山中村
二人の分限者が、安芸の山中村にいました。
山持ちの市蔵さんは、村のぐるりの山をもち、春にはふきのとうやらウド、タラ、ワラビ、ゼンマイなどの山野菜や筍、秋には松茸やしめじ、ヒラタケ、椎茸などの茸、クリやカキ、アケビやトチ、クルミなどの木の実を方々に売り、その合間に炭まで焼いておりました。中でも一番力を入れていたのは幹が太くてまっすぐと立派に育った杉を切り出して、柱や板にする製材所でした。猟はしませんでしたが、その山には珍しいシロジカがおり、昔は帝に献上した事もあったそうです。
もう一人、田んぼ持ちの作兵衛さんは山中村の半分ほどの広い田んぼを持ち、大勢の小作人や使用人を使って米を作らせておりました。先祖は庄屋を長いあいだしておりましたので、年貢の時期には荷駄の列が長く並び、毎晩かがり火の中で升測りが続いていたということです。
さて市蔵さんには、ゆいという娘が、作兵衛さんには信介という息子があり、お互い好き合っていました。村はずれのお地蔵さんの供物皿の下に二人の恋文がこっそり置いてあったのですが、もちろん村の者は誰一人そんなことは知りませんでした。お供え物を置く度に相手の文を持ち帰って読むと、今度はそこへそっと自分の文を置くのです。そんなやり取りをするゆいと信介でした。お地蔵さんだけが二人を見守っていました。
「また、作兵衛のヤツが反対しやがった」
月に一度の村の寄り合いが終わり、屋敷に戻った市蔵さんは一人娘のゆいに言いました。市蔵さんの妻はゆいが七つの時、病気で死んでしまい、それからはずっと娘と二人暮らしでした。今日の寄り合いもまた結局物別れになりました。山中村は山あいの村ですから、大雨が降ればすぐに村の田んぼが浸かってしまうので、このたび谷に堰を作ろうとする計画ができたのですが、そうすれば市蔵は山から切り出した杉や檜を今までの様に筏で川を下って製材所まで運べなくなってしまいます。市蔵は堰を作る代わりに山道を広げて材木を筏の代わりに荷車で運べるよう、途中にある作兵衛さんの田んぼを少し埋めてくれるように言ったのです。ところが、作兵衛さんはこう言って鼻で笑うのです。
「馬鹿なことを言うな、堰を作れというのはお上の言われる事だ。山から杉を切り出すのはお前の勝手だが、なんでお前のためにわしの田んぼを埋めにゃあならんのだい」
「堰はお前の田んぼが浸からんように、わしの山を削って作るんだぞ」
「へっ、奇特なことですなぁ。市蔵様は」
「なんだとぉ」
胸ぐらを掴んだ市蔵さんを数人の村人が止めました。結局そんなやり取りがもう何月も続いていたのでした。
こんな事もあります。稲にたかるウンカやイナゴ退治のために、作兵衛さんは村の田んぼを毎年二度は煙を使っていぶそうとするのです。ところが市蔵さんは山火事になってはとんでもないと、作兵衛さんが枯れ草に火をつけたとたん、屋敷からあわててとびだしてそれを片っ端から消して歩きます。それは谷からの風で火がいったん出てしまうと林に一瞬のうちに燃え広がってしまうからなのです。もちろんそんな事くらい知らない作兵衛さんではありません。些細な事でもすぐ怒り出す作兵衛さんですが、不思議なことに折角火をつけた枯れ草を消されても市蔵さんに文句一ついいません。それを毎年繰り返すのです。
山中村では以前から山草から採れる、嫌な匂いのする汁を撒いて害虫退治をしていました。その山草は市蔵さんの山にたくさんあります。作兵衛さんはそれを毎年市蔵さんからわけてもらっていたのでした。
「まったくあの頑固者が、毎年の事だが、ひとこと山草をわけてくれと言えば済む事を。なあ、ゆい」
ゆいは泥とすすでひどく汚れた市蔵さんの長靴を見て、返事の代わりにくすりと笑いました。市蔵さんが毎年、山草の汁を搾っては大きなひょうたんに詰めさせておき、作兵衛さんがやってくるとそれを渡していたことをゆいは小さいときから見ていました。それが母が死んでからはぴたりと作兵衛さんはやってきません。そのかわり市蔵さんはその頃になると妙にそわそわし田んぼの方を気にしています。そして、いざ煙が上がると一目散に大きなひょうたんを抱えて飛び出し、長靴で火のついた草を踏み消すのです。
「火事になったらどうするんだ、あの馬鹿め」とか、ぶつぶつ言いながら、その田んぼに山草の汁を撒いている事をゆいは知っていたのです。その大きなひょうたんは毎年二度空っぽになり、そして毎年二度山草の汁で一杯になるのです。
しかしいつまでも堰を作らない訳にはいきません。やっと話がまとまりました。
「ここが一番いい場所なのになあ。山も田んぼも見えるしなぁ。堰ができたらここは市蔵のための材木置き場になるんだとよ。さすがにお上にはわしも逆うわけにもいかん、勘弁してくれよ。おや人がやってくる、そのうち今度は屋敷の見える場所をまた見つけてやるからな」
そう言うと、作兵衛さんはお地蔵様から離れて歩き出しました。入れ替わりに歩いてきたのは信介だったのです。信介はお地蔵様に手を会わせると、そそくさと土手の向こうに降りていきました。しばらくして今度はゆいがそこへ歩いてきました。
「やれやれ、親父たちはどうしてあんなに仲が悪くなっちまったのかな……」
「おっ母さんが死んでからよ、それまではとても仲が良かったって……」
お地蔵さんの横に腰掛けるゆいとその後ろの土手の草むらに離れて寝転んでいた信介は、辺りを見回し、人気のないのを確認すると、一度抱き合い、やがて別々の方向へ戻っていきました。二人のいう通り、市蔵さんと作兵衛さんは幼馴染みで、市蔵さんは作兵衛さんの妹をお嫁にもらっていたのです。