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最終章 菫色と魂のクオリア 

 最終章 すみれ色と魂のクオリア 


  1.


「久しぶりね、火蓮君に水樹君」

 扉の奥に懐かしい人物が立っていた。風花の母親の楓だった。

「本当に久しぶりですね。今日のコンサートを見に来てくれたんですか?」

「うん、先週帰ってきたの」

 彼女の横には遥が立っており再び会釈を交わす。

「風花が会って欲しい人って……」

「そう、お母さんよ」

 そういうと楓は大きく頭を下げた。

「二人とも素晴らしい演奏をありがとう。とってもよかったわ」彼女は頭を下げたまま続ける。「……ごめんなさい。事故に遭ってから一度しか顔を合わせていないわね。本当はもっと帰って来たいんだけど、日程が中々合わなくてね」

「いいえ、構いませんよ。風花、なぜ楓さんをここに?」

 風花は答えず楓が再び口を開いた。 

「私が会って確かめたいことがあったのよ。私はね、あなた達のことよりもご両親に気をとられていたから、あなた達の異変には気づかなかったの」

 楓はふうと吐息をついて二人を見た。

「私がフランスで公演を行なっている時、風花からおかしな話を聞いたわ。退院してから家に戻ると、水樹君がヴァイオリンを弾きたがって、火蓮君がピアノを弾きたがっていると。私は気にする必要はないと思っていたんだけど、風花は私に毎回この話をしたの」

「そうだったみたいですね」火蓮も横で頷く。

「風花はね、最初からあなた達の人格を気にしていたの」楓は強くいった。「記憶がなくなったというのはお互いの人格が入れ替わったためじゃないかってね」

 ……なるほど、やはり最初から疑っていたのだ。

 だが風花はそうであって欲しくないために無理やりお互いの立場を言い聞かせるようにした。その結果が魂の矛盾へと繋がっていったのだ。

「私は神山先生に意見を聞いたの。水樹君と火蓮君の人格が入れ替わっているんじゃないかと話をしたら、それは有り得ないといわれたわ。お互いの性格は事故がある前からほぼ変わっていない、それならば魂が入れ替わっているはずがないとね」

「だけどそれは風花が強制したからじゃないですか?」火蓮が横から口を挟む。「俺達の記憶はなかったから、そうだと思い込む他なかった。だから性格も変わっていないようにみえた」

「そういう考えもあるわね。でもそれはやっぱり違う。君達の性格は作られたものじゃない、元々のものなのよ」

「元々の性格? これだけ違和感を覚えているのにですか?」

「そうなの。その答えは遥さんが見つけてくれた……」楓は遥に視線をやってから告げた。「性格が一緒だけど扱う楽器が違う。それでいて魂に矛盾を感じる。そこから導き出された答えは別の魂が紛れている可能性があるということ」

 水樹は唾をごくりと飲んだ。

「それってもしかして……」

「……そう」楓は指を立てていった。「あなた達の中にいるのはあなた達の『両親』の魂じゃないかということよ」

「……それは面白い意見ですね」水樹は驚きを隠せず微笑んだ。「でも絶対にありえません。もし仮にそうだとしても、釈然としないことがたくさんあります」

「……もちろんわかっているわ。一つずつあなた達が持っている疑問点について話し合っていきましょう」

「……わかりました」水樹は大きく頷いた。「じゃあ始めから話をさせて貰いましょう。記憶が蘇ったのは夢を見るようになってからです。幼児期の記憶では僕はピアノを弾いて母親に怒られています。これは僕が火蓮だという記憶じゃないんですか?」

「それは海君の記憶かもしれない」楓はきっぱりといった。「あなたが見た母親は本当に灯莉だった? 絶対に灯莉だといえる自信がある?」

「いえ……ありません」

 記憶を辿るが、あれが灯莉だという証拠はない。

 ピアノを弾いて怒られた、という記憶だけだ。父親は両親から楽器を教わったという話も聞いているため反論はできない。

「……話を変えます。僕には両親に内緒で海を見にいった記憶があります。あの時には三人しかいなかったのに、両親が覚えているはずがないんです」

 楓の表情は変わらなかった。その質問にも答えを用意できるといった表情だった。

「それは二つの仮説を立てることができるわ。一つは私と遥さんと海君で一緒に見た記憶。もう一つはあなたが両親に話した記憶ね」

「いいえ、どちらもありえません」水樹は大きくかぶりを振った。「僕は帰りに楽をして帰りたいがために、お金を隠し持っていたんです。そのお金は火蓮の机に隠してあったんです。両親が知るわけがない。そして隠したのは僕で間違いないんです」

「それも違うわ」風花が右手を振った。「海さんは火蓮の机にお金があることに気づいていたの。気づいていながら黙認していたのよ」

「なぜ父さんは黙っていたの?」

「火蓮があなたを庇っていることを知ったからよ」風花はきっぱりという。「本当にお金を持っていたのはあなたなの。あなたがお金を持っていてタクシーを呼ぼうとした。だけど火蓮がそれを断わって三人で自転車で変えることを提案した」

 水樹は困惑した。予想外の答えだった。

「ちょっと待ってくれ。俺にもお金をくすねた記憶があるぞ」火蓮は風花を見ていった。「水樹がくすねたのなら、この記憶は何だ? やっぱり俺が水樹だということなのか?」

「それは灯莉さんの記憶だからよ」風花は物怖じせず答えた。「あなたの中には灯莉さんの魂が入っている。灯莉さんは火蓮がお金をくすねたと思っていた。だからあなたがお金をくすねたという記憶が存在しているのよ」

「じゃあ俺が幼少の頃、風花と一緒に遊んだ記憶はなんだというんだ。いつも二人だけだったぞ。それに一緒に観覧車に乗った記憶がある。もちろん二人でだ」

「火蓮君、その観覧車に乗った記憶というのは本当なの?」楓が割り込んだ。

「本当です」

「じゃあ、どんな観覧車だったか覚えている?」

「もちろんです」火蓮は頷き悩みながら続ける。「俺が乗った観覧車はガタガタと金属音を立てる観覧車でした。周りはどうかな、地面は鉄板で椅子は革張りだったかな」

「ガタガタとね。観覧車の色はどうだったの?」

「色? たしか、オレンジだったと思います」

「……そう、オレンジだったの……」そういって楓は口元を緩めた。「火蓮君に入っているのはどうやら本当に灯莉のようね」

「えっ?」火蓮の顔が歪む。

「私と灯莉はずっと小さい頃から一緒にいたの。それで、観覧車にも乗った記憶があるわ。灯莉は高い所が怖いといっていたけど、一回だけ付き合って貰ったの。それに私が小さい頃の観覧車は確かオレンジだったはずよ。今は――」

「ブルーに変わっているわ」風花が横から継ぎ足す。「ついでにいわせてもらえば、今の観覧車は新しくなって音を立てて回らないの。電気の音の方がうるさいくらいよ」

「そうだとしてもそれは確証にはなりません」水樹は二人の言葉を跳ね返した。「観覧車が新しくなったのは高校の時からです。それだけじゃ説明はできませんよ」

「……その通りだね」遥が後ろから後押しするように頷く。「観覧車が変わったのはちょうど十年前らしい。仮にその前に風花と火蓮君が観覧車に乗っていたという記憶があったとしたら、その話は両親の魂の入れ替わりにはならない」

「ちょっと、お父さん。横から口を挟まないで」風花が怒りを露にしている。丁寧な物言いだったが眉間に皺が寄っていた。

「どうせ後からわかることだ。ここは全て正直に話した方がいい。これから先再び疑うようなことがない方がいいだろう?」いつになく遥の瞳には冷たい光が映っている。

 もしかしたら風花は火蓮と二人で色が変わる前に乗っていたのかもしれない。地元では小中学生の遠足でこの遊園地に行くことが決まっているからだ。

 水樹は自分の記憶を辿った。

「僕の記憶では風花と火蓮の二人が観覧車に乗っている姿を下から眺めていました。隣には美月がいました」

 楓は微笑んだ。その微笑みには余裕があった。きっと両親の魂だと信じて疑っていないのだろう。

「観覧車に乗っていたのは私と遥さんよ」楓は水樹の目を見つめてきた。その目は先程と違って懐かしさと憂いを含んでいるようだった。「私が遥さんに告白したのは観覧車の中よ。それで海君に頼んだの。灯莉を連れて四人でデートして欲しいって」

「それだってただの推測じゃないですか。僕の隣にいた人物は母さんだっていいたいんですか? 楓さんの話だって全て確信があるわけじゃない」

「落ち着いて、水樹君」遥は冷静にいう。「必ず何か正しい指標があるはず。ゆっくり考えていこう」

「……あるわ、一つだけ」そういったのは風花だ。「火蓮、お父さんの指揮棒を持ってきたといったわね。どこから持ってきたの」

「もちろん家からに決まってるじゃないか」火蓮は臆することなく答える。

「なぜ家の中にお父さんが使った指揮棒があるとわかったの?」

「それはビデオを見て……」

「ビデオではタクトの棒の部分しか見えないわ。把手とっては見えていないはず。なぜそれが年末のコンサートに使ったとわかるの?何かに書いてあった?」

 火蓮の表情が重い。何かを思い出そうと懸命に考えているようだ。

「いや、書いていなかったな……」彼は誰に話すでもなく自分の頭の中を整理するように告げた。「確かあれはベンチに座っている女の子からプレゼントとして貰ったはず。場所は思いだせないけど、それは確かだ」

「そのタクトはね……私がプレゼントしたものよ」楓は真剣なな表情で告げた。「小さい頃にね、約束したの。海君とオーケストラをする時には私がプレゼントした指揮棒で演奏してくれとお願いしたの。その指揮棒は木で出来てるんじゃないかしら?」

 火蓮はうな垂れたまま頷いた。「間違いありません」

「その木はね、私と同じ名前の木で出来てるの。海君は指揮棒を使って練習する時は折れにくいプラスチック製を使っていたわ。だけど年末のコンサートの時には私が上げた指揮棒を使ってくれたの。そこにはイニシャルを入れているわ。K・Kと入っているんじゃない?」

 水樹は火蓮が使っていたタクトの端を見た。観音寺海、間違いなく父さんのイニシャルでもある。

「どうやってこれを作ったんです?」火蓮は確かめるようにいう。

「私のお母さんよ」楓はきっぱりといった。「こういうものは昔手作業で作っていたみたい。だからそれは私の手作りなの」

 風花を覗き込むと、地面に目を向けうな垂れていた。背中で両手の親指を交互に擦り合わせていた。

「もちろん最初は水樹君の中に海さんが、火蓮君の中に灯莉さんが入っていたんだと思う。だからピアノや指揮棒を振ることに矛盾点があったのだと思う。でも二人の魂が入れ替わったから、記憶が混同して、自分が誰だかわからなくなったと思うわ」

「……ということは僕の中には」

「そう」風花は乾いた声で告げた。「あなたのお父さんの魂が眠っているの」


  2.


「海君はとっても綺麗な音色を作り出す指揮者だった」楓が懐かしむようにいう。「だからあなたのピアノは特別静寂を作り出しているの。第三楽章のラスト、あれは灯莉が演奏していたものに近いものを感じたわ。あんな情熱的なピアノ、灯莉にしか出せないのよ。あの躍動感は確かに彼女のものだった」

「……ありえない」水樹は驚嘆しながら否定した。「あの演奏は全て僕が行いました。楓さんの話では僕の中にずっと父さんがいて、最後の最後で母さんがでてきたといいたいんですか?」

「そうとしか考えられないわ」楓は大きく頷いた。「水樹君は灯莉にピアノを習っていたけれど性格は真反対だったわ。灯莉のように情熱的な曲を弾くことはほとんどなかったの」

 意味がわからない。自分の中に父さんがいて火蓮の中に母さんがいる。なぜ両親の魂が自分達の中に入っているのだろうか?

「仮にもし僕の中に父さんの魂がいたとします。じゃあ僕は父さんそのものなんですか? なぜ記憶が徐々に蘇ってきたんですか?」

「……それについては私が話をしよう」

 神山が手刀を切りながら部屋に入ってきた。後ろから美月も続いている。きっと風花が呼んだに違いない。

「急に入って来てすまないね。話が混同しないように楓さんの話が終わるまで私は外で待たせてもらっていた」

「先生、美月……」火蓮が声を上げている。

「全員揃っているようだね。早速だが今まで君達のカウンセリングを務めた結果をいわせてもらおう。残酷な話になるが君達本来の魂はすでに亡くなっている」

「ええ?」火蓮と顔を見合わせる。「どういうことですか? ちゃんと説明して貰えるんですよね?」

「ああ、もちろんだ」神山は近くにあるホワイトボードへ向かった。「君達が病院に運ばれて来た時には心臓が止まっていたんだ。それは前にも説明したが、極めて危ない状態だった。だが私が手術を行う前に心臓は動き始めていた」

 聞いていない新事実だ。火蓮も硬直して動揺している。

「最初何が起こったかわからなかった。君達に麻酔を掛けて胸を切った直後に動き始めたんだ。しばらくそのまま待機していたんだが心臓に異常はなかった。結局私は二人とも何もせずに終わったんだ」

 手術跡が残っているのに何もされていない?

 火蓮と再び顔を合わせる。

「手術せずに一時間後、私は他の手術を遂行するよう促した。水樹君には耳の手術を、火蓮君には背中の手術をだ。その他に異常はなかった。その後も何が起こるかわからないため定期健診に来てもらうと決めたんだ」

「じゃああの薬は何ですか? 異常がないのにどうして薬を?」水樹は声を震わせていった。

「心臓そのものには異常がなかった。だが心臓の鼓動速度が十五歳のものじゃなかったんだ。君達の両親と同じ四十代のスピードになっていた。そしてそのままスピードは衰え一秒間に一回鳴る速度で落ち着いた」

 ……思いあたる節がある。

 水樹は胸の辺りに手を当てた。この法則があったからこそ自分は耳栓をしていてもピアノを弾くことができていた。火蓮も隣で納得している。

 神山は突然地面に這いつくばって頭を下げた。

「今まで黙っていてすまなかった。すぐに他の手術を行なっていれば水樹君の耳は助かっていたのかもしれない……。本当にすまなかった……」

「いいえ、そんなことはありません」水樹は本心で告げた。「命がなければピアノを弾くことはできませんから。僕の命を助けて頂いたことを本当に感謝しています」

「そうよ、お父様」美月が神山を宥めるようにいう。「謝るためにここに来たんじゃないでしょ。ちゃんと話をしないと」

「ああ、そうだったな。すまない」

 水樹は再び先程の質問を繰り返した。

「それが正しいとしたら僕達の記憶はどうなっているんですか? 一度なくなった記憶が夢を通して蘇るようにして戻ってきたんです。人格が入れ替わる毎に」

「私の推測になるが、考えを話そう」神山は空咳をして水樹を見た。「ではまず夢という事象について話を始める。これは簡単にいえば不完全なものを完全なものに作りかえている、ということだ」

 通常人が体験したり考えたりすることは、大脳皮質とよばれる部分で行われる。そしてその体験したものや考えたものが海馬という部分に移動することによって記憶という形で保持される。

 その海馬が睡眠中に覚醒し断片的に矛盾のない物語を作っている。つまり全てが正しいというわけではないという話だった。

「水樹君の記憶はね、きっと海さんが入ってから作り上げられたものなんだ」

 神山は『海の魂』+『水樹の肉体の脳』=『今の水樹の記憶』 とボードに加えた。

「いいかね? 海さんは肉体を持たない。つまり自分が誰だかわからない状態で君の体に入ったんだ。きっと君の脳が肉体と精神の矛盾を解消するために、無理やりに記憶を作ったんじゃないかと思っている。どちらも不完全だからこそ歩み寄った記憶ができたんだ」

 神山は一つ咳をつき、両手を合わせて拳を作った。

「一つの事例を説明しよう。辛い過去の話になるが、交通事故の件についてだ。君のお母さん、灯莉さんは即死している。トラックは助手席側からぶつかっているから、金属音など聞こえるはずがない。だから火蓮君にも金属音が聞こえなかったんだ。決して水樹君の魂が君の中に入っているからじゃない」

 火蓮は黙っている。まだ納得がいった感じではない。

「逆に海さんの場合は灯莉さんより時間があった。助手席側からぶつかっているからね。だから水樹君の記憶に金属音が残っていたんだ。水樹君の難聴は関係ない」

 火蓮はやっぱりか、といって舌打ちしている。きっと難聴のことをいっているのだろう。

「君達の話では、家族で体験している過去しか蘇ってきていないのだろう? それは魂と肉体の矛盾が生み出した記憶なんだ。

 言い換えれば敢えて矛盾を体験するために肉体が夢を作っているのだと私は思う。もちろんこの夢に終わりはない、本当の肉体は滅んでいるのだから」

 ……確かにその通りだ。

 水樹は納得し胸を上下させた。他の記憶を思い出そうとしてもでてこないのだ。小学校の頃には海だけでなく山に行った写真があった。

 しかしこの記憶はない。きっと両親が関与していない写真なのだろう。

「もう一つ補足説明しよう。遊園地の件についてだ。

 君達二人は間違いなく四人で遊園地にいったんだ。そしてそれがお父さん達の記憶と重なった。偶然にも同い年くらいに四人で出掛けていたのだろうね。

 そして同じような体験をしているからこそ、お父さんの魂と火蓮君の体が反応し、またお母さんの魂と水樹君の体が反応し不可解な夢がつくられたんだ」

 神山はボードに『夢』=『肉体の記憶』+『魂の記憶』と書いた。

「きっと魂にも記憶を司る部分があるのだろう。魂と肉体がリンクした時に初めて夢を見ることができるのかもしれない。だから入れ替わった時に君達は夢を見たんだ」

「一つ質問させて下さい」火蓮は神山の話を遮り尋ねた。「人格が入れ替わる時に見た夢というのは魂と肉体が反応したからだとわかりました。じゃあ人格が入れ替わらない時に見た夢はなんですか? これまで俺は夢を一切見ませんでした。でも人格が入れ替わるようになって夢を見るようになったんです。その夢は昔、俺が体験したことを元にした夢なんですか?」

 神山はしばらく黙考し慎重に言葉を選んだ。

「それで正しいと思う。ただ厳密にいうと君達の中に入っているのは両親の魂ということが前提だ。だから君が昔体験したことかもしれないし、お母さんが体験していたことかもしれない。もしかしたらお父さんの魂が一度入ったことでその残滓が見せた夢かもしれない。つまりはそれも正確にはわからないということだ。どんな夢を見たのかね?」

 火蓮は首を振って苦笑いした。

「いえ、それがあまり覚えていないんです。人格の転移があった時の夢は今でも明確に覚えているんですけど、起こらなかった時の夢は覚えていません。ただ、どこかの公園にいて悲しい感情を覚えた、ということだけ覚えています」

 なるほど、と神山は腕組みを解きながら頷いた。

 水樹にも脳裏に突っかかっているものがあった。それは夢で見た公園だった。噴水がある公園が見えるが、それがどこにあるのかもわからないし、いつの時なのかもわからない。

「水樹君もそのような夢を見たことがあるのかな?」神山は呟いた。

「あります。僕もどこかの公園にいた夢を見たんです。その時には恋のような感情を味わいました」

 風花の視線が一層強くなったような気がした。彼女を見ると、先ほどと違って何かを恐れているようだった。

「もしかすると自分の経験に基づく夢には感情があるのかもしれないね。逆に感情がないものは両親の記憶に基づく夢なのかもしれない」

「そうかもしれません」水樹は心の内を正直に告げることにした。「でもなぜ今になってこんな話をするんですか? 先に説明してくれたら、僕達はこんなにも悩まないで済みました」

「それはできない。できなかったといった方がいいかな」神山は大きくかぶりを振った。「対立する要因が多いと、自分が自分であるというアイデンティティを失ってしまう。君達の疑問が全て解決できなければ君達そのものの人格すら消えてしまう可能性があったからね」

「要するに今日の公演を見て決めようと思ったわけですね」

「そういうことだ」神山は大きく頷いた。「今日のことは前もって天谷さんから聞いていた。君達を助けるためには一番いい方法だと思ったから、今まで黙っていたんだ」

「今日のこと? もしかして俺がこの指揮を負うことも前もって決まっていたんですか?」

「ごめんなさい、私がプロデューサーにお願いしたの」楓が頭を下げている。「もちろんプロデューサーは一言では頷かなかったわ。半端な公演をすることになってはお客さんに迷惑が掛かるから、実力を見てから決めると。だからあなたの実力がそれに見合ったのは事実よ」

「……それで父さんが執った公演だったのか」火蓮は誰にいうわけでもなく独り言を呟いた。呟いた後、風花に意見を求めた。

「風花は初めからわかっていたのか? コンサートのメンバーは俺に考える余地があった。俺が風花や水樹を入れることは決まっていなかったはず。美月にしたってそうだ」

 風花は顔を上げて火蓮を見た。

「ごめんなさい、私は初めから知っていたわ。だから私を選ぶことがなくても公演に来るつもりだった」

「……そうか。美月もか?」

「……うん」美月は涙声で頷いた。「私もそうよ。フランスに行っている間も風花とは絶えず連絡を取っていたの」

「どうしてお前がそこまでするんだ?」

「……そんなの決まっているじゃない」美月は泣きながら火蓮の方を向いた。「だって私は火蓮が事故に遭う前まで付き合っていたのよ。あなたの異変に……気づかないわけがないじゃない」


  3.


 火蓮は顔を大きく歪ませて美月を見た。

「何だって? 本当なのか、それは……」

 美月は火蓮から目を反らし首を少し傾けた。

「お見舞いには私も行こうと思っていたのよ。でも風花の話を聞いてためらったの。お父様が働いている病院なのに、あなた達の部屋には行けなかった……」

 美月はくるりと火蓮に背を向けて、自分に言い聞かせるように話を始めた。

「風花から話を聞いた時、ピンときたわ。お互いの人格が入れ替わったかもしれないということを聞いて私は納得したの。だってそう考えた方が辻褄が合ったから。風花は違和感を覚えながらも入れ替わっていないと信じていた」

 ……事故当時から二人は考えていたのか。

 今さらながらに二人に気を遣わせていたことを悔いる。しかし今は謝れるような雰囲気ではない。

「だけど、私は違う。火蓮との付き合いは一ヶ月も経っていなかったし、水樹のことだって深くは知らない。もし二人が入れ替わっていて、火蓮と付き合うことが水樹と付き合うことになるんじゃないかと思ったら怖くて、できなかった……。

 考えた結果、付き合っていないという風に装ったの。いつか戻ると思って信じていたのよ」

 火蓮の顔から表情が一気になくなった。「お前……それで……ヴァイオリンの練習を……」

「うん、だからね。私は海外のコンクールを目指したの。あなたと約束したコンチェルトのコンサートマスターになるために私は必死で練習したんだよ」

 神山が口を挟んだ。

「娘はね、君のためにコンマスを目指したんだ。美月は小さい頃からヴァイオリンが上手でね。親の私がいうのも何だが、この子は天性のものだけで中学まではコンクールで入賞を果たしていた。練習なんてほとんどせずにね。だけど君が事故に遭ってから猛練習したんだ。どんな所でもコンマスとして弾けるようになるという目標を立てて頑張っていたんだ」

 彼女のテンポのとり方は正確だった。

 それは天性のものではなく機械のような精密さだった――。

「美月……本当にすまなかった…………」

「いいのよ、もう」美月は吐息をつきながら微笑んだ。「私だってヴァイオリンが嫌いじゃないから、ここまで来れたんだもの。火蓮が弾いてくれたヴァイオリンが好きだったから私は今ここにいられるの。本当に感謝してる」

「ありがとう……美月」

 水樹は風花を覗き込んだ。彼女の思いがそんなに強いものだと想像していなかった。彼女の華奢な体の中には揺らぎない意志があった。

「あたしも半信半疑だったのよ」風花が小さく呟く。「だって、お互いの人格が入れ替わったと思ったのはあたしが最初だと思うし」

 事故当時、一番に駆けつけてくれたのは風花だった。そう思うのも無理はない。

「それからね、あたしはずっと水樹のことを見てきた。もちろん前と違う点は一杯あった。

 だけどね水樹の芯は変わってなかった。だからずっと信じてこれたの。そしてこの間、海を見に行った時に確信できた」

「海に行った時?」

「うん。あの時五千円札の話をしたでしょ。水樹がお金を持っていたのは確かなのよ。なのにあなたの話では、火蓮がお金を持っていて水樹の立場から見ている視点になっていた」

 風花は上目遣いで水樹を見た。

「これはね、絶対にありえないのよ。お金を持っていたのは水樹で反対したのは火蓮なの。仮にお互いが入れ替わっていたとしても、火蓮がお金を持った立場はないわ」

 ……なるほど。

 自分が海の魂と融合しているからこそ、新たな視点を作り出していたのだと自覚した。

 海は水樹がお金をくすねたことを知っていた。つまり、海の意識ではお金をくすねたのは水樹で反対したのは火蓮だ。だが夢の中では反対している立場にいた。お金をくすねたのは火蓮で、反対したのは水樹となっていた。

 これは矛盾している。この矛盾は父親の魂と水樹の体が相反しているからこそできる視点だ。

「もう一人、僕の中に別の人格がいると思ったんだね。それで火蓮にも話を合わせたんだね?」

 風花は頷きながら続けた。

「最初はコンサートで水樹たちの演奏を聞いてお母さんが判断するってことだけだったの。その時は人格の転移だという結論に達していたわ。あたしは納得できなかったけど。そして、この短期間に色々なことがあってあたし達は色々な推測を並べ立てたの。で、最終的に両親の魂が入っているという結果に納まったわけ」

「でも、今日で終わりそうね」楓は納得したようにいう。「あなた達の両親の立場を思えば、本当に凄いことだと思うわ。私が灯莉の立場だったら同じことができるかどうかはわからない。それだけ二人に愛情があったからできたことだと思う」

「愛情……ですか?」

「そう、愛情よ。君達二人だけにはなんとかして生きて欲しいと思った愛情の結果なのよ」

「それは……違うと思いますよ」水樹は大袈裟に笑った。「偶然です。父さんは僕のことを愛していませんでした。だから偶然僕の体に入っただけのことだと思います」

「なぜそう思うんだい?」遥が優しい口調で話し掛けてきた。

「だって……父さんとの関わりは一つもなかったからです。写真にしてもビデオにしてもそう。ピアノだって母からしか習っていません」

「教えることだけが愛じゃないよ」遥は水樹の肩を掴んでまっすぐに見た。「僕は風花に楽器を教えることができない。だけど楓と同じくらい風花を愛している。教えることができないから何かあった時には守る、そう考えていたのかもしれない」

 これまた根拠がないけど、というふうに遥は先に付け足した。

 楓が彼の後に続いた。

「私の父親もね、単身赴任で家にあまりいなかったの。だから愛情がないのかと疑った時もあったわ。でも今は父親に愛されていたんだと思ってる。自分がお父さんと同じ立場にいるからね」

「もし父さんが僕のことを愛しているのなら、ずっと僕の中に留まるんじゃないですか? お互いに薬を飲むと人格が入れ替わっています。愛情があればそうはならないのではないですか?」

「違うのよ、水樹君。薬だけが原因じゃないの。それは神山さんも了承している」

「じゃあ何ですか? また科学的な証拠があるんですか?」火蓮も苦痛に歪んだ顔をして楓を見ていた。これだけのことを一遍に話されて理解できる人間なんていない。

「きっと二人の思い出の場所が関係しているのよ」楓は細い声でいった。「ポーランドでも入れ替わっているのでしょう? 灯莉は賞を受け取る前にプロポーズをしてもらったといっていたわ」

 ……両親の思い出?

 自分の頭の中で走馬灯のように様々な記憶が流れていく。

 ショパンコンクール、百獣の王、文化祭、そして年末のコンサート。それらの記憶が反芻される。

「確かに入れ替わった場所は全て二人の思い出に関係があります」

「そうでしょ。きっと二人はお互いの魂が交錯するために入れ替わったんだわ」楓は優しく告げた。

 ということは、父親はこの年末のコンサートで終止符を打った。

 つまり――。

「きっとあなた達のご両親は今日のコンサートのために入れ替わっていたのだと思う。理由はやっぱりお互いの楽器が関係しているんじゃないかな」

「そうだね。ご両親の最後の親心だと思うよ」遥が付け加えるようにいう。「彼らの夢はコンチェルトを行なうことだった。きっと君達には……絶対に成功して欲しかったんだよ」

 協奏曲『第一番』第三章を思い出す。脳に響いてきた音は灯莉と海が紡いでくれた音だったのだと思った。火蓮とリンクさせて自分にピアノの音を届けるために――。

 そう思うと全ての入れ替わりが納得できていた。

 百獣の王で入れ替わったのも、文化祭で入れ替わったのも、全てこのコンサートのためだったのだ。コンサートを成功させるために予行練習していたのかもしれない。ショパンコンクールで入れ替わりがなかったのは水樹の演奏が終わっていたからだ。

「もちろん、すべて確証はない」神山がまとめるように声を上げた。普段とは違って低い声で諭すような口調だ。「君達二人の魂の証明などできないんだ。魂の存在にもクオリアがあるからね」

 クオリアという言葉が頭の中に浸透し燻っていた異物感が溶けていく。

 うどんが食べたい、酒が飲みたい、煙草が吸いたい、ヴァイオリンが弾きたい。この気持ちはきっと父親の記憶なのだろう。

 父親のクオリアが水樹の体に異変をもたらしたのだ。

 そう考えると何もかも辻褄が合う。人格が入れ替わった時からだったのだ。自分の体が別にあるのではないかという不安は――。

 それは父親の魂が火蓮の体とリンクした時に、水樹の体よりも共通点が多かったためだ。だけどそれは間違いだった。本来の体はなくなっているからだ。

 だからこそ今まで人格の転移が起き何度も苦しむことになったのだ。

「これからは我々を頼って欲しい。私と娘は君達と十年しか時間を共有していない。だけど天谷さんの一家は君達が生まれる前からの付き合いだ。君達は一人じゃない。心情を理解できなくても思いを寄せることはできる」

「……先生」

 水樹は熱くなった目頭を抑えた。僕達は僕達だけで生きてるんじゃない。周りの人がいたからこそ、今の自分があるのだ。それは魂以前の話だ。

「私達の話はこれで終わり。また何かあったら連絡して。いつでも駆けつけるからね」楓と遥は静かに二人で部屋から出て行った。

「私もそろそろ娘と食事の約束があるので失礼するよ、また診察の時に会おう」

「火蓮、また今度ね」

 神山と美月もそういい残してこの場を去った。

 三人になった後、再び部屋が静かになった。一時空いてから、火蓮は突然声を上げて笑い出した。

「……なるほど。俺が風花のことを好きという気持ちは母さんの友情からだったのか。母さんと楓さんの繋がりだったのか……」

「そういうこと」風花は両指を擦り合わせながら小さく微笑んだ。

「全部盛大な勘違いだったってことか。でも何だかすっきりしたよ」

 火蓮は納得いったような顔で煙草に火を点けた。

「兄さん、もう無理はしなくていいんだよ」

「ん? 無理なんかしてねえよ」

「え?だって家の中で散々咳き込みながら吸ってたじゃないか」

 火蓮は返事をせず口から細い煙を吐き出した。

「違和感はあったんだ。だけどそれは心理的なものだったんだろうな。指揮者としての立場もあったし、その上、人格の入れ替わりだろう? 何も考えない方がおかしい。こんな話を聞いた後だと煙草くらい吸いたくなるさ」

 火蓮は近くにあった椅子にどっぷりと浸かった。

「なあ、水樹。お前、今の話、聞いてどう思ったか?」

 水樹が答える前に風花は遠慮がちに声を上げた。

「私も行くね、今日は私よりも二人で話したいだろうし」

 彼女は返事を待たず部屋から出て行った。ドアを開けて覗くと遥と楓が遠くで待っていた。

 風花、そう呼んで彼女が振り向く前にいった。

「僕が難聴を患っているっていうのはいつから知ってたんだ?」

「水樹と海に行ってからよ」

 突然、風花がガードレールに倒れている自転車を起こしている映像が蘇った。自転車で帰ろうといった時に言葉ではなく目で訴えていた。彼女が握っていた貝殻が頭の中で蘇る。

 ……やっぱり風花は僕のことを、僕のことだけを見つめてくれている。

「……そっか。ありがとう、正直に答えてくれて」

「んーん、それじゃまたね」

 手を振って風花を見送った。部屋の中で火蓮は煙を上空に向かって噴き上げていた。

「なあ。俺たちは本当に入れ替わっていないのかな? この魂は母さんのものなのかな」火蓮は煙草を目の前にある灰皿で捻った。

「僕にもわからない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。これがクオリアってことなんじゃないかな」

 そう思った瞬間、体に再び焦燥感が走った。真実を知るためには、まだ一つ足りない。ある匂いが自分の記憶を刺激している。

「兄さん、先にホテルに帰っていてくれ」

「ん? どうした?」

「もう一つ確かめないといけないことがある。それは今すぐじゃないといけない。もしかするとすでに手遅れかもしれないけど」

「いいぞ、行って来い」火蓮は煙草をふかしていった。「その代わり日は跨ぐなよ。必ず帰って来い」

「うん。ごめんね、どうしても必要なことなんだ」水樹は言い終わる前に走っていた。

 ……急がなければ。

 急がなければ、この感覚が途切れてしまう。


  4.


 コンサートホールから出て思いっきり走った。周りは年末ということもあり行き交う人はほとんどいない。彼女がいるとしたらあの公園にしかない。

 噴水が上がっている場所に辿り着くと、黒いスーツを着た女が煙草をふかしていた。

 ……まさか本当にいるなんて。

 駆け出して彼女の前に立った。何度も息継ぎをして、これから話さなければならない内容を頭の中で何度も反芻した。

「観音寺さん? 偶然ですね、こんな所で会うなんて」

 水樹は息を整えながらいった。

「偶然じゃないですよ、僕が走ってここまで来たことは見ればわかりますよね?」

 息を整えようとしても、肺にはまだ充分な酸素がいっていない。気持ちばかり焦っていく。

「どうしてですか? 私のことは嫌いなんでしょう? 会いに来る必要がありません」彼女は首を背けていった。

「好きとか嫌いとかの感情じゃありません。あなたに聞かなければいけないことがあります」

 そう、と彼女は小さく呟いた。

「十年前にもこのホールでコンクールがありましたよね? そこにあなたと僕はいた」水樹は思いっきり息を吸い込んだ。「あなたは鏡花さんなんでしょう? リストの超絶技巧曲をお互いに弾いて、僕が一位であなたが二位になった。それであなたがモーツァルトのドン・ジョヴァンニを協奏曲で演奏した。違いますか?」

 彼女は黙って水樹の言葉に耳を傾けていた。

「ヤンという名前、日本語にすると炎という意味になりますよね? あなたがどういう経由で中国に行ったのかはわかりません。しかしこの公園であなたと出会った気がするんです。どうか、本当のことを教えて下さい」

 ヤン・ミンは煙草の火を消して、呆然と空を眺めた。そのまま視線は固まっていた。あなたに答えることは何もないと語っていた。

「僕には……記憶がありません。それでもあなたには特別な感情があった気がするんです」

 ヤンの視点は水樹に釘付けになっていた。眉間に皺を寄せたままこちらを見ている。

「どうかお願いします。真実を教えて下さい」

「……本当にいっていいんですか?」ヤンの剣呑な視線が刺さる。「後悔することになるかもしれませんよ」

「構いません」

「……そうですか」ヤンは小さく頷いた。「仰る通り、私は鷹尾鏡花という名がありました。あなたと中学生コンクールで腕を競いあっていました」

「……やっぱりそうだったんだ」

 水樹は横に座っていいかと尋ねると、彼女は無言で尻をずらした。

「事故に会った時、あなたは僕の見舞いに来てくれましたね? それは偶然病院にいたわけじゃなくて、あなたも被害者だったんだ……」

 直接的な表現は避けた。それで充分彼女に伝わると思ったからだ。

「被害者という表現を鵜呑みにはできませんけど。そういうことです」彼女はさらに目線を下げた。

「続きを話して貰えませんか? あなたの知っている全てを知りたい」

「それには彼女の了承が……」途中で言葉を止めて視線を逸らした。「わかりました。私の知っていることでよければ、お伝えしましょう」

 ヤンはふぅと小さく溜息をつき、背筋をぴんと伸ばした。

「あなたと出会ったのは十年前、正確には十一年前のコンクールが初めてです。ご存知の通り今日演奏したホールです」

 ヤンは昔を懐かしむように話を始めた。


  5.


 当時、鷹尾鏡花として東京に住んでいた頃。彼女は東京の全日本中学ピアノコンクールに出場していた。本選では課題曲はなく、各自好きな曲を披露していいことになっていた。

 鏡花はリストの超絶技巧曲第5番『鬼火』を弾き、会場を沸かしていた。この曲はコンクールには不向きな作品だった。プロでもミスタッチを起こすような曲を選んだのは、自分自身に重荷を科したかったからに他ならない。

 鏡花はピアニスト・観音寺灯莉を尊敬していた。彼女のピアノに出会い、エネルギーを受け懸命に練習を重ねていた。そしてある時、彼女のビデオを見て異変に気づいた。それはショパンコンクールのビデオだった。

 鏡花も好きな『革命』を弾いている時だ。いつも以上に彼女は右手を激しく鳴らしていた。鍵盤を拳で叩いているような感じだった。それを見た後に本選のビデオを見て彼女は驚愕した。

 彼女の本選、協奏曲『第二番』第三楽章のリズムのズレは音を正確に聞き取れなかったのだと確信した。右耳が聞こえていないため、高音を強く叩いていたのだ。それから鏡花は自分を追い込むように練習を重ねた。

 自分は健常者だ。耳が聞こえていない人物でもあの舞台で二位になっている。自分なら一位をとれるはずだ。そして満を持して彼女に会いたい。それが新たな目標となった。

 自分の出番を終え颯爽と退場したが、次に弾く人物の曲を聴いて彼女は声を上げた。何かの間違いだと思った。

 ……自分と全く同じ選曲をしている。

 次に弾いている人物は観音寺灯莉の息子・水樹だった。彼がコンクールで有名なのは知っていたが、繊細で柔らかい曲を弾くことが彼の持ち味だと思っていた。


 その空想は宙に消えた。


 水樹が奏でる演奏は激しく、魂に揺さぶりを掛けるような熱を持っていた。目にも止まらないパッセージの繰り返しは一つの建物を焼き尽くすように一瞬たりとも静まることはなかった。

 控え室から駆け足で会場に向かうと、鍵盤の上を炎が遊ぶように踊っていた。自分が演奏したものとは次元が違うことをはっきりと認識させられた。そのまま酸素を奪われ息を止めさせられた。

 気づいた時には演奏は終わっていた。これが灯莉のピアノなんだと、自分の耳を通して理解するしかなかった。

 結果はいうまでもなく、水樹の一位で幕を閉じた。しかし悔しくはなかった。彼が将来ショパンコンクールで一位をとってもいいとさえ思っていた。事実、彼は灯莉の息子なのだ。灯莉自身もそう思っているに違いない。そう考えて自分を慰めた。

 会場から出ると、その彼から声を掛けられた。神妙な顔をして、どこか影を持っている感じだった。鏡花は彼と一緒に近くの公園を散歩した。

 水樹の話は今回の演奏会だけでなく私生活にまで及んだ。自分の夢は兄とコンチェルトを成功させること。そのためにピアノを習っているといっていた。鏡花は意外に思った。灯莉の無念を晴らすためだと思っていたからだ。

 水樹は唐突にオペラのチェンバロの演奏を引き受けてくれないかといってきた。

 鏡花は激しくかぶりを振った。今回の大会の目玉はそれだからだ。理由を尋ねると、兄と協奏曲をする方が先だということだった。

 それを聞いて鏡花は激しく講義した。そんなことをしていては兄と協奏曲を弾く所か、ショパンコンクールにすら出られなくなると大声で罵った。ショパンコンクールでは今までのコンクール前歴を提示しなければならないからだ。

 それでもいいと水樹は静かな口調で答えた。

「どうしても叶えたい夢なんです。そのために今日はリストを選んだんです」

 審査員が超絶技巧を好むことを予想していたと彼は付け加えた。

 本来の彼なら繊細な曲を弾きたかったに違いない、と鏡花は思った。しかしコンクールで入賞を果たすために『鬼火』を選んだのだ。有名になることで兄との約束を忠実に果たそうとしているのだと理解した時には、水樹の提案を呑んでいた。

「私の夢はショパンコンクールで優勝することです」彼にそう宣誓すると、彼もまたショパンコンクールを受けることを望んでいた。それは純粋に母を思ってのことだった。

 気がつけば一年先の約束まで交わしていた。本選で彼が『第一番』を弾き、自分が『第二番』を弾く。それは描いた夢の中で最高のものだった。

 余程気持ちが高ぶっていたのだろう。約束が確定した時には演奏以上に胸が熱くなっていた。

 それからは水樹のことを考えない日はなかった。

 

 一年後、鏡花は約束通り水樹と再会することになった。水樹は背が伸びており、成長した姿に彼女は胸を高鳴らせた。

 彼の双子の兄・火蓮とはこの時、初めて会った。双子ということで同じ顔立ちを想像していたが、全くかけ離れていた。火蓮は褐色肌の短髪で、体もがっちりとしていた。兄弟といわれないとわからない程だった。

 そしてその隣には協奏曲で共演した美月がいた。彼女が東京にいた頃、家に遊びに行くほど仲良くなっていた。その時に父親が医者だということも聞いていた。品の良さから漂う金持ち特有のオーラも健在だった。

 ショパン生誕コンサートの次の日、彼らは四人で千葉にあるテーマパークに遊びにいった。その時に美月にお願いしていたことがあった。

 一年以上考えた結果、やはり思いを告げようと思っていた。そして美月の手伝いもあり、観覧車に二人で乗ることに成功した。

 水樹に思いを告げると、意外なことに水樹も自分と付き合いたいといってきた。勢いに任せて口づけを交わし交際が始まった。最高に幸せだった。

 絶頂を迎えてから一ヵ月後、家でいつも通りピアノの練習に励んでいた頃だった。母親が電話を受け取り青ざめていた。どうやら父親のトラックが運悪く乗用車を跳ね、四人家族のうち二人が亡くなったと母親から告げられた。

 鏡花は驚愕した。相手の家族のことも気になるが、父親の様態が一番気になった。

 場所は? と母親に問うと、九州の方よ、といわれた。

 嫌な予感がした。

 病院に駆けつけると、父親は亡くなっていた。病院に搬送される間に亡くなったらしい。過労からくる居眠り事故だったと告げられた。

 彼女は泣くに泣けなかった。父親は自分の学費を稼ぐために紛争していた。音楽高校の学費は通常のものよりも高いからだ。自分のために短距離トラックから遠距離トラックを扱う会社にまで再就職してくれていたのだ。

 ……その父親がまさか事故に遭うなんて――。

 父のことを考えると頭がパンクしそうになった。意識が朦朧とし、何も考えることができなかった。

 母親の付き添いで、相手の家族の所に向かった。どうやら同じ病院に入院しているらしい。相手の表札を見た時には体中の血が一瞬で沸騰し一気に冷めた。

 表札には観音寺と書いてあった。そしてその横に水樹、火蓮と書かれているのを見ると、大股で迫ってくる同い年くらいの女の子がいた。なぜかはわからないが、この子は水樹のことが好きなんだなと直感した。

 彼女は母親に突っかかる前に鏡花の胸倉を掴んで叫び続けた。彼女の長い髪さえも鏡花を捉えているのではないかと錯覚した。父親の起こした行動がこんなにも悲惨なことになっているとは考えてもいなかった。事実、二人亡くなっていると聞いていた時も現実味を帯びていなかった。

 初めてそれを理解した時、鏡花は地面に頭を擦り付けて謝った。胸倉を掴んできた彼女はすでに冷静になっていたが、それでも頭を上げることはできなかった。

 自分の父親が尊敬する灯莉を殺したのだと理解した。彼女の無念を晴らすためにピアノを弾いてきた鏡花には残酷すぎる話だった。

 同い年くらいの女の子は条件をつけてきた。

 水樹の前に二度と現れないこと、彼の演奏には近づかないこと。

 懇願している彼女を見て鏡花は呆然とした。何の目的があって、こういうことをいっているのかまるでわからなかった。てっきり水樹の前で謝って別れてくれというのかと思っていた。

 彼女の許しを請うことは鏡花には関係ないことだった。しかし条件を飲んだ。自分自身に何かを科さなければいけないと思ったからだ。

 病室から逃げるようにして離れると、最近会ったばかりの女の子が棒のように立っていた。こんな偶然が重なるものなのかと言葉を失いかけた時、彼女は優しい目で鏡花を包んでいた。彼女特有のオーラは微かに残っていた。

 開口一番の挨拶がやあ、という素っ気ないものだったが、鏡花には逆にそっちの方がよかった。母親と別れ美月と病院のロビーに向かった。

「……まさか鏡花ちゃんがここにいるなんて思わなかったよ」

 美月はジュースを二本手にして鏡花に一本手渡した。鏡花は小さくお礼をいった。

「私だってそうよ。まさかこんなことになってるなんて思わなかった……」

 美月は長い髪を指に絡めながらこっちを見た。彼女が苛立っている時の癖だった。

「水樹君の所に挨拶に行ったのよね? 幸い一命を取り留めたみたいだけど」

 鏡花は二人の体がどうなっているかということを知らなかった。両親が亡くなったというだけで、二人は病室に寝ている、二人にはそれほど危害がないと勝手に考えていた。自分の短絡的な思考を呪った。

「そうだったの、ごめんなさい……」

「鏡花ちゃんが謝ることじゃないわ」美月は子供を宥めるような優しい目をしていた。

 鏡花は自分の運命を深く恨んだ。デートの時に付き合っていると公言しなかったが、美月は火蓮と付き合っているのだと確信した。

「もう美月ちゃんとは連絡を取らないほうがいいね。ごめんね……」

 鏡花は泣きながら謝罪の言葉を考えていた。しかし、どれをとっても美月を苦しめることになると思い止めた。

 そのまま走り去ろうとすると、彼女は鏡花の腕を掴んだ。

「待って。私もね、鏡花ちゃんにいいたいことがある。だけど鏡花ちゃんが辛いのもわかってる。だからね、一つだけいわせて」

 美月は鏡花を抱きしめていった。

「ピアノだけは止めないで。私、鏡花ちゃんのピアノが好きなの。きっとお互い笑い合える日が来るよ。だって鏡花ちゃんがやったことじゃないのよ。だからお願い……」

 美月は鏡花から離れて不自然に両方の頬を上げていた。無理やりに笑っているのだと思うと、やりきれない思いが溢れてきた。

 ……今は作り笑顔しか作れない。だけど将来自然に笑いあいたい。

 そういう意味が含まれているのだろうと美月を見て推測した。

 美月の瞳は暗闇を払拭する光を放っていた。月の光のようにおぼろげだが、優しい光だった。鏡花にまとわりついている闇が一瞬消えたような気がした。

「……ありがとう。これから私、どうなるかわからないけど、ピアノだけは続けてみる。頑張るよ。ありがとう、ありがとね、美月ちゃん……」

 母親の元に向かった時には涙は止まっていた。家族二人で生きて行かなければならないのだ。歯を食いしばり無理やりに両頬を上げて笑顔を作った。

 鏡花は今やっと自分の使命が見えたと思った。尊敬する灯莉のためにピアノを弾きたいというのはただの口実だった。

 ……自分のためにピアノが弾きたい。

 この命は誰のものでもない。他ならぬ私のものだ。

 私は今、生きている。このまま生き抜いて、ピアノを弾き続けてやる。

 私が生きていける世界はピアノしかないのだ。

 この思いを全て、ピアノに掛けていこう。

 揺ぎない思いはやがて心に火を灯した。今はまだ蝋燭のような小さくてか弱い存在だ。だが灯莉のように、生涯を掛ければ私にだって見える夢がある。

 希望の炎を灯し、鏡花は小さく拳を作り胸に手をあてた。心臓の鼓動音がどくんと高鳴った。


  6.


 風が強く吹いていた。

 水樹は暖かい飲み物を買いに行くと鏡花に告げて、近くの自動販売機を探した。どの道に行けばいいかということさえ考えずに飛び出していた。

 鏡花の話はこれ以上ない哀愁を漂わせていた。自分の魂が父親であるといった仮説があることさえ忘れていた。それくらいの絶望を感じた。

 ……彼女の本当の気持ちだったのか。

 鏡花の真相を知って初めて、彼女のピアノの奥行きを理解できた。ショパンの絶望をこれ以上ない程表現していたが、それは彼女だからこそできるのだと思った。

 鏡花の元に戻った時、彼女の姿はそこになかった。水樹は彼女がいた場所に座り、一人でブラックコーヒーを啜った。久しぶりに味覚が働き、美味しいと感じる。

 十年前、彼女と何といって約束を交わしたのだろうか。きっとこの事故がなければ、お互い別の道があったに違いないと考えた時、彼女の姿が映った。

「もう戻ってこないのかと思いました」

「……私も、あなたが戻ってこないかと」

 そういうと二人は小さく笑った。

 水樹は右腕を差し出した。

「あなたと話せてよかったです。こんなことをいうのも何ですけど、きっと僕はあなたに恋をしていました」

「そういうの、よくないですよ」鏡花は小さく微笑んで水樹の手を握った。「思い出は思い出です。それにあなたには素晴らしい彼女がいるじゃないですか」

 水樹は苦笑いし空いている手で頭を掻いた。

「……そうですね。彼女のしたことは全て、僕のことを考えてくれていたんですね」

 

 中学時代のコンクールの記憶、リストの超絶技巧曲、鏡花の存在。

 これら全てを風花は意図的に消し去った。

 水樹を守るためにやむを得ず、実行したに違いない。

 美月にデートの様子を聞き込み、忠実に頭に叩き込む。家にあるビデオを全て観察し、ストーンウェイが扱われたものを取り払う。鏡花に似せるため長い髪もばっさりと切った。

 全ては水樹の意識を保つため、アイデンティティの崩壊を防ぐためだ。それだけでなく交通事故の詳細を隠蔽することも含まれている。不可解な行動はこの一点に集中していた。

 それは今だからこそ納得できるものだ。もしかすると火蓮のように自分自身を見失い自暴自棄になっていたかもしれない。

 ……風花はどんな思いでこれらのことをやったのだろう。

 そう考えると体中の血が滾った。自分のことを疑いながらも信じ続け、確固たる信念を持っていた彼女へ再び思いを馳せる。言葉では言い表せない感謝の気持ちで溢れていく。

 ……風花がいたから、僕は本当にピアノを弾くことができた。

「私の国には水火同源という言葉があります」彼女は抑揚のない声でいった。「私の故郷には水と火が一体となっている場所があるんです。水と火が一体になる時、魂魄こんぱく、つまり体と魂さえも超越することができるといわれています」

「……なるほど」

 今の自分なら彼女のいっている意味がわかる。二人の体を行き来した自分の魂なら――。

 鏡花は水樹に手を差し伸べてきた。

「十年ぶりの再会ですね。またどこかで会った時にはきっと笑顔で会いたいです」そういって彼女は微笑んだ。その笑顔は優しさに満ちていた。

 彼女の笑顔は水樹の心を大きく揺さぶった。ふっと灯莉の顔が浮かぶ。もしかすると母親に似ているからこそ、彼女に惹かれたのかもしれないという考えが浮かぶ。

「僕もです。きっと今度は笑顔で会えますよ」

 鏡花の手には生命力に溢れた暖かさがあった。絶望など微塵にも感じなかった。

 水樹はそのままくるりと踵を返し火蓮のいるホテルに戻った。後ろを振り返ることはしなかった。


  7.


 水樹の後ろ姿を眺めながら、鏡花は先ほどの言葉を反芻していた。

「きっと笑顔で会えますよ」

 今ならまだ追いかけることができる。もう一度、くらい話すチャンスはある。

 だけど――。

 彼女は手をぎゅっと握った。これ以上、彼に関わっては本当に眠っていた思いに火をつけてしまう。奥歯を噛み締め、懸命に耐えた。

 ……これでいい、これでいいんだ。

 鏡花はベンチに再び座り、セブンスターに火をつけた。最後の一本になっていた。空になった箱を片手で掴んだ。

 彼と話ができただけでいい。それだけで十分幸せだ。何しろ十前には考えることもできないことだったのだから。

 ……今日は本当にいい日だ。水樹だけでなく、昔の友人にも再会することができたのだから――。

 鏡花は再び幼馴染に思いを馳せた。

 まさか同じ質問を同じ日に、二度聞くことになるとは思っていなかった。

 ……彼女に伝えたら、何というだろう。

 鏡花は静かに目を閉じて瞑想した。

 

 ――ホールでの演奏が終わり、鏡花は噴水の近くにあるベンチに腰掛けていた。もちろん演奏の余韻に浸るためだ。背もたれに体を伸ばして意識を宙にやっていた。

 あれほど熱の籠もった水樹の演奏は見たことがなかった。リストの『鬼火』以上の迫力だった。彼のピアノの中には水のような流麗さと、心を揺さぶる火の躍動感が含まれていた。それは灯莉のピアノを受け継いでおり、かつ水樹本来の持ち味が生かされていた。

 自分もあんな演奏ができるようになりたい。全てを照らす太陽と全てを飲み込む海を感じさせるような演奏がしたい。一人分の魂ではできないものだと感じた。

 箱にまだたっぷりと残っているセブンスターを咥え火を点けると、美月が立っていた。

「……やあ」

 美月はすましたように片頬だけを上げて笑っていた。気取っている感じだったが、それが彼女本来の笑い方だったと思い出すと、胸に込み上げるものがあった。

「私も一回だけ吸ったことがあるんだけどさ、全く美味しくなかったな、それ」

 美月は煙草を指差していった。きっと火蓮が吸っていたからだろうと推測した。事故に遭ってから彼女は自分なりに彼の気持ちを知ろうとした結果だろう。

「私にとってはこの苦味がたまんないんだけどね」

 鏡花はそういって吸い込んだ。唇を細め長く煙を吐いた。

 美月は鏡花の了承を求めず、隣によいしょ、といって座った。演奏時のドレスのままだった。今日は観音寺兄弟が主役だったから、控えめなドレスにしたのだろう。

「……ピアノ、続けてたんだね。よかった」美月はぽつりと呟いた。

 美月の顔を見ると、涙が浮かんでいた。よく見ると、すでに涙を流したように目元の化粧が崩れていた。あれだけ激しい演奏をしたのだから崩れて当然だ。ただ、なぜそれを直してないのだろうと不思議に思った。

「……あなたの一言があったからよ」

 そういうと美月は再び笑った。十年歳月を感じさせない笑い方だった。

「今日の演奏は本当に素晴しかった。十年前はあなたがコンマスをするなんて思っていなかったわ」

「どうして?」美月は目を丸くしていった。

「リズムを合わせるのなんて、あなたの柄じゃないからよ。一緒にモーツァルトをやった時のこと、覚えてる? あなたの演奏は凄く綺麗だったけど、ソロの方がいいなって思ってたから」

「……私も苦労したのよ、こう見えてもさ」

 美月は遠くを見つめるように、目を細めていた。そこには十年の間、血の滲むような苦労があったのだと理解した。鏡花も合わせて美月の視線を追った。

「鏡花ちゃん」美月が昔の呼び名をいう。少し照れくさいが少しだけ嬉しい。「今からね、十年前の決着をつけにいくの。私にとっても、風花にとっても」

 風花と聞いた時には体に悪寒が走っていた。彼女の狂気が宿った瞳は十年経っていても心の中で色褪せていなかった。

 決着というのはきっと二人の魂の行方だろう。水樹の演奏の中には彼本来のものと母親のものが含まれていたからだ。それがどちらのものかは鏡花にもわからなかった。

 ただ彼女にはわかっているのだろうと意識が働いた。きっと彼女には彼の演奏の中で判断することができる材料があるのだろう。

「そっか……。今日が美月にとっての再出発になるんだね」鏡花は煙草を口に咥えていった。

「……うん」美月は体を震わせながら頷いた。「正直にいったら怖いよ。今まで信じていたものが一瞬にして消えると思ったら怖いんだ。でもね彼がいたから私はここまで来れた。だからどんな結果が出ても受け入れるつもり」

 彼女の心境は痛いほどわかった。もし水樹との付き合いが十年間続いていたらと思うと、正気ではいられないだろう。

「大丈夫。きっとうまくいくわ」

 鏡花は思いを込めていった。自分も絶望の十年間を味わってきたのだ。それでも今こうしてこの場にいる。どんな問題でも必ず時が解決してくれる。

「ありがとう、鏡花ちゃん」美月は小さく首を縦に振った。

 それに、と鏡花は思った。

 魂が入れ替わっていることが全てではない。仮に違う魂であったとしてもその時間を共有したのは確かなのだ。同じ時を生きたことこそが一番大事だ。

 ……だから大丈夫よ、美月ちゃん――。

「もう行くね」美月は精一杯の笑顔を見せていた。これからの決戦に備えているといった感じだ。

「……うん」頑張ってと心の中で呟いた。

 美月は立ち上がりドレスの裾を広げた。背筋を伸ばした彼女に月の光が当たっている。

 そこには成長した幼馴染の姿が映し出されていた。

 

  8.


 そのバーはレストランの隣にあった。何でも店主が大のショパン好きらしい。

 美月が店に入ると、風花がすでに一杯飲んでいた。きっと彼女の両親は久しぶりに二人の時間を満喫しているのだろう。自分の父親も最終便で帰っている。

 美月が隣に座ると、風花はおつかれさま、といって小さく手を振った。すでにバーカウンターに体が呑まれていた。

 美月が赤ワインを頼むと、風花も手を上げた。

「本当に弱いのね。それ一杯目でしょ?」

「……うん」

「風花はさ、これからどうするの?」美月は届いた赤ワインを口にしていった。「オファーが来れば、全日団に入るの? それとも劇団に戻るの?」

 今日のオケは成功した。プロデューサーの条件も満たしている。自分達が望めば全日団に入ることはできる。

「……わかんない」

「水樹が全日団に入ったら行くでしょ?」

「………」風花は眉間に皺を寄せて唸った。「やっぱりわかんないよ」

「どうして?」名誉ある楽団に入る方があらゆる面でプラスになる。仮に火蓮が劇団に戻るといっても、美月はいこうと覚悟を決めていた。

「……本当にこれでよかったのかなと思ってるの」

 ……何をいまさら。

 美月は怪訝な顔をして風花を見た。しかし哀愁を感じさせる彼女の横顔を見ると、それ以上追求できなかった。

「ごめんね……美月」風花は顎を下げて腕の中にうずくまった。「色んな人に迷惑をかけちゃった。劇団の皆でしょ、全日団でしょ、美月のお父さん、それに……鷹尾さんも」

 風花は声を殺しながら泣いていた。鼻を啜る音だけが定期的に聞こえてくる。きっと他の客に迷惑が掛かると思って無理やり止めようとしているのだろう。

 風花も、いや風花が一番辛い立場にいたのだと美月は噛み締めた。彼女がフルートを始めたのは両親からではない。他ならぬ水樹がいたからだ。

「でも皆、生きている人達でしょ」美月は風花の背中を擦った。「迷惑をかけたと思ったのなら、取り返しはできるわ。これから会いに行くことができる人達なんだから」

「……そうだよね、ごめん」風花は顔を上げた。目は真っ赤になっていたが涙は止まっていた。「ありがとう、美月。ごめんね、愚痴ちゃった」

 ……まったく何で私が慰めているのだ。

 美月は拍子抜けして風花を見た。先程まで誰よりも熱を持って威風堂々と語っていたのは彼女だ。その彼女が今にも崩れそうに儚げな存在になっている。

 でもこれこそが彼女本来の姿だったと思い直す。

「美月はさ、火蓮と結婚したい?」

 唐突な質問だった。あまり考えていなかったことだ。そもそも火蓮が本当の姿だとしても、付き合いたいという思いまでしかなかった。それ以上先を考えるのが怖かったからだ。

「うーん、どうだろう」美月はぼかした後、風花に尋ねてみた。「風花は?」

「私はさ、できなくてもいいなって思ってるの」彼女は顎を引いてきっぱりといった。「私が逆の立場だったら、水樹のことを嫌いになってるかもしれない。色んなことを無理やりに変えてさ、自分の都合がいい方にばっかり持っていって……。水樹が全部知ったらさ、きっと幻滅するよ」彼女はグラスの液体を眺めながら、頬杖をついた。

 そんなことはない、と告げようとして美月は押し留まった。

 確かに風花が行なってきたことはかなり無茶がある。当事者である自分の目から見ても明らかだ。

 しかしそれは水樹を守るためという名目があったからだ。彼が鏡花の近くにいても彼のアイデンティティが崩れなかったのは彼女の心遣いがあったからだ。

「正直にいうよ」美月は胸を張った。ここで慰めの言葉をいっても意味がないと思った。「私が水樹だったら風花のことをまっすぐには見れなくなると思う」

 風花はびくんと体を動かして、グラスを両手で掴んだ。グラスはガタガタと音を立てて震えていた。

「水樹はこれから自分の魂が父親じゃないかと疑うわ。それは終わりのないことだし、何を考えても確証にはならない。そんな不安定な中で、風花が自分を騙していたと知れば疑うこともあると思う」

「そう、よね……」

 風花の眼に再び液体が溢れていた。瞳は滲み彼女の大きな黒目が歪んでいた。

「だからね、風花が変わったら駄目なの」美月は強く、心を込めていった。「これまで以上に風花が強くないといけない。この十年間以上にね」

 彼女はうな垂れていた。これ以上は無理だよ、という心の声が聞こえてきた。

「風花が頑張ってきたのは誰よりも私がわかってるつもりよ。柄じゃない性格だっていうことも知ってる。でもここで諦めていいの? お父さんの魂だからって、水樹を諦めきれる?」

 風花は大きく首を振った。

「むり、絶対むり。仮にお父さんの魂だとしても、水樹じゃないってことにはならないから」赤ワインがグラスから飛び出て彼女の手に掛かっていた。

「……だったらっ」

 美月はぐっと風花の手を掴んだ。ワインで手が滑りそうになったが、折れてもいいというくらいの力で握った。手の中で液体が広がった。

「愚痴をいうのは私の前だけにしなさい。水樹には前と変わらず強がっていなさい」

 風花は驚いて目を見開いていた。黒目で覆われている彼女の目に白色が混じっていた。

「私も約束する。私も風花の前でしか愚痴をいわない。実は一度、失敗しちゃってるけど」そういって美月は微笑んだ。

「そう……なんだ」風花は釣られて笑っていた。その瞳には微かにだが希望の光が見えていた。

 彼女は息を呑んで胸を撫で下ろしてからいった。

「うん……私も約束する。これからも、頑張る。頑張るよ」

 美月は拳を突き出した。それに倣い風花も同じポーズをとる。お互いに拳をコツンと当てた。

 ……きっとこれからも私達は悩み、迷い、答えのない迷路を彷徨うことになるのだろう。

 それでも私には親友がいる。彼女といれば、私達は無敵だ。

 リズムを掴むヴァイオリンに高音のフルートがいれば、まさに清風明月だ。夜道を照らす月光に清らかな風があれば、私達はどこまでも進んでいける。純粋に彼らを追いかけることができる。

 美月はグラスの残りを一気に飲み干した。風花にもちゃんと飲め、という視線をやった。風花はたじろぎながらも一滴残らず流し込んだ。

 その後、二人で拳を上げて同時におかわりを頼んだ。

 

  9.

 

 水樹はホテルに着いた後、地下に続く階段を降りていた。ホテルに帰ると従業員に声を掛けられ、火蓮がいる地下のバーカウンターへ向かった。

 火蓮の姿を見つけると、彼はすでに酔っ払っており眠っていた。

 一杯だけビールを頼み、お詫びを兼ねて彼のグラスに小さく重ねる。ビールの泡が唇についた時、再びカツンとワイングラスがぶつかった。

「……遅すぎる、何やってたんだ」火蓮はバーカウンターに伏せたままいった。擦れた声だった。

「ごめん。ちょっと人と会っていてさ」

 それにしても遅い、と火蓮は声を上げた。べっとりと倒れていた体を起こし、今度ははっきりとした声で告げた。

「まったく。おかげでこっちは危うく一人で夢の中に入ろうとしていたんだぞ」

 そんなに飲むからだよ、という言葉は胸にしまっておく。

「本当にごめん。ちゃんと兄さんの勘定は僕が出すからさ」

「当たり前だっ」そういって火蓮は一気に飲み干した。火蓮は手を上げて次のグラスを催促した。

 火蓮に新しいグラスが届いた後、彼は呟くようにいった。

「お前はこれからどうするんだ? 全日団に入るのか?」

「そうだとしたら、どうするの」

「どうもしないさ」火蓮はきっぱりといって笑った。「これまで通り、俺は火蓮でいる。だから劇団に戻るよ。もう迷いはしない」

 ……兄さんが兄さんでよかったよ。

 心の中で思う。自分も火蓮と同じ気持ちだったが、ここで彼がぐらついているようであれば影響はあっただろう。

「僕もだよ。これからも水樹でいる。母さんのようにストーンウェイを弾くことはもうしないし、ずっとウミハのピアノを続けていく。それが僕の人生だからね」

「……よし」火蓮は水樹の頭を撫で回した。「じゃあ、最後にもう一度あの儀式をやらないか?」

 口元が緩んだ。やっぱり兄弟だなと思った。

「僕もそう思ってた所だ。次にどんな夢を見てもそれは確証にはならない。だけどこれから始まったんだ。これで次の夢が出てきたら、それで納得はできると思う」

 二人は部屋に戻ることにした。着替えを終えた後、水樹の部屋で待ち合わせることにした。

 火蓮が到着した所で、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。

「よし、じゃあ一緒に飲むぞ」火蓮は封を切っていった。

 火蓮は不服そうな顔をしながら薬を飲み込んでいる。きっと硬水がよかったに違いない。

 水樹も薬を飲んで水を一口含んだ。軟水が体の中にすっと馴染んで溶けていく。

「お前はどっちにかける?」火蓮は布団に潜り込んで、水樹の方を見た。

 両親の魂か、自分達の魂かということだろう。

「僕は決まってるけど、兄さんは?」

「もちろん。俺も決まっている」火蓮はにやりと笑った。その笑みには先ほど見た鏡花の笑みが浮かんでいた。

「答えてもいいけどさ、きっと一緒だと思うよ」

 意識が薄れかけてきた。ぼんやりと火蓮が遠のいていく。

「だって、僕たちは双子なんだから」

 火蓮はふんと鼻を鳴らした。「そうだったな。これじゃあ、かけにならない」

「そうだよ、意味ないよ」

「じゃあ」

 二人は同時に声を発した。

「「……夢の中で」」


  ▽.


 目を開けると、ショパンコンクールが終わった後の会場が広がっていた。灯莉は自分が入賞したことに驚きを隠せなかった。ショパンコンクール日本人初の二位が出たからだ。しかもそれを自分が貰えることになるとは夢にも思わなかった。

「あかりぃぃぃっ」海が走りながら自分に駆け寄ってくるのがわかった。灯莉は手を伸ばして大きく手を振った。

「よく頑張った。偉いよ、凄いよ、感動したよ」海はそっと灯莉を抱きしめた。「最高の演奏だった。オレの魂が震え上がったよ、本当に凄かった」

 大袈裟だ、と灯莉は思った。海はいつも子供みたいに無邪気な笑顔を見せてくれる。それが心の支えになっていると気づいたのは灯莉が難聴に掛かった時からだった。

「ありがとう、海」

 灯莉は精一杯の笑顔を見せた。だが海はそれには応えずに灯莉を見つめるだけだった。その瞳には憂いが宿っていた。

 灯莉は声を上げて泣いた。海は何もいわずに自分の体を覆ってくれている。そのまま目を伏せて彼の胸の中にうずくまった。

 悔しい気持ちで一杯だった。第三楽章でテンポが遅れたのは、途中で右耳の振動が激しくなり左耳にまで及んだからだ。右耳を塞いで腹を括っていたが、それだけの覚悟では足りなかったと後悔するしかなかった。

 この大会は五年に一度、もう自分の年齢では出られない。

「もしオレ達の子供が音楽の道を受け入れてくれたらさ、またここに戻ってこよう」海は灯莉の耳元で囁いた。左耳にだった。

 海の優しい言葉が体中に染み渡る。灯莉は服の袖を掴んだまま黙っていた。

「二位ってことは次は一位が目指させるってことじゃないか。まだ終わっていない。君の子だったら、きっとピアノが好きになるさ」

 灯莉は海の肩に首を当て、顎で返事をした。プロポーズだと理解した上での返事だった。

 しかし、いわなければならない言葉は意に反するものだった。

「ありがとう、海。本当にありがとう……。でも」灯莉は全身を震わせながらいった。「私はあなたと一緒になれないわ。あなたは気づいているのだろうけど、私は難聴を患っているの。これも知っていることだろうけど、今の医療では治しようがないのよ」

 海はそれを聞いても灯莉の髪を優しく撫でていた。やはり気づいていたに違いない。海と話をする時、彼は大抵自分の左耳に話し掛けるのだ。きっと自分を受け入れる体制を自然と作っていたのだろう。

 だけど――。

「この難聴はね、子供に遺伝するの」灯莉はいいたくなかった言葉を口にした。「半分の確率でね。あなたの子を生む資格はないわ」

 海は大袈裟に笑った。そんなことは予測しているといった感じだった。

「それが何だ? 半分の確率だろう? 半分は正常な子供が生まれてくるということじゃないか。確かに二人の子供を生めば、お互いに不平等な形で生まれてくる可能性はある。だけど一人だけ生めば、それは起こらない。もし難聴の子供が生まれてきたとしても、二人で支えていけばいい」

 再び感情の波に襲われていた。海はきっとあれこれ自分で考えていたのだろう。それは嬉しい。本当に嬉しい。

 だけど、だけど――。

「……もしね。双子が生まれたらどうするの?」

 海の表情が固まった。予想外のことを聞いているような表情だ。

 彼女はそのまま畳み掛けた。

「難聴の子とそうでない子が生まれたらどうするの? その状態で難聴の子が楽器を弾きたいといったらどうなると思う?」

「それは……」海は何かを考えるように宙に視線をやった。その後、目を伏せた。「考えていなかった……」

 灯莉は胸に手を当てて続けた。いいたくないことだけに海を見ることはできなかった。

「そうなったら家族はバラバラになるわ。難聴の子はきっとコンプレックスに思って二度と音楽を聴かなくなると思うし、生活すること自体が困難になるわ。確実に私の愛情はその子に偏ることになると思う」

 海は黙っていた。彼が口を塞ぐ時は食べ物を食べている時か、音楽を聴いている時くらいだった。無言の沈黙が灯莉には痛かった。

 だけどこれしか道はない。この場で決着をつけることができなければ、自分は一生後悔する。

「確かにそうなれば君の愛情は偏るだろうな。だけど……」海は灯莉の肩を掴んだ。「オレの愛情はもう片方に注ぐことができる。何も問題はない」

「どうして?」剣呑な目で彼を睨む。ここで彼にいいくるめられれば彼を不幸にしてしまう。

「さっきは二人の愛情があればいいといったが、楓を見て思うことがある。彼女は片親だけで育っているけど、何か不足している部分があるかな? オレはないと思うね」

 灯莉は笑うしかなかった。さっきといっていることが矛盾しているからだ。難聴の子が生まれたら、二人で助け合っていくといって、双子が生まれたら別々に育もうといっている。

 海は音楽的な才能はあったが、頭でどうこうと考えるのは苦手なタイプだった。ともかく自分を説得しようとしているのだと思うと、滑稽に思うしかなかった。

 海は難しそうな顔をしながら灯莉の目を見つめてきた。その瞳はいつも通り澄んでいて、何もかも受け入れてやるといっていた。

「無茶苦茶なことをいっているのはわかっている。何なら子供を生まなくてもいい。ともかくオレは君と一緒になりたいんだ。それだけなんだ、だから灯莉……」

 海の方が泣きそうな声になっていた。何であんたが泣くのよ、と心の中で呟いていた。

 海の顔を見ると、今までに見たことがないくらい目を腫らしていた。その姿に思わず噴き出してしまった。本当に声を殺して泣いていたのだと把握した。

「……何であんたが泣いているのよ。泣きたいのは私の方なのに」

「しょうがないだろう」彼は鼻水を啜りながらいった。「出るものは出るんだ。君の代わりにオレが泣いているんだ、ともかくオレは君と一緒になりたい」

 ……何をいっているんだこいつは。

 再び彼と視線が合う。懸命に涙を耐えている海の姿を見て自分の心が決まっていく。彼とならどんな未来が待ち受けていても乗り越えられるかもしれない。楓がいっていた言葉が脳裏に蘇っていた。


 ――結婚なんてタイミングと勢いよ。私には生まれた時から母親がいなかったから、あんまりピンとこないんだけどね。


 彼女は今や音楽業界から離れ、毎朝花市場に向かっている。文字通り、勢いで今までの生活を一変させていた。

「……しょうがないわね」灯莉は諦めたような声でいった。「私も覚悟を決めるわ。その代わり、一つだけ条件がある」

「うん。なんだい? 何でもいいよ」

 ……まさか即答されるとは。

 何も考えていなかった灯莉は今思いついたことを述べた。

「生まれてくる子の名前は私が付けること。それと子供は一人だけ。それだけでいいわ」

「なんだ、二つじゃないか」海はのほほんとした顔でいった。「本当にそれだけでいいのか?」

「もちろん」灯莉は胸を張っていった。虚勢だったが、楓と同様に勢いに飲まれるしかないと思った。

「じゃあ、決まりだな」

 海はとびっきりの笑顔を見せた後、スーツのポケットから小さい箱を取り出した。夕焼けを閉じ込めたようなルビーの指輪が入っていた。

「君に貰ったタクトのお返しだ。オレはあれがあったから今まで目標に向かって頑張って来れた。今度は君を支える番だ」

 灯莉は再び指輪を眺めた。そこには彼の情熱だけが詰まっているような感じがした。

 ……楓もこんな感じだったのかな。

 灯莉は故郷にいる友人を思い返した。あんたもこんな気持ちで決断したの?でも悪い気分じゃないよね。

「……どうかサイズが合いますように」海は念仏を唱えるように指輪を掴んだ。そのまま灯莉の指に滑り込まれていった。

 それくらい確認しておきなさいよ、と心の中で突っ込みを入れながら指輪の行方を見守る。

 指輪はきっちりと奥まで入った。しかし少しだけ緩かった。

「……ごめんなさい」海はその場で土下座した。「次はちゃんととした指輪を持ってきますので、どうか結婚だけは……」

「絶対だからねっ」灯莉は指輪を回しながらいった。「でも得しちゃった。この指輪も頂くわね。娘だったら、プレゼントするのもありかな」

「え?」海は戸惑いながら顔を青ざめていった。「もう貯金が……」

「頑張って溜めて下さいね、旦那様。それまで結婚はお預けです」

「…………はい」

 海はそのまま崩れ落ちるように顔を伏せていた。

 彼女はにやにやと笑いながら指輪を見つめた。

 新婚旅行は再びポーランドでもいいなと考えていた。

 

   10.


「ねえ、風花」

『なあに?』

「やっぱりさ、一旦離れて生活した方がいいと思うんだ」

『どうしてそう思うの?』

「それは……僕の中に入っている魂が父さんかもしれないから」

『お父さんの魂だったら何が違うの?』

「自分の体だからわからないけど、半分は父さんってことだろう? だからさ、申し訳ないんだ」

『何が?』

「今度は父さんじゃないかって疑いながら生活しないといけないんだ。そんなことで一緒に生活できないと思う」

『そうかな』

「そうだよ」

『私はね、そんなの関係ない』

「どうして?」

『水樹と一緒にいることが、一番私にとって大事なことだから』

「……半分は父さんかもよ?」

『それでもいいの。私にはわかるのよ。今の水樹が水樹だってね。小さい頃にさ、海に行った記憶が蘇ったっていったじゃない?』

「うん、いった」

『水樹は貝を耳に当てて遊んでいたの。その音がね、いつも聞こえてくる波の音にそっくりだっていってたの。だから私は水樹が難聴を持っているんだってわかってたの』

「なるほどね、その時からだったんだ」

『でもね、水樹は全く気にしてなかった。難聴だとわかっているのだろうけど、音を目一杯楽しんでた』

「うん」

『私、その時に初めて水樹は凄いなって思ったの。私だったら怖くて、とてもピアノなんて弾けない。だけどあなたは楽しそうに弾いてたの』

「そっか、そうなんだ……」

『だからね、私には関係ないの。ピアノを続けたのは水樹の意志なんだよ。私はピアノの前に座らせただけ。それで嫌になっても構わなかった。でもあなたは新しい楽譜にどんどんのめりこんでいって、ついにショパンに入ったの』

「そうだったね」

『ショパンを聞いた時、やっぱり水樹は凄いなって思った。やっぱり水樹だなって確信したの』

「じゃあさ、僕がピアノを嫌いになって弾かなくなったら、どうするの?」

『ならない』

「なんでそう言い切れるの?」

『水樹とピアノは一心同体だから。離れることはできないわ』

「そうかもね」

『私も……そうなの』

「ん?」

『私もね、水樹と一心同体だから離れられない』  

「うん、僕もだよ」

『お父さんの魂もピアノも全部ひっくるめて、私は水樹のことが好きなの。だから、一緒になろ?』

「何いってるの」

『え?』

「もう一緒じゃないか。一心同体なんだろ?」

『そう、だったね。ごめんごめん』


   11.


 神父が声を上げると共に二人の誓いが始まった。水樹と風花を祝福するように皆、姿勢を正して耳を澄ましている。

 火蓮は美月に目で合図をした。美月は左頬を上げ、ウインクで了解と返してきている。彼女が左手を動かした時に薬指から小さな光が彼の目に飛び込んできた。ルビーの光だった。

 ……よし、行くかっ。


 目を閉じて、微かな風を感じるように耳を澄ませた。

 胸に手を当て、静謐な林を想像し鼓動を落ち着かせる。

 今からここは聖火台に変わるのだ。会場にいる新郎新婦を含めた全ての人間を、暖かい火で包み込んでみせよう。


 ……風花。

 お前、一つだけ俺に『嘘』をついてるよな。

 俺が母さんの魂だってことはわかっている。ポーランドに行った時に、ポーランド語を聞いたこともない俺が現地の記者の喋っている言葉を文句として理解していたんだからな。

 だけどな、一つだけ譲れないことがある。

 このタクトは間違いなく俺のものだ。クオリアを証明できなくても、あの時に見た夢は俺自身のはずだ。

 ……でもこのままでいい。

 俺の使命は二人を守ることだから。

 過去からは逃げない、動かざること山の如しってな。

 火蓮は勢いよく右手を天へと掲げた。

 それと同時に、楓の木で出来たタクトを勢いよく振り降ろした。 

最後まで読んで頂きありがとうございます。


この話は漫画「ピアノの森」とピアニストの友人、そして私が尊敬している東野圭吾さんの小説から助言を頂き生まれた作品です。

私自身、ピアノを習っていたこともあったのでショパンについては元々興味があり、彼の歴史をきちんと調べてみようと図書館に通い詰めました。少しだけ紹介させて下さい。


ショパンの時代、今のように音楽だけで食べていくことはできません。CDなどの印税収入がないからです。ですので、お金を持った方に認めて貰って初めてピアニストとして生活が成り立つわけです。

ですので音楽家の方は一点集中して、自分の技術を磨き感性を高めていたんだと思います。自分の気持ちを言葉ではなく音符に載せてです。


私は花屋をしています。感覚を扱う仕事です。なので、おこがましいですが、彼のような職業は何となくは理解できます。いつも冷静でいられるはずがありません。その時、その時の気持ちが必ず作品に出ているような気もします。彼のように戦争に巻き込まれた方々は特に。

もしよろしければ追加の作品を読んで頂けば彼のことがもっと理解できるかもしれません。

彼の作品の簡単な説明が載っています。またお時間を頂くことになりますが、どうぞよろしくお願いします。


ここまで読んで下さったあなた、本当にありがとうございます。感謝の言葉しか思いつきませんが、私の思いが少しでも伝わっていればいいなと思ってます。

もしよろしければですが、感想と評価を頂けたら嬉しいです。次回作の励みになります。

必ず読ませて頂きますし、返信可能なことならば必ず返信させて頂きます。


※ログインしないと感想が送れない、との声を聞きましたのでこちらにアドレスを載せておきます。よろしくお願いします。


もしまた私の別の作品を読んで頂く機会があれば、またお時間を下さい。次はもっとあなたを楽しませられるよう一生懸命、努力致します。

それではまたお会いしましょう、本当にありがとうございました!


別作品  瞬花終灯しゅんかしゅうとう→http://ncode.syosetu.com/n5031dl/

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