ゾンビワールド
目を覚ますと、濁った色の影がこちらへと押しよせていた。ゾンビの群れ──その言葉が、ようやく輪郭をもって脳裡に浮かぶまでに、数秒の遅れがあった。
どんな場面でも唐突に湧く思考というものはあるらしい。
“ゾンビと聞いて何を連想するのか?”
場違いな問いがふいに頭をかすめた。
答えは単純だ。人間を噛む生き物。
理由は知らない。けれど漫画も映画も、彼らをそう設定してきた。だから彼らの服はほとんど原型を留めず、布とも呼べないほどに裂け、風にほどけた襤褸のように身体に絡みついている。
向かってくる群れの皮膚は、黒と紺のあいだで沈んだ 奇妙な色合いで、瞳は灰の底で青が滲んでいた。血の赤ささえ、青に吸いこまれようとしているように見えた。
ここまで平然と観察していられる自分こそ、狂っているのかもしれない。だが、この世界の住人で“正気”を保つほうが難しいだろう。見渡すかぎりゾンビ、ゾンビ、ゾンビ。人の精神など、簡単にどこかへ転げ落ちる。
命は惜しい。痛みは嫌だ。もちろん死にたくなどない。
その気持ちのまま、俺は前へと走り出した。だが、いくら足を動かしても、まるで大地が拒むように、進んでいる実感が得られない。
背後の呻き声は、確実に近づいていた。「う〜……う〜……」と湿った声が重なり合い、体温が奪われるほど恐ろしく響く。
そのとき──肩を叩かれた。
振り返ると、ひとりのゾンビが俺を覗き込んでいた。血で濡れた口がゆっくりと開く。
ああ、終わった。そう思った。
だがゾンビは、口を開けたまま動きを止めた。
まるで何かを測りかねているように、首を傾げ、青い唾液を零しながら、俺を避けるように歩き去った。
──噛まれなかった。
その瞬間、あり得ない希望が胸をよぎった。
選ばれた人間。抗体を持つ特異な生存者。
物語で何度も見た設定が、自分に降りかかるなどと、そんな都合のいい妄想を。
けれど現実は目の前にある。
ゾンビたちは、俺を完全に無視した。
やがて前方から銃声が響き、青い群れが次々に撃ち倒されていった。血と肉が弾ける様子は、舞台の最前列で観る残酷な劇のようで、目をそらすこともできなかった。
助かった──そう思った矢先だった。
「わっ!」
一発の銃弾が俺の頬をかすめ、背後の木に深く食い込んだ。
驚きで空を仰ぐ。痛みはほとんどない。ただ、青がやたら鮮明に見えた。
「この辺のゾンビは全滅した。……ん?どうした?」
「あ、いや。このゾンビ、さっき頭を木に当てて歩いててな。驚いただけだよ」
「はっ。アホなゾンビもいるもんだな」
短い会話が終わると、世界が急に静まり返った。
ふと、手を見る。
青みがかった皮膚。感覚の曖昧さ。走っても前に進まなかった脚。
そして、痛みをほとんど覚えなかった頬。
ゾンビが俺を避けた理由。
銃を持つ男たちが、俺に気づいたとき一瞬だけ見せた“戸惑い”。
すべてが一本の線に繋がる。
俺は、どこか遠くで乾いた笑いを聞いた気がした。自分のものだったのかもしれない。
そして、静かに呟いた。
あ、俺、ゾンビなんだ。




