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満遍なく降り注ぐ降雪の如き星空を眺めながら緩やかに満月の形がぼんやりと映り、月明かりに照らされた河川敷の川沿いの道で自転車を漕いでいる。バイト先はーー取り立てて何か問題がある訳も無いごく普通のありふれたファミリーレストラン。
平均的な収入を得ることができ、様々な職を兼業している僕にとっては好都合な場所だった。そして、今から
「ざっと…5時間程度か……」
先程までの星空を眺める目線から一変させ右腕に常備している腕時計に目をやる。
『8時45分』
このままなだらかに自転車を進めて行っても到底間に合う時間か、って家を出た時の時刻は確か『午後8時32分』だった。そして朝、目覚めた時刻も『午前8時32分』。
何なんだ、これ?
今日起きた出来事。
今起こっている事。
全て偶発的に起こった事柄。
全てがイレギュラー。
僕は、時間に余裕がある事を確認し自転車を止め川沿いの芝生の上に胡座を組んで座った。また、この綺麗な夜空を見上げる姿勢を取る。
僕の仕事は厳密に言えば『9時15分』からの予定、妹には僕の事を随時調べ上げられ干渉させないようにわざと仕事は9時辺りからと誤魔化している。
彼奴はああ見えても僕の身体に異常が有れば直ぐ病院に連れて行こうとする癖がある。
因みに先程の家でのやり取り中に病院を勧められたのは僕の行動に原因があったと言っても過言では無いーーいや、過言所じゃ無いか。もし、そうならば僕が殆ど悪いこととなる。でも、真紘は言った。「遠慮は要らない」と…。ならば、あの時、真紘が止めなかったら僕はーーあれ以上の事を僕は…やっていたかも……しれない…。自然と身体が跼る。何を考えているんだ、僕は。
「何故おぬしは先程からそんなに気分が鬱屈している様な態度を取っているのじゃ?」
真横、幼声。
疑問を問いかけてきた。
特徴的なその語尾に「じゃ」を付けた独特な話し方は僕を過剰に反応させた。ゆっくりと声のした方向に首を動かす。
そこにいたのは、清楚で、優麗な和服を身に纏い、しゃがみ込んで僕の額を上目遣いで覗き込む綺麗に整う童顔をした少女だった。
月明かり程度で確実には理解出来ないが、それだけはハッキリと分かる。
しかも、こんな現代に和服を身に着け、古風な話し方とは…珍しい。
「…………」
突然の出来事に動揺が隠せない。
「何じゃ、無視しおって。おぬしは口が無い訳じゃなかろう。おーい(サッサッ)」
少女は僕の顔の前辺りで伸ばした手を上下に振りながら執拗に存在をアピールしてくる。
「これでは、だめじゃのぉ。仕方ない、別の方法を試すしか無いようじゃ」
その言葉を言い放った次の瞬間。
チュッ。
それはとても短く、唐突に僕の頬に微かに熱い感触を置き去りにした。
「うわぁっ!な、何をするんだっ!!」
意外で、意表を突かれたその行動に驚きを隠しきれない。
少女の唇は確かに僕の頬にーー触れた。
でも、何故だろうか。普通その行動は自分の恋愛感情を他人に示唆するはずなのに、なのに…。
少女から恋の感情を指し示す様には感じ取れなかったのだ。
この場合、出会ってほんの2・3分で知人でもない相手にキスをして「好きになった」では何とも変な話ではある。
「何をするもこうをするも、お主が鬱屈しておった所をうちが極限の所で現実に戻してやっただけの話じゃ。それよりもお主は何故、頬に唇をちと触れられただけでそんなに興奮したのじゃ?」
なんでって?今、なんでって………?
この子今なんでって…。
そうか、まだ思春期を迎えていない純真無垢なまだ幼い女の子の純粋な遊び感覚なら辻褄が合っている。
僕はもう一度少女を見る。
少女は先程見た脚を曲げしゃがみ込む姿勢から既に立ち、僕を見下ろす形になっていた。
「そりゃ、誰だっていきなりキスされたりされりゃ動揺ぐらいするに決まってんだろ!」
「つくづく、お主ら人間はよく分からぬ生き物じゃ。この様な事で興奮するなどとやはり、まだまだ謎が深まる一方じゃよ」
呆れた顔で見下される。
僕の釈明は少女の辛辣な感想によって無力となるが、
んっ…?
如何にも、先程のこの子の発言は自分が人間では無いと常軌を逸している様な自己紹介をしている言い方だった。自分が人間では無いとでも言いたいのか?
いや、ない筈。
なら…。
「お前は、何なんだ?」
夜の柔らかく、微量の水分を含む清風が僕達の直ぐ近くを横行しているような気がした。
「ふふっ。ウチはーー神じゃよ」
確かに、少女はそう言った。現実的に考えるとそんな事有り得る訳ない。有り得る筈は無い。
皆無。
でも、その時だけは何故か信じれるようなそんな気持ちになっていた。
「神と言うても河神なのじゃが、されど神に変わりは無いじゃろうて。名は子町様と呼ぶが良いぞ(ニコッ)」
子町、河を守る氏神、河伯。そんな感じ。
て事は、この河は子町の河。
しかし、子町の背後、河に架けられたとても長そうな鉄筋コンクリート製の橋、その根元には『檜尾河』と彫られていた。
が、此れだけで決めつけてはいけない。
もしかしたら、子供の淡い悪戯に過ぎないのかもしれないじゃないか。
「なんじゃ、浮かれん顔して。そうか、やはり、一言では信じられんようじゃな。まあそれは必至ではあったか。仕方ないのじゃ、証拠という物を見せてやるとするかのう」
子町はそう言って、僕から視線を移し河の方に視線を移す。僕は自然と子町の横顔に注目してしまった。
すると、先程の少し笑みが混合した様な表情とは裏腹に真剣な眼差しとなり、口をほんの少しだけ開け僕には聞こえるか分からないほどの小声で言葉の様な物を発し河の方面へ手を広げ、出した直後。
地震の如く、地面が小さく揺れたと思うとそれは直ぐに止む。
僕は、先程の地震と子町には確実に何か因果関係があると思い子町へと目線を向ける。
「子町、今のは一体……」
「お主も全く鈍感な男じゃ。ほれ、河の方を見てみるのじゃよ」
河の方ーー。
そこには、伝説上の生物、神話上の生物、空想上の生物。
「龍………。」
龍が河の水上から立っているのだ。
確かに龍と一区切り付けてしまえるのだが、しかし、その竜は全身が透明な水でできていた。
透き通った綺麗な水でできている体。
近くで見ると向こう岸が見えてしまう程の鮮明さ。
素直に圧巻してしまった。
「よしよし久し振りじゃなあ、お主は相も変わらず可愛いやつよのお。撫で回したい気分じゃ♪」
その龍は、子町の目の前に動物の忠誠を誓う様な頭を下ろす姿勢をとった。
相変わらずという事は多分旧知という事に間違い無いだろう。
そして、子町は僕の方に向き直り
「もう懐疑の心は持っておらんようじゃな。これが神の力。分かって頂けたかの?」
と言って、僕は
「ああ、もう疑いの余地は無い。認めるよ、子町。お前は神様だ。しかも、水を変幻自在に操れる凄い神だよ」
「分かればいいのじゃ。あと、お主!初対面の神に向かって様付けせぬとは相当な肝が張っておるな」
何か変な状況だな。
「じゃあ何て呼べばいいんだよ」
「子町様じゃ。異論は認めんぞ!」
飽くまでも強硬な姿勢をとるつもりらしい。
ーーでも、そんなの無用の長物にしか過ぎない。
「コマチサマーー」
「その呼び方は全般的に棒読みじゃ!もう少し神を崇める呼び方をせぬか!」
僕の胸程までしか無い身長で必死に地団駄を踏んで抗っている。
この場合、僕の方が子町より高い為、必然的に上目遣いの様な感じになってしまっていた。
「コマーチサマ」
「抑揚の部位が変わっておるわい!」
嘆息。
「小野 小町様!」
「お主……いい加減にせぬと河に沈めるぞっ!」
少々の涙目になっていた。口調もだんだんと必死になっている。
それは、まるで「これ可愛いんじゃね?」
と錯覚させてしまうほどだった。
これ以上すると本当に海の藻屑、否、河の藻屑と化してしまう。
「分かったよ。でも、なんか距離感じちゃうからやっぱ子町でいいか?」
最低限度の懇願だった。
「今回はそれで譲歩するが、お主の名を語った後にならいいのじゃ」
「僕は片桐 霧矢だよ」
「片桐…霧矢……。面白い名じゃの♪」
なんか滅茶苦茶コケにされてる気分なのだが。
「気に入った。というか、霧矢、お主ら人間にウチは前々から興味を抱いておったのじゃよ。お主達の感情の気質、行動の原理全てに興味を持ってしまった。だから霧矢よ。ちとばかしその…研究に付き合ってくれんかのう?」
河神は神らしからぬ無知な存在だった。
幼女姿の神に人体実験とかされそうなんだが…ーー何ともカオスな状況。
「人々を見守って、時代の移り変わりと共に生きる神が何で人間に詳しく無いんだ?何でも知ってるようなもんだろ」
「ウチを何処ぞの太子か何かと勘違いしておらぬか?ウチはこの檜尾河が時代と一緒に工事されその時に無理矢理眠りから目覚めさせられただけじゃよ」
ーーこの世界は諸行無常で、盛者必衰で、有為転変なの。
急に後切の言葉を思い出す。そうか、時代の流れってやつで必然的に街も、町も、村も何処でも変化していったって話か。
でも、こいつは休眠でもしてたのだろうか。そして、時代の流れについて行けず………何にせよ子町が目覚めた理由は僕等人間にあるらしかった。
「研究って何すんだよ。
四肢を煮たり、焼いたりとかのなやつなら断固として拒否するぞ。あと、溺死させるやつもダメだ」
「お主はウチを殺戮の神とも勘違いしておらぬか?何度も言う通りウチは河神じゃ!ただ、行動などを観察、監視するだけじゃ。ただし場合によっては水を使ったりするかもしれんがな」
「お前それってストーカーと同等の行為だぞ!いや、神だからもっとレベルが高い嫌がらせをされかねない!!」
「そんな事する訳ないのじゃ!」
先程と同様、やはり、風貌からか幼女としか言いようがない。だが、
子町は神。
河神。
水を司る神。
今日は何か運命の選択的な出来事が多い気がした。
「分かった、OKだ。でも、もし、僕の日常生活に支障をきたすような事があればお前のその低身長の事をこっ酷く言うからな」
「な、なぜウチの最大の弱点が身長ということがわかったのじゃ!?」
「普通見てたら分かるだろ。お前、小学4年生くらいの身長だぞ」
案の定という図星というか予想通りの返答。他人の触れたら行けないタブーな所だった。
「くくっ…。お主、神をも恐れぬと言うのかっ……?」
知ったような口ぶりで僕は言う。
「そんなわけあるかよ。神はーー怖いさ」
「そうかのう?」
子町は不安がった声で応答した。
僕はもうそろそろバイトに行かないとヤバイと思い一目散に自転車に乗り込んだ。ここからそう遠くは無い繁華街方面である。
「おい、霧矢よ…」
河の方面から唐突に子町の声がかかる。
「んっ…いやなんでも無い、気をつけるのじゃぞ」
喜色満面の笑みで子町は僕を送り出してくれた。皮肉が混沌しているかにも見えたが。
「了解。」
と答えてその場を後にした。
ご愛読誠に感謝申し上げます。