第二譚 午後三時の魔法
匠は、ノートを見ながら、必要な材料をそろえ、花瓶を直していく。
「ん?」
だいぶ形になってきたその時、匠は花瓶に描かれた花が百合の花だということに気づいた。
(へー、青い百合なんて珍しいな。描いた奴の想像か?)
そう思いながら、匠は手を動かしていった。
「う~ん」
一区切りがつき、匠は大きく伸びをした。
部屋の壁にかけた時計に目をやれば、時刻は昼の十二時過ぎだった。
「飯にするか・・・」
客も一人来てから、まだ一度も来ていない。今のうちに腹ごしらえをしておこう。
匠は立ち上がり、台所へ向かった。
「お前、またカップラーメンかよ」
椅子の上で大の字に寝ていたテッドが起き上がって立ち上がり、昼食を摂っている匠を呆れたように見上げた。
「ん?今日は味噌だし、野菜はとってるぞ?」
麺をすすりながら、匠は答える。
カップ麺の中にはふやかしたワカメ、適当に切って茹でたニンジンとキャベツをぶちこみ、茹でて余ったニンジンとキャベツはドレッシングをかけてサラダにしていた。
「味は変えてるだろうけどよ。毎日よく飽きねえな」
「ほぼ毎日ホットケーキのお前に言われたくない」
匠とテッドの視線が交錯する。
先に口を開いたのはテッドだった。
「いいか!ホットケーキは万能なんだ!甘くしなければ、野菜や卵、ベーコンだってのっけられる!」
「そりゃ、カップ麺でも同じだろ。これだって、野菜や卵や肉だって入れられる」
「カップ麺は味濃いし、市販だろ!何が入ってるかわかったもんじゃない!」
「ホットケーキミックスだって市販だろうが。人の事言えないだろう」
「なんだと!」
匠とテッドの言い合いが加速しそうになったその時、のんびりとした声が台所に響いた。
「ふぅ、今日もいい運動をした」
ゆっくりとした動作でラウが台所に入ってくる。
「どうした、二人とも?」
匠とテッドの間に流れる空気を察したのか、ラウが尋ねた。
「なんでもない」
「何でもない」
言葉をハモらせ、テッドは椅子の上にあぐらをかいてそっぽを向き、匠は冷めかけた麺を再び口に運び始めた。
昼食を食べ終えた匠は、再び花瓶を直す作業を始めた。
台所の隣にある居間で、テッドは午後のワイドショーを見、ラウは余ったホットケーキとサラダを食べていた。
ワイドショーは、日本各地のスイーツを紹介しているらしく、テッドがいちいち大げさなほど感動の声を上げている。
「レインボーサンドイッチか~。ホットケーキでやってみようかな~」
(やめてくれ。面倒くさい)
好奇心を抑えきれないといった風に声を出すテッドに、匠は作業の手を止めることなく心の中で呟いた。
ボ~ン、ボ~ン。
午後三時。
低く、重々しい音が周囲に鳴り響く。それは、店の中にある振り子時計が三時であることを告げるものだった。
つぎの瞬間、部屋中の物――作業台や棚、全てのものが宙に浮く。それは物だけでなく、匠自身の体も浮き始めた。
「おわー!」
テッドが居間から飛び出し、ふわふわと浮かぶノートの群れに突っ込んだ。
ラウもくるくると回転しながら、廊下を漂っている。
台所にあるはずのフライパンや調味料の瓶、スプーンなどが飛び交う中を、匠は花瓶だけはしっかりと抱え込み、まるで宇宙空間になった部屋で体を浮かせていた。
だが、それもつかの間の事だった。
漂っていたフライパンなど、様々な物が一瞬止まったかと思うと、掃除機に吸い込まれるかのように、皆それぞれの場所に戻っていった。ただし。
「おわ!」
「あたっ!」
テッドは畳の上に頭から落ち、匠は尻餅をついた。
「お~い、悪いが誰か起こしてくれ~」
ラウの困惑した声に、匠は元通りになっている作業台に花瓶を置き、テッドは柔らかな頭を手でさすりながら、廊下に出た。そこには板張りの床で短い手足をバタバタと動かしながら、ひっくり返った体を元に戻そうとするラウの姿があった。
テッドがラウの手を引っ張り上げ、匠が甲羅のある背を押し、ラウは元の体勢に戻る。
「あぁ、ありがとう。助かった」
「じいさん、どっかヒビ入ってねぇか?」
「そんなに柔じゃないさ」
気にした風もないラウに匠は声をかける。
「じいちゃん、一応見るから」
そう言って、匠はラウの体を持ち上げ、深緑色の甲羅の部分をまじまじと見つめる。そこに白いヒビは入っておらず、きれいな甲羅のままだった。
何事もなかったことに匠はほっと息をつく。
「大丈夫だ。何もないよ」
匠がラウを廊下に降ろすと、それ見たことかというような表情をラウは浮かべた。
「だから言っただろう。そんなに柔じゃないとな」
「それにしても。毎度毎度のことだけど、少しはオレ達のことも考えてほしいよな」
しばらくして、テッドが吐き出すように声を上げた。
「まぁな」
匠は素直に頷く。
「『モノ』が大事なのは分かるけどよ~。使うオレ達も頭の片隅くらい気に掛けてほしいぜ!なぁ、聞いてるのか!」
丸い右手を挙げ、天井に向かって叫ぶテッドに、匠は苦笑するほかなかった。
テッドの言葉を『つくも堂』がどれほど真剣に考えるか、匠自身にも分からなかった。
だが、テッドもラウも動くとはいえ、生き物ではない。『モノ』の部類に入る彼らが匠と同じように空に浮いた後、床や畳に叩きつけられるのはどうしてなのだろうか。
動き、話をしている以上、『モノ』ではないという考えなのだろうか。
答えのない問いを考えていると、ラウがゆったりとしながらも窘めるように言った。
「目くじらをたてても仕方がないだろう。それよりも『ここ』がどういう場所か確かめんといけないんじゃないかね?」
「あ」
忘れていた。匠は慌てて部屋にある窓に近づく。
通常は、白壁と緑の屋根の住宅が見える場所が、気づけば暗闇に沈んでいた。目と耳を凝らせば、木らしい大きな暗い影が風に揺れ、ざわざわと音をたてている。
本来なら太陽が照っている午後のはずなのに、月や星でも見えそうな夜。そして、住宅街ではなく、森か林のような風景。明らかに今までいた場所とは異なっていた。
だが、今更それに驚く匠ではなかった。
この『つくも堂』は、午後三時になると、別の世界、物語風に言うなら『異世界』へ飛ぶ。
『異世界』からの客相手の場合、客が品物を選ぶのではなく、店にある『モノ』たちが客を選ぶ。『モノ』たちが持ち主を選ぶのだ。
だから、やってきた客は何かしら事情を抱えている事が多い。匠たちは、彼らの話を聞きながら、『モノ』たちが持ち主を選ぶのを待つだけだった。
それだけではなく、匠たちは『異世界』へ飛んでも『つくも堂』から外へは出られない。
もし出ようとすれば、見えない壁に弾かれ、頭を床に強かにぶつけることになる。
理屈も何も分からない。ただ、紫と住んでいた頃から『異世界』との交流はあり、それを匠は同じように続けていた。
匠はこれを『午後三時の魔法』と呼んでいた。
「外は森か林みたいだ。それに夜だ」
「夜ねぇ。町中でもないみてぇだし、客がくるのか?」
テッドに訝しげに声を上げる。
「『つくも堂』が飛んで、客が来なかった世界はない。心配は無用だとおもうがね」
ラウがのんびりとした口調で呟いた。
その時だった。
ゴンッ。
何かが派手にぶつかったような音が外から聞こえ、部屋中に響いた。
「なんだ?」
「痛そうな音だったなぁ・・・」
テッドが周囲を見回し、ラウが感想を述べる。
匠は音のした方へ顔を向けた。
「店の方から聞こえたな」
音の正体を確かめるべく店の方へ足を向けると、
バンバンバンバンバン!!
切羽詰まったようにガラス戸を叩く音が響いた。
『たすけて!たすけてください!!』
同時に必死に助けを求める少年の声が聞こえる。
ガラス戸には鍵も何もかかっていない。開けられることすら分からないほど混乱しているらしい。そう考えて、匠は気づいた。ここは異世界だ。
匠のいる世界ならいざ知らず、何も知らない異世界の人間が明かりのついた店を見て、開店中がどうか、戸が開いているかどうかなどわかりはしない。
もし、怪我でもしていたら。誰かに追われているのであれば大変だ。
匠は一気に駆け出すと、サンダルは履かずに素足のまま土間におり、勢いよくガラス戸を引いた。
すると、倒れ込むように茶色い影が転がり込んできた。
その影は、ピンとたった三角耳にふさふさのしっぽが生えた、狐だった。
狐といってもただの狐ではなく、五本指をもち、二本足で立つ狐だった。
襟付きの白いティーシャツに赤い短パンを履いていたが、泥か何かに突っ込んだのか所々黒くなっている。声からして十代か、それとももう少し若いかもしれない。
(獣人か――)
異世界を何度か行き来する内、そういう世界があることも匠は知っていた。
(ということは、ここは獣人の世界か――)
そして、この狐の少年が今回の『客』だと理解する。
異世界での販売の場合、『つくも堂』の商品を望んでいる者が『客』としてやってくる。当の本人が気づいていない場合もあり、そういう時は商品が『客』を主として選んだとしても訝しげに思われることが多い。
最終手段は、客相手にそれを押しつけるしかなかった。どこの悪徳商法だと思われるだろうが、それには理由がある。『モノ』が客の手に渡らない限り、つくも堂の戸が再び開くことがないのだ。
(物わかりがいい奴だとありがたいなぁ)
思わずぼやいてしまう。
説明が意外と大変である上に、さらに相手が幼い場合、わかりやすく伝えなければならない。
わかりやすく伝えることが匠は苦手だった。
「あ、ありがとうございます!」
涙目になりながら立ち上がり、礼を言う狐の少年は顔を上げ、匠を見た瞬間、耳をつんざくような悲鳴を上げた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
匠が思わず耳を塞ぐと、狐の少年は全身の毛を逆立てた。
「ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!食べないでー!!」
匠から距離を取るように、閉じたガラス戸に思い切り背中をぶつける。
バンッと嫌な音が鳴った。
「落ち着け。食べやしないよ」
片耳を手で押さえながら、匠は狐の少年を宥める。
しかし、その言葉すら届かないのか少年は嫌々と首を振りながら、どうにかガラス戸を開けようとする。しかし、その少年の手は滑るばかりで戸は開かない。
「あ、戸は開かないぞ」
「・・・・・!!」
声にならない声を上げ、狐の少年は必死にガラス戸をひっかく。
(やべ)
少年の様子に匠は焦る。今言うべき言葉ではなかった。
「大丈夫だって。落ち着け、ぐえっ」
頬に柔らかい一撃が加えられる。目線を向ければ、それはテッドの足だった。
「お前が怯えさせてどうすんじゃ、ぼけー!」
匠に足蹴りを加えたテッドは、ポスッという音をたて、アンティーク風の学習肌に着地した。
テッドの正論に匠は何も言えない。
少年に再び顔を向ければ、彼は背を向けたまま、体を小刻みに震わせていた。
匠は後頭部をがしがしと掻いた。
「あー、ごめん。悪かった。怖がらせるつもりはなかったんだ」
謝罪を述べるが、少年が振り返る様子はない。
(困ったな・・・)
すっかり怯えさせてしまった。信頼を取り戻すにはどうしたらいいだろう。
どうすればいいだろう。このままでは事態は好転しない。
匠は、狐の少年を見る。
服が泥だらけなのはぱっと見てわかったが、半袖から伸びる腕や短パンから伸びる足にもひっかいたような傷ができている。地味に痛そうだ。
「・・・・・」
絆創膏でも貼ったほうがいいだろうか。いや、その前に消毒か。
救急箱は――。
そこまで考えて、匠はまず狐の少年の怯えを取ろうと考えた。怪我を直すために近づけば、余計に怖がらせてしまうかもしれない。
匠は土間を上がり、店の中を突っ切ると、台所と居間を通り過ぎ、奥の洗面所へ足を進めた。
そして、棚から白いタオルを取り出し、洗面台に設置されたお湯の出る蛇口と水の出る蛇口をひねる。半々ぐらいの水量を出して、備え付けのゴム栓で排水口を塞ぎ、できたぬるま湯を貯めていく。
その中に白いタオルを突っ込み、タオルがぬるま湯を吸い込み、徐々に沈んでいくのを目にした匠は、一端洗面所を離れ、台所へ向かった。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、壁にひっかけた小鍋をコンロに置き、そこへ一人分の牛乳を注ぎ入れた。換気扇をつけ、コンロの火をかける。
しばらくして、牛乳がふつふつと沸騰してきた。匠は火を止め、棚からオレンジ色のマグカップを取り出すと、牛乳を注ぐ。そして、テーブルに置いてあったチューブ用のはちみつ(クローバー社)を一たらし牛乳の中に入れる。それをスプーンでくるくるとかき混ぜた。
はちみつの甘い匂いと、牛乳の濃厚な匂いが台所に広がる。
ホットミルクの完成だった。
匠はマグカップをテーブルの上に置くと、今度は洗面所に足を向けた。
ふわふわと浮かぶタオルをぬるま湯から引っ張り出し、絞り出す。水気がなくなるまで絞り、四角に折れば、匠はタオルを持って台所へ戻った。
湯気のたつマグカップと温かさが感じられるタオルを持ち、匠は店へと歩を進める。
そこには、背を向けたまま、しっぽも耳すらも項たれた狐の少年と、心配そうな表情を浮かべたテッドとラウの姿があった。
「あいつ、オレ達が何を言っても反応しないんだ」
「すっかり怯えさせてしまったみたいでな。獣人だからと、動物の姿なら安心すると思ったが、そうでもなかったらしい」
「お前らのせいじゃないだろ。俺が怯えさせるようなことを言ったせいだ」
「まぁ、それもあるかもしれないけどよ。それにしても怯え方が尋常じゃないぜ」
「この世界の――いるか分からないが、人間にひどい事をさせられたか、人間は獣人を食べる化け物だと思われているか、だな」
「なぁ」
匠が声をかけると、狐の少年がゆるゆると振り返った。
ホットミルクの匂いに釣られたのかもしれない。
ふっと笑みを浮かべ、匠はタオルを差し出した。
「ほら、泥だらけだ。顔や手とかこれで拭け。少しはすっきりするだろう」
少年はおそるおそる手を伸ばし、タオルを手に取った。そして、顔に当て、ごしごしとこする。顔を拭いた少年は、幾分ほっとしたような表情を浮かべていた。
「これも飲むといい。毒は入っていないから安心しろ」
ホットミルクの入ったマグカップを差し出せば、少年はタオルを腕にかけ、マグカップに手を伸ばす。一口口に入れかと思うと、今度はごくごくと喉を鳴らし、一気に飲み干した。
よほど喉が渇いていたらしい。
「・・・ありがとう」
蚊の鳴くような声で少年は言い、マグカップとタオルを匠に返した。
「どうしたしまして」
礼を言われたことよりは、怯え以外の反応を返してくれたことに安堵しながら、匠も返事を返した。
タオルとマグカップを蓋付きのゴミ箱(商品の一つだが)に置き、匠は同じく商品の丸椅子を少年に勧め、自分もそれに座った。
「お前、誰かに追われていたのか?」
すると、少年はゆるゆると首を振る。
「・・・森に入ったら、だんだん暗くなって、しばらくしたら何も見えなくなって、回りはガサガサ音がするし、足下はいきなり滑って、すごく怖かった。そしたら、明かりが見えたから、思わず戸を叩いたんだ」
「夜目が利かないのか?」
獣人なら夜でも夜目が利くだろうと尋ねると、少年は眉を寄せ、困惑した表情を浮かべた。「利かないよ。明かりがないと」
「・・・そうか」
獣人として進化したために、獣であった頃の能力が退化したのかもしれない。
確証はないが、匠はそう思うことにした。
「お前、何しに来たんだ?明かりも持たずに。真っ暗な森の中を遊びに来たわけじゃないだろう?」
追われていたわけではないとすると、この森に来た理由が分からない。
尋ねてみるが、狐の少年は、耳を伏せ、顔を俯かせる。そして、何も言わず、黙ってしまった。
「何があったが知らないが、お父さんやお母さんが心配しているだろう」
「心配なんてしてないよ」
黙っていた少年が今度は間髪入れずに答えた。
「なんでそう思う?」
視線を向ければ、少年は明後日の方向を見ながら投げやり気味に言葉を続けた。その表情はどこか寂しげだった。
「だって、ぼくより妹の方が大事なんだ。妹は体が弱いから、見てないとすぐ病気になっちゃう」
「妹が嫌いなのか?」
ややあって少年は口を開いた。
「ミナはかわいいし、いい子だよ。でも、ときどきお父さんとお母さんを一人占めするから。そういうときは好きじゃない」
「なるほど」
匠は頷く。
ミナとは妹の名前だろう。病弱では、両親も気が気ではないだろう。意図せずとも、妹の方を構ってしまうことは想像に難くない。
ただ、少年からすれば、自分を見てくれないことに苛立ちや寂しさを感じてしまうだろう。
「それで、お父さんとお母さんとケンカして、家を飛び出したか?」
その感情をため続けていれば、いつか爆発する。それが明かりも持たず、森に来た理由だろうか。
「なんで分かるの?」
俯いていた顔を上げ、狐の少年は驚いたように匠を見た。
匠は苦笑する。
「俺も似たような事をしたことがあったからな」
紫と出会う前、匠は養護施設にいた。
周りには同じ境遇の子供が大勢おり、親代わりだった養護施設の職員が自分に構ってくれないことに苛立ちと寂しさを募らせた匠は、本当の両親を探しに施設を飛び出した。だが、電車やバスに乗る金もなく、両親の居場所さえ分からないまま、やみくもに近くの商店街や公園、住宅街を歩き続け、ついには夜になった。
途方に暮れた匠は、恐る恐る養護施設に帰ると、自身を探し回っていた職員にしこたま怒られ、そして心配したのだと抱きしめられた。
「いくら妹に構っているからといって、心配しない理由にはならないだろう。二人とも、いなくなったお前を探しているんじゃないか?」
かつての自分を思い出しながら、そしてその頃には分からなかった職員達の思いを想像しながら、匠は狐の少年を見た。
「そうかな・・・」
心細げに、けれど縋るように少年は匠を見つめる。
「あぁ」
匠は力強く頷いた。
「・・・ぼく、お父さんとお母さんにひどい事言っちゃったんだ。大嫌いだって」
ぽつりと少年が言った。
「でも、本気じゃなかった。でも、ミナばっかり構うから。ミナが体弱いのはわかってるけど、ぼくの話も聞いてほしかった・・・」
「そうか」
「言語のテストで九十点取ったとか、川泳ぎのテストで三位になったりもしたんだ」
「へぇ、そりゃすごいな」
言語とは、匠の世界でいう国語のことだろうか。
川泳ぎというなら、実際に川で泳いだのだろうか。そうだとしたら、かなりすごい事をこの世界の住人はしていることになる。
感心しながら、相づちを打つと、狐の少年はぽろぽろと涙を零し始めた。
「どうした?」
優しく声をかければ、少年は必死に涙を拭う。
聞いてほしかった事を口に出したことで、苛立ちや寂しさなど、少年が心の中にためていた思いが一気に涙となって溢れだしたのだろう。
「・・・なんでもないよ。ただ、ちょっと涙が止まらないだけ」
鼻をすすりながら、少年は目尻に浮かぶ涙をぬぐった。
「で、どうだ?家に帰る気にはなったか?」
「・・・うん」
少年はこくりと頷くと、両の指をもじもじさせ、上目遣いに匠を見た。
「でも、外は真っ暗で明かりがないとちょっと怖いなって・・・」
「そうだな・・・」
引き戸から透けて見える外もかなり暗い。明かりがなければ迷うかもしれず、家に帰れるかわからない。
ゴトリ。
その時、何か重々しいモノが動く音が匠の耳に届いた。
ゴトリ、ゴトリ、ゴトリ、ゴトリ。
それは、一定の間隔を伴って聞こえ、徐々に大きくなっていく。
その音へ視線を向ければ、そこに、引きずるように床を歩くランプの姿があった。
「うわっ!」
動くランプに少年が飛び上がる。
ランプは少年の様子を気に掛けることもなく歩き続け、匠の足下で止まった。
「今回はお前か――」
匠はランプを拾い上げ、目を丸くしたままの少年に顔を向けた。
「そういえば、名前を聞いてなかったな。おれは匠。君の名前は?」
狐の少年はランプと匠の顔を交互に見ると、こわごわと口を開いた。
「・・・チロ」
匠は狐の少年――チロを安心させるために笑みを浮かべた。
「チロ、この店は『つくも堂』っていってな。こんな風にいろんなモノがたくさんある。そして、この店は客が商品を買うんじゃなくて、商品が持ち主を選ぶ。今みたいにな」
まぁ、商品だけではないのだが。それは割愛しておく。
そう言って、匠は両手に抱えたランプをチロに近づける。
体を縮こませるチロに匠は苦笑した。
「そんなに怖がらなくていい。こいつが動けるのは、この店の中だけだ。ここを出れば、ただのランプに戻る」
「こ、怖くないの?」
匠は目を瞬かせた。
「怖い?そんな事思ってたら、あいつらと会話もできないよ」
そう言って、テッドとラウを顎で示す。テッドが「よっ!」と言い、答えるように手を上げ、ラウがゆっくりと首を伸ばした。
「ぬいぐるみと置物が動いてる!!」
チロは耳と尻尾を逆立て、驚愕に目を見開いた。
「あぁ、そうか。気づいていなかったんだよな、そういえば」
テッドとラウを凝視するチロに、匠は、忘れてたと呟き、乾いた笑い声を上げた。
ランプに怯えていた時とは対照的に、チロはテッドとラウに興味津々で、どうやって動いているのか、何を食べているのか、など質問攻めにしていた。
子供だからだろうか。適応が早い。それとも、ぬいぐるみと置物相手だからだろうか。
「チロ、楽しんでいるところ悪いがいいか?」
声をかければ、チロが振り返る。
匠は真剣な眼差しを向け、手の中にあるランプを差し出した。
「お前と一緒に行ってやりたいが、俺達はこの店から出られない。だが、こいつがお前の足下を照らしてくれるだろう。持っていけ」
「え?」
チロが不安そうな表情を浮かべる。
「・・・図々しいかもしれないけど、一緒に来てもらえない、よね?」
恐る恐るチロが要望を口にする。確かに、ランプを持って一人で行けと言うのは酷かもしれない。だが、自分達は店の外には出られないし、仮に出られたとしてもこの森の土地勘はない。下手をすれば、チロもろとも迷う可能性がある。
「気持ちはわかる。でも、ごめんな。さっきも言った通り、俺達は出られないんだ。今から証明する。・・・テッド」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないだろ」
「戸を開けて出ろって言うんだろ。嫌だね、ごめんだね」
「別に痛くないだろ」
「目が回るんだよ!なら、お前が出ろよ!」
「俺が出たら、商品の山にまっ逆さかだ。商品に傷がついたら、店を開けられない」
「ぐぬぬ」
低くテッドが唸る。
「なら、わしが」
「だめだ(ダメだ)」
ラウの言葉に匠とテッドの声が重なる。
「じいちゃんがいったら、甲羅が割れるどころじゃ済まされない」
真顔で匠が言い、
「そうそう。一発であの世行きだって。・・あ」
テッドがうんうんと頷く。
そして、自分の言葉が結局自分の首を絞めることに気がついたらしいテッドは、声を上げた。
「テッド、やってくれるな」
匠は圧をかけてテッドを見つめる。テッドがやってくれなければ、チロが覚悟を決められない。ここで足踏みしていても、家には帰れないのだ。
「やってくれるなら、お前がやりたがってたレインボーサンドイッチ、作るの手伝ってもいい」
「ほんとか!?」
「おう」
頷くと、テッドは意気揚々と学習机から降り、ぽてぽてと足音にもならない足音を鳴らしながら、締め切った引き戸を開け、その綿が詰まった腕を外へ向けた。
次の瞬間、バチッという音とともに雷が落ちたかのような強い閃光が店の中を照らし、「うぉわっ!!」というテッドの悲鳴が聞こえた。
やがて、光は収まり、店の中には静寂が満ちた。
辺りを見回せば、壁に立て掛けた鬼の仮面、その角にテッドが引っかかっていた。ランプを近くの木製の椅子に置き、匠は薬箪笥の上にある赤い鬼の仮面に近づく。
「生きてるか?」
ご丁寧にオーバーオールが角にかかっており、匠は手を伸ばしてテッドを引き抜いた。
「なんとかな」
テッドが答える。
学習机にテッドを下ろした匠は、呆然としたチロに視線を向けた。
「チロ、俺達が出ようとすれば、さっきのようになる。だから、俺達はここから出られない。だから、家に帰るにはお前一人で行くしかない。道はどうだ?覚えてるか?」
「だいたいは覚えてる・・・」
「そうか。・・・一人で家に帰れるか?」
チロは口を引き結び、やがてこくりと頷いた。
「うん」
その頷きに多少の安心を覚えたものの、不安はあった。
万が一ということもある。たとえ、迷ったとしても気づいてもらえるように、ホイッスルか何かを持ったらいいのではと匠は考えた。
「ちょっと待ってろ」
匠は、ランプを一端土間におき、商品の山に向かった。
「確かここらへんに・・・」
竹藤籠の中には、キーホルダーやスプーン、指人形など雑多に入れられていた。
今度整理しよう、と思いながら、匠はそれらをひっくり返し、ホイッスルを探す。
がちゃがちゃと音をたて、目をこらしながら探していると、中から白のホイッスルが見つかった。
それを引き上げ、匠は硬い表情を浮かべたままのチロの元へ向かい、ホイッスルを差し出す。
「もし何かあったら、これを吹け。両親か、誰かが探しているなら、きっと気づいてくれる」
「・・・いいの?ぼく、お金持ってないよ。このランプだって」
困惑した表情を浮かべるチロに匠は微笑む。
「いいんだ。異世界では金は取らないと決めているし、通常の商売は別のところでやってるから問題ない」
実際は取れないからなのだが。異世界の金を貰っても匠達の世界で換金できるわけもない。せいぜい店か家の中で飾っておくのが関の山だ。
「わかった」
チロがホイッスルとランプを受け取る。それを確認した匠は、マッチを持ってこようと背を向ける。
「待ってろ。今、マッチを持ってくるから」
背を向け、上がり口に上がろうとしたとき、作務衣のズボンのポケット部分から何かが入っているような感覚を覚えた。
ポケットに手を突っ込み、取り出してみると、そこには匠が望んでいた『マッチ』が入っていた。
「・・・用意のいいことで」
思わず苦笑する。『つくも堂』のしわざだとすぐにわかった。
匠はチロと向かい合い、手の中のマッチを示してみせた。
「あった」
チロが頷き、木製のテーブルにランプを置く。匠は、ホヤを持ち上げ、マッチに火をつけると、それを差し込み、火をつけた。火がついた後、ホヤを元に戻す。
火は徐々に大きくなり、テーブルを照らすまでになった。
匠はランプの取っ手を掴み、チロに差し出す。チロはホイッスルをズボンのポケットに入れ、ランプを受け取った。
「行けるか?」
「・・・うん、行けるよ」
不安気な表情を浮かべていたが、チロははっきりと言葉を返した。
そして、こわごわと引き戸に手をかける。
その時だった。
「待て待てー!!」
慌てたように制止をかけるテッドの声が響いた。
振り返れば、藤の籠を押してテッドとラウが現れた。
「何か口に入れれば少しは落ち着くだろう」
「俺達が厳選したやつだ!ありがたく持っていけ!」
そう言って、二匹が差し出したのは、藤の籠に入った飴やキャラメル、チョコレートなどのお菓子類だった。
「・・・いいの?」
チロは、匠とテッド達を交互に見る。匠は頷いた。
「持っていけ。俺達にはこれくらいしかできないからな」
「・・・ありがとう」
顔を綻ばせ、チロはいくつか飴やキャラメルなどを掴み、ポケットに入れた。
準備は整った。チロが引き戸の前に立つ。すると、チロは匠、テッド、ラウと順に見ると、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「気をつけていけよ」
「達者でな」
テッドとラウがチロに言葉をかける。チロが顔を上げ、頷いた。
「チロ、これくらいしかできなくて悪い。だが、みんな、お前が無事に帰れるように祈ってる。それから・・・」
匠が言葉を切ると、チロは不思議そうな顔をした。匠はチロの目を見て言った。
「お父さんとお母さんに謝って、ちゃんと仲直りすること。できるか?」
そう言いながら、匠は思い返していた。
匠が八歳の頃、紫と共に暮らしていたあの日、いつも通り『つくも堂』は異世界に飛んだ。
そこは丘陵地帯で、周囲にはラベンダー色の花が咲き乱れ、透き通った青空には鳥ではなく、鳥に似た大きさの竜が飛んでいるのが窓の外から見えた。
やってきた客は豪奢な服を着た若い男で、金庫にしまっていたエメラルドの宝石がついた美しい首飾り―『緑葉の王』と若い男は呼んでいた―の新しい持ち主として選ばれた。彼はとある王子で、ずっと首飾りを探していたのだ。そして、それは紫が昔盗んだものだった。
異世界は、紫の故郷だった。
とある領主に仕える魔女として働いていた紫―本名はエディン―は、領主の命で城にある『緑葉の王』を盗み、追っ手に追われ、怪我を負い、出現していたつくも堂の前に倒れたのだ。それを助けたのが、前『つくも堂』の主で、海という男だった。
海は、つくも堂の外に出ることができた。そこで倒れていたエディンを発見し、介抱した。
目を覚ましたエディンは、自分が魔女であることも、盗みが働いたことも隠し、怪我の治療に専念した。
匠がテッドやラウに聞いたところによると、海が店主だった頃は、テッドやラウも外に出て動き回ることができ、『つくも堂』も異世界で何日も滞在できたという。
エディンの怪我が治って一週間後、海が言った。行く宛てがないなら、ここに住まないか、と。
エディンは思った。『緑葉の王』は、王家に伝わる宝物でそれを持つ者は王の血筋であることを意味する。領主は王位を狙っており、自らを王とするためにエディンに首飾りを盗ませたのだった。だが、それは失敗し、追っ手がかかった。城下ではエディンの顔と名が知られ、エディンが誰に仕えているかわかるはずだ。もし、戻って首飾りを渡せば、領主は自分に罪が及ばないようにとエディンを殺し、首飾りを取り戻した英雄として王に進言するだろう。それだけの事はしてのける男だ。
エディンはみすみす無駄死にするつもりなどなかった。そして、海の言葉に頷いた。
エディンは紫と名を変え、海とともに『つくも堂』で暮らすことになった。慣れない異世界の暮らしに戸惑いながらも、海との暮らしを紫は楽しんだ。
しかし、その暮らしも長くは続かなかった。
ある日、『つくも堂』は周囲を水で囲まれた異世界へ飛んだ。そこは、古代のギリシャにある石づくりの神殿に似た建物が建ち並び、建物の間には水が湛えられ、飛び石のごとく点在する緑の大地には様々な色の花が咲き乱れ、そこには蝶や小鳥が飛び交っていた。
そして、『つくも堂』に客として現れたのは、古代ギリシャの服装に似た、ゆったりとした白い衣を纏った数人の男女だった。
「トリトン様、お待ち申し上げておりました」
壮年の女が膝を立てて座り、頭を下げた。それに合わせて、他の数人も頭を下げる。
彼らを見た海は目を細め、声を低くした。
「お前達が待っていたのは、この矛だろう」
海は、自身の首に提げている首飾りを取り出し、その中央にあるものを彼らに示した。
それは小さいが、三つ叉の矛だった。
「それだけではございません。あなた様の罪は晴れました。お父上から戻るようにとの仰せです。戻った暁には、あなたに位を譲るとのことです」
女が淡々と告げると、海は「調子のいい」と蔑むように呟いた。すると、女は見計らうかのように言葉を続けた。
「実は、お母上の具合がよくありません。今ならまだ間に合います。すぐにお戻りください」
「・・・・・・」
その言葉に海は思わず唇を引き結んだ。そこへ朗らかではっきりとした声が響いた。
「海、行ってあげて。行かなくちゃだめよ」
そこには、真剣な表情の紫がいた。
「紫・・・」
「今を逃したら、あなたが自分の家に帰れるかわからないわ。行って。お母さんを、家族を安心させてあげて」
海は苦しげに目を伏せると、紫を抱きしめた。
「紫、・・・いや、エディン。おれの本当の名はトリトンという。叔父の殺害を計画したといういわれのない罪で故郷を追われ、この『つくも堂』に拾われた。前の主は高齢を理由に引退し、おれが後を継いだ。君に出会ったのはその頃だ」
海―トリトンは腕の中の紫を見つめる。
「君が何かを隠しているのは分かっていた。おれもそうだったから」
トリトンは、首に提げた首飾りを見せた。
「この矛を必要とする者がつくも堂にやってくれば、おれはこの矛を渡さなければならない。そして、罪を―たとえいわれのないものだったとしても、故郷に戻り、償わなくてはならない。その事をずっと隠していた」
トリトンは続けた。
「今この瞬間がまさにそれだ。おれの罪は晴らされた。償いはしなくていい。矛さえ渡せば、ずっとここに、君と一緒にいられると思っていた。だが、母の体調が悪いという。それが、おれを迷わせている」
紫は首を振った。
「私のことは気にしなくていいから。行ってあげて」
そう言って、紫は左腕を出した。そこには、メアンドロス模様(雷文)の腕輪があった。
「今生の別れじゃないわ。この腕輪がここにある限り、また会える。これは、わたしの物じゃない。あなたの物よ」
腕輪はトリトンの私物で、プレゼントにとエディンに送ったものだ。これをあえて、トリトンの物と言うことで、持ち主がトリトンであることは変わらないことを示した。それが『つくも堂』がトリトンの故郷へ行くことのできる唯一の方法だからだ。
「エディン・・・」
トリトンは膝をつき、エディンの左手の甲に口づけた。
「・・・約束しよう。必ずここへ帰ってくると。戻ってきた暁には、この命が果てるまで君とともにありたい」
「トリトン様、なんてことを!!」
壮年の女が悲鳴に近い声を上げる。
「我らオリュンポス神族を裏切るおつもりか!!」
女の隣にいた剃髪頭の男が非難の声を発した。
「だまれ!裏切ったのは、お前達のほうだ!おれは父を父と思ったことなどない。周囲の者達の甘言に乗せられ、母を離宮に遠ざけ、気に掛けもしない。人間だから何だというのだ!自分の意思で娶った妻だろう!」
振り返り叫んだトリトンは大きく息を吐くと、首飾りの小さな矛を手のひらに乗せた。
「その罪滅ぼしか知らないが、代々継ぐこの矛を父はおれに与えた。おれは矛も継承権もどうでもよかった。ただ、父が母を気に掛け、家族としてともにいてくれるだけでよかった。だが、それはもう望めない。なら、あそこにいる必要などない」
「なんと言うことを・・・」
小柄でふくよかな体型をした女が顔を青ざめさせる。
トリトンは体を彼らに向け、言い放った。
「お前達の言うように戻ってやろう。だが、それは断じて、位を得て、オリュンポス神族に連なるためではない。・・・エディン」
トリトンはエディンと向き合った。
「おれは、母の様子を見に行く。別れも言うつもりでいるが、母はともかく、父や周囲の者に説得させるには時間がかかるだろう。それでも、待っていてくれるか?」
トリトンの目は本気だった。
「いいの?私、あなたに本当の事をいっていないわ。ろくでもない女よ」
「知っている。君が魔女だということも、君が金庫にエメラルドの宝石のついた首飾りを隠していることも、領主の命に従って、あの首飾りを盗んだことも」
「なぜ・・・!」
一度も告げていない事をトリトンに看破されたエディンは気色ばんだ。トリトンは「すまない」と苦く笑った。
「さすがに面と向かって『記憶がない』と言われるとな。おれにはこの店を守る責任がある。君には悪いと思ったけれど、記憶を見せてもらった。おれは海神と人の子だから、水に触れているものなら記憶を見ることができる。脳は水の中に浮いているからな」
「たいした神様もいたものね。個人情報の侵害よ」
「嫌いになったか?」
「まさか」
エディンは晴れやかに笑ってから、真剣な眼差しでトリトンを見つめた。
「信じて、・・・待っているわ」
だが、次の瞬間、エディンは片目を瞑り、おどけるように言った。
「でも、なるべく早く来てくれないと、おばあちゃんになっちゃうわよ。魔女だからって、年は取るんだから」
「あぁ、肝に銘じておこう」
真顔でトリトンが返す。エディンは小さく笑い返したが、すぐに唇を引き結び、トリトンへ抱きついた。トリトンもエディンの背中に手を回す。
「・・・いってらっしゃい。気をつけて」
「あぁ。いってくる」
互いに言葉をかけあい、二人は別れた。いつかは分からぬ再会を願って。
だが、それは叶わなかった。
紫――エディンの故郷に『つくも堂』が現れたことにより、『緑葉の王』は新たな主の手に渡り、エディンは己の罪と向き合うことになった。
王子は不問の処すと言ったが、エディン自身がそれを許せなかった。
匠とともに暮らすなかで、それは日に日に強くなっていった。
紫は匠と向き合い、言った。
「匠、私は故郷に戻るわ。戻って罪を償う。あなたに誇れる魔女であるために」
エディンの目は本気だった。
「トリトンってやつのことはどうするんだよ!待つって決めたんだろ!」
匠は耳にたこができるほど、かつての『つくも堂』の店主-トリトン-のことをエディンから聞いていた。
紫は眉を寄せ、口を噤む。
「紫は嘘つきだ!そいつの事も諦めて、おれとの約束も破った!ずっと一緒にいてくれるって言ったじゃないか!」
「・・・そうよ。これからも一緒にいるために私は帰るの」
畳みかけるように紫は言った。その目は本気だった。
「私はずっと悩んでいたわ。海――トリトンと再会してあなたと暮らせたとして、私は胸を張って生きていけるのかって。今がチャンスなの。今を逃せば、私は一生思い悩みながら生きることになる。・・・あなたとの約束を破ることになるのは本当に申し訳なく思ってるわ。ごめんなさい」
紫は頭を下げ、謝る。だが、顔を上げたときには目に強い光を宿していた。
「匠。私は絶対ここに戻ってくるわ。ここは私の帰る場所、私の家だもの。私が戻るまではあなたは施設に戻らないといけないけれど。でも、わかって。私が故郷に戻るのは胸を張ってあなたと生きるためなの。罪を背おった魔女ではなく、あなたに誇れる養母として生きたいのよ」
匠は首を勢いよく横に振る。
「そんなのわかんないよ!一緒にいたっていいだろう!俺は罪を背負っているからって紫を軽蔑したりしない!」
紫は泣きそうな顔で笑った。
「・・・ありがとう、匠。でもそれじゃだめなのよ」
匠は必死に説得したが、紫は頑として譲らなかった。
それは、紫の誇りの問題なのだと匠も気づいていたが、嫌だという感情と一緒にいてほしいという思いが上回った。
それは紫と話をしている間も膨れ上がり、そしてその気持ちが決定的な一言を生んでしまう。
「嘘つき!紫なんか大嫌いだ!行きたいんならさっさと行けばいいだろ!!」
その言葉を言った瞬間、匠は我に返った。勢いよく顔を上げれば、傷ついた顔をした紫がいた。
「・・・・!」
ごめんなさいと一言謝ればよかった。しかし、言い放った言葉は半分本心でもあった。
――紫のことが大好きだ。母として家族として、ずっと一緒にいたい。
けれど、紫が匠の願いを叶えてくれることは決してない。
それが匠を傷つけた。
結局、匠は謝ることなく、けれど紫の顔も見ていられず、洗面所へ逃げ込んだ。
「匠、紫が行っちゃうぞ」
洗面所の隅に座り込んでいた匠の前にテッドが現れた。
「・・・俺には関係ないもん」
「匠」
テッドが窘めるように声を上げる。
「みんな、おれをひとりにするんだ」
吐き出すように言えば、テッドが間髪入れずに言った。
「そんなことないだろ。紫はお前とまた暮らすために離れるだけだ」
それは事実だったが、それだけではない。それはテッドも分かっているはずだ。
「いつ帰ってくるかも分からないんだ!そんなのおれをひとりにするのと同じだ!」
声を荒げる匠をテッドは見つめると、静かに言った。
「だけど、お前、紫のことを大嫌いって言ったままでいいのか?」
匠はそれに答えず、動くこともなかった。
大嫌いといった事を頭の片隅で悪いと思いながら、約束を破った紫が悪いのだと意地でも認めなかった。
あまりにもかたくなな匠にテッドも折れたのか、それ以上何も言わなかった。
しばらくして、ラウが現れた。
「紫が行ったぞ」
本当に行ってしまったのか。信じられない気持ちで匠は駆け出し、廊下を突っ切り、店の窓へと顔を近づける。
ラベンダー色の花が咲き乱れる花畑には、あの若い王子はおろか紫の姿もなかった。
――本当に行ったのか。
半ば信じられず、匠は窓枠に触れた手に力を込める。そうしなければ、叫び出しそうだった。
「匠、紫からお前さんに手紙だ」
ラウが白い封筒を口に咥え、匠に差し出す。封筒には『匠へ』と紫の字で書かれていた。
匠は封筒を受け取り、中身を取り出した。そこには一枚の便箋が入っていた。
そこにはたった一文が書かれていた。
――絶対に帰ってくるから。――
大嫌いと言った自分のことなど一切書かれていない。だた、決意のこもった約束だけがあった。
なぜかその一文が滲んで見えた。頬に触れれば、そこは涙で濡れていた。
「・・・・くっ」
匠は唇を噛み締め、涙を服の袖で拭う。けれど、涙は溢れ、しとどに袖を濡らした。
「・・・ひっ、く、う・・・!」
紫が行ってしまったことへの途方もない悲しさと寂しさ、ひどい事を言った自分に対し、それでも帰ってくると約束してくれた嬉しさ、大嫌いと言ってしまった自分自身への怒りと後悔。
それらが一気に弾け、涙となって溢れだした。
匠は、声を殺して泣きながら、紫のくれた便箋を握り締めていた。
主の消えた『つくも堂』は匠の住む世界へ戻った。
店の中は、まるで火が消えたように静まり返っていた。
「・・・すいません」
その静けさを破るように店の引き戸を開けたのは、眼鏡をかけた一人の男だった。
「定家先生・・・」
男は、匠がいた養護施設の職員だ。定家という変わった名字で、同じ名を持つ歌人同様に百人一首にくわしい。
「紫さん、君のお母さんから手紙が届いたんだ。家の事情で君と一緒にいられなくなってしまった。その事情を片付けて君を必ず迎えにいくから、それまで施設で預かってほしいって」
匠は目を見開く。
そんな時間などなかったはずだ。紫が故郷へ戻ったのはついさっきの事なのだから。
紫は魔女だと言っていた。もしかしたら、魔法を使ったのかもしれない。
それは、紫の最初で最後の魔法であり、匠にとっては悲しみと後悔が入り交じった記憶となった。
「――俺は、母親のように思っていた人に大嫌いと言ってしまった。その事をずっと後悔している。あの時に戻って謝れば、別れることが分かっていても気持ちは違っていたかもしれない。そんな事を時々考えるんだ」
「別れたってことは、もう会えないの?」
「分からない。絶対に返ってくると約束してくれたが、もう十年以上は経っているからな」
「そうなの・・・」
匠はチロを見つめ、念を押すように言った。
「チロ、お前にはそんな思いをしてほしくない。お父さんとお母さんと仲直り、できるか?」
チロは重々しく頷いた。
「うん。ちゃんと謝るよ。色々言われることもあるけど、ぼく、二人のこと大好きだもん」
「そうか。ありがとう」
匠はふっと笑う。自分にもチロのような素直さがあれば・・・。
そんなことを思いながら、匠はチロの肩を叩いた。
「さぁ、行け」
「うん!タクミ、テッド、ラウ、ありがとう!」
チロは手を振り、笑顔を浮かべながら、今度こそ引き戸を開けて出て行った。
「行ったな・・・」
しみじみと呟けば、一仕事を終えた適度な疲労感が匠を襲う。匠は商品の間を抜け、上がり口に座り、息を吐いた。
「はぁ、なんとか終わってよかった・・・」
ぐっと大きく伸びをすると、テッドが土間に落ちている何を拾った。
「おい、何か落ちてるぞ」
テッドの両手にあったのは、タオルハンカチだった。
「俺のじゃないな。ちょっといいか」
「おう」
匠がハンカチをテッドから受け取る。
「あいつのかな?」
「多分な・・・」
テッドに答えながら、匠はタオルハンカチを広げる。
「ん?」
白の生地でできたタオルハンカチは、裏にTIROと茶色の糸で刺繍されており、表には緑と青の糸で刺繍された青い百合があった。
「これ・・・」
それは、預かった葉子の花瓶と同じものだった。
なぜ、同じ青い百合が描かれているのか。偶然の一致にしてはできすぎている。
疑問が生まれたが、その答えを知る者はここにはいない。
ただの想像に過ぎないが、もしかしたら。
ある考えが匠の頭を過ぎる。
『つくも堂』のような異世界を旅する店があるくらいなのだから、こちらの人間が異世界を行き来することも、異世界の人間がこちらを行き来することもあるかもしれない、と。
しかし、それはひとまず置いておこう。チロのハンカチがここにあるということは、ある可能性をさしていた。
「・・・もしかしたら、チロにもう一度会えるかもしれないぞ」
「ん?」
「ご丁寧に名前が描いてあるんだ。大事なものだろう。探しにくる可能性は高い」
このハンカチだって、チロに会いたいはずだ。そうなれば、『つくも堂』はこの世界に来ざるおえないだろう。
「なるほどな」
ラウが納得したように頷いた。
ボ~ン、ボ~ン。
次の瞬間、低く、重々しい振り子時計の音が店中に鳴り響く。それは、つくも堂がこの異世界から去る合図だった。
来たときと同じように、店中の物――テーブルや壺、全てのものが宙に浮き始める。
「やばっ!」
直していた花瓶を死守しなければ。
匠は履いていたサンダルを投げ出すように脱ぎ捨て、慌てて作業部屋へ向かった。