
達也は笑いながら肩をすくめた。
「やりたいことリスト、消化中なんだよ」
その言葉に、フェロとセリーヌが顔を見合わせ、同時に吹き出す。
「それ、なんか可愛いね」
「あんたのこと、今度から“リスト男”って呼んでやるわ」
「やめろ、頼むから」
三人で交わす、なんでもない冗談。
そういう瞬間が、いちばん心に残ると、達也は静かに思った。
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「達也、一人で飲んでたの?」
フェロが半分呆れ顔で言いながら、隣の席にどっかりと腰を下ろす。
セリーヌはその横に立ち、棚の地酒を物色している。
「いつも真面目に働いてるからさ。ひとりで羽伸ばすのもいいんじゃない?」
「まあ、確かに。休み取らせたの、リリス様だっけ?」
「うん。『最近疲れが顔に出てる』って、言われた」
「そりゃ出るわよ。あんた、夜勤明けでそのまま日勤に出たりしてたじゃない。普通の人間だったら倒れてるわ」
セリーヌは苦笑いしながら、店主に声をかける。
「すみません、あたしは“月見の白露”を。おつまみはおすすめで」
「はいよ、嬢ちゃん。そこのあんたも?」
「じゃあ俺は、“炙り干しの盛り合わせ”で。酒は……あ、同じので」
フェロも注文し、達也の隣に座ると、カウンターに肘をついて天井を見上げた。
「なんか変な感じだよな。こうやって仕事以外で顔合わせんの」
「うん。思った。何話せばいいのか、ちょっと迷う」
「まあまあ、そういう時は飲むのよ。ね?」
セリーヌが盃を掲げ、二人に乾杯を促す。
「せーの……乾杯」
「「乾杯」」
三つの盃が静かに鳴り、ゆっくりと酒が喉を滑り落ちていく。
香り高く、けれど口当たりはまろやかで、胃の奥に温もりが広がる。
「ふぅ……。美味しいな、これ」
「でしょ? 前にこの店に来たときに見つけたの。名前もいいし、味も優しい」
セリーヌは嬉しそうに言いながら、窓の外を見やる。
夜の風に揺れる暖簾と、街灯の下を歩くカップルや老夫婦。どこか懐かしい、穏やかな時間が流れていた。
「……こういうのも、いいもんだな」
達也がぽつりと言った。
「こういうの?」
「なんていうか、仕事じゃない場所で、同じ職場の人たちと他愛もない話しながら飲む時間っていうか……俺、こういうの、なかなか無かったからさ。」
「へぇ」
「前も、介護をしてたんだよ。人手不足で忙しくて、酒もコンビニの缶チューハイばっかりだったし。家でも親父の介護があったから、ほんと、誰かとゆっくり飲むってこと自体、なかったんだよな」
「……そうだったんだ。(コンビニ,,,?缶チューハイ,,,?)」
セリーヌの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「でも、こっちに来てから、少しずつそういうのが増えてきて……今日の“やりたいことリスト”にもあったんだよ。『居酒屋で晩酌する』って」
「……かわいい」
フェロが苦笑しながら、達也の背中を軽く叩いた。
「でも、わかるよ。俺も昔は、酒なんかただの気分転換だと思ってたけど、こっちで働いてから、誰かと飲む酒の良さが少しずつわかってきた気がする」
セリーヌは笑いながら、盃にもう一度酒を注いだ。
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暖簾の隙間から、ひんやりとした夜風が吹き込む。
居酒屋「風紋」は、ちょうど晩の賑わいが過ぎて、静けさを取り戻しつつあった。
店主が静かにテーブルを片付ける音。湯気の立つ味噌汁の香り。
そして、隣のテーブルから漏れてくる誰かの笑い声。
どれもが優しく、心に染みる。
「……いい夜だなあ」
達也は、カウンターに頬杖をつきながら、ぽつりとつぶやいた。
盃の中には、少しだけ酒が残っている。すっかり冷めたけれど、それがまた今の気分にぴったりだった。
「眠くなってきた?」
セリーヌが、グラスを指で回しながら尋ねる。
その横顔は、ふだんの夜勤モードとは違って、ずっと柔らかい。
「いや……眠いっていうより、ほっとしてる」
「ほっと?」
「うん。なんていうか……こういう時間、久しぶりなんだよ。昔はさ、何してても、どっかで“ああ、また明日か”って思ってた。寝るのも、食べるのも、全部ただの準備って感じで……」
「明日を生きるための、ね」
セリーヌが小さく頷いた。
隣のフェロは、すでに軽く舟をこいでいて、グラスを手にしたままこっくりこっくりと眠気と戦っている。
「けど今は、今日が“今日”として存在してる気がする。うまいもん食って、気持ちよく酔って、気の合う仲間と他愛もない話して……これだけで、なんか、満たされる」
そう言って、達也は空になった盃を見つめた。
「なにそれ、詩人?」
セリーヌはからかうように笑ったが、その声にはどこか温もりがあった。
「でも、わかるわよ。あたしもね……戦場にいた頃、ずっと思ってた。生きるために生きてるだけって。でも、そうじゃないんだって気づいた時があったの」
「……セリーヌ」
達也が目を向けると、彼女はわずかに遠い目をしていた。
けれど、すぐに微笑みを取り戻して、盃を持ち上げる。
「ま、それはまた今度にしよ。今日は、あんたの休日なんだから」
「……うん。ありがとう」
二人は静かに盃を重ねた。
キン、と心地よい音が響き、その余韻が、言葉以上に互いの胸に残った。
その瞬間――
「……あのぉ、もしよろしければ……」
不意に、背後から声がかかった。
振り返ると、そこには厨房から顔を覗かせた女将らしき人物が立っていた。
「あの……よろしければ、次に来た時も、またお話聞かせてくださいね。うちの旦那、昔、魔法道具職人だったんですよ。今日、楽しそうに見てたから……」
「えっ……あ、はい、ぜひ!」
達也は、思わず背筋を伸ばして答えた。
「ふふ、またお待ちしてますね」
女将はにこやかに微笑み、再び厨房へと戻っていく。
その後ろ姿に、達也は何とも言えない温かさを感じていた。
「なんか、地元の常連みたいな扱いだな」
「悪くないでしょ?」
セリーヌがくすっと笑う。
その笑みに誘われるように、達也の顔にも自然と笑みがこぼれた。
──なんだか、こういうのが幸せなんだろうな。
そう、胸の奥でつぶやいた時、遠くの窓の外に、星がひとつ、瞬いていた。
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夜風は優しく、頬を撫でて通り過ぎた。
達也は居酒屋「風紋」を後にして、街の石畳を一人歩いていた。
フェロは泥酔して途中でタクシーに詰め込まれ、セリーヌは別の方向へと帰っていった。
静かな夜だった。行き交う人影もほとんどなく、時折遠くから馬車の車輪の音が響くのみ。
ふと、達也は足を止めた。
見上げると、空には満天の星が広がっていた。まるで、この世界が自分の存在を肯定してくれているかのような静けさと美しさだった。
ポケットから、くしゃくしゃになった紙片を取り出す。
「やってみたいことリスト」。転生してすぐ、右も左も分からなかった頃、ふと夜勤中の合間に書いたものだ。
──・空飛ぶ生き物に乗ってみたい
──・魔法道具の店を巡ってみたい
──・居酒屋を見つけて晩酌する
「……一つ、達成だな」
声に出してみると、なんだか妙にしみた。
ただ居酒屋に行っただけ。けれどそれが、こんなに心を豊かにしてくれるとは思わなかった。
誰かと笑って、食べて、少しだけ酔って。
そんな普通のことが、この世界では“特別”に思えた。
「もう少し、生きてみたいな……」
そんな言葉が胸に浮かんだ。
前の世界では、いつも“義務”や“責任”に追われていた。
自分の人生を“休ませる”余裕なんて、どこにもなかった。
でも、今は違う。
この世界には、魔法があって、空を飛ぶ生き物がいて、不思議な種族がいて……
それに、仲間がいる。
魔女の家で出会ったたくさんの人たちの顔が、脳裏に浮かぶ。
そして何より──
「魔法で腰痛予防スキル」なんて、ヘンテコな力をもらってまで生かされた自分が、この世界で何をできるか、何を残せるか……
「よし」
くしゃくしゃのリストを丁寧にたたみ直し、ポケットに戻す。
そして、一歩、また一歩と、石畳の道を歩き出す。
夜は深いが、どこか心は軽かった。達也の肩に、もう重たいものはない。
風が静かに吹く中、彼の背中を照らすように、星がまたひとつ瞬いた。




