第一譚 つくも堂
某都内に、ひっそりと佇む一軒の店があった。
真新しい住宅街の中にそこだけ置き去りにされたような、風雨にさらされ、色素が抜け、鼠色になった瓦屋根が目を引く平屋の建物で、入り口であるガラス張りの引き戸には、達筆な時で『つくも堂』と書かれた色あせた看板がかけられていた。
『つくも堂』は、白壁と青緑色の屋根が特徴の住宅に囲まれた、ゆるやかな坂の上にあった。
その坂の上をしゃんと背筋を伸ばし、春の柔らかな日差しを浴びながら、ゆったりとした歩調で歩く一人の老婦人がいた。
小さな赤いバラのコサージュをつけた若草色のベレー帽を被り、小雨でしっとりと濡れた葉のような鮮やかな緑色のカーディガンに、ふわりとしたベージュ色のスカートをはいている。
丸眼鏡をつけた黒い瞳は、春の日差し同様穏やかな色をしていた。
老婦人はゆったりとしたペースを崩さず坂を登り切ると、迷いない足取りで『つくも堂』へ向かい、入り口であるガラス戸へ手を掛けた。ガラス戸はひっかかることもなく、滑らかに動く。
店の中は、黒を下地に桜の花や紅葉、小鳥が美しく繊細に描かれた壺や、使い込まれた橙色のボストンバック、サファイヤやルビーなどの宝飾をあしらった振り子時計、マウンテンバイク、色が抜けているが、美人画を描いた掛け軸、赤いラジカセ、望遠カメラに、磨かれた銀食器、透き通ったガラスの目を向ける西洋人形、男性と女性の人形がくるくると回るオルゴールなど、様々な商品で溢れかえり、雑然としていた。
明るい日差しがそれらに差し込み、同時に漂う埃にも当たり、きらきらと輝く。
人の気配は老婦人以外になく、店の隅に申し訳なさそうにつくられた会計場所には、いるだろう店主の姿はなかった。
(開店時間を間違えたかしら?)
老婦人――葉子は、手首にさげた腕時計に視線を落とし、時間を確かめる。見れば、時計の長い秒針は二を、短い秒針は十を指していた。
十時十分。それが今現在の時刻だった。
(・・・開店時間は過ぎてるわね。でも、誰もいないのはおかしいわ)
この店の常連である友人から聞いたのだから間違いはない。迷わないようにと、昨日道を確認しただけだったのが間違いだったのだろうか。
店の奥は住居に繋がっているらしく、人一人が通れるような細い廊下があり、群青に染められた格子柄の細長い暖簾がかかっていた。
(あら・・・?)
あの廊下に向かって声をかけようかと考えていたその時、葉子は何かを焼く香ばしい匂いと蜂蜜のような甘い匂いを感じた。
その匂いは、廊下の向こうからしているようだった。
(お菓子作りでもしているのかしら?)
匂いから判断するとそんな気もしてくるが、店の開店時間だというのにお菓子作りをしているのもおかしな話だ。友人からは、常連は多いが店が混むことはめったにない。午前中、あるいは一日も客が来ない時があると聞いていたが、その片手間にやっているのだろうか。
何はともあれ、少なくともこの店に人がいることは確実だ。葉子は商品の隙間を塗って、暖簾のかけられた廊下までやってきた。そこは一段高くなった上がり口になっており、土足で上がることはできなかった。
「すみません!」
声を上げたが、反応はなかった。
「すみません!どなたかいらっしゃいませんか!」
葉子はさらに声を張り上げる。すると、しばらくして「は~い!」という、低いが朗らかな声が耳を打った。同時にバタバタと駆けるような足音が響く。
「お待たせしてすいません。どのような用向きでしょうか」
暖簾を潜って現れたのは、紺色の作務衣を着た青年だった。茶色に染めた長い髪を首元で括り、背中に流している。その頬には小麦粉なのか白い粉がついていた。上がり口の畳の上に膝を折り、葉子を見る。その表情には申し訳なさと恐縮さが透けて見えた。
いくら客が来ないからといって、店番を放棄するのはいかがなものかと文句の一つも言ってやろうかと思ったが、青年の態度と目的が果たせるという安堵感から、葉子は口にしなかった。
「・・・ここでは『直し』ができると友人から聞いたのだけれど」
葉子の言葉に青年の瞳から恐れが消え、妖精の粉をかけたかのようなきらきらとした光を放つ。
「はい!できますよ!」
葉子は肩からさげたバックからジップロックを取り出す。その中には、チラシに包まれたマグカップほどの大きさの何かと、さらにビニール袋に入れられ、ペーパータオルに包まれた親指ほどの大きさの何かだった。
「これを直してもらいたいの」
そう言い、葉子はジップロックからチラシに包まれた物を取り出す。
畳の上に置き、広げたチラシの中から現れたのは、花瓶だった。色は小麦色で、瓶の縁は六つほどに湾曲し、下は金魚鉢のように大きく膨らんでいる。大きさからしても背丈の低い花を入れるためのもののようだ。
絵が描かれているはずの部分が大きく欠けており、かなりの破損状態だ。
「これが欠片なの」
ビニール袋に入れられた欠片を葉子は取り出す。ペーパータオルをはがせば、なるほどそれは欠片だった。小麦色を下地にして、濃い青色の花が描かれている。
「主人が大切にしていた花瓶なのだけれど、私が不注意で割ってしまったの。主人は直さなくていいと言ってくれたのだけれど、先祖代々のものだと聞いているし、主人もこの花瓶を見て寂しそうな顔をしているから、何とかできないかとここを尋ねたの。直すことはできます?」
青年は目を細め、花瓶を見つめる。そして、破片にも手を伸ばすと、矯めつ眇めつ眺め始めた。
しばらくして、青年は破片を丁寧にペーパータオルの上に置いた。
「あの・・・」
何も言わない青年に不安を覚えた葉子が声をかけると、青年は白い歯を見せ、にかりと笑った。
「問題ないです!直せますよ!」
「本当ですか!」
葉子は驚きとともに、胸をなで下ろす。
「えぇ。少し時間はかかりますが。そうですね。三日くらいでしょうか」
「三日ですか・・・」
目を瞠る葉子に青年は不思議そうな顔をする。
「どうかしましたか?」
葉子は緩く首を振った。
「いえ。三日後は主人が出張から帰ってくる日なので」
青年は口元に大きく笑みを浮かべた。
「それはよかった!花瓶が直っているならご主人も喜ぶでしょう!」
葉子がはにかむように微笑む。
「それでは、これは私が預かっておきます。三日後、またいらしてください」
「あ、お金は・・・」
「お金は三日後で大丈夫です!では、お名前を窺ってもよろしいですか?」
青年は作務衣のポケットからメモ帳とペンを取り出す。
「信田葉子と申します。信じるの信に田んぼの田、葉っぱの葉に子供の子です」
「信田葉子様ですね。分かりました。では、三日後、またいらしてください」
青年の言葉に、葉子はこくりと頷いた。
「はい、よろしくお願いします」
軽く頭を下げ、葉子は『つくも堂』を後にした。
ガラス戸を引き、店から出ると、温かな春の日差しが葉子に降り注ぐ。
その日差しが目に入り、葉子は思わず目を眇めた。
『大丈夫よ!若いけど、腕は確かだから!』
この店を教えてくれた友人の言葉が蘇る。
確かに若いが、接客も丁寧だったし、何より花瓶を直してくれるというのだから、大丈夫だろう。
葉子は微かに笑みを浮かべる。
ただ、また、店の中に誰もいないということになっていなければいいが。
そう思いながら、葉子は柔らかな日差しが差し込む住宅街をゆっくりと歩き始めた。
葉子を見送った青年は笑みを消し、商品が置かれた土間に無造作に置いたサンダルを履くと、彼女が閉じたガラス戸を勢いよく開け、左右を見回した。
そこは、白壁と青緑色の屋根が特徴の住宅ばかりが建ち並んでいた。
庭にピンク色の蔓バラが咲いていたり、ベランダに赤や青、黄などのカラフルなシャツが干されていたり、あるいは駐車場所の片隅に三輪車や縄跳びが置かれていたりといった事が、同じ色の家でも違う人間が住んでいると分かる。
青年は誰もいないことを確かめると、中から『準備中』の立て看板を引っ張り出し、店の前に置く。そして、鼻息荒く再び店の中に入った。
引き戸を閉め、青年はサンダルを脱いで上がり口に上がり、引き取った花瓶を丁寧に、そして慎重に会計場所に置いた。
花瓶を置き、小さく頷いた青年は暖簾がかけてある空間を鋭く見つめると、店の外にまで響くような大声を張り上げた。
「テッドォォォォォッ!!」
大股で上がり口の畳の上を歩き、破るかのような勢いで暖簾を捌いた青年は、板張りの廊下を足音荒く進み、左脇にある台所へ体を向けた。
年期の入った流し台とコンロ、壁にはフライパンが二つ引っかけられ、右奥には最近新調したひよこ色の冷蔵庫と、いくつかの食器と調味料が置かれた棚がある。
コンロの上には、客である葉子に声を掛けられるまで作っていたホットケーキがフライパンの上に残っていた。試しだったため、小さめで焦げ目が多少強い。コンロから離れているが、その焦げ臭さが匠の鼻につくほどだ。
その台所の前には樫のテーブルと椅子があり、上には二つのステンレスボールと泡立て器、ホットケーキミックスの箱が置かれていた。
そして、一つのステンレスボールの前に立ち、もう一つの泡立て器を持って中身をかき混ぜている一匹の、白いクマのぬいぐるみがいた。
「テッドォッ!!」
両目を見開き叫ぶ青年に対し、クマのぬいぐるみ――テッドは気にした風もなく泡立て器を動かす。
「早かったな、匠。仕事は入ったのか?」
クマのぬいぐるみは作業を止め、顔を上げるとプラスチックの黒い目で青年を見つめる。
青年――匠は半目になり、クマのぬいぐるみを忌々しげに睨み付けた。
「あぁ。おかげ様で。誰かさんのおかげで信用されなくなりそうだったけどな」
「ほー、そんなとんでもない奴がいたのか」
「お前だよ」
白々しいまでのテッドの態度に即答で返した匠は、テッドから泡立て器を取り上げ、それをボールに入れると、テッドの体を持ち上げた。オーバーオールを着た小さな体はぷらんと揺れる。
「ちょっ、何しやがる!」
首根っこを掴まれ、じたばたともがくテッドに匠は冷たい視線で応じた。
「おれは何度も言ったよな。店が休みの日以外は、ホットケーキ作るなって。また粉まみれ液まみれになったら洗うのはおれだし、洗濯物に囲まれながら素っ裸で干されるのはお前だぞ?さっき来たお客さんだって、言葉にはしないでくれたが「なんでいないんだ」って顔してたし、あのお客さんが寛大じゃなければ今頃仕事が入ってなかったんだ。少しは反省しろ」
匠はテッドを椅子の上に落とす。かなりの高さだったが、ぬいぐるみのためたいした反動もなく、テッドは椅子にぽすんと落ちた。
痛みを感じる様子もなく、テッドは勢いよく立ち上がった。
「だったら、鈴でも何でも取り付けて客が来たときに分かるようにすりゃいいじゃねえか!お前は、この店から出られないオレの癒やしの時を邪魔するつもりか!」
「・・・・・」
確かにその通りと言えばその通りだった。ただ、あまり客の来ないこの店でわざわざ鈴を置いて、『ご用の方はお呼びください』などと張り紙を貼るのも大げさだと思い、今まで客対策はしてこなかった。面倒くさいと思ったのも、一度や二度でない。
ただ、このつくも堂から『出られない』テッドにそう言われてしまうと、ぐうの音も出ない。
「・・・邪魔する気はないけど、別に冷凍のホットケーキでもいいだろ。なんで毎日大変な思いをして作ろうとするんだよ」
だから、こうして話をずらす。
また、今日みたいな思いをするのはゴメンだ。今度は、鈴でもなんでも使って対策しようと心に決めながら。
テッドの背丈では、ボールの高さはぎりぎり届くか届かないかで、作った後には粉や液がどこかしらについている。足を滑らせ、顔からダイブして液に突っ込んで全身液まみれになるよりはましだが、ぬいぐるみであるテッドは毛が多いため、洗面所で洗って終わりというわけにはいかない。匠は、まるでペットを洗うように、毎日風呂でテッドを洗う羽目になっていた。その手間を考えれば、たまには冷凍にしたって罰は当たらないだろう。
すると、テッドは手を小さく揺らした。人間でいうなら、人差し指を振っている仕草に似ていた。
「わかってないな、匠。作るから達成感があるんだ。出来合いのものを食ったって満腹にはなるが、心は満たされないだろ」
良いことを言ったという風にふんぞり返るテッドに、匠は「・・・そうか」と呟く。
確かに一理あるなと思う。だが、洗わせられるこっちの身にもなってほしいと無言の本音が零れた。その雰囲気を察知したのか、テッドが声を荒げた。
「おい!なんだ、その気のない返事は!そこは深く感動するところだろ!」
「あー、うん。そうだな。感動した」
「棒読みっ!!」
ぽすぽすという気の抜けた音をたてながら、テッドは足踏みをし、匠を睨みつける。
匠は少しも悪く思っていなかったが、長引かせると面倒なので「悪かった」と口の中で呟いた。さらにテッドの怒りが爆発する前に、先手を打とうと口を開いた。
「なぁ、ホットケーキ作るか?」
「作る!」
「クローバーのはちみつは?」
「いる!」
即決だった。
ぴょんぴょんと飛び跳ね、テーブルへ行こうとするテッドの体を持ち上げ、ボールの前に降ろす。そして、匠ももう一つのボールを手にし、中に置かれた泡立て器を持った。
「ゆっくりやれよ」
「おう!」
勢いよく返事を返し、テッドは泡立て器を箒のように持ち、匠の言葉通り、ゆっくりと中身をかき回し始めた。
それを見てから匠も泡立て器を動かす。ホットケーキミックスと卵と牛乳が洗濯機のようにぐるぐると回り、薄いクリーム色の液状になる。
「今度こそ考えた方がいいぞ」
嗄れた低い声に顔を上げれば、テーブルの上に手のひらサイズの亀の置物がいた。
亀は首を動かし、陶器の黒い瞳を匠へ静かに向ける。その内容が客対策であることは明白だった。
「分かってる。今度はちゃんとやるよ、ラウじいちゃん」
匠は亀の置物――ラウに苦笑を浮かべながら答えた。
この『つくも堂』には、動き、しゃべるクマのぬいぐるみであるテッドと、同じように動き、しゃべる亀の置物であるラウがいた。
彼らがなぜ、動き、話せるのかは匠も知らない。
分かっているのは、彼らはこの『つくも堂』を出てしまえばただのぬいぐるみと置物になってしまうこと、ここにいる分には、動き、しゃべり、食べ、眠りもするということだ。
テッドはそのぬいぐるみの口で、ラウの場合は陶器の口でどうやって食べ物を消化しているのかその原理は未だに謎だ。気づけば、料理が皿の上から消えているので食べたのだろうと予想はつくが、それだけだ。
匠はあまり深く考えないことにしていた。ぬいぐるみや置物が動いてしゃべっていること自体、本来ならあり得ないことなのだ。謎や不思議にいちいち突っ込みを入れ、考え込んでいては日常生活がままならない。まして、この『不思議』はテッドとラウだけではないのだ。
この『つくも堂』で暮らし始めた時から、匠はこの店で起こる『不思議』を受け入れることにしていた。
「お前さんは、真面目だが自分が被害を被らなければ動かないところがあるからなぁ。まぁ、今回はいい教訓だったろう」
ラウが孫を見るような目で匠を見つめる。匠は「うっ」と声を詰まらせ、肩を降ろした。
ラウには全てお見通しのようだ。さすが、つくも堂の生き字引。
「はい・・・」
匠はただ頷くことしかできなかった。
「そうだ。鈴なら、紫の部屋にあったはずだ。探してみるといい」
「・・・あぁ」
紫――その名はこの『つくも堂』の先代の名だった。匠にとっては、養母であり、大切な人。だが、もうここにはいない。
ラウの言葉に匠は複雑な表情を浮かべた。それに気づいたのか、ラウは優しい声を出す。
「辛いか?あの部屋に入るのは」
まるで幼子を慰めるような口調を振り切るように、匠はわざと口角を上げ、答えた。
「じいちゃん、俺はもう子供じゃないんだぜ?ただ、ガラクタが溢れてるあの場所を掘り返して鈴を探すのが面倒なだけだ」
そう言いながらも、紫の部屋に入るのは正直気が進まなかった。あの部屋に入れば二人と二匹で暮らしていた記憶が蘇り、楽しくも苦い思い出に溺れそうになるからだ。
「・・・そうか」
匠の気持ちを慮るように、ただ静かに返事を返すラウを見ていられず、匠はそっと視線を外し、泡立て器を動かし始めた。
テッドとともにホットケーキを作り、少し摘まんだ後(朝食をすでに食べ終えていた)、
匠は紫の部屋に来ていた。
木製のドアの前には『絶対入るな!』と書かれた紙がテープで貼り付けられていた。しかし、テープは剥がれかけ、紙はかなり黄ばんでいた。
「・・・・・」
匠はそれをしばし睨み付けるように見ると、大きく息を吐き、ドアノブに手を掛けた。
ガチャリと音をたて、ドアが開く。
部屋の中はアンティーク調のドレッサーにベッドとクローゼット、そしてマホガニーのガラスキャビネットが置かれていた。木目調の壁紙にオリエンタル柄の絨毯が床に敷かれ、照明も天井からぶら下げるペンダントライトだった。部屋の雰囲気は日本ではなく、まるで西洋のそれだった。
匠は拳をぎゅっと握りしめ、ガラスキャビネットへ足を進めた。
そこには、たくさんの写真が飾られていた。テッド、ラウと一緒に写ったもの、幼い自分が写った写真、そして満面の笑みで笑う栗色の髪の女性の写真。
その女性が紫だった。
ずぼらで大雑把な性格で、きちんとしたがる匠とは些細な事で言い争った事もある。怖いものが嫌いなくせに、ホラー映画を見るのが好きで、夕食を食べながら鑑賞会になった事は一度や二度ではない。そして、最後まで見られないのが常だった。
得意な料理はオムライスで、匠が今まで食べたもののなかで一番好きで一番嫌いな料理だった。
「と、鈴は・・・」
匠は我に返り、鈴を探す。キャビネットを舐めるように見回すが、写真やゴテゴテとした黄金色の小物入れ、うさぎの置物、小さなブロンズ製の椅子とテーブルのミニチュア、木製の小物入れなどが置かれていたが、鈴はない。
「どこにあるんだ?」
ドレッサーも見るが、見つからない。ベッドの下にもない。
残りはクローゼットだけだ。
匠は、クローゼットを開ける。しかし、何もない空間があるだけだった。
「・・・ないな」
ラウが嘘をつく理由はないから、きっと昔と最近の事を混同したのだろう。
諦めるしかない。そうと決まればさっさとここを出よう。
ここにいると、自分が幼かったあの頃に戻るようで嫌だった。――本当に言いたかった事もまともに言えなかった自分。そして、幼いゆえの愚かさを思い出して。
ゴトッ。
その時だった。何か重いものが落ちたような音が聞こえたのは。
開け放したままのクローゼットの中を見れば、そこには演奏で使うハンドベルがあった。
持ち手を掴み、下にして振れば、高く澄んだ音色が部屋に響く。
匠は、「はっ」と吐き出すように小さく声を上げる。
「・・・これが鈴か?」
唇を無理矢理引き上げ、ハンドベルを見つめる。
金色に輝く鐘、持ち手である柄と鐘の間には、なぜか赤と緑で織られたタータンチェックのリボンが結ばれていた。
このベルは初めて見るものだ。二人と二匹で暮らしていた時もハンドベルなど買った記憶はなく、客に直してほしい、売ってほしいと頼まれたこともない。
だが、これも『つくも堂』ではよくあることだった。
匠が必要だと思う物が、まれに、唐突に、そしてどこかズレた形(鈴がベルになるといったような)で、どこからともなく現れるのだ。
紫は言っていた。
この『つくも堂』は生きている、のだと。そして、気にいった人間に対して手を貸してくれることもあるのだと。
「・・・ま、ありがたく使わせてもらうよ」
鈴がベルという形になっただけで、使えないわけではない。匠は軽くベルを鳴らし、礼を言うと、紫の部屋から出て行った。
匠は店の中に、ハンドベルを置き、紙を貼り付けることにした。
内容は、『御用の方はこのベルを鳴らしてください』というひねりも何もない文章だ。
入り口に近いところに置いてある、アイアン製のガーデンテーブルにテープを使って貼り付け、その上にベルを置いた。丸い円盤に百合の花を模したテーブルは、重厚さと華やかさを持ち、ハンドベルの金色と相まって、どこぞの小洒落たアンティークショップの品にも見えた。貼り付けた紙がそれらを台無しにしていなくもなかったが。
「うしっ!」
外に出していた立て看板をしまい、再び開店状態にした匠は、信田葉子という女性から頼まれた花瓶の修理を始めることにした。
ホットケーキを食べ、満腹になり、眠ってしまったテッドやゆっくりと朝の散歩を楽しむ(といっても家の中だが)ラウを横目に見ながら、匠は依頼の花瓶を持ち、作業場所へ向かった。作業場所は、台所に向かいにある畳の部屋だった。
そこは作業する台が一つあり、左右の壁にはノートが所狭しと並ぶ棚が二つあった。
そのノートには、背表紙にシールが貼ってあり、どんな事が記されているか分かるようになっていた。
「えっと、花瓶の修理の仕方は・・・」
匠は花瓶を作業台に置き、棚の中からノートを探す。丁寧にも、ノートにはア行、サ行と頭文字の順に見出しがつけられており、どこにどんなノートがあるのか探しやすいようになっていた。
これらはノートの内容は全て、紫が体験し、記したものだ。『つくも堂』は、不要になった商品の売り買いもしていたが、頼まれた商品を『直す』仕事もしていた。このノートは全て『直し』のノートだった。
花瓶の修理は何度か請け負ったことはあるが、そう回数があったわけではない。不安もあり、参考にしようと目をこらす。
「あった・・・!」
背表紙に『花瓶の直し方』と書かれたノートを見つけ、匠は手を伸ばした。