第七章 ヴァイオレットと紫のクオリア
第七章 ヴァイオレットと紫のクオリア
1.
中心を見据え、席についた。
胸に手を当てて心臓の鼓動を確かめる。
大丈夫、今日も心を鍵盤に委ねればいい。
目を閉じて、鼻から小さく息を吸い込んだ。
今からここはショパンの記憶を辿る深海へと変わるのだ。
会場にいる全ての人間を引きずり込んで見せよう。
水樹は鍵盤をそっと撫でるように触れた。
ソロの演奏を終え会場を見上げると、ホール全体が拍手の渦に巻き込まれていた。ほとんどの観客が立ち上がり水樹に向かって手を叩いている。思わず耳栓をとろうと腕が動いてしまう。
……この拍手の音を聴くことができればどれだけ幸せだろう。
そう思いつつ彼は椅子から立ち上がり深くお辞儀をした。
観客が立ち上がっている中、オーケストラメンバーが入ってきて、火蓮は水樹の前で立ち止まり握手を交わした。予定通りの内容だったが、手を見ると小さな紙を掴まされていた。席に座り確認してみると、「耳栓をとれ。俺を信じろ」と書いてある。
……今この状況でできるはずがない。
火蓮の意図がわからず狼狽しそうになったが、彼を見ると理解できた。彼の眼には熱い光で溢れており熱気があった。
静寂の中、火蓮は右手ではなく左手にタクトを持ち代えて水樹の方に鋭い視線を投げている。その瞳には自分を焼き尽くすほどの熱がある。
……まさか火蓮は、父さんと同じように左腕で指揮をしようというのか。
咄嗟に体が震える。火蓮は自分のために指揮を変えるといっているのだ。それはきっと不自由な耳をカバーするためだろう。
……兄さん。
心の中で火蓮を呼ぶ。
……オレは兄さんを信じるよ。
水樹は頭を掻く振りをしてハンカチで両耳の耳栓をとった。
耳栓をとっても音はなく辺りは静かだった。観客席を見ると、すでに次の曲を心待ちにしているようだった。
……もう逃げることはできない。けど逃げる必要はない。
水樹は火蓮に視線をやった。お互いの視線が合った所で火蓮はタクトを持ち上げた。
……オレはオレを信じてくれる兄さんを信じる。
それだけでいいんだ。
2.
ピアノ協奏曲『第一番』
1、第一楽章
バイオリンの荘厳なメロディの中、風花のフルートが鳴り出した。火蓮は左手を意識しながら指揮を執っているようで、彼の指揮に違和感はなかった。きっと前からどちらでもできるように練習していたに違いない。
火蓮の合図を受け、そのまま低音の和音を叩き込み縦横無尽に高音の鍵盤を打ち鳴らす。緩急をつけてホ短調の静かなメロディに入りながら、夢中で駆け抜ける。
……この感覚はいつもとは違う。
耳を閉じている時とは全く違う感覚だった。自ら潜るスキューバダイビングのような緊張を強いられるものではなく、錨を体に預けて重りで引きずり込まれるように穏やかだった。
この感覚も彼によるものだろう。
ピアノのパートに合わせてオーケストラが低音を奏でている。七十秒ほどのオーケストラとの共演が終わった後、再び水樹の独奏に入った。
……オレが好きなのはやっぱりこの音だ。ピアノの音なんだ。
体を上下に揺らしながら独奏を楽しむ。この和やかな雰囲気が次にホ長調から始まる華やかな高音のメロディを生かしてくれる。鍵盤の上を二人の男女が踊るように指を飛ばす。『告白のワルツ』のようにだ。
高速のワルツが最高潮に達した瞬間にオーケストラにバトンタッチを行う。火蓮の鋭い誘導により音は切れ目なく繋がっていく。美月がヴァイオリン奏者を率いて進軍するかのように弦を弾き鳴らし、再びホールに厳かな雰囲気を作り出す。
ヴァイオリンの高音から低音への急降下が心を掴んで離さない。汗を拭きながら次の演奏に入るタイミングを伺う。
オーケストラの低音がポーランドの田園風景を生み出していくようだ。甘く優しい高音のメロディがホール全体に広がっていく。両手で高速のパッセージを行いながら、頭の中にはポーランドの景色を再び思い起こす。
……久しぶりのこの感覚は暖かい。
一人で音に向き合うのではなく、火蓮が、美月が、そして風花が自分の演奏をサポートしてくれている。安心感が音を滑らかにし、ピアノの強弱がつけやすくなる。
コンクールを終え、ついに今第二の夢が動き出した。父親と同じ舞台に立っていると思うと、胸が高鳴り心境は穏やかではいられない。十年前に行なわれた協奏曲を今まさに自分が弾いているのだ。
ふっと心が軽くなり、母親が近くにいるような気がした。
……母さん。やっと家族で望んだ舞台にようやく立てたよ。
母親への思いが激しい鼓動の高鳴りと共にピアノの音もシンクロする。ホルンを含んだ激しい音の洪水の中、ひたすら鍵盤を熱く叩いて曲のクライマックスを迎える。
トランペットの追撃が加わった後、ここに存在する全ての楽器群が音を鳴らすトゥッティで、第一楽章の幕を閉じた。
3.
第二楽章
美月によるヴァイオリンが序奏を奏で、それにあわせて風花が風の調べを唄っている。二人の音色が絡まって月夜になびく風を作っている。
……まさに夜想曲だ。
高音の鍵盤をゆっくりと打ち鳴らし、一つ一つの音が聞こえるように表現する。第二楽章は月の光が射し込むような優しいメロディにしなければならない。
心を研ぎ澄ませ指紋にまで気を使うよう鍵盤に触れる。ホールスタッフも気を効かせてくれているようで、鍵盤が見えるくらいにスポットライトの光を弱めてくれている。
……風花は今どんな気持ちでこの曲を演奏しているのだろう。
日本に帰ってきて初めて風花のために弾いたのがこの曲だった。それが今、風花を含むオーケストラの伴奏付きでこの曲を弾いている。実際に演奏していると、予想していたものよりもはるかに心が落ち着いていた。きっと彼女がここにいてくれているからだろう。
風花の音色はとても優しく軽やかで、頭の中には彼女との思い出が映像と共に回る。
何気ない家での会話、劇団の指揮、懐かしい海での散歩、そして風花の家での一夜。
再び迷いが生じそうになる。偽ってでも風花と一緒にいる道を模索しようと考えそうになっていた。それはいけないことだとわかっているのに。
もう少し、もう少しだけと思っているうちに時間が過ぎていく。まもなく演奏は佳境へ入る。
……風花、君を本当に愛していた。
本当に君に会えてよかったと思っている。これからは君を見守る立場になるけれど、それでも君を愛していることには変わりないよ。
彼女への思いを胸にそっとしまい鍵盤を撫でるようにして第二楽章を閉じた。
4.
第三楽章
火蓮の率いるオーケストラと水樹のピアノが交互にメロディを受け渡す。ロンド形式で始まる第三楽章は最終章に相応しく軽快で壮大な楽曲だ。繰り返すごとに主題に装飾を重ね、最終的に第一楽章と同じく華麗なパッセージに変化していく。
……ついにフィナーレだ。
足の震えを抑えながらメロディを繋いでいく。先程から左耳の奥に水が入ったような感覚がきている。この感覚は徐々に音が濁ってくるのだ。
……この感覚はまずい。
二度目のメロディの受け渡しの時に突如左耳の耳鳴りが激しく高鳴ってきた。左耳の奥からどくんどくんと心臓の鼓動音が激しく聞こえてくる。
……あと少しだ。後五分だけなんだ。
火蓮の方に目線をやると、彼も気づいたようで左腕の指揮が先程よりも大振りになっていた。ここで右耳まで聞こえなくなったら間違いなくリズムが狂う。
心臓の鼓動音を数える。
一、三、六……。いつもの倍のスピード以上で動いている。とても一秒に一回のペースではない。このままでは母さんと同じくリズムを崩して失敗してしまう。
……落ち着け。落ち着くんだ。今からでもメロディを頭に思い浮かべなければ。
曲の終わりまでのメロディを何度も何度も反芻するが、左耳に引きずり込まれてしまう。右耳にも大きく振動し始めオーケストラの音が歪んで聞こえてきている。
もう数秒も持たない。水の中に閉じ込められ窒息死するような恐怖感が襲ってくる。
……もう駄目か。
リズムがわからなければ協奏曲はできない。鍵盤から手を離そうとした時、火蓮が指揮棒を置く姿が目に入った。
――大丈夫、俺を信じろ。
火蓮の声が突然聞こえた。それと共に彼は自分の方に体を向けて十本の指を使って指揮を始めた。指揮というより空中で鍵盤を叩いているようなイメージだ。
――水樹、大丈夫だ。俺と共にピアノを弾け。
耳からは何の言葉も聞こえてこなかったが確かに彼の言葉が届いた。彼の指揮を五感ではないものに委ねそのまま鍵盤に移す。
……何でだろう、耳を伝わらずに音が聞こえてくる。
耳からの雑音ではなく脳に直接音楽が送られてくるようだ。まさかこの音は火蓮から直接受け取っているのだろうか。
脳から送られてくる指令を忠実にこなしていく。すでにオーケストラに合わせている感覚はない。だが確実に弾けているという自信がある。脳に流れてくる音にピアノのメロディが含まれているからだ。
そのまま最後のパッセージに入った。火蓮の顔を見つめながら最後の力を振り絞って鍵盤の上を低音から高音へ縦横無尽に振りかざした。それに追従するかのようにオーケストラが蔓のように激しく絡まっていく。
最後のパッセージを乗り切りフィナーレを迎える準備をする。上半身を鍵盤に近づけ左右同時のユニゾンをなりふり構わず叩き込んだ。
突然、頭の中に百獣の王のフィナーレが思い浮かぶ。演奏者と演劇者の交互の叫びが一つになってホールを震撼させていた。音楽は演奏者だけで作るものじゃない。
――楽器は生き物よ。ピアノは思いを奏でてくれる生き物なのよ。
灯莉の声が水樹の頭の中を浸透していく。心を込めることによってピアノと初めて言葉を交わすことができるのだと再確認させてくれる。
……その通りだ、母さん。オレの心を全てピアノに託そう。
目を閉じて指先だけでピアノに語りかける。
……ストーンウェイ、オレの心を聴いて言葉を交わしてくれ。
みんなに聴こえるように、オレ達の魂の叫びを打ち鳴らしてくれっ!
ピアノが思いを伝えるように叫んでいる。それに合わせてオーケストラの叫びが激しく交錯し、今、一つの音の集合体となろうとしている。
突如、子供の頃に見た藍色に染まった海が蘇る。そこには海と一つとなろうとしている茜色に染まった太陽があった。海と太陽が一つになろうとした時、水樹と火蓮は両腕で終止符を打った。
そこにはかつて見た青と赤が重なってできた紫色の水平線が見えていた。
5.
拍手が鳴り止まない中、水樹は最高の達成感を味わいながら風花を眺めていた。彼女は目を真っ赤にして涙を浮かべている。抱きつきたい衝動に駆られたが、それはもうできないと身を引き締めた。
火蓮の元へ向かい握手を交わす。あの感覚がなければ演奏は失敗していたに違いない。感謝を込めて火蓮の手を握る。美月にお辞儀をして舞台から退場した。
プロデューサーや他のスタッフ達が拍手で迎えてくれていた。プロデューサーは手を伸ばしてこちらへやってきた。
「お疲れ様。水樹君、本当によかったよ。またお願いするからね」
次はもうないよ、という言葉を堪えて会釈を交わす。
「しかし火蓮君も大胆な指揮をするなあ。指揮の途中にタクトを投げ出すなんてね。水樹君、そんな打ち合わせをしていたの?」
「……すいません。ただのスタンドプレーですよ」
火蓮が舞台裏に戻ってきた。額からは汗が滴っている。
「あそこからはピアノがほとんど独奏状態に入りますからね。オーケストラは最後の一節合わせるだけです。それでつい水樹にプレッシャーを掛けたくなったんです」
「そういうことだと思ったよ」プロデューサーはしかめっ面になり言葉を濁した。「次回からは気をつけてくれよ。お互いが兄弟だからパフォーマンスとしていい意味で受け取られるかもしれないけど、今回だけだからね」
「……はい、すいませんでした」
プロデューサーが去った後、泣きながら風花が走ってきた。水樹が手を上げると、彼女は何もいわずに抱きついてきた。体が再び熱を帯びてしまう。
「成功してよかった。本当に、本当によかったね」
火蓮は当たり前だといって風花の頭を撫でた。
「当然だろう。俺達を誰だと思っている」
自信に満ち溢れている火蓮を見て水樹は笑った。
テレパシーみたいな音波の中には彼の懸命な執念まで送られてきていた。きっと火蓮も必死の行動だったのだろう。彼の心は表面に出ているものよりも動揺していた。
「……さあ、二人ともこっちに来てくれ」
火蓮に促されてついていくと、一つの部屋の中に入った。長机が四つ長方形に並べられている。きっと公演が終わった後の場所を予め準備していたのだろう。
火蓮が口を開こうとすると、風花が先に声を上げた。
「演奏が終わったら話があるっていってたよね? その話をここでするの?」
「ああ、今からここで話をしようと思っている」火蓮が冷蔵庫からお茶を取り出して三人分のコップに注いだ。
コップを各自に回し三人とも席につく。
「風花にずっと話したかったんだ。俺達二人のことを」
火蓮はそういって水樹を見た。自分から答えるのはまずいと思っているのか、彼は黙って合図を送っている。
「風花は気づいているかもしれないが………………オレは水樹じゃない」
自分の声を聞いて彼女の顔が大きく歪む。しかし顔つきは優しい。
水樹は小さな声で続けた。
「事故の時からだ……。あの時から魂が入れ替わったんだと思う。オレの魂は水樹の中に、火蓮の魂はオレの中に。つまりオレは火蓮なんだ」
火蓮が躊躇しながら言葉を付け加える。
「俺だってこんな馬鹿みたいな話を最初は信じていなかった。しかし色々考えた結果、これが一番辻褄が合うんだ」
「どうして……そう思うの?」
「ピアノを弾いていて違和感を覚え始めたんだ」水樹は乾燥した唇を舐めながらいった。「事故当時、オレは記憶がないまま風花に促されてピアノを弾いただろう? それでオレはずっとピアニストを夢見ていたんだが、ある日ヴァイオリンを弾いて自分の魂はこっちではないと思い始めたんだ」
「俺もそうだ。水樹と同じようにピアノを弾いた時にこれ以上ない満足感を覚えたんだ。ポーランドに行った時の話をさせてくれ」そういって火蓮は風花の前にカプセル状の薬を置いた。「お互い酒を飲んだ時に薬を飲むと人格が入れ替わったんだ。俺達はすでに三回入れ替わっている」
「やっぱり……そうだったの」風花は細い声を上げた。「私も何かすっきりしなかった時があったんだ。水樹が帰って来てから、四人で飲んだ次の日に火蓮が指揮をしたでしょ? あの時には人格が入れ替わったといいたいんじゃない?」
水樹は重く頷いた。「その通りだ。その時にはオレが火蓮の体に入っていた。だからわかったんだよ。体がしっくり馴染んだんだ」
火蓮が静かな声で続ける。
「今日のコンサートまでと決めていたんだ。何しろ十年も別の体を彷徨っていたんだからな。最後くらい十年の集大成であるコンサートまでやり遂げたいという思いで今日の舞台に立ったんだ」
「だから、今日までオレ達は薬を飲む時間をずらしたんだ。しかしもう一度合わせて飲めばそれで元に戻ると思う」
水樹は深い吐息をついた後、風花の瞳を見つめた。
「それで……風花に一つだけ決めて欲しいことがある」
風花は大きく息を吸って胸を上下している。心を落ち着かせるのに必死なんだと察する。
「……私が決めること?」
「ああ、君にしか決められないことがあるんだ」水樹が次の言葉を口に出そうとした瞬間に火蓮が割り込んだ。「それはお前が俺達二人と十年ずつ付き合ってきたということだ。だから今この場でどちらかを選んで欲しい」
……え?
火蓮を見ると頬を緩めていた。風花との別れを納得していたのに彼の言葉を聞いて再び動揺の波が襲う。
……もし彼女がオレを選んだのなら、再び一緒にいる生活ができるのか?
彼女を見ると、重く頭を悩ませているようだった。ただそれが表情には出ていなかった。
「……いきなりそんなことをいわれても困るよ」
「そうだよな。お前は悪くない。俺達が悪いんだ。こんな状況など考えられるはずがない。けどお前にしか決められないことだ」火蓮は頭を抱えて告げた。
風花はこほんと一つ空咳をし、ゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、それを決める前に一つだけお願いを聞いて貰っていい? これから会って欲しい人がいるの」
6.
中心を見据え彼の存在を確認した。
胸に手を当てて心臓の鼓動を確かめる。
大丈夫、今日もあたしの心は彼の方を向いている。
目を閉じて両手に抱えている花に思いを込める。今からここは一足早い春一番の風が吹く。春の花達がこの式場を一つ先の季節へと導いてくれている。
あたしはただ目的を果たすために前へ進むだけでいい。
風花はドレスを踏まないように自分の胸が高鳴る場所へと踏み出した。
「準備が整いました、どうぞご入場下さい」
顔を上げて係員の指示通り歩いた。ついにこの時が来たのだと溢れ出しそうな涙をぐっと堪え、空を見上げた。曇り一つない快晴だった。今ここで泣いてしまっては化粧が崩れてしまう。気を引き締めて歩いていこう。
夢にまで見た舞台が目の前に迫っている。実現できると信じていた、それは日々の祈りからくるものだと彼女は思っていた。長年願い続けてきた思いがついに身を結ぶ時が来た。
……彼はあたしの全てだ。
彼がいたからこそ、今のあたしはここに存在しているといっても過言ではない。他の誰でもない、彼の音楽が生きる希望を紡いでくれていたのだ。
一歩、一歩前に進んでいくと、拍手の音が徐々に響いていった。普段から拍手を受けることには慣れているが、今日のものは別物だった。自然と緊張が高まり、心臓の鼓動が早くなっていく。
もう一度胸に手を当てて心のコンパスに尋ねてみる。この儀式は習慣になっているが、決して嫌なものではない。彼を確かめる唯一の方法だからだ。心の針は彼を差し間違いないと告げている。
彼の演奏はあたしの心に深く刻まれている。彼のピアノが、彼の音楽が奏でられることで心が自然とシンクロしていく。
あたしの『魂のクオリア』が彼の行方を示してくれるのだ。それは言葉で伝えることができないものだけど、不思議と感じとることができる。
もちろん迷いはあった。彼は決して楽器を弾ける状態ではなかったし彼を苦しめることに繋がることもわかっていた。だけど本当の彼なら大丈夫だという確信が沸いていた。その確信に近づくためあたしは願い続けてきた。
……そのインスピレーションはやはり間違いではなかった。
慎重に彼の元へ近づいていくと、赤いレースの刺繍がしてある絨毯が見えた。絨毯の下にはピンクの花びらが道を作っている。
ホールの中には参列者がびっしりと詰まっており、皆起立していた。自分のために笑みを浮べてくれている者もいる。思わず顔が綻んだ。
後ろを振り返ると、ドレスを掴んでいる子供がにやりと笑った。ウインクで返事を返す。
……大丈夫、このままちゃんと進んでいける。この日のために生きてきたんだから。
目の前には黒のスーツを着た遥が立っていた。彼の目には哀愁を漂わせる憂いと祝福を喜ぶ慈愛を含んでいた。
頭を下げて遥の右手に左手を絡める。右手には昨日の夜中に自分で作ったブーケを携えている。今までこのブーケを作るために父親の手伝いをしてきたのだ。
このブーケはユーチャリスがメイン。花言葉は『純潔』だ。彼に対して行なってきたことを思えば、この花言葉は嘘になる。しかしあたしにとっては自分の気持ちを代弁してくれている花だ。それだけは嘘じゃない。
まっすぐ歩いていくと、友人達が暖かい祝福を投げかけてくれていた。張り詰めていた緊張が少しずつ緩んでいく。
遥が足を止めた。それは手筈通りの動きだった。
……ありがとう、お父さん。
胸に思いをのせ前に進む。神父が教壇の上で本を広げ静かに自分の到着を待っていた。神父の前にはもちろん、あたしが長年付き合ってきた彼が立っている。
彼はくるりと一瞬だけ顔をこちらに向けた。唇が緩んでいた。恥ずかしいのかあたしの顔をちらりと見ると、すぐに顔を戻して姿勢を正した。
……彼もやっぱり緊張しているのね。
心の中でにやりと笑いながら彼の前に辿り着く。彼はそのまま自分に掛かっているヴェールを優しく掬い上げながらまっすぐに顔を合わせた。
そこに立っているのは間違いなく自分が愛している水樹だった。