未来は変えられない
・誤字脱字あるかも
・意味わからん文章かも
・愉快な内容ではない
"過去を変えられない人間が、未来を変えられるはずがない"
小学生でもわかる問題。立方体のサイコロが1の目を出す確率は?
答え:1/6(六分の一)
簡単だ。
だがしかし、皆1度は疑問に思ったことはないだろうか? 必ずサイコロを6回投げてそれぞれの目が1回ずつ出るだろうか? 言い換えれば、本当に1/6で1の目が出ているのだろうか?
そんなことはない。経験上、むしろこの方が少ないと皆が知っている。
では、問題の答えは間違いではないか?
実はそんなことはない。サイコロの1の目が出る確率が1/6なのは、気が遠くなるほど試行(ここではサイコロを振る)を行ったとき集計結果が大体1/6であるからだ。
ゆえに5回サイコロを振った時すべての目が1であったとしても、1の目が出る確率は100%ではない。
100000000000000回サイコロを振っていれば、一度くらい連続で1の目が出たとしても不思議ではないだろう。そして100000000000000回の結果を集計すれば1の目が出る確率は大体1/6であることがわかる。
つまり、サイコロを無限に投げていれば1の目が出る回数は1/6に収束していく。
これを大数の法則と呼ぶらしい。
おぉ~、なるほど。
いや、納得できない。
実験をしてみよう。
用意するのはスマホ1つとサイコロ1つだ。
まず、サイコロを振っている姿をスマホのカメラで録画する。
2の目が出た。
次に、録画した内容を何度も見返す。
1回目の見返し、2が出た。
2回目の見返し、2が出た。
3回目の見返し、2が出た。
4回目の見返し、2が出た。
5回目の見返し、2が出た。
6回目の見返し、2が出た。
7回目の見返し、2が出た。
8回目の見返し、2が出た。
……
……
……
ここで問題です。
このまま100回見返して、2以外の目が出るか?
答え NO、ずっと2の目が出続ける
これはおかしくないだろうか? 大数の法則によれば、繰り返すことで確率は収束するはずだ。だというのに2の目が出続ける。
確かにこれはサイコロを振っているのではなく、録画を見返しているだけだろう。しかし、過去に存在した”サイコロを振っている行為”を何度も”画面上で再現している”といっても過言ではないはずだ。
であればサイコロを振っていると言ってもよいはず。なぜ過去に振ったサイコロは1/6で目を変えないのだろうか?
これは簡単な話で、”サイコロを振る”という行為が抽象的すぎるからだ。
大数の法則で振った”サイコロを振る”という行為は同じサイコロを使う以外、特に制限はない。
しかし、スマホで録画した”サイコロを振る”という行為は”2025/8/9 10:25:05 東京都千代田区永田町1丁目 気温26℃ 湿度50% ××氏が 高さ10㎝から1の目を上にした状態で角度45°から○○方向へ速度…………”という細かい条件が付けられている。
ここまで細かい条件を付けられたらそりゃ同じ目が出るはずだ。もう少し単純にするなら、”右に傾けた木の棒を手放すと右に倒れる”立てた木の棒が1/2で右か左に倒れるとしても。
言い換えて、こと細かく条件を付けサイコロを振れば狙ったサイコロの目を出すことができる。
Aが可能性としてBやC、D、Eに代わるとしても、条件Fであれば必ずBになるのだ。
これらのことから2つのことがわかる。
1つ目、過去は変わらない。
過去にサイコロを振っていたとすれば、そのサイコロの目は必ずその時出た目になっている。
2つ目、因果が存在する。
難しそうに書いたが、言いたいことは”この世界は法則通り動いている”ということだ。この世には法則・原則が存在しており、例えば傾いた地面に球を置くと云々かんぬんの法則・原則で傾いた方向に転がる。
これを破るのは、また違った法則・原則を用いることで可能である。しかし、この世は法則・原則にのっとって動いていることに間違いはない。
さて、ここで伝えたいこと”過去を変えられない人間が、未来を変えられるはずがない”について語る。
要約するとこうだ。
"まず前提として過去は変わらない。
そして、過去に出力された結果が現在である。
この世には法則・原則が存在し、そのルール通りに動いている。
つまり、未来は変わらないし変えられない。過去を変えない限り。"
過去が変えられないことは先ほど確認した。誰であろうとスマホに録画されたサイコロの目を変えることはできない。(編集すればその限りではないが)
そして、過去の結果が現在であることは確認する必要もないくらいに当然だ。過去にウサギとして産まれたはずなのに、現在人間として働いているという人はいない。(いたとしても私はそれを確認したことはない)
この世界はルールに乗っ取って動いている。そのルールを解明するのが科学者などの方々である。科学を信じているならこの説明は無用だろう。(原因と結果に因果関係は存在しないという法則もあるかもしれないが)
これらが信じられるなら未来が変えられないことはわかるだろう。
例えば、運動しすぎた過去があったとする。運動しすぎておなかが空いた。今目の前にリンゴがある。このリンゴはお母さんが買ってくれた食べてよいリンゴだ。
この未来はどうなるだろうか? もちろん、リンゴを無視してラーメンを食べに行く”可能性”はあるだろう。しかし、この人がお腹をすかせており、食べてよいリンゴがあり、その他もろもろの条件がそろっているこの状況であれば必ずリンゴを食べる。
可能性とは条件の調査不足からなる物だ。
間違っても、可能性という言葉が怠慢から産まれていると言いたいわけではない。
この世のすべてとこの世における法則・原則を理解すれば、おのずと未来視ができる。
過去が”ああ”だったから現在は”いい”であり未来は”うう”となる。
ゆえに未来は変えられない。人間の意志ですらこの世界の一部であり法則が適用されるため、”君の意志で未来が変わる”なんて世迷い事だ。
過去すら変えられないのに、未来を変えられるはずがない。