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人形観察

作者: 五木

 今日も僕は自転車で山道を登っている。

 山の中腹に向かう道は舗装されているけれど、滅多に通行はない。だから僕は何に注意することもなく、道の真ん中で自転車を走らせている。

 立ちながら漕がないと進まないほどきつい坂道に汗が噴き出し、袴の中に着込んだ白い洋服は汗を吸って胸や腕に張り付いている。

 一度足を止めると再び漕ぎ始めるのがつらいので、漕ぎながら山裾の方へ目を遣れば、敷き詰められた家々の向こうに海が広がっている。遠くでは漁船が漁をしているのが見える。

毎日こんな景色を見られれば心も穏やかになれそうだ。少なくとも僕はそうなるだろうけど、それは人によるらしい。人の心とは難しいものだ。


 景色を眺めながら漕いでいると、木々に隠れるようにしてそびえる白いお屋敷が見えてきた。

 あれが、僕の目的地。



 お屋敷が見えてからさらに自転車を漕ぐこと三分。屋敷の前に到着し、自転車を降りると、額に噴き出した汗が流れて目に入った。

 目がしみるのを耐えながら懐から手拭いを取り出し、額の汗を拭く。

 釦も外して胸元の汗もできる限り拭く。全身洋装にすると帯を巻かなくていいから締め付けられず、全身が軽くなるらしいけど、こういう時はこの飾りは面倒だと思う。……そもそも、僕には洋装を揃えられるお金がないけど。

 汗を拭きつつ呼吸を整えているうちに、全身の熱が多少引いてきた。ここは邪魔になるものもなくて風がよく吹き抜けるから、夏でも町中よりは涼しく感じる。


 僕は荷をまとめた風呂敷を手にすると、お屋敷を見上げた。

 何度ここに来ても、中に入る前にお屋敷を見上げてしまう。

 木々の間から見上げてもきれいなお屋敷だとは思うけれど、こうしてすぐ側まで来ると、外壁の白さは輝くようだ。建物そのものも異国のものを参考にした珍しくて新しいあつらえだけど、お嬢様がここに来てから外壁の色を塗り替えたそうで、まだ汚れを感じない。

 きれいなのに、見つめていると胸がざわつくのは何故だろう。

 眩しく感じた僕は一度目を閉じ、お屋敷の扉を叩いた。


「まあまあ、先生。よういらっしゃいました」


 いつものように小林さんが出てきた。

 小林さんは、このお屋敷で一人でお嬢様の面倒を見ている。


「お嬢様は裏庭でお待ちです」

「わかりました。ありがとうございます」


 僕は小林さんに会釈すると、お嬢様の所へ向かった。





 裏庭はお屋敷と山の斜面に挟まれて、常に日陰になっている。

 その庭で、淡い水色のお洋服を着たお嬢様が、木陰に置かれた籐椅子に座って眠っていた。


「お嬢様……?」


 物音で起こしては無粋な気がして、小声で呼びながらそっと近づいた。

 僕はお嬢様が着物を着ているところを見たことがない。港でみかける異人のような装いをしていて、それでいて異人とは髪や目の色も顔の作りも違うから、ちぐはぐの部品を集めたようなひどく不思議な存在だった。


 眠るお嬢様の顔を覗き込む。

 お嬢様は肌が白い。故郷での僕の周りにはこんなに色白な人はいなかった。

 肌の色の違いは、暮らしの違い。本来なら、こんなに頻繁に近づける人じゃなかった。

 すぐ側まで来たので、僕はあることに気がついた。

 目の前の目蓋が小刻みに震えている。

 これは、覚醒の前兆じゃない。


「……駄目ですよ、お嬢様」


 僕は意識して声に憤りを含ませると、お嬢様の額を軽く叩いた。


「……痛いわ」


 反応はすぐに返ってきた。やっぱり、寝ていなかった。

 上半身を起こしたお嬢様は、額を押さえながら上目遣いに僕を見た。

 黒目がちの瞳。

 薄紅をのせた頬。

 桜色の小さな唇。

 どこをとっても儚げな美しさを醸し出していて、じっと見ていると胸がざわめく。このお屋敷を見ている時と同じように。


「寝たふりをしていたら、接吻をしてくれるかと思ったのに」

「大人をからかうものじゃありませんよ」

「からかってないわ」

「お嬢様……」


 僕が困った声を出すと、お嬢様はにっこりと笑顔を浮かべて、椅子から立ち上がった。


「お部屋へ行きましょうか、先生。まずお茶しましょう」






 わざわざ遠方から取り寄せているというお菓子も、お嬢様手ずから入れてくださるお茶もおいしい。

 最初のうちは、慣れない食感と変わった味付けにおっかなびっくり食べていたけれど、今はどんなものが出てきても新鮮さを覚えるだけで、未知のものへの恐怖はなくなった。けれど、こんなにおいしいものに口が慣れてしまって、僕は将来大丈夫だろうかと不安にもなる。この仕事をやめたら、こんなものには到底ありつけないから。


「先生はこの一週間は何をなさってたの?」


 お茶の話題にお嬢様が聞く。

 僕は自分の学業のことには触れず、この一週間見聞きしたことをお嬢様に聞かせて差し上げる。

 ずっとこのお屋敷にいるお嬢様に外のことをお話ししても面白いかは疑問だけど、お嬢様はただ楽しそうな……嬉しそうな顔をしていつも聞いていらっしゃる。

 お茶がなくなる頃、僕は切り出した。


「そろそろ……お嬢様のお勉強を始めますか」

「もっと先生のお話を聞きたいのに」

「僕はお嬢様に勉強を教えて差し上げるためにここに来ているので……」

「別にかまわないのよ?」

「お給金をいただいているのに何もしないわけにはいきません」


 とはいっても、お給金は僕がお嬢様のお相手を務めていることへの手当てで、旦那様は本当にお嬢様に勉学を学ばせたいとは思っていらっしゃらないことはわかっている。学生である僕がお嬢様の許へ通うためのただの方便だ。

 これでいいはずはないことはわかっている。


 けれど、旦那様が僕にお嬢様の教師を申し付けられた限り、僕はお嬢様に勉強を教えるという名目でここに通い続けるしかない。

 僕がこの仕事を辞めたり、お嬢様に何かあったりすれば、教授にも迷惑がかかってしまう。


「先生はどんなお勉強をなさってるの?」

「僕がしている勉強は、お嬢さまに教えて差し上げているものとはぜんぜん違いますよ」

「私もいつか、先生がなさってるお勉強をするのかしら?」


 お嬢様が小首を傾げる。

 わかってておっしゃってるのだろうけど。


「……お嬢様に教えて差し上げているのとは、まったく内容が違いますから」

「そうですの?」

「勉学にも分野がありますから。僕が勉強しているのは特殊なものなので、お嬢様に教えることは……」

「ご自分の分野以外のことも人に教えることができるなんて、先生は賢くていらっしゃるのね」


 こういう時は、嫌味かどうか測りかねて困る。

 きっと、本当に素直に感心してくださってるのだろうけど。

 ご自身も、僕の勉強対象だとわかっていらっしゃるはずなのに。





 出会いは、教授と一緒にこの屋敷に来た時。

 その時のお嬢様は色白を通り越して青白い顔をして、触れたら折れてしまいそうなほどに痩せていた。

 何故お嬢様がご病気になられたか、その原因は僕には聞かされなかった。


 お嬢様の治療に呼び寄せられた教授の助手として接しているうちに、表情のなかったお嬢様の顔が段々とほぐれ、時々笑いかけるようになった。……僕に。

 お嬢様が笑うようになって、回復したと判断された旦那様は教授と僕を帰された。


 ところがまもなくして、お嬢様が錯乱したと教授のところへ連絡が来た。

 錯乱したお嬢様は、僕の名前を呼んだらしい。


 僕は教授と一緒にまた呼び寄せられた。

 再び訪れたこの屋敷は、あちらこちらに飾られていた舶来の美術品は減り花瓶は変わり、お嬢さまの長かった黒髪は無残にも短くなっていた。

 あの細く小さな体で何があったのか想像もつかなかった。

 誤魔化せない髪以外の身なりを整えたお嬢様が、久しぶりに会った僕の顔を見て笑った時の、屋敷内のざわめき。その異様な空気には背筋が凍る思いがした。


 しばらくは教授と一緒にお嬢様を診ていたけれど、お嬢様本人が必要とされているのは明らかに僕一人だった。

 教授は忙しいし、僕一人でお嬢様を診ることになった。お嬢様の教師としてここに通う形で。


 使用人は一新された。というよりも、僕がいなかった間のお嬢様の異常さに、地元からここへ通っていた人は皆逃げてしまったらしい。小林和子さんはお嬢様が生まれる前から本家に仕えていて、お嬢様のことも可愛がっていたから、自ら志願してここに来たそうだ。後は、食材などを運んでくる人と、用事がある時に車引きが来る以外、地元には噂が広まっていることもあってここに人は近づかなかった。


 あの頃を思い出せば、今のお嬢様は髪が肩甲骨辺りで切り揃えられるぐらいに伸び、頬もふっくらしてきて、年頃の愛らしいお嬢さんらしくなった。





「——では、今日はここまでにします」


 お嬢様が弾かれたように顔を上げた。

 荷をまとめようとする僕の手に、お嬢様の手が触れた。


「待って、先生。……もっとゆっくりしていらして」


 冷たい指先。

 整えられた爪。

 傷一つない手の甲。

 何故か、教授のお嬢さんが大事にしている人形を思い出した。


「いえ、でも……」


 お嬢様はじっと僕の顔を見つめている。


 時々、お嬢様の心に添うべきかと考えることがある。

 旦那様がご存知でないはずがない。小林さんから報告だって行っているはず。それでもこの状況を黙認しているのは、すべてを承知の上だろうかと。


 けれど冷静になって考えると、教師という名目を与えているとはいえ、若い男と女がこんな山奥で会っていては世間体が悪い。地元では何と噂されているだろう。旦那様はこんな環境をお嬢様に与えられていても、やはりすべてを承知の上でだとは僕は思えない。

 第一、書生の身の僕では身分的にも経済的もお嬢様を受け止められない。


 僕は、旦那様に申し付けられたことを、余りあるお給金に見合う分だけ務めればいいんだ。


「お嬢様」


 僕はお嬢様の手にほんの少しだけ触れた。


「申し訳ありません。あまり遅くなると、山道を下るのも大変なので……」

「泊まっていけばよろしいのに」

「お嬢様……」


 奔放で素直なお嬢様に、僕は困惑させられる。

 僕からは断れない。あまり明確な拒絶をして、またお嬢様の症状が悪化してもいけないから。

 けれど困った顔をすれば、お嬢様はわかってくださる。


「……冗談ですわ。また来週を心待ちにしています」


 お嬢様の両手が上がった。


「でも、もう少しだけ……」


 お嬢様が僕の腰に腕を回して、胸に顔をうずめた。

 すぐ目の前に、お嬢様の艶のある黒髪。

 僕は手を上げた。

 その手はしばらく宙を彷徨っていたけれど、結局、何にも触れることなく両脇に下ろした。



 ただ一緒にいただけで時間が経ち、窓から差し込む日の光の色が変わる頃、お嬢様は離れた。

 顔を上げたお嬢様はぼんやりとした表情をしている。満足されたみたいだ。


「ではまた来ます」

「お待ちしてます……」


 夢見心地の顔でお嬢様は微笑んだ。

 




 小林さんに見送られて、僕はお屋敷を後にした。

 周囲は薄暗くなり始めて、この状態で急な坂を自転車で下りるのは危険なので、僕は自転車を押しながら下りることにした。

 上りも時間がかかるけど、歩いて降りるとまたさらに時間がかかる。

 どんどん暗くなっていく道を見下ろしながら僕は考える。


 僕はこの先後どれくらいここに来ればいいのだろう。前回の経験から、中途半端に止めてしまうとまた再発する危険があると教授に言われていて、お嬢様の症状が安定しているように見えても僕は簡単には教師を辞められない。

 それでも、毎日の通いから、一週間空きまで持って来れた。お嬢様が僕に会わなくても平気になるまで後一、二年かかるだろうか。もっとだろうか。それとも……お嬢様がどこかへ嫁がれるまでだろうか。

 お嬢様が嫁がれるなら喜ばしいことだ。それはきっとお嬢様が完治された時で、教授と僕の勉強の成果が出た時でもあるから。


 ……けれど、お嬢様が嫁がれるところが想像できない。


 お嬢様は完治できないとか、僕とのことで……というわけではなくて、お嬢様が本来生きる世界が想像もつかないから。お菓子をいただいてもその入手経路は僕にはわからないし、本家の暮らしや旦那様のお仕事は僕には理解できない世界で、まして、今はここにいるお嬢様が本家に戻られたらどんな生活をするのか何て。


 何より、お嬢様の雰囲気は僕の身近な女性達の誰とも違い過ぎていて、僕には、お嬢様は治療及び研究対象である以前に人の形をした何かとしか思えない。

 だから、どれだけ望まれても、恋にはならないんだ。

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