消えたお地蔵様
「もう、十年も経つのか……、ゆいを見るとついお前のことを思い出してしまうなぁ」
ゆいが晩飯の片付けを終え、奥に消えた後、市蔵さんは妻のイチの死んだ夜のことを思い出したのです、それはこの村を襲った大嵐の夜の事でした。
「市蔵様、山津波が起こりそうじゃ。この雨がもう半日も続けば村が流される……」
山番は屋敷に転がり込み、女房の側で手を握る市蔵にそう告げました。イチはその年の夏の暑さにあたりでもしたのでしょうか、具合が急に悪くなりました。方々の医者に掛かってもいっこうによくなりませんでした。それからの長患いの中、次第に脈が弱くなったイチはこう言ったのです。
「あなた、行ってください。わたしは大丈夫、ゆいを残して死んだりはしませんから。このままでは山も田も、なにより村が流れてしまう、何とかしてくださいませ……」
市蔵さんは女房がもう長くない事を悟りました。その最後の頼みを、市蔵さんは聞いてやろうと決めたのでした。
雨合羽をあわてて取り出すと、市蔵さんは大雨の中を山に入りました。そして一緒に連れて行ったものたちに百年杉を何本も切り倒すよう命じました。
「いいか、一刻を争う。もしものために堰を作っておくのだ。村に土砂を流すな、一番太い丈夫な杉から存分に切り倒せ」
市蔵さんは惜しげも無く、製材すれば高額で取り引きされる百年杉を使って上流で土砂を食い止めようとしたのです。切り出した杉の枝をうつもの、杉をくくりつけるものも体はみな、熱く燃えるほどでした。雨さえ蒸発してしまうほどでした。急ごしらえではありましたが、立派な杉の堰が出来上がった頃にはもうとうに真夜中を過ぎていました。しかしまだ雨はやみません、葉っぱを混ぜた泥を木の隙間に詰めてとりあえず谷の川をせき止めました。後は少しずつ堰を高くしていけばいいのです。堰を丈夫にしていく作業はまだまだこれからです。
土砂が堰を越える寸前でやっと雨は止み、明け方家に戻った市蔵さんは、すでに冷たくなったイチの側で泣きつかれて眠ったゆいを抱き上げたのでした。
「わしがイチを放っていたのは間違いない。いいなお前たち、村の者には余計なことを言うな」
山番も木こりたちも主人にそう言われては、「杉の堰」の事は誰にも話す訳にはいきません。その深い山にある堰のことはこうして里の者はもちろん、作兵衛さんすらずっと知らなかったのです。
作兵衛さんもゆいを見る度に死んだ妹を思い出していました。信介がゆいに惹かれているのも知っていました。でもあの晩に妹とゆいを残し、屋敷を空けていた訳をどうしても話さない市蔵さんを許せなかったのです。
「ゆいは気だてもよく、器量も申し分ない。そんな事は、解っている、イチの娘だからな」
それでも市蔵さんに頭を下げて「嫁にくれ」というのはなんだか負けたようで作兵衛さんには嫌だったのです。
「まあ、信介以上の男はいまい。そのうち市蔵の方から『ゆいをもらってくれ』と言ってくるに違いないわ」
そんなとき、村に事件が起こりました。あのお地蔵様が突然消えてしまったのです。駐在さんもいない平和な村の事ですから、犯人身思い当たらず、結局行方知れずのままでした。実はあのお地蔵様は作兵衛さんが妹の死後に村のためにと建立したものだったのです。村にそのお地蔵様を作るために、方々の石工を呼んで、遠く四国から運ばせたみかげ石で作らせたのは、作兵衛さんだったのです。村の人々はその費用を作兵衛さんが気前よく支払ったのをみてこう言いました。
「何の得にもならない、お地蔵様に払う金があるのなら、田植えの後の手間賃を弾んでくれたらええのにの」
「わしゃあ、酒のほうがええな」
でも、みんなはこの村のためになる事だと知っていました。
「百年経ってもここにいなされよ、お地蔵様」
心の中ではそう言って手を合わすのでした。
「作兵衛さんは、立派な方だが。随分損をしているお人じゃの」
作兵衛さんはみんなにそう思われていました。
そのお地蔵様のある場所が、今度から市蔵さんの材木を置く予定の場所だったのです。作兵衛さんが反対していたもうひとつの理由はそれだったのです。村が一望できるその場所から地蔵を動かす事はとても嫌だったのです。
お地蔵さんが消えた今、そろそろ話をまとめねばなりません。最後にはお上の命令で作兵衛さんは、渋々その土地を市蔵さんのために差し出しました。作兵衛さんにはいつの間にかそのお地蔵様が妹のイチに見えていたのかもしれません。




