閑話
彼女は乱雑に広げられた無数の本の上で一人、横たわりながら虚空を見つめていた。そもそも彼女だとか彼だとかいう表現も、この場合は状況にそぐわないのだが、以前はそうだったのでそうしているだけに過ぎない。
決してまだ名残が抜けていないとかでは無いし、そんな遠い昔のことは記憶の片隅にも存在していなかった。だが記録としては理解している。
それと無数の本、というのは比喩でもなんでもなく本当に際限のない、数えるという思考にすら至らなく、もし至ったとしてもそれを行動に移すのは愚行としかいえないようなおびただしい数の本であった。まあ、以前彼女も興味本位で似たようなことをしたので愚行などと言えた義理ではないのだが。
進めど進めど見えるのは本と、本と、本の群れと、本の集合体と、本の形成する地平線と。
しかも中身は何やら複雑怪奇な、おおよそ理解しようとしても出来ないであろう文字列が殴り書きされているだけであり、自分が読めればいいと言った様子である。
挿絵とかお前が創ったんだから自分自身で活用しろよ、もっと気の利いた本は創れよ、と心の中で悪態をついて彼女が発狂したのは割とここに来て序盤であったと記憶している。
しかし悲しいかな、本の著者は既に二つ前に引退しており、難癖つけることも叶わない。確かに以前の彼女ならいざ知れず、今の彼女の立場なら、脳をフル回転させれば大雑把には内容を把握できるのだが、実行に移すかどうかは話が別である。
この過密な本の何処かには、調べれば名前の出てくるような有名なルールから、まだ発見すらされていないが、確かに世界や宇宙の根幹を成しているルールまで、やはり無数に存在してる。
今一度場面は彼女に戻るが、先程と変わらず生気の抜けた顔と、曇りに曇った死んだ魚のような目をしていて、彼女が死んだ魚の目をしているのか、死んだ魚が彼女の姿かたちを模倣して彼女として振舞っているのか分からなかった。
ここで雰囲気の違う、悪く言えば場違いなノートに目線が奪われる。他の本は、殺人事件であれば鈍器として疑われる程の凶悪な分厚さをしているが、そのノートは薄っぺらで指一本分にも満たない。ノートの表紙には拙い字で『きろくちょう』と書かれていた。
横にももう一冊本がある。
こちらには『ついかのルール』とこれまた形の崩れて、文字の大きさも均一を保っていないタイトルが書かれている。
退屈に満ちている。
これが万有全てに対する彼女の評価であった。
万回を超えた辺りからそう思い始めた。
先代の人々はまだ余計なルールや出来事がなかったから好きなのを追加するだけで良かったのだから、それはもう、さぞかしお楽しみいただいたのだろうけれど、この完成度を前にして一体どこを弄れというのか。中途半端に弄ってもどこかの辻褄が合わなくなって、結局膨大な量の作業を余儀なくされるのは目に見えている。
繰り返されるは同じ結末と同じ始まり。同じく崩壊と生成。最初こそ物珍しさと、己の知らない未知への悦びから飽きることなどなく『きろくちょう』も文字と絵に満ち満ちていたのだ。以前では到底知りえなかった果てのない膨大な物語と、この世界の軌跡と、その先と。彼女の好奇心は掻き立てられまくった。
のだがしかし、畢竟があるということは、好奇心もいつかは尽きる。こう何度も同じ話を見せられては、『きろくちょう』が日に日に白の部分が多くなり、内容も「特になし」になるのも時間の問題であった。
彼女は観測者であった。
神でも仏でも別に呼び方は問わないけれど。
今日も彼女は虚空を眺めてただ横たわりながら無為に──
「ううあああ゛あ暇だよぉぉおおおおお退屈だよおおおおおおつまんないよおおおお」
──とはならず、日々の鬱憤諸々が前触れもなく爆発し、手足をバタバタと振り回しながら、仰向けになったり体を反らせたりするなどのオプション付きで発狂を始めた。
ありもしないけれど人の目を顧みない見事な地団駄は、縁下で彼女の体重を支えていた本の柱に強い衝撃を与え、彼女の居場所は彼女を飲み込みつつ跡形もなく崩れ去った。
暇だ、暇すぎる、という怨嗟の声が響いてくる。彼女の心の中は荒くりまくっていた。よくぞここまで耐えてきたと自身に賛辞を呈したい程に。物々しいプロローグなんていらない、この世界に好き勝手やってやると決意を露わにする。
そして『ついかのルール』のノートを開く。
どこでもいい、どこにしようか、以前の私の生まれ故郷の日本でいいかと適当に決めた。
舞台はどうしようか、やはりこの年代だと学校が定番だろうな。
どんなルールにしようか、かつてないような事が起こる感じのやつを追加してやろう。この積み重ねられてきた本の結晶など知ったことではない。
そうだ、以前の私が書いていたメモ帳があったはずだ。よし──
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また一つ物語が生まれた。白紙のノートも埋まった。面白い、やはり力を与えれば勝手にその者同士で物語を生み出してくれる。
鴻江蒼──今はウィルソンだったっけか。見神璃央の力が行使されたからややこしいけれど、違う物語が紡がれるならなんでもいい。
特にウィルは主人公の器があるな。観測者の譲渡の条件を満たせるかもしれない。周りのムニとべーレの力の使い方も面白い。
だが当の見神は本当につまらないな。創り出しておきながら、脇役に甘んじるなんて生粋の凡人なんだろうか。つまらない世界に変化を望んでおきながら、自分が主人公の世界など想像できなかったのか。哀れなり。
もっとも、彼の思うつまらない「つまらない」というのと、私の「つまらない」は全く意味合いが異なると思うけれど。だからこそちょっと苛つく。
想像の世界ですら立ち位置が現実と対して変わっていないじゃないか。自筆で俺TUEEEE系のラノベ書いてるくせして。やはり想像しようとしても心のどこかでそんなのありえないと、他ならぬ自分に止めらるんだろうな。やっぱりつまらないやつだ。
世界の構築も不安定だし。
それはそうと。これから彼ら彼女らはどんな出会いをし、どんな決断をし、どんな結末を迎えるのか、楽しみだ。せめてこのノートが埋まるくらいの物語は見せて欲しい。
そしてその後は──
私は本に埋もれながら色んなことに思いを巡らせるのだった。