十六「訪問」
頭が痛い。
徐々に意識は明確さを帯び、俺は瞼を開けた。次に飛び込んできたのは汚れも模様も何一つない、見るものになんの印象も与えないような白い天井。目覚めには優しい色で助かるが、情報の限りなく少ないその天井のせいで俺の脳はパンク寸前の状態だ。
俺の知ってる天井じゃないぞ。
とにかく目を覚まして現状の把握に努めようと目を擦ってみると、不自然な感触が手首にある。とても重い。まるで手首に鉄を巻き付けられているかのような──
そうそう、今の俺の手首のように、と、呑気に自分の手首を客観視していた俺は、遅まきに置かれた異常な状況の一つ目を理解した。
右手と左手がお縄にかかってしまっている。
どういうことだ。いや、その前に俺は何故こんなところに、というかここはどこだ。と、まず一番楽に獲得出来る情報を確実に得ようと俺は辺りを見渡した。
驚く程にそこには何も無かった。
手錠から想像してた牢屋のような空間はおろか、ものは何一つない。右方向には白い壁と左方向には白い壁と。俺は夢を見てるんじゃないかと錯覚するが、あいにくと、起きれば解決するような、そう都合の良い話ではないと、目の前にひとつだけあった人影が物語っていた。
そうか、思い出したぞ、帰宅途中でこのゼウシズと出会ってその瞬間からの記憶が無い。こいつが俺をこの場所に連れてきたと考えるのが妥当だろう。
では一体なんのために?
それだけが分からない。一旦警戒してみようか。俺は敵意を滲ませてゼウシズの顔を睨んだ。
ゼウシズもこちらを見つめる。
俺が起きた時には既に傍らに正座し、俺を見つめていたが、ゼウシズはずっと俺の横でこうしていたのか?
負けじと俺はみたい睨み返した。
相手も視線は外さない。
交わされ合う視線から始まる物語が今そこに──あるはずもなかった。
なんだ、なんか言ってくれよ。この状況に対して言及無しかよ。しかし変わらず、無感情で無機質なその凍てついた表情は俺に何も察しさせてはくれない。
え、俺がなんか言わないとダメなのか?
元からだがより一層得体がしれない。というか中性的な顔立ちをしているからそんなにまじまじと見つめられると、俺が小っ恥ずかしいんだけれど。いや、負けてはいけない。あくまで糾弾する姿勢で。
「なあ、お前なのか?俺をここまで持ってきたの」
返答とその理由しだいでは、俺は被害届の提出も視野に入れねばならんぞ。こちとら風格は無いとはいえ一国の王なのだ。要求がどうであって俺を攫ったのか知らないが、遊びにしては度が過ぎすぎている。
待てど暮らせど返答は一向に帰ってこない。
え、何か言ってよ。不安なんですけど。無言がいちばん怖いんですけど。確かにゼウシズが喋ってるところなんて一度も目撃するに至ってないけれど、それはただ寡黙なだけで、まさか声帯ぬきとられてたりしないよな。え、なに?そんな情熱的に俺を見つめちゃって。もしや俺の思考が読み取られてたりするのか?じゃあ卑猥なこと考えないと。
などとふざけた思考は挟んだものの、俺は慣れない寄せられる視線に耐えきれず、先に目線を逸らしてしまった。
「ここ、もしかしてお前の部屋なのか?」
お約束の無言。
だけどこの何も無い部屋がゼウシズの部屋だったとしてもなんら疑問はないかも。それよりも、この手錠だ。この手錠がある限りこの部屋内の俺のヒエラルキーは、目の前の小柄なゼウシズよりも劣る。一刻も早くこの手錠を外して欲しいのだけれど。
「この手錠、外してくんない?」
またもや無言。
いやまあ、分かってはいたんだけどさ。...もしかしてこいつが手錠をかけたのでは無いのか?
はっ、俺とゼウシズはもしかして、同じ被害者なのか。共通して誘拐犯に襲われて、今この瞬間に至るというわけなのか。なるほどそれなら合点がいく。この何も無い部屋にも、俺に手錠が付けられていることにも──
とかも思っていたらゼウシズは手錠の鍵らしきものを取りだして、指でクルクル回し始めた。しかも真顔。って、やっぱマジでこいつが俺に手錠をつかたのかよ。
でもじゃあ尚更なんでだ。
こいつに恨みを買うようなことした覚えは、少なくとも俺の記憶にはない。俺の記憶の解像度は著しく低く、記憶の証合性は、なんでも宝くじ並に低く、記憶の捏造は日常茶飯事である俺だけれどこれだけは信用してくれていい。他ならぬ俺が太鼓判を押そう。
「なあ、そろそろ答えてくれないか?なんで俺をここに連れてきたのか。何か話があるのか?」
軒並み、思った疑問を立て続けにぶつけてみたが、風林火山を信条としているようで、不動の表情筋はまさに動かざること山の如し。他人のモットーにとやかく言うつもりは無いが、対する俺は困惑を深めるだけだからそろそろ何か動きが欲しいところだ。
微動だにしない彼が、ホログラムではないかと疑い始めた頃──
コンコン、とドアを叩く音がした。
ようやく展開が進むのかと、永遠に思える沈黙地獄から解き放たれる安堵を前面に押し出し、しかしよくよく考えてみると、今俺は拉致監禁されているとも言えるわけで、そんな状況で追加の人物の立場と言えば相手側の増援という線が濃厚なわけで、俺は浮かれた考えの自分を律したのだった。どんな人相の巨漢が扉を開いたからといって動揺しないように心構えを、と、そんな心構え結果的に杞憂に終わった。
「失礼するわね、ウィルくんだったけかおやつとお茶ここに置いておきますから遠慮せずに好きなだけ食べてね。まあ粗茶がお口に合うかどうか分からないけれど」
そう矢継ぎ早に述べて意気高々乱入してきたのは見るからに一般の主婦といった容貌の女性。拍子抜けを食らってる俺に、
「あらー、そんなに見つめられちゃ困るわ。ウィルくん色男なんだもの。こんなことなら事前に化粧しとくんだったわ」
そう嵐のように言ってくる女性は、よく見るとゼウシズにそっくりの顔立ちをしている。俺が見比べるためにゼウシズの顔を見ると、やっぱりよく似ている。大きな違いとして、その性格は全く真逆のものだけれど。
「ごめんなさいね、ゼウシズもそんなに怒った顔しないで。私はすぐに出ていくから」
怒った顔...?ゼウシズを見ても何一つ怒った顔には見えないけど。これが怒ってる顔なんだったら学校にいる時は常時怒っているのか?ずっと怒ってるって...人間の愚かさとか、運命の無常さとかにか。
だが別に常時怒っている訳ではないと信じよう。いっそ聞いてみるか。
「え、今怒ってるってわかったんですか?」
「?、ああ、この子表情が少し乏しいものね。読み取れないのも無理はないわ。私たち家族でさえ読み取れない時があるくらいだもの。でもね、昔はもっと天真爛漫な子だったのよ。数年前から急に口数が減っちゃって...んもう、わかったってば、そんなに見ないでよ。私はすぐ出ていくから」
そう言ってゼウシズの母と思わしき人物は部屋を立ち去った。残ったのは沈黙だけ。少し乏しいなんて過剰表現だ。「少し」の部分が。もっと表情と過剰表現してくれたら助かるんだけど。
それにしても、俺の手錠については何も触れずに帰っていったぞあの人。異常だとは思わなかったのか?
すると扉の締まりきっていない隙間から視線を感じた。妖艶とも楽しげともとれる笑みでゼウシズ母がこちらを覗き、口パクをしている。
なになに。『ご、ゆ、っ、く、り』だと。
......ちょっと持てよ。嫌な予感が、あらぬ勘違いが発生してはいないか。元来手錠とは盗人を牢屋に閉じ込めておくこと、奴隷が抵抗しないようにすること、など用途は多岐に及ぶが、昨今また新しい使われ方がされていると聞いたことがある。
それは例えば男女間での営みによる──馬鹿らしい、全くの誤解だ。誤っているのならそれは正しく解き直すのが作法というもの。俺は知っている。こういう場合に焦って否定するとより信憑性が増してしまうことを。
というわけで極めて冷静に誤解だということを説明せねば。
「待ってください。何か勘違いをしているんじゃないですか。この手錠はゼウシズが一方的につけてきたものであって」
「はっ、強引なのが好きなのね!」
「ちげぇよ話聞けや脳内お花畑飼育員。さぞかしご立派に彩り鮮やかなこったろうな」
あらぬ方向にこんがらがってしまった。
「いいのよ、私ちょっと引いてるけど否定はしないわ。少しずつ理解しようとするつもりよ」
「ちょっと待って、本当に違うんですよ。彼とはそんな関係なんかじゃ」
「ああ、美しいわ!性という大きな隔たりをものともせずに乗り越え、これからの人生に訪れる困難という山も共に手を取り合いながら超えていくのね!わかったわ。お父さんの説得は任せて!例え彼氏が性癖こじらせたM野郎だったとしても、そこに確かに愛は存在するのだから」
そう熱い演説をかまし、廊下を勢いよく降りていった。俺の意志の入り込む余地などなかった。
ったく、なんなんだ、0か100しかこの家系にはないのか。...待てよ、ゼウシズは自分ちの部屋に俺を監禁していることになるのか。ますますゼウシズの目的が分からない。先のやり取りも我関せずと傍観してるだけだったし。
なんかやけにソワソワするな。
さっきの余計な煽りを気にしてしまう。
ずっと見つめてくるゼウシズの視線。
こいつ、眉毛女子みたいに長いな。それにいい匂いが鼻腔をくすぐる気もしてくる。一度意識してしまうとそっちに思考が持ってかれてしまう。
すると突然ゼウシズが立ち上がった。そして扉から出て廊下を階段とは逆の方向に歩いていく。数十秒後に帰ってきたゼウシズの脇には一冊の本と、新聞紙が抱えられていた。
ゼウシズが俺の真正面に立って俺を見下ろして、俺の内なるMを呼び覚まそうとしているのかと気の狂った勘違いを俺がしていると、やはりそんなことはなく直ぐに座った。
それから本をパラパラと開いて、印のつけられたあるページが開かれると動きを止めて俺にも見えるように床に広げた。そして俺を見つめる。
俺に読めということだろうか。
どれどれ、難しい言葉ばっかでよく分からんな。頑張って要約してみるとこうだ。
人には当たり前だが体力があり、それを走ったりして消耗すると当然疲れる。しかし疲れてなお、走り続けると人の心臓には過度の負荷がかかり、やがて破裂する。死だ。もちろん、体力が無くなって尚運動を続ける、というのは実現しない過程であり、このようなことは起こりうるはずがないの周知の上で、あえてこれに言及しているのだろう。
また、魔力も同じだとこの本には書かれている。通常、魔力は使いすぎると疲れ、疲れたら魔法は使えない。けれど、疲れている時点ではまだ確かに魔力は残っていて、体力がないから使えないだけ。それを無理やり絞り出すと回路が耐えきれずに、これもまた死に陥る。こちらは可能性は低いが起こりうること。例えばあの魔法結石のように。それに相手の魔力を吸う魔法も存在する。
...で? これを呼んで何をしろってんだ。ゼウシズは俺を見つめているが、これで汲み取れって言う方が無理な話だ。
と、俺も困っていると、今度は新聞紙を広げて俺の前に置いた。
これは...俺も今朝、ベーレから聞いた話だ。一面は飾っていないにしろ、内容が内容であってインパクトが強かったから覚えている。
この国で最近不審死が多発しているらしい。どれも死因ははっきりしておらず、中には奇妙な死因──そう、それこそ心臓が爆発していたり、魔力の回路が爆発していたりと。まあ、繋がりは分かったけれど、依然として伝えたいことが伝わってこない。
「ゼウシズ、この記事がどうかしたのか?」
返答は期待していない。半ば形式だけで尋ねただけだ。
それだけだったのだが、俺のかけた言葉に、表情は変わっていないけれど、ゼウシズの纏う空気感──とにかく曖昧だが、それでも何か違う感情を感じた。
固い、感情を。
でもわからない。ここまで来るとこちらももどかしい。俺が理解できないのがもどかしい。知らなければいけないことを、彼は教えてくれている気がする。俺が知らないことを、彼は知っている気がする。
しばしの沈黙があった。
そして前ぶれなく、沈黙は破られた。
感の良いご賢人ならお察しの通りの人物、敏感に、そして貪欲に目には見えぬ脳に巣食うBLセンサーで、この状況を察知し現れた我が妹──べーレによって。
天井が抜け落ち、爆音とともに受身をとったベーレが姿を現した。
「んなセンサーねぇよ、探し出したのはムニですから」
みるとムニも扉の方から入ってきた。
「まぁたしかに写真は撮らせていただきましたけども」
「はあ!?今すぐ消せよ」
「この写真ですがね、一方的に襲われたウィル、と題名をつけてしまえばそのままですが、あーら不思議、男同士のSMプレイと称してしまえばメディアリテラシーのなっていないもの達の目には事実が婉曲して届くのです。幸いうちの学校にはそういう輩しかおりませんからね」
「だからちげぇって」
「おやおや、せっかく助けに来てあげたのにお礼のひとつも言えないのかなお兄ちゃんは。助けがいが微塵もないなぁ。自称ショートスリーパーで毎日後天性ショートスリープの鍛錬(ただの夜更かし)に明け暮れるお兄ちゃんとはいえ、いくらなんでも帰りが遅いと心配してやったのになぁ」
こちらが手を出せないからと日頃の仕返しをされている。覚えておけよ、この手錠が取れたらつむじにまち針ぶっ刺してやるからな。...ところでどうやってムニは俺の居場所がわかったんだろう。まさか俺に発信機的何かが付いてるわけじゃあるまいし──
「...」
ここでまさかの沈黙であった。
「そういえば隣の家の猫、子猫産んだらしいですよ」
「ガードレールぶち壊しだよそんな急カーブ。転換方向が明後日の方向過ぎる」
え、う、まあ、そのおかげで俺も助かった事だし不問にしておくとしようか。今そういえば何時なんだろう、空は暗いようだけど。真夜中でゼウシズ母があのテンションを保っているのかどうかとても興味が湧いてきた。
「ジャジャン、しししししし明明後日は何日後でしょーか」
こいつうるせえな。本当に助ける気あんのかな。“し”が付けば一日増える原理で日数を数えてやがるし、だとしても問題のクオリティが低すぎる。
「まあ、助けてやるよ。借りは1な。利子は毎秒二乗ずつで」
「まさかの乗算!?」
そう言うと、一応俺を助ける意思はあるみたいで、ゼウシズの持っていた鍵をサッと奪い取ると、俺の鍵穴に回してガチャりと捻った。晴れて俺は自由の身となり、一刻も早くシャバの空気を吸いたいところだが──
「まったく、愛ゆえに監禁しちゃうのはいいけど、程度ってものがあるのよ。ゼウシズは顔が女の子っぽいけどやっぱり男の子なんだから。男の子同士なら尚更段階をきちんと踏んで、一歩一歩ゆっくり、そして着実に一線を超えていかないとダメよ」
こいつも勘違いしてやがる。
絶対に何か、ゼウシズは訴えているはずなのだ。それがわかってやれれば──
「ぼさっとしてないで早くいくわよ。夜は手を貸し合わなくても十分越せるわ。共にこそうなんてまだ早いのよ」
ああ、扉からズルズルと引き出されてしまう。ひっぺがしてでもこのまま残って話そうかと思ったけれど、しかしそんなことをしても進捗はないだろうとも俺の直感は告げていた。あるのはやはり沈黙のみ。
諦めの境地に達したそんな俺に──
ゼウシズが近寄ってきた。
俺の手を握る。
俺の手の中に感触が宿る。
みると、それはお守りのような形をしたものだった。あくまで「お守りのような形」だ。普通お守りなら祈願とか成就とか、そんな類の文字がどこかしらには書かれているはずだが、これには書かれていないことからお守りでは無いことが分かる。
顔を手から上げると、やっぱりゼウシズは無表情で俺を見つめていた。
「俺に持ってろってことでいいのか?」
その後の沈黙を、俺はYESととった。
これは一体何なのだろう。持っていればいずれゼウシズの考えていることの一端くらいはわかるだろうかと、その貰ったお守りのようなものを握りしめた。
中身は確認しなかった。
形だけでも、一度、お守りと認識してしまったから。お守りでは無いのに、お守りと認識したが故に、中身を確認しようという思考回路は構築されなかった。
その日のゼウシズの行動の意味も、俺は考えている振りをしただけで、実は何一つとして考えていなかった。
愚かにも、深く考えなかった。
ゼウシズがどんな思いで、あの無表情を浮かべていたのかも。