第一話『誰にも気づかれなくても』
夜勤は、静かで、恐ろしい。
ナースコールが鳴らない夜ほど、誰かの命が消えていないか不安になる。
特別養護老人ホーム『さくら苑』――深谷達也、三十二歳。
その夜も、深夜二時の巡回を終えた彼は、静まり返った廊下を歩いていた。
(……104、体位変えた。301のSさん、起きてなきゃいいけど)
身体は重く、思考は鈍い。それでも怖いのは、自分の知らないところで誰かが死んでしまうことだった。
――気づくのが遅れたら、誰にも見取られずに終わってしまう。
だから、彼は足を止めない。
だが、その日。
Sさんの部屋に入った彼は、床に倒れている入居者を見つけた。
頭から血を流し、白髪が赤く染まっている。
「……マジか」
達也は声を荒げず、まず呼吸を確認し、止血に入った。
ナースコール、応援要請、救急車の手配。マニュアル通りに動けた。
けれど、救急車が到着するまでの十四分が、限界だった。
そして、責任を問われた。
「巡回が遅かったのでは?」 「血痕の処理が不十分でしたよね?」 「ご家族が謝罪を求めています」
提出するのは、報告書。再発防止策。謝罪文。
――彼の“その場にいた想い”を、誰も見てはくれなかった。
夜勤明け。
疲れた足取りで帰路についた達也は、青信号の横断歩道を渡っていた。
そのとき、赤信号を無視したワゴン車が、彼の人生を轢き潰した。
次に彼が目を覚ましたのは、草の匂いがする丘だった。
空は青と紫が混ざり、三日月が異様に近く見える。
(ここは……どこだ?)
立ち上がった身体は動く。足も、声も出た。
現実だとしたら――ここは、どこなのだろう。
やがて近くの林から、背の低い老婆が現れた。
肩に黒い鳥を乗せ、フードを深く被っている。
「死にたての魂か。皮膚の匂いがまだ残ってるわ」
「……ここは?」
「此岸と彼岸のはざま。生きたい奴はこっちで、生きられない奴は、あっちへ流れるだけよ」
「……地獄の二択ってことですか」
老婆は笑わず、ただ言った。
「ここは“魔女の家”の庭先。人に見捨てられた者を、拾う場所よ」
その夜、村の外れで倒れていた老人に達也が駆け寄ると、周囲の者たちは言った。
「あれはもう駄目だ。助けても無駄だ」
だが、達也は老人の体を横に寝かせ、マントを膝の下に敷いた。
「呼吸が浅い。少しでも楽になる姿勢に……」
それを見ていた若者たちは、何も言えず立ち尽くした。
現世では、誰にも気づかれなかった。
けれど、異世界でなら――
「誰かの“生”に関われるかもしれない」
そう思って、深谷達也は“魔女の家”の扉を叩いた。