杉の木地蔵
「どういう事だ?」
作兵衛さんは大雨の中、谷を上っていきましたが、新しい堰には、ほとんど定量の水しか溜まっていないのでした。
「これだけの雨が一体どこに止められているのだろう」
堰の回りには市蔵さんの姿もありません、作兵衛さんは村へ帰りかけた時、山道からさらに上へと続く、ま新しい足跡をみつけました。そしてそれにひきつけられる様に、谷沿いをどんどん上っていきました。やがて作兵衛さんの前に、杉で組んだもう一つの古い堰が現れました。それは十年以上もこの村を守ってきた堰だったのです。その上に立ち、溜まった土砂を見ている市蔵さんがいました。
「市蔵……」
その瞬間の事です、市蔵さんは堰に溜まった土砂の中へ飛び込んだのです。作兵衛さんは夢中で駆け出しました。堰の上から市蔵さんを探しましたが泥で濁り渦巻く水の中に市蔵さんの影さえ見えません。
「あの馬鹿野郎!何するつもりなんだ」
市蔵さんは匕首をくわえ、肩に巻いた荒縄を使って、新しく切り倒した杉を縛り付けていました。今まで何度もそうやって古い堰を補強していたのです。遠目からもその紫色の唇が物語っていました。水かさが増すばかりのこの古い堰に市蔵がこだわる訳を作兵衛さんは知りませんでした。後を追ってここに来た二人はゆいと信介でした。
「これは母の遺言で父が作った堰です。この村の田畑を守るために。母は結局完成した堰を一度も見る事はできなかったけれど」
ゆいがそう作兵衛さんに言いました
「だから、あの地蔵をここまで運んだのか、イチに見せてやろうと」
「親父が誰のために作った地蔵か俺は知っていたからな、たいそう立派なもんで結構重かったぞ」
「当たり前だ、石工の『石のみ』もはじくくらいの上等のみかげ石だ。なるほど、盗っ人はお前達か……」
堰の手前にあるお地蔵様をもう一度見て、作兵衛さんは笑いました。少しづつ雨は小降りになってきたようでした。もう少し堰が持てば、水位は徐々に下がっていく、誰もがそう思ったときのことです。ゆいが大声を上げました。
「お父様早く上がってきて、早く早く!」
ゆいの言葉に市蔵さんが堰を見上げると、作兵衛さんも信介も大きく手を振っていました。振り返ると巨大な渦が市蔵さんの背後に現れていました。とうとう水底に穴が開いたのです。溜まった泥水がごうごうと吸い込まれていきました。でも市蔵さんには流れに逆らうほどの体力はもう残っていませんでした。おまけに堰の上から彼を引き上げる長い縄もないのです。
「ドポーン」
たまらず、信介が飛び込みました。気を失った市蔵さんを脇に抱え渦から逃れようと懸命に泳ぎます、しかし堰の底から抜ける水の勢いは止まりません。それから逃れることは到底無理でした。次第に渦に引き込まれていく二人に堰の上からでは作兵衛さんもゆいもどうする事もできませんでした。そのときさらに大きな音がもうひとつ聞こえたのでした。
「ドッポーン」
堰の上のゆいと作兵衛さんが互いに顔を見合わせ同時に堰の内側を覗きました。確か堰の上には、二人意外に誰もいなかったはずでした。
それはあのお地蔵様でした。みかげ石で作られたお地蔵様は重い石ですから、まっすぐに沈んでいきました。どんどん水底へと沈むうちに不思議な事にそのお地蔵様は百年もとうに過ぎたような幹の太い立派な杉の木に変わったのでした。そして切り倒したばかりの様な大きな杉が一度ぽっかり浮き上がるとぐるぐると回り始め渦の中心に吸い込まれていきました。杉は根元から渦に吸い込まれていき、堰に空いた穴をふさいだのでしょう。渦も消え、その杉の木に這い上った信介が市蔵さんの肩を抱えて、堰の上の二人に向って大きく手を振っていました。
山中村ではそれ以来、市蔵さんの山で一番太い『杉の木』でお地蔵様を作るようになりました。そして、一年の役目を終えた地蔵様は新しいお地蔵様が出来上がると、古い堰の側にある、ちいさなほこらに祀られるということになりました。




