第2.5話 アダム
※残酷な表現があります
その世界は地獄であった。
大地の色は血が渇き固まった物を思わせる赤黒さに染まり、その大地を灼熱の太陽の光が焼き、空は毒に満ちた大気の暴風と強酸性の豪雨とが荒れ狂う。
河川の水も、海の水も、全ての水が異臭を放ち濁っており、遠くに連なる山岳も至る所で噴火を繰り返し周囲に溶岩と岩を撒き散らし、大地も頻繁に激震を伴い轟音を鳴り響かせている。
まさしく、生と呼ばれる物が等しく存在しない地獄だったのである。
そんな世界の真ん中に、突如として幻想的な光景を伴い、光の乱舞が発生した。
まるで静謐な寒空の中に浮かぶオーロラの光が、巨大な竜巻にでも巻き込まれたかの様に渦を巻いて一点に集中し、辺り一面を真っ白な光で染め上げた後、その凝縮した極光が弾ける様に消え去る。
そして奇跡が起こり、決して生命が生まれえぬ状態の世界に、生命が誕生した。
赤黒く染まる大地に、一糸纏わぬ一人の男が立つ。
その男は呆然とした様子で佇み、眼前に広がる世界を見ていたが、直ぐにその世界の残酷さに気が付く事となった。
先ず、大気に漂う劇物が見開いていた男の目に刺すような痛みを与え、本能的に吸い込んだ息も目と同様に喉と肺に激痛を与えた。
その目と喉の痛み耐えかね、男は咳き込みながら体を丸めて縮こまり地面に倒れ伏すと、次は焼けた大地と容赦なく照らす太陽の熱とが男を襲った。
男は自身の感じる全ての物から苛まれ、地面を飛び跳ねる様に転げて体のあちこちを地面へと激しく打ち付けると、今度は固い地面と点在する岩や石とが男の体を切り刻み打ち据えた。
全身を襲う激しい痛みと熱さ、混乱する頭では、それがどちらの感覚なのかも判然とせず、転げながら毒の息を咳き込み肺腑から吐き出し終えると、男はすぐさま朦朧とした状態に陥る。
しかしながら、全身を襲う痛みで無理やり意識を繋ぎ止められる。
目を開ける事もかなわず、息を吸う事もかなわず、大地に静かに横たわる事さえも世界は許さない。
数分と経たず、男は、誕生の門出から死の瀬戸際へと立つ事となった。
やがて力尽き、体を焼く大地からも逃げる意思さえも失い、意識も掠れ行く中、男が考えた事は『嫌だ』という思いだけだった。
言葉ではない。
世界に突如として生み出され、知識どころか記憶さえも無く、ただ本能のみしかその男が持ち得るものは無い。
それ故、男の頭の中は、只々『嫌だ』と言う拒否の感情だけで埋まった。
それは、死ぬ事への拒否か、それとも体を襲う痛みへの拒否か、もしくは世界への拒否か……
その時、その強い願いに応じる様に、男の体に宿る何かが反応した。
その何かは、男の体を襲う熱を遮断し、目と喉と肺へと入り込もうとする毒の空気を遠ざける。
薄れゆく意識の中、男は自身へと襲い来る物が和らぐのを確かに感じた。
まだ全身に走る痛みと、息をする事が出来ない苦しみは消えては無いが、それでも僅かばかり自身の思いが叶ったのだ。
そして、それを叶えた力が自身の体の中に有るのを男は悟った。
その力を使い、息苦しさを消し、僅かばかり痛みを和らげ、男はなんとか命を繋ぎ止める事が出来た。
そうして、男は何とか助った。
助かりはしたが、男は動けずにいた。
経験した痛みと苦しみへの恐怖から、目は固く閉ざされ、息を吸う事も止め、ただじっとしている事しか出来ない。
そうしているのが、一番安全だと理解したからだ。
しかし、暫くすると、男は痛みや熱さとは別の苦しみを感じ始めた。
喉の渇きと飢えである。
それを癒す為にも男は力を使おうとしたが、それは叶わず、逆に力を使えば使う程にその飢えは増していく事になったのだった。
そして、その飢えが抗いがたい物にまで達した時、男がとった行動
それは、自身を喰らう、という方法だった。
目も見えず、満足に動く事さえも出来ず、世界は苦痛を与えて来る物しか存在しない。
そんな中、その男が口にできる物はそれしかなかった。
転げまわった際に出来た鋭い岩で切れた傷口から流れ出る血を啜り、力を使い痛みを和らげながら口の届く範囲の肉を喰らった。
そうして、男は数日間、生き延びたのだ。
目を閉ざした暗闇の中で、度々起こる轟音と大地の震動に怯えながら、自身の血肉も減り、力も消え失せて行く事を理解した時、男は終わりを悟った。
考えるという事が出来る程の知識も持たない為、ただ、そう感じた。
悲しみは無い。
対となる嬉しさなぞ、知らないからだ。
恐怖も無い。
対となる希望も、分からないからだ。
寂しさも無い。
対となる他者は、存在しないからだ。
真っ暗な世界の中、訴えかける本能だけを男は感じる。
只々、空腹と渇きと痛みだけを、その闇の中で感じ、男は眠りに落ちる。
その生命が消えゆく瞬間、男の体から黒い何かが発せられたが、それは風に吹かれる様に消え去り、そこには男の死体だけが静かに横たわっていた。
その様子を、空に浮かび青白い光を映す一つの月だけが見つめていた。
あの時……
僅かにでも救いを求める事が出来れば、世界は変わっていたかもしれない。
しかし、それは起きえぬ事だ。
世界は男を拒絶し、男も世界を拒絶したのだ。
自閉している内は自我は生まれないし、他の存在を知らなければ、求め訴える事さえもかなわない。
そんな地獄に男は生まれた。
故に、救いは無かった。
男が出来た事は、拒絶と欲する事、だたそれのみだった。




