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第六章 ヴァイオレンスブルー&サイレントレッド

 第六章 ヴァイオレンスブルー&サイレントレッド

 

  1.


「…………熱はなさそうね。よかった」

 ぼんやりと目を開けると風花がいた。

「これは夢か。何でオレの前に風花が」

 風花は優しく笑いながら水樹の頭を撫でてきた。

「何いってるの? 水樹の好きな瓦蕎麦を作ろうと思って材料を買ってきたのよ」風花はそういいながらキッチンに立っている。

「風花がオレの前にいるわけないだろ。オレは火蓮なんだから」

 そういうと、風花は横にいる火蓮に向かって笑いかけた。

「ねえ、火蓮。水樹はどんな夢を見ていたんだろうね?」

「本当にな」火蓮は笑いながら自分の方を見る。「大丈夫か? 最近酒の飲みすぎなんじゃないか」

 立ち上がるとリビングにいることがわかった。ソファーの上で寝ていたようだ。

 頭痛がするが原因はワインだとわかる。テーブルの上にはワインボトルが二本並んでいたからだ。窓をぼんやりと眺めると、すっかり夜の風景に変わっていた。

「本当に大丈夫か? 明日で公演が終わるというのに、お前のために帰ってきたんだぞ」

「そうだぞっ」風花は蕎麦に乗せる卵焼きを切りながら、火蓮の言葉を繰り返した。

 風花がフライパンで蕎麦をジュージューと音を立てている。その料理を本当に自分が食べていいのかすらわからなくなっていた。

「……兄さん」水樹は火蓮にだけ聞こえるよう呟いた。「僕はね……本当は蕎麦よりもうどんが好きなんだよ」

「そうか……」火蓮は動じる様子を見せずに頬を緩める。「でも風花はお前のために作ってくれているんだ。ちゃんと残さず食べないといけないぞ」

 そういって火蓮は自分の頭をごしごしと撫で回した。彼の一言で心の中にあるわだかまりが吹き飛んでいく。

 フライパンの火が消える音がした。風花は三人分皿に蕎麦を盛ってテーブルに運んできた。皿を見比べて見ると水樹の分が一番多かった。

 彼は楽しい食事を満喫した、ように装った。

 

 風花を送るため二人で外に出る。外の空気はひんやりとして一時だけ自由を感じることができた。

 風花は何もいわず腕を絡めてきている。だが素直に喜べる状況ではない、昨日彼女がどこで何をしていたのかという疑惑が浮上していく。

「……大分寒くなってきたね」風花が吐く息は白く、自分に降りかかる距離にあった。

「……そうだね」

「どうしたの? やっぱりまだ頭が痛い?」そういって風花はお互いの額を合わせるように背伸びした。彼女の少し熱を帯びた感触がなんともいえず心地いい。

「大丈夫。外に出たら治ったよ」

 ……この関係は一生続くと思っていたのに。

 心の中で狼狽する。彼女との未来予想図を完成させたと同時に終わりのタイムリミットが迫ってきている。その期限は明日くるかもしれないし、一ヵ月後かもしれない。無限ではないことは確かだ。

「瓦蕎麦美味しかった、今度また作ってよ」

 風花の体を離し手を握った。彼女に自分の気持ちが伝わるように熱を込めた。

「……そっか、それはよかった」

 風花の家の前につく。

 別れ際、水樹は抑えきれず彼女を思いっきり抱きしめた。

「どうしたの?」風花が困惑した様子で尋ねてくる。「今日はいつになく激しいじゃない。昨日は何もしてこなかったくせにさ」

「え?」

「私が手を握ろうとしてもファンの子に文句をつけられるぞって脅してきたじゃない」

……火蓮は何もしていないのか?

 理由はわからなかったが、体は素直で途端に気分がよくなった。

「そうだったかな。ごめんごめん」

「ちょっとだけよってく?」風花が顔を逸らしながらいう。「冷えちゃったでしょ。お茶一杯だけでも飲んでいってよ」

「……ううん、それはできない」

 火蓮に対して申し訳ない気持ちが沸いていく。ここにいていいのはオレじゃない。

「どうしたの?まさか心臓の調子が悪いの?」

「いや、大丈夫だよ」水樹は慌てて首を振った。

「じゃあどうして? 私のことが嫌いにでもなった?」風花はおどけるように告げる。

「嫌いになんて……なるわけないよ」水樹は心を込めていった。「本当に風花のことが好きだよ。出会ってからずっとずっと好きで、それはこれからもずっと変わらない……」

「どうしたの? まさか本当に熱があるとか?」

「いや、そうじゃない。今いわないと……後悔しそうな気がしてさ」

「ん……ありがと」風花はそういって抱きしめ返してきた。「私も水樹が好きよ。ずっとずっと好き。水樹以外なんて考えられないよ。だからこれからもずっとそばにいてね」

 高ぶる気持ちを抑えきれない。全てを打ち明けたくて堪らない。だけどこのタイミングでそれはできないことはわかる。

 ……オレの口からいうのは失礼かもしれないけど、いわせてくれ、火蓮。いや水樹というべきなのか。

「風花、結婚しよう」

 水樹は思いを込めていった。

「年末のコンサートが終わったら一緒の所に住もう。オレにはお前が必要なんだ」

「……うん」

 風花は寄りかかりながら小さく頷いている。言葉だけではなく肩で受け取ったサインが何より自分の心に熱を帯びさせた。

「今日は逃さないからね、嫌だっていっても離さないから」

 風花の家に上がる。遥の気配はなく、そのまま風花の部屋に入った。

「ちょっと待っててね。コーヒー淹れてくるから」

 ベッドの上に座って待っていると、懐かしい写真があった。小学校の時に風花と二人で撮った写真だった。長い黒髪の女の子と、華奢な男の子が二人で写真に向かってはにかんでいた。

 その写真を見て違和感を覚える。妙にフレームが新しい。最近新しいものに代えたのだろうか、写真には不釣合いなフレームに感じる。

 しばらく吟味していると、風花が盆に乗せてコーヒーを持ってきた。前回水樹の家でソーサーを用いたせいか、きちんとしたカップに注がれている。

「あんまり濃くない方がいいでしょ? 体にもよくないしね」

「うん、ありがとう」

 一口啜ったが、苦味しかなかった。それでも自分のために入れてくれたのだと思うと胸が熱くなった。

 コーヒーを飲みながら再び写真を覗く。やはり違和感を覚えていく。

「……ねえ、この写真っていつ撮ったの?」

「これはね、五年生の時かな」

 そういって風花は昔話を始めた。今まで過去の話には触れなかったため、新鮮に感じる。

「水樹、覚えてる? 水樹が髪の長い方が好きだっていうからずっと伸ばしたんだよ」

 全く記憶にない。きっと自分は水樹ではないから思い出せないのだという結論に達する。

「……覚えてる。昔は髪が長かったんだよね。何で切ったの?」

「そういうことは普通訊いちゃ駄目よ」

 水樹は首を傾けた。風花は髪を耳に掛けながらいう。

「まあ、一般的にそういう時は失恋した時っていうでしょ」

「失恋したの? 誰が?」

「私しかいないじゃない」

「誰に?」

「……水樹に」

 えっ、と思わず声を漏らした。

 風花は両手の親指をモジモジさせながらいった。

「最初は断わられたのよ。だから二度目のアタックで、水樹をものにしたってわけ」

 なるほど、と水樹は合点した。横から彼女が自分の首に抱きついてくる。

「……今日ね、お父さんいないんだ。用があるっていって、東京に行っちゃったんだ」上目遣いでじろじろと自分の顔を覗きこんでいる。

 ……今ここで風花と時間を過ごすのは自分でいいのだろうか? 再び葛藤が起き始める。

「ねえ、いいでしょ?」

 この空間には、風花の甘い香りが漂っている。風花の髪、衣服、そしてベッドが目の前にある。

 ……本当にここに自分がいていいのか、自分でいいのか。

「今日は帰らないと。兄さんが心配するからさ」

「……怖いの?」

 風花の声が響き渡る。

 ――自分の人格が違うから怖いの?

 そう訊かれているような気がした。

 ……そうだ、オレはもう水樹ではいられなくなる。

 このチャンスを逃せば次はない。オレはもう風花を愛すことはできない。

 水樹は何もいわず口づけを交わした。自分の気持ちを押し殺すことはできなかった。そのまま部屋の明かりを消して体を合わせた。

 言葉で言い表せないことを体でぶつける。今の状態がずっと続くわけじゃないこと。風花が好きだけどもう触れることができなくなること。これが最後になっても愛し続けること。

 風花も体を強張らせているが、自分の気持ちを汲み取ってくれているようだった。熱く抱きしめたら彼女も細い腕でしっかりと絡めてきた。熱を奪うように口付けを交わすと彼女も負けじと唇を奪ってきた。

 この夜は何度も何度も求め合った。心も体も繋ぎとめていたかった。時間を止めて一つになりたかった。

 なれずとも、風花の体を魂に刻みたかった。

 

  2.


 時計を見ると、すでに昼の十二時を回っていた。どうやらそのまま眠っていたらしい。水樹は慌てて飛び起きて辺りを見回した。きちんと整頓された風花の部屋だった。

 ……やはり離れていたら、人格の転移は起きないのか。

 心の中で安堵する。もし火蓮と離れて生活すれば、入れ替わることは起こらないかもしれない。

 テーブルの上に置手紙が置いてあった。今日で公演が終わりになるので先に出ます、と書いてあった。

 テーブルの上にある香りが残っているコーヒーを啜る。昨日飲んだものではなく今朝風花が淹れてくれたもののようだ。彼女の気遣いに感謝し少しずつ飲む。

 リビングに下りてみると、十年前とほとんど変わらない景色があった。リビングの中にはウミハのピアノが置いてありソファーの前には四十二型のTVがあった。以前見た時はブラウン管だったが今では液晶に変わっている。TV台の下にはビデオデッキがあり、ビデオテープが二つ入るダビング機能があるものになっていた。

 なぜか不自然さを感じる。テレビを変える時はビデオデッキも変えるのが普通ではないのだろうか。

 ……ビデオテープで再生したいものがたくさんあるのだろうか。

 周辺を探ってみたが、そんなに多い数ではなく四,五本のビデオテープしかなかった。ビデオを見比べて見ると、そのうちの一つに題名が書かれていないものがあった。ビデオを縦にして注意深く見るとシールが貼ってあった跡がある。

 申し訳なく思いながらもビデオを再生してみた。風花が映っているものではなく自分が映っているものだった。全日本中学生ピアノコンクールと天井に掲げられている。注意深く見るとそこに映っているピアノはストーンウェイだった。

 ……なぜこのピアノでコンクールに出ているのだろう?

 訝りながら続きを眺める。しかも今回の課題曲はリストの『鬼火』だ。今の自分からは考えられない激しい曲を選考している。一体どういうことなのだろう。

 少しテープを前に戻してみると、鷹尾鏡花という人物が演奏しており、自分と同じ曲を弾いていた。

 コンクールの結果は自分が一位となっていた。

 

 家に帰ると、火蓮の置き手紙が置いてあった。

「携帯に連絡してもよかったですが、お取り込み中だと思ったので手紙を書きました。今日の夜、一緒に食事をしませんか? ご飯を買って帰るので家で待っていて下さい」

 ……ついに来るべき時がきたか。

 水樹は胸の辺りに重いものを感じた。火蓮も我慢の限界が来ているのだろう。普段の彼ならこんな手紙は書かない。やはり自分の考えが正しいのだと今更ながらに怖気つく。

 ピアノの前に座りいつも通り練習に入る。最早自分の人格でピアノを弾いても何の特にもならないことはわかっているが、いつもの習慣で鍵盤を叩いてしまう。

 鍵盤からはじかれる音が耳を通り抜けて体中に流れ渡る。それは意識せず体に入ってくる酸素のようなものだった。ピアノの音を認識するだけで、自分の意識は冷静さを取り戻すことができる。

 ……なぜオレはストーンウェイを弾いていたのだろう?

 先ほどのビデオの映像を反芻する。中学の時のコンクールは二位だったはずだ。それなのに結果は一位となっている。この十年間、ストーンウェイを弾いていない自分がだ。しかも曲はリスト。何かの間違いだと思うしかない。

 ピアノの音が急速に濁っていく。意識を集中しなければピアノを弾くことができなくなっている。こんなことでは駄目だ、オレがオレでなくなってしまう。

 ……ピアノを弾いていないと水樹でいられない。

 火蓮の帰りを忘れるために水樹はピアノに心を委ね続けた。


「悪い、遅くなったな」 

 彼は手刀を切りながらリビングに入ってきた。隣には風花はいない。今日ばかりは断わったのだろう。

「お前、まだ飯は食ってないだろう?」

「うん、食べてないよ」

「そうか……よかった」火蓮はビニール袋を開け何かを取り出そうとした。「晩飯はこれだ」

 そういって火蓮はプラスチック容器に入っているうどんと蕎麦を取り出した。

「どちらでもいい。お前が好きな方を選べ」

 火蓮の眼は真剣だった。これが食事だけでなく他の何かを決定させるような眼光だった。

「兄さん、これってもしかして……」

「昨日お前はうどんの方が好きだといったよな」火蓮は淡々とした口調でいう。「もちろん、うどんを食べてもいい。だけど蕎麦を食べてもいいぞ。どちらかを選べば俺はその反対側を取る」

 再び火蓮に目が向く。彼の表情は変わらず自分の動きを全て観察しているようだった。

 ……やはり、これは食事を決めるだけではない。

 これはつまり自分がどちらの人格を選択するのかという意思表示ではないだろうか。うどんを食べれば火蓮の人格として、蕎麦を食べれば水樹の人格として生きることができる。彼はそういっているのではないか。

「水樹……お前はどっちを選ぶんだ?」


  3.


「僕は……」

 ……ああ。そうだったのか。

 心の隅に留めていた記憶を思い出す。火蓮は一年前にも同じことをして自分の意識を尋ねてくれていたのだ。

 あの時も、確か――。

 

 ――一年前、風花と三人で飲んだ次の日だった。風花にショパンコンクールのことを説明しておらず、風花の機嫌を損ねないように応対していると、火蓮を家から追い出す形になってしまった。

 次の日に詫びようと玄関で火蓮の帰りを待っていると、彼は特に怒っておらず蕎麦とうどんを買ってきているだけだった。

 その時自分は迷わず蕎麦を選んだのを覚えている。特に彼の表情に変わりはなかった。

 あれは……ただ食べ物を選ぶだけじゃなかったんだ。

 どちらを選んで生きていくのかという確認作業を仄めかしていたのだ。


「……僕は正直にいったら蕎麦が食べたい」水樹は思いの丈を口にした。「だけどそれは許されないと思っている」

「なぜだ? 遠慮しなくていい。蕎麦を食べればいいじゃないか」

「そういうわけにはいかない。兄さんはさ、本当は……蕎麦を食べたいんでしょ?」

「俺はうどんでもいい。お前が好きな方を選べ」

「いいや、違うっ」水樹は声を荒らげた。「兄さんは本当は蕎麦が好きなはずだ。兄さんは前から知っていたんでしょ? 一年前からずっと……」

 火蓮は自分よりもずっと前に気づいていたのだろう。だが彼は折れずに火蓮としての人格を失わなかった。

 彼のきっかけはきっと劇団の指揮をとったことだろう。ヒヒの言葉が蘇る。


 ――過去は痛いものだ。しかしそれが本当の自分である。痛みから逃げずに今の自分の使命を果たさなければならない


 この言葉こそ火蓮を激励していたのだと気づく。四人で食事をしていた時にも同様の言葉を発していた。


「アメフトの選手には必ず一つの使命があるんだ。皆それぞれの役割を全うして初めてチームを組むことができる」


 この使命という言葉が火蓮を変えたのだ。

 彼の使命は火蓮として生きて風花を守ることだ。

 自分に与えられた役割を彼は全うしようとしたのだ。きっと元の体への葛藤があったに違いない。毎日彼女と仕事で顔を会わせても触れることさえせずに、弟との遠距離恋愛を応援した。自分が留学すれば風花を一人にしてしまう、そう考えてフランス留学を止めたのだろう。

 全ては火蓮としての使命を果たすために――。

「兄さん……。今まで本当にありがとう」 

 火蓮は意味がわからないといった表情で笑った。

「どうしたんだ?何かめでたいことでもあったのか」

「……そうじゃない、そうじゃないんだ……」

 火蓮は留学は博打といっていたが、彼の成績であれば博打ではないと思っていた。何かわけがあると思った。それがまさかこんなことを考えていたなんて。

 そんな気が滅入るような毎日を繰り返して来てそれでも自分に対していい兄貴を演じてくれていた。

 いや、今もだ――。

「今まで兄さんに迷惑を掛けて来たことを謝りたくなったんだ。僕が本当に駄目な弟だと気づいた。それで急に礼がいいたくなったんだ」

 火蓮は呆気にとられたようで目を丸くした。だが口ぶりはいつものままだった。

「そうか。水樹は本当に子供だからな。もっと俺のことは褒めていいぞ? 俺の苦労は底なしだからな」

「本当にそうだと思う。だからこそちゃんと謝りたい。気がつかなくてごめん」

 火蓮は嬉しそうに笑った。

「そうかそうか、やっと気がついたか。お前も本当にいい兄貴を持ったよな。わかった所で飯を食おう」

 きっと水樹が気づいていなければ、他愛もない食事の話題で終わるつもりだったのだろう。そのためにこんなまどろっこしい茶番を行なっているのだ。いつの日か自分の記憶が戻ることを待って。

 火蓮は自分の方からうどんを取ろうとしていた。しかし水樹の方が耐えられなかった。

「もういいんだ。もう自分を偽らないでいいんだ、兄さん……」火蓮の手を掴み懇願した。

「何がいいんだ? じゃあ今日は蕎麦を貰おうかな」

「そうじゃない、もう火蓮を演じる必要はないといっているんだ。僕にはわかっている」

「何をいってるんだ、水樹」

 そういって火蓮は煙草に火を点けた。彼の部屋には煙草が一箱しか残っていなかった。いつもカートン買いをしていた彼がだ。特別に考えていなかったが、煙草を吸うことにも疑問を感じていたのではないだろうか。

「兄さん、本当はピアノが弾きたいんじゃないの? コンサートの時に確信したんでしょ? 本当の自分の体は僕の方だと」

 火蓮はわざとらしく大きく笑った。

「そんなわけないだろう。人格の転移で少し混乱しているようだな。俺は火蓮だし、この先もずっと火蓮だ」

「じゃあなぜ留学を止めたの?」

「それは前にも話した通り――」

「違う、兄さんはこの一年間で気づいたんだっ」水樹ははっきりといった。「そして一つの選択をした。火蓮として生きることをだ。僕がポーランドに行く前から気づいていたんでしょ?」

「何もないさ。俺は指揮が執りたかったから仕事を選んだだけだ。百獣の王を選んだのも偶然だ」

「いや、それは偶然じゃない」水樹は語気を強めた。「川口先生から聞いたよ。初めから劇団の指揮を選んだんでしょ? 川口先生にお願いしたんでしょ」

 火蓮は表情を変えずかぶりを振った。

「コネクションを使ったのは確かだ。だがあれは確実に決まっているものではなかった。自分の熱意で勝ち取ったと思っている」

「そんなはずがないっ」水樹は大声で怒鳴った。「あれだけ自分の力だけを信用していた兄さんがコネを使うはずがない。だけど理由はわかっている。兄さんは劇団のヒヒの言葉がきっかけになったんだ」

「ヒヒの言葉? なんだそれは」

「過去から逃げずに使命を全うする、というセリフだよ」火蓮をまっすぐに見て答える。「兄さんはそれで自分を変えようと思ったんだ。だから留学を止めて劇団の指揮を執ることにしたんだ」

「それは違う。前にも話した通りコンクールに出るということは修行であって仕事じゃない。俺は早く社会に出たかったんだ」

「じゃあなぜ美月の申し出を断わったの? 昔から共演した時に付き合おうと決めていたんでしょ?」

「それは……」火蓮の表情が薄くなり始めていた。それでも語気は強い。「年末のオーケストラのためだ。その前に付き合うと不都合になると思ったからだ」

「それこそ違うよ」水樹は大きく首を振った。「彼女と同じ時間を過ごすためにわざわざヴァイオリン科に入ったんでしょ?矛盾しているじゃないか。音楽のためなら付き合うのが自然だ。ずっと前からの約束を破棄する理由にはならない」

「すまない……美月に対して心が冷めたんだ」火蓮は歯を食いしばるようにして言葉を並べた。「恋愛でも仕事でもいいパートナーになれればと思ったがそれは叶わなかった。美月のヴァイオリンは素晴らしい。だから仕事だけでも繋がっていたくて、わざと引き止めるようなことをいったんだ」

「違う、絶対に違うっ」体中の熱が暴走する。「仕事で繋ぎとめるためならやはり付き合っていた方がいい。それが偽りだったとしてもそっちの方がオケは成功する。正直にいってくれ、今の体が自分の体じゃないと感じたからなんだろう?」

 火蓮は一瞬黙った。そして躊躇いながらぽつりと呟いた。

「……風花のことが好きになったんだ。お前には悪いが風花の近くにいたいから百獣の王の指揮を選んだ。これでいいか?」

 釈然としないが、その気持ちは本当だろうと思った。何しろ小さい頃はずっと風花と一緒だったからだ。事故がある前まで一緒にいた記憶があるのだろう。

「そうだとしてもそれはやっぱり理由にはなっていないよ。じゃあ一昨日人格が入れ替わっても風花に対して何もしなかったのはなぜなんだ? 風花は手も握ってこなかったといっていたよ」

「もちろんお前に対して遠慮したからだ。どうせすぐにばれることだし、肉体の繋がりを求めることだけが愛じゃないだろう?」

「……そうかい。そこまでいうのなら仕方ない」

 水樹は二階に上がって鍵が掛かったヴァイオリンケースを持ち運んだ。

「そこまでいうのならこれの説明をして貰おう。これは兄さんが壊したんだろう?」

 火蓮の顔が一気に固まるのがわかった。

「お前、鍵がないのに開けたのか? とんだ馬鹿力だな」

「冗談をいってる場面じゃないっ。兄さんの体に転移した時に開けたんだ。落として壊したなんて嘘はつかないでくれよ。これは父さんの形見なんだ。何度も叩き付けた跡がある」

「それは……」

 これを見せられるとは思っていなかったのだろう。火蓮は口を半開きにしてぱくぱくと動かしていた。

「兄さんに入っている時に夢を見た。最初は僕が演奏していたと思ったんだ。でもそうじゃなかった。兄さんは僕がいない時、壊したんだ。一年前にね」

 火蓮の顔に戸惑いの表情が浮かんでいく。そのまま畳み掛けていく。

「もう一つ説明を求めたいことがある。それはピアノだ。一年も経たずにポーランドに向かったからといって、これは前あったピアノじゃないことくらいわかる」

「俺は一年経ったから、調律師に頼んだだけだ。別になにも細工をしていない」

「……兄さん、僕の眼はごまかせないよ」水樹は一つ吐息をついて思いっきり深呼吸した。「同じピアノでも一つ一つ感触が違うんだ。車だって大量生産されても故障する部分は違うだろう? 調律しても鍵盤の感触は変わらない。それくらいのことはわかっているはずだ」

 火蓮はごくりと唾を飲み込んだ。その音が沈黙の中ひどく響く。

「一年間、ここにピアノはなかった。僕が帰って来てから兄さんはピアノを準備したんだ」

 火蓮から汗が滴り落ちる。しかし何もいわなかった。何もいえないといった表情していた。

「もう、隠さなくていいんだよ。この部屋の壁紙は煙草の煙で他より黒い。だからピアノがあればその裏の壁紙は白いはずなんだ。けどピアノの裏にある壁紙も黒くなっていた。つまりここに一年間ピアノは置かれてなかったということになる」

 火蓮の血の気が一気に引いていく。

「このピアノはつい最近来たものだ。そうでしょ?」

「…………」

 火蓮はうな垂れるようにして何も話さなくなった。

 一時の沈黙が流れても、火蓮はソファーに座り込んで頭を抑えたままになった。何が何でも黙っていたいらしい。

「どうして……どうしてそこまで自分を偽るんだ」

 火蓮の気持ちがまるでわからなかった。自分が逆の立場なら、間違いなく実行することはできないことばかりだった。

 家に帰っては弟と自分の恋人が楽しく話しているのをぐっと堪え、わざとおどけてみせる。本来の体を得ても風花には指一本触れず、ごまかしたのだ。

 自分に対してもわざと気づいていないように振舞っていた。ピアノを弾けるのが当たり前なのにわざと驚いてみたり、瓦蕎麦を水樹が作った時もわざと軽口を叩いてみせていた。当たり前のように自分に歩調を合わせていた。

 それがどれだけ辛いことなのかはわからない。言葉で表せるものなのかどうかすらもわからない。

「……どうして、どうして兄さんはそこまでするんだよ……」

 目から雫がぽたぽたと流れてゆく。火蓮のことを考えると胸が締め付けられ身がよじれそうだった。自分のせいだと思うと、なお一層苦しみは増していく。

 長い沈黙が流れても火蓮は口を一文字に閉じていた。水樹は声を殺さず激しく泣いた。本当に泣きたいのはきっと火蓮の方なのに。

「……もう限界なのかもしれないな」

 火蓮は肩を落として水樹の傍にきた。

「…………わかった。俺の考えていたことを全て話そう。ただし風花と美月には絶対に話さないと約束してくれ」

 水樹は目を抑えながら小さく頷いた。


  4.

 

「俺は去年から自分の体に違和感を覚えていた。それはピアノの音に対してだ」

 火蓮は呟くように告げ始めた。

「去年母さんのビデオを見てから、俺は本当にこっちの人格でいいか疑うようになった。お前はコンクールに行く前あのビデオを毎日見てたよな?」

「うん、そうだったね……」

 水樹にも確証はあった。自分自身も百獣の王で指揮を行った時にいいようがない心地よさを感じたのだ。元は自分が指揮者を目指していたのではないかと思うくらいに。

「お前がポーランドに行っている間、俺はピアノを弾いてみた。すると弾いたこともないのにピアノがすらすらと弾けたんだ。母さんが好きだった『革命』がな」

 冷たい風がすっと背筋を撫でる。ショパンコンクールで絶望的な『革命』を弾いた中国人の女を思い出した。

「兄さん……もしかして」

「ああ、中国人のヤン・ミンという選手が弾いていただろう。あの人は母さんと全く同じ弾き方だった。あの時俺はトイレに行かず彼女に話し掛けに行ったんだ」火蓮は思い出すようにいう。「話し掛けると日本語が流暢だったよ。彼女は母さんに憧れていたらしく、母さんのコンクールのビデオを何回も見てあの弾き方を会得したらしい」

「やっぱり、そうだったのか……」

 ……それで火蓮はあんな冗談をいったのか。

 水樹はコンクールの三次予選を思い返した。火蓮はヤン・ミンの演奏が終わった瞬間にホールから出て行ったのだ。それは記者会見の前に彼女を捕まえたかったからに他ならない。

「ピアノを壊したのは俺だ。自分が誰だかわからなくなって暴れた結果だ、本当にすまない」

 ピアノの調律というのはやはり嘘だったのだ。中身が入れ替わっていたのは水樹もわかっていたことだが、まさか火蓮が壊したとは思っていなかった。 

「そしてこれをお前に話すのは辛いが風花のことだ。俺は小さい頃から風花と一緒に遊んでいた記憶がある。いつも、二人きりだった記憶がな」

 愕然として彼の言葉を飲み込む。わかっていることだったのに、火蓮の熱い口調で話されると心臓がずきずきと痛む。

「高校一年の時に風花と観覧車に乗った記憶はある?」

 ああ、と火蓮は首を垂らしていった。

「高校の時かどうかわからないが、風花と二人で乗った記憶がある」

 体が強張るのがわかった。椅子に座っているのに足が震えている。わかっていたことなのに……。

「兄さん、事故の時の記憶は残ってる?」

「ああ。確かトラックがぶつかって来たんだよな。そしてそのまま病院に搬送された」

「トラックのぶつかった音は聞こえた?」

「いや、聞こえなかったな」

「じゃあガードレールにぶつかった音は?」

「それもわからない。覚えていないだけかもしれないが」

 水樹は大きく首を振った。

「違うんだ。兄さんは覚えていないんじゃない。聞こえなかったんだ、イヤホンで音楽を聴いていたから」

 あの時、水樹の体はイヤホンで音楽を聞いており、火蓮の体は本を読んでいた。

「そうだった。俺は演劇を見た後にそのCDを買って聞いていたんだ。お前は…………」

「うん。僕は激しい金属音が鳴ったのを覚えている。本を読んでいたんだからね」

「しかしイヤホンだけでそんな音が防ぎ切れるわけがない。まさか……」

「……そうなんだ」水樹はゆっくりと頷いた。「左耳の鼓膜が破れている。聞こえるわけがないんだ」

 事故によって音が聞こえなくなっている、それは確かな証明だ。

「ガードレールにぶつかった時、兄さんの体は僕の体の上に乗っかっていたらしい。ガラスが刺さったのもそのためだ。そしてその時に僕の体の鼓膜は破れた」

「つまり俺の体がお前の体を守るために上に乗っかったということか?」

「そう……みたい」

 火蓮は落ち着きを取り戻そうと体を何度も上下させていた。自分の信念が砕ける所を見せたくないのだろう。

「僕達が入れ替わっているということを確かめる方法はない。きちんとした記憶もない。だけどこれだけの材料があるんだ。どう考えてもお互いの人格が入れ替わっていると考えるしかない」

 火蓮はそれでも首を縦に振らなかった。

「だがそうとは言い切れない。とりあえず様子を見た方がいい。神山先生の話では魂が入れ替わるということは絶対に有り得ないらしい」

 神山の話によると『クオリア』の違いから十年もの長い時間耐えることはできないらしい。

 『クオリア』とは五感を司る記憶によってできた感覚のことだ。美味しい、不味い、苦しい、きつい、嬉しい、青い、赤いなどの感覚は他人に言葉を使って表現することができるが、自分本来の感覚は変えることができないらしい。

 仮に魂が入れ替わっていたとしたら、今まで感じた感覚を崩壊させることになり、人格を形成することは有り得ないということだった。

「俺達二人は十年間生きている。俺はこの話を信じていたからこそ、お前に話さなかったんだ」

「それは有り得ない。兄さんだって自分の体なんだからわかるだろう? 僕の体を動かした時に馴染んだんじゃないのかい?」

 火蓮は否定しなかった。つまり肉体と精神に違和感を抱かなかったというわけだ。

「僕は自分の体のことを理解しているつもりだ。このまま自分を偽ることができない。例え十年以上自分の肉体を離れていたとしてもだ。兄さんはピアノが弾きたくてしょうがないんだろう? だからピアノを壊さなきゃ自分を保てなかったんだ」

「そんなことは、わかっているっ」火蓮は勢いよくテーブルを叩き付けた。「俺だって今日が最後の公演になるのに指揮なんか執りたくなかった。体が拒んでいるんだ。だけど仕方がない。俺は俺なんだ。違和感を覚えようとも、やる気が起きなくてもやるしかないんだ。十年以上辿った足跡は消せない」

 水樹も同じ気持ちだった。だからこそ楽になろうといいたかった。

「こんなこと……俺だって知りたくなかった。何も知らなければ今まで通り当たり前の生活ができたんだ。フランスで美月と一緒に住む計画まで立てていたんだんだぞっ」火蓮は頭を抱えて視線を落とした。「もしかしたら俺の魂がお前の体に還ろうとしているのかもしれない。元あった場所に……」

 水樹も同感だった。身を焦がすような焦燥感はきっと自分の体が『火蓮』に戻ることを意味しているのだと思っていた。薬で意図的に変わるものではなく、じわりじわりと魂が抜け出る感覚がきている。

 昔、覚えていた曲がどんどんと消えていっているのだ。楽譜を見なくても弾けていた曲が次第に減ってきており、楽譜を見なければ弾けなくなっている。そして楽譜を見れば弾けていたものが、楽譜を見ても体が追いつかなくなっていた。

 このままいけば、ショパンの曲が弾けない所かピアノを扱うことができなくなるだろう。それは十年間掛けて積み重ねてきたものを一瞬で失うことを意味した。

「記憶の衰えというのかな? 普段以上に努力して、やっと緩やかに落ちていくといった感じだ。お前も感じているんだろう?」

 水樹は小さく頷いた。

「……うん。僕もピアノを弾くことがこんなに辛い作業になるとは思ってなかった」

「そこでだ、今一番の問題は年末のコンサートにある」火蓮は振り絞るように声を出した。「俺はあそこまで自分の意識で指揮を振りたいと思っている。一番大きい夢だったんだ、親父を目標にしてずっとここまでやって来た。そこで提案だ。薬を飲む時間を変更して、なんとか人格が入れ替わるのを防ぎたいと思っている。お前はどう思う?」

「……うん。賛成するよ」水樹は小さく頷いた。自分自身もその考えに賛成だった。こんな中途半端なまま元の肉体に戻ることはできない。

「じゃあこうしよう。俺は昼の十二時に飲む。お前は夜の十二時に飲む。これなら薬の効果が続いたとしても、人格が入れ替わることはないだろう」

「そうだね、それがいい」

「俺はコンサートが終わるまで吸いたくない煙草を吸い続ける」火蓮は苦虫を潰すような顔でいった。「飲みたくもないワインを毎晩飲む。体が受け付けないのはわかっているが、少しでも習慣を続けないと俺の意識が薄れそうだ」

 やはり火蓮は違和感を覚えながら喫煙と飲酒を行なっていたのだと改めて理解した。

 水樹も火蓮に誓った。

「じゃあ僕は吸いたい煙草もワインも我慢する。年末のコンサートまでの辛抱だ。できる限りピアノを弾くよ」

「その方向で行こう。全ては今までの自分にケリをつけるため、そして何といっても風花のためだ」

 風花のため、という言葉に水樹は息を呑んだ。

 ここで打ち明けたら風花はまともな演奏はできないだろう。もちろん自分達にとってもだ。

「なぜ僕たちはこんなに真反対なんだろうね。双子なんだから寄り添うように生きていれば、こんなことにはならなかったのに」

「親父達の愛情の違いからだろう」火蓮はワインをきつそうにぐぐっと飲み込んで答えた。「父さんは俺、母さんはお前にしか愛情を注いでいなかった。その結果、お前はピアノにのめり込みピアニストに、俺はヴァイオリンに埋もれ指揮者を目指すようになった。お互い自分の得意分野ができる方に愛情がわくだろう」

 ……絶対に認めない。

 火蓮の熱い意思を感じる。折れずに負けなかった彼のためにも、自分もできる限り努力し続けよう。

 

  5.


 ……また駄目だ。

 水樹は溜息をついて、意識を集中した。

 テンポが遅れる、強弱の幅が小さい、次の音の予測ができない。もっと正確に曲のイメージを捉えなければ。

 ……よし、もう一度だ。

 鍵盤に再び両手を重ねる。深呼吸を行い、水のイメージを膨らませる。息を吐くのと同時に鍵盤を撫でた。

 ……まだまだ練習が足りない。

 このままでは本番を迎える前にお互いの人格が入れ替わってしまう。もっと練習しなければ。

 火蓮と話し合ってから一週間経っていた。水樹は自分の限界に挑戦するようにピアノに打ち込んでいた。

ざるのように消えていく記憶を楽譜を読み漁ることで抑え、触りたくもない鍵盤を何時間も叩き、頭の中で回っているヴァイオリンのメロディやワイン、煙草の味覚を打ち消した。それは拷問ともいえる作業で苦痛の連続だった。

 酒の匂いを感じると体が強制的に冷蔵庫に向かい、煙草の匂いを嗅ぐと火蓮の部屋のドアをぶち壊して箱ごと火を点けたくなる。テレビでヴァイオリンの音が流れると発狂せずにはいられない。

 日々の欲求を満たすためには蕎麦だ。食べたくもない蕎麦を口にし無理やり飲み込むのだ。食後には不味いコーヒーを啜るが、何度飲んでも舌が拒絶した。体が人格を否定した。

 ……しかしこの苦行も来週までだ。

 消えかかっている魂の灯火を燃やすのは来週まででいい。体内時計はすでに崩れていたが、そこまで踏ん張ればいいということはわかっていた。

 明日から東京に入り、翌日にはオーケストラを交えての予行練習が始まる。本来なら協奏曲を演奏するだけなのだが、水樹にはその前に独奏が待っている。

 曲の編成は決めていなかったが、一つは確実に決めていた。全力で挑める曲。それは『革命』しかない。当初は『革命』ではなく『バラード第三番』などの優しい曲を合わせていこうと考えていた。しかし火蓮にあれだけの演奏をされたら心を抑えることはできない。自分の思いをありったけぶつけたい。

 ……彼女はどんな思いで弾いていたのだろうか?

 三次予選で弾いていたヤン・ミンの顔が思い浮かぶ。火蓮のように身を焦がしながら弾いたのだろうか? それとも感情を抑え冷静に弾いたのだろうか?

 火蓮とはあれからほとんど口を聞かなかった。彼もまた自分とは逆のことで苦しんでいたからだ。飲みたくもないワインを飲み、咳き込みながら煙草を吸い、食べたくもないうどんを食事にする。こんな状況で一緒に食事などできるはずがない。争いが起こるのは目に見えている。

 火蓮は劇団の指揮を終えており、年末のコンサートの楽譜に自分なりの解釈を書いていた。家の中ではピアノの音が響くため、近くの図書館にでも行っているのだろう。少しでもいい演奏をしようと努力しているようだった。

 火蓮の机には父親の海が指揮を執ったビデオテープがあった。ちょうど十年前に海が協奏曲『第一番』を指揮したものだ。この映像は二人にとって夢であり、恐ろしい絶望でもあった。

 水樹にとっては、ピアノの演奏が夢であり、指揮者の海を見ることが絶望に繋がった。この映像を見ると、ピアノのイメージが膨らむ。だがそれとは別になぜ自分が指揮を取れないのかという焦燥感を覚えてしまう。これも火蓮にとっては反対なのだろう。

 ……だがこれを見なければピアノを弾くことができない。

 水樹はテープを巻き戻した後、ビデオの再生ボタンを押した。


 海の指揮は神山のいう通り、海の底に連れ込むようなイメージだった。穏やかな渚から浅瀬へ、漣が流れる浜辺へ行っては戻ることの繰り返しから始まっているのだ。いきなり連れ込む感じではない。海に入るまでの過程があり、物語に入り込みやすい序章を作っているのだ。

 そこから彼は大胆に全てを飲み込むような津波を作っていく。何かを期待させるような音の連結が構築され、水が波紋を広げ、徐々に物語の核心に触れていくのだ。クライマックスに近づくと共に、自分の体は海の底へ潜っていく。まるでそこには目指していた宝物があるかのように。

 海の指揮は鮮明な色も映し出されていた。藍染めのように、薄い透明感のある水甕みずがめ色から深い濃紺色に染まっていく過程が目に見えるようだった。何度も同じメロディを繰り返す所では顕著にそれが見えた。

 メロディが同じでも全く同じパートがない。それは彼が微妙な強弱をつけているからに他ならない。演奏者もそれを汲んでいるようだった。

 ラストでは、彼は全てのメロディを紡ぐよう穏やかに右拳を結ぶ。海は左利きなので、指揮棒を左手に持っているのだ。全ての演奏者がなだらかに演奏を終えると、そこで再び波が起こる。それは観客の拍手だ。規則正しい拍手の波が原点に返してくれる。


 この映像を見る度、ピアノの演奏は頭に入らなかった。海の指揮ばかりが気になるのだ。海の指揮に夢中になっていると、あっという間に演奏が終わっているといった感じだ。これを見て初めて水のイメージが沸くので再びピアノを弾くことができる。その繰り返しだった。

 もう一度ピアノを弾こうと思っていると、突如携帯電話が鳴った。風花からだった。

 近くの公園で会うことを約束して、携帯電話を切った。


  6.


 夜の街灯に照らされ、クリスマスツリーが輝いていた。この公園では毎年ツリーが飾られている。去年と同じように常盤色のもみの木に紅色の靴やリボンが巻かれてあった。そのせいか公園にはいつもより明るい雰囲気が溢れていた。

「練習の方はどう?」

 風花はすっぴんになっていたが、それでも充分に可愛かった。化粧が薄いほうが似合う、日本的な美人だなと水樹は改めて思った。

「うん、うまいこといってるよ」

 嘘だった。何もかもがうまくいっていなかった。

「……明日からだね、東京に入るの」

「そうだね……風花の方は調子はいいの?」

「うん、私の方も大丈夫」

「……そっか」

 風花に対して罪悪感を覚えていく。こうやって彼女に会っていること自体が本当は在り得ないのだ。本来の相手はオレではない。

「クリスマス、どうしよっか……?」風花はちょっと戸惑った顔をして水樹に尋ねてきた。ツリーの上の銀星がきらりと光る。

「どうしようもないだろう。本番まで時間がない。練習に当てるしかないさ」

 風花は顔をがっくりと傾けた。「やっぱりそうだよね」

 うな垂れている彼女を見て、思いっきり抱きしめたかった。だけど今それはできない。以前なら躊躇なく抱きついていたが、火蓮のことを考えるとやはり無理だ。すべて一歩引いた距離から考えてしまう。

「水樹はさ、どうなの? やっぱりこの仕事はお父さんがやってたから引き受けたの」

「それもあるね。だけど……」水樹は言葉を付け加えた。「今度のコンサートの目的は風花のためだ。風花がいたから僕はピアノを弾くことができたんだから」

 風がそよそよと吹いていた。冬なのに涼しい風だった。一時の静寂が流れ込んでくる。

「……嬉しい。嘘でも嬉しいよ」

 風花は振り返らずとぼとぼと歩いている。

 その姿を見て再び抱きしめたくなる衝動に駆られた。

「……月が綺麗だね」

「うん、本当に」風花と見ているからだよ。心の中ではそう思っていた。

 風花の顔を眺めると、頬に雫が垂れていた。

「……どうしたの?」

 風花は何も答えず涙を拭いている。「んーん、何でもない」

「何でもないことはないだろう? どうしたんだ」

 風花は小さく微笑んだ。

「今ね、ここで私が話したら卑怯だもん。全部が嘘になっちゃいそうで。だから…………何もいえない」

 彼女はそういうと、そのまま上を向いて再び月を眺めた。

 

  7.


「ようこそおいで下さいました。お疲れだったでしょう」

 ホールにつくと、プロデューサーが出迎えてくれた。

「いえ、とんでもありません。お出迎えありがとうございます。こちらの三名が私が推薦した人物です」

 火蓮の紹介で、水樹達はそれぞれに簡単な自己紹介をし、持ち場を伝えた。

「水樹さんでしたね。ショパンコンクール本当に素晴らしい演奏でした。うちのオーケストラでは力不足かもしれませんが、どうぞよろしくお願いしますね」

 ……なるほど。演奏が素晴らしいといっているが、きっと聴いていないのだろう。目が虚ろになっている。

「ありがとうございます。全力で舞台に立たせて貰います」

 プロデューサーは少し顔を引くつかせた。オーケストラに対する配慮の言葉がなかったからだろう。若造のくせに、言葉がなっていないと思っている顔だ。

 そのまま、プロデューサーはホールを案内してくれるが、形式ばかりの説明で退屈だった。

 ……こいつの考えていることはただ一つ。父さんが亡くなって十年目。追悼コンサートを含めた舞台で息子が演奏することだけだ。目的は集客数を稼ぐことだけだろう。

 一般人にはどんな演奏をしても聞き分けることができないと考えている顔だ。もちろんこういったパフォーマンスの方が客が入ることを見越してるのだろう、本当に反吐が出る。

 グランドピアノが置いてある部屋に入った。プロデューサーはこのピアノを使って演奏することになると説明を始めた。

「水樹さんはウミハのピアノを大変好んでいると聞いているのですが、今回は手違いがありまして、こちらのピアノになりそうなんですがどうでしょうか?」

 ピアノの鍵盤の上にはストーンウェイと書かれていた。

「どうしてストーンウェイを? 前に話を聞いた時はウミハのピアノといってたじゃないですか」

 水樹が尋ねると、プロデューサーは何度も頭を下げて謝った。

「本当に申し訳ないんですが、急遽ウミハさんがスポンサーを降りてしまったんです。それでストーンウェイさんに声を掛けて頂いて」

 水樹は愕然としたが、了承するしかなかった。

「少しだけ弾いてみても?」

「もちろん構いません」

 鍵盤の上に手を載せる。違和感を拭いきることはできなかったが、やるしかないと腹を括った。

 突如思いついたのは『革命』だった。左手が低音を駆け抜け右手が高音の和音を打ち鳴らす。

 体が高ぶっていた。いつもなら確実にテンポが取れるのだが、今回ばかりは胸の高鳴りを抑えることはできなかった。

 ……このピアノをどこかで味わっている。ショパンコンクールではない、どこかで。

 体の赴くままピアノを夢中に弾いていく。一曲弾き終える頃にはプロデューサーの顔は歪んでいた。

「……やはり違うピアノを弾くと感触が違うようですね。本番まで時間がありませんが、どうかよろしくお願いします」

 そういって彼はその場から逃げるようにしてホールから立ち去っていった。

 他の三人を眺めると、みんな唖然とした表情で自分を見ていた。


  8.


 会場を出て水樹達はホテルに向かった。四人とも同じホテルですでに一週間分の予約をとってある。部屋は同じ並びにあるシングルだ。

 部屋で荷物を整理してベッドに転がる。

 ……ストーンウェイでオレは演奏することができるのだろうか?

 不安が募るばかりだった。不安の波に飲み込まれ再び心臓の鼓動が早くなっていることに気づく。

 胸を抑え気持ちを沈めていると携帯が鳴り響いた。美月からだった。初日ということでみんなでご飯を食べようという内容だ。ロビーに降りると、すでに三人の姿が見えた。

「せっかく集まったんだしさ。火蓮は練習ができないし、水樹だってそうでしょ? 私達二人で個人練習するよりもこうやって四人で結束力を強めた方がいいんじゃない」

 本来ならそれでいいだろうと思った。しかし四人でご飯を食べるからといって結束力が堅くなることはない。自分と火蓮はすでに舞台に立っているからだ。

「そうね、私もそっちの方がいいと思う。みんなでちょっと散歩でもしながらさ」風花は小さく手を上げながらいった。

「そんなにお前らは東京の夜を満喫したいのか」火蓮はやれやれと手を振って承諾した。「しょうがない、一緒に食べに行くか」

 火蓮は水樹の肩を掴んで呟いた。

「……今日くらいは羽目を外そうじゃないか。でないと来週まで持たないぞ」

 水樹は無言で頷き彼らと共にホテルを出た。

 

 ホテルから出てしばらく歩いていると、洒落た店が一件あった。どうやらイタリア料理らしい。

 美月は中に入り店員に指で人数を示している。その後、こっちに向かって手を振ってきた。どうやら空いているらしい。美月を追いかけるようにしてテーブルに着く。

「来週の年末コンサートの成功を祈って乾杯っ」 

 ビアグラスのカツンという音が店内に響いた。

 久しぶりの酒に周りの目を気にせず一気に飲み干した。体全体に染み渡っていき何ともいえない高揚感を味わった。

「やっぱりこっちは華やかね。なんかビールの味も一味違う気がするわ」美月もぐいっと飲んでおかわりを頼んでいる。

「何いってるの、美月は小さい頃こっちに住んでたんでしょ?」風花はつまみのチーズを小さくちぎって口に入れている。

「そうだけどさ、もちろんこんな大舞台は初めてよ。しかも私がコンサートマスターでしょ? 二十名以上のプロの音を合わせるなんて、いやでも緊張するわ」

「お前が失敗する所なんて考えられないよ」火蓮は大きく手を振った。「一度もリズムを狂わせたことなんてないじゃないか、機械のように」

「私だって崩れる時は崩れるのよ」美月は苦笑いしながら小さくいった。「あなたこそどうなの? 明日からリハーサルでしょ。あんな大人数を操るんだもの。怖くないの?」

 火蓮は両手を掴んで肘をテーブルに付けた。

「俺だって怖いさ。だからこそ、このコンサートのために親父が使っていたタクトを持ってきた」

 水樹は目を見開いた。

 父親が使っていたタクトが目の前にある。彼は普段の指揮では指揮棒を使っていなかった。代わりに年末のコンサートでは指揮棒を使うというのは有名な話だった。

 それを火蓮は持って来ている。僕には何も父さんとの思い出の品はないというのに……。

 美月は驚いて声を上げた。

「凄いわね。親子の夢の競演というのも、あながち誇張ではないみたいね」 

「本当は父さんみたいに指揮棒を使わないで指揮を執りたいんだけどな。日本を代表する指揮者もタクトを使っていないだろう? やっぱりあっちの方が観客からみたら迫力があるもんな」

「新米の指揮者が何をいってるの」美月はいじわるそうに笑っている。

「確かに。聞かなかったことにしてくれ」

 そういうと二人は大きく顔を見合わせて笑った。同じテーブルにいるとは思えない孤独感を味わってしまう。

「そういえば観音寺海のタクトっていえば、愛好家にとっては数百万はするって聞いたことがあるわ」美月が思い出すようにいう。

「そんなわけないだろ。どこでそんなこと聞いたんだよ」

「観音寺海っていったら私達の親の世代では有名らしいよ。お父様もよくCDを聴いているの。第一、海さんが扱っているものはもう手に入らないだろうし……」

「美月、それ以上は……」

 風花が制したおかげで自分の腕は止まった。これ以上彼女が話していたら、間違いなく腕を振り下ろしていただろう。

「……ごめん、少し喋りすぎちゃったみたいね」

「過ぎたことだ、気にしなくていい」火蓮は火をつけて煙草を吸った。

 煙の誘惑が立ちはだかる。今日はさすがに我慢できない。

「火蓮、オレにも一本くれよ」

 風花がおどおどとしながらも水樹の手を掴んできた。震えているが意外にも力は強い。

「水樹、どうしたの? 煙草なんて吸ったことないでしょ?」

「たまにはいいだろう」

 風花の手を遮り思いっきり煙草をふかした。そのまま全力で吸い込むと胸一杯に煙が浸透していくのがわかる。

 ……堪らなく心地いい。

 久しぶりに体が満たされていくのを感じる。神経がゆっくりと落ち着いていく。

 風花は何か文句をつけようとしていたが、何も咎めなかった。

 不穏な空気が辺りを流れる。誰もしゃべらず黙々と料理を口に運んでいるからだ。

「さっきの水樹の演奏はなんか感じが変わってたよね」

 美月が話題を変えようと試みる。

「なんかこう、今までは柔らかい水のようなイメージのメロディだったのに、さっきの演奏は水樹のものとは思えないほど情熱的だった。指の動きが早すぎて、私の目じゃ追いつけなかったし」

「それだけ真剣にやっているだけだ。美月は凄いよ、全くリズムを変えることがないんだ。よっぽど感情がないんだろうな」

 風花から熱い視線を感じる。睨んでいるといってもいい眼光だ。その中には狼狽の影がうっすらと滲んでいた。

 ……自分でもわかっている。

 この感覚はオレのものじゃない。まるで蝋燭の火が消えかかっているように、残り少ない魂のかすが激しく燃えているみたいだ。もちろんこのまま燃え尽きれば何も残らない。

「どうしたの?そんなに突っかかることないじゃない。私は本当に水樹のことを心配して……」

 頭に激しい血が上ってくる。先ほどの演奏が脳裏を過ぎる。美月に心配されるほど自分の演奏は悪かったというのか。

「ああ、そうか。オレが一人で独奏するのがそんなに面白くないか。そうだよな、ヴァイオリンなんて一人じゃ何もできないしな」

 さすがに彼女も挑発に気づいたようだ。長い髪に巻きつけていた指を離して拳を作っている。

「何一人でナーバスになってるのよ。思い通りに弾けないからって人に当たらないで」

「なんだと? もう一度いってみろよ」

 気がつくと美月の胸倉を掴んでいた。

「おいおい、やめろよ。どうしたんだ水樹も美月も」

 火蓮が割って入ってきたが、水樹にはそれも気に食わなかった。

「何だよ、火蓮には関係ないだろ。親父の大事な遺品を自慢できて満足したんだろう? お前は引っ込んでろよ」

「どうしたんだ、水樹。いつものお前らしくないじゃないか」

 ……こんな時でも演技ができるんだな、さすがだよ兄さん。

 だけど――。

「それがいらつくんだよっ」

 美月をほどいて、火蓮を思いっきり殴りつけた。火蓮は宙を舞って後ろのテーブルにぶつかり床に叩きつけられている。テーブルに座っている客が奇声を上げてこちらを遠目から眺めている。

 ……自分でもわからないんだ。何が正しいのか、どうしたらいいのか。

 誰か教えてくれよ、オレは一体――。

「火蓮、大丈夫?」風花が火蓮に駆け寄った。彼を抱え込むようにして水樹に背を向けている。

 ……やっぱりか。お前はオレじゃなくてやっぱり兄さんをとるのか。

「風花! お前はオレの彼女だろ? あいつの味方をするのか」

「何いってるの? どう考えても悪いのは水樹よ」

 そういって彼女は鋭い眼光で睨んでくる。

 ……ああ、そうか。風花にはオレが火蓮だってことがわかっているから、そんなことがいえるんだよな。

「……そうだよな。オレがいけないよな。火蓮だけ生きていればこんなことにはならなかった。オレも父さん達と一緒に死んでいればよかったんだっ」

 風花は火蓮から手を離し、ツカツカと足音を立て水樹の前に立った。睨んだ後、水樹の頬を掌で張った。

「……どうしたの、水樹? 水樹はこんなこと、する人じゃないよね?」

「こんなこと? オレは一体、どんな人間なんだ?」

 もうごまかす必要はない。全部吐いたらいいんだ。どうせ風花はオレの方に振り向かない。早く楽になりたい。

「教えてくれよ。オレは――」

「ごめんな。お前の下手なパンチなんかで倒れるからみんなをびっくりさせてしまった」火蓮は立ち上がりながら周りの人に謝り始めた。「悪い悪い。ちょっと大袈裟に倒れすぎたよな」

 火蓮はそういって自分の肩を掴んだ。抵抗できない程強い力だ。

「……あと少しの辛抱だ。それまで頑張ろう」

 彼の瞳には凄まじい光が宿っていた。彼の圧力に屈し、頭を下げる。

「……わかったよ。オレの方こそ悪かった。すまないが、オレは先に帰らしてもらう」

 水樹は振り返らずに出口に向かった。目の端には風花が泣いている姿が映っていたが、声を掛けることはできなかった。

 外はどんよりとした雲で覆われていた。ひんやりとした風が冷たく一瞬にして冷静に戻っていく。狂気への天秤はすでに消え去っていた。

……あと少しだけ我慢すればよかったのに。少しだけ、少しだけでよかったのに――。

 導火線に火が点いたように自分の感情を制御できなかった。明らかに自分ではない何かに体をのっとられているようだった。

 近くにあるベンチで嗚咽する。火蓮だって苦しんでいるのに、彼こそが一番辛いとわかっているはずなのに改めて自分の弱さを感じ後悔するしかない。

 ピアノが弾けなくなってもいい。今までの功績をなくしてもいい。ただ風花と一緒にいたい。それだけなのに。

 彼女の細い体を折れるくらい抱きしめたい。飽きるまで彼女の唇を奪いたい。力尽きるまで体を重ねたい。声が枯れるまで愛の言葉を交わしたい。

 風花の隣で年をとりたい。

 どうしてオレじゃないんだ。

 どうして――。


  9.


「昨日はごめんなさい。父親の話をあんな風にされたら誰だって怒るよね。私が軽率だったわ」

 後ろを振り返ると美月がいた。

「……僕の方こそ悪かった」水樹はピアノの椅子に座ったまま頭を下げた。「演奏が上手くいかなかったからといって、人にあたるのは最低だ。どうか許してくれ」

「じゃあお互い様ね」そういって美月はにっこりと微笑んだ。

 翌日からの練習には昨日の尾が引いていた。火蓮はいつも通りすました表情で指揮台の上に立っている。

 しかし彼の自分に対しての指示は距離を感じるものがあった。コンチェルトの場合は指揮者とピアニストの距離は皆無といっていい、ピアノの真横に指揮台があるからだ。それでも彼の指揮が見えにくかった。わざと自分の目線を外しているようだった。

 風花も自分の存在を掻き消しているように演奏していた。彼女からすれば自分は視界に入るはずなのに、火蓮の方しか見ていないようだった。

「そういえば神山先生はコンサートを見に来るの?」

「うん、来るといっていたけど。何か急用でもあるの? 体の調子が悪い?」美月は不審そうに水樹を眺めた。

「いや、そんな大したことじゃないんだ」水樹は微笑みながら答えた。「先生は肉体があれば魂は入れ替わらないといっているんだよね?」

「そうみたいよ」美月はしっかりと頷いた。「お父様と話している時は、だいたいその話ばっかりだもの。本当の所はどうか私にはわからないけど」

「先生に伝えておいてくれよ。その仮説は外れていると」

「えっ、それ、どういうことよ?」

 水樹はそれ以上何もいわずに席を離れた。


 ホールから出た途端、火蓮が仁王立ちしていた。先程の練習とは違って朗らかな顔をしている。

「水樹、ちょっと一杯付き合ってくれないか?」

 水樹は舌打ちしながら怒りを露にした。「兄さん、僕に酒を薦めるとはいい度胸だね」

「まあ、そういうな。こないだの仲直りも含めてだ」

 そういうと火蓮はおもむろに歩き出した。仕方なく後をついていくと、昨日入った店が見えたが、そこには入らなかった。

 隣のバーに入ると、音楽は何も掛かっておらず、薄暗い照明の下にグランドピアノが置かれているだけだった。

 そのピアノを見て水樹は嫌な気分になった。

「……何の話があるっていうのさ? こんな所で」

「まあ、とりあえず何か飲もうや」

 火蓮は店員に合図を出した。指を二本立てて、ビールをといった。

 店員は気づき、ビールを注ぎ始め、おもむろに音楽を掛け始めた。

 その音楽が再び動揺を誘う。ショパンの協奏曲『第二番』だったのだ。なめらかで甘いメロディが自分の感覚を潰していく。

「なあ、お前は髪がすっきりした女性の方が好きだったよな? 風花みたいにさ」

 予想していない質問に戸惑う。

「夢の中の母さんはどうな髪型だったか? 短かったか」

「夢の中で見た母さんの髪は短かったね」肩に掛かる程度だったと再び頭を反芻する。

「母さんのショパンコンクールの時は確か長かったよな。なぜだと思う?」

 水樹は自分の顔が強張るのがわかった。「意味なんかはないんじゃないかな。女心はわからないよ、ましてや母さんでも」

「そうかもな。俺は髪の長い母さんの方が好きだったなぁ」

 火蓮はそういってビールを一気に飲み干しワインに変えた。そしてピアノを指差して穏やかな口調で尋ねてきた。

「なあ、誰も弾き手がいないみたいだぜ。一曲弾いてくれないか」

 水樹はピアノを目の端で捉えた。そのピアノは慣れ親しんだウミハだった。

「ショパンコンクールの時に使っていたピアノだろう? ストーンウェイもいいが、お前のピアノはやっぱりウミハが一番だ。どうだ、聴かせてくれないか」

「できるわけないだろう」水樹は一喝した。「今は必死にストーンウェイに合わせているんだ。よくそんなふざけたことがいえるね」

 火蓮は流し目で自分の方を見ている。その目には鋭い光が籠もっていた。

「ふざけているのはどっちなんだ? 俺か、それともお前か?」

 鋭く火蓮を睨み返す。しかし彼の表情は微動だにしていない。

 水樹は指揮者である火蓮に対して頭を下げることにした。

「確かにストーンウェイに慣れてないから、今はまだ自分の感覚が掴めていない。それは謝ろう。だが後二日あるんだ。二日もあれば自分のものにできる」

「なるほど……ここまでいってもシラを切る気か」火蓮は自分の腕を掴んでいった。「俺だってお前の体を経験しているんだ。もういいじゃないか、ごまかさなくても。白状しろよ」

「何の話をしているかわからない。だから何も答えることはできないな」

 火蓮の腕を振りほどくと、彼は大きく深呼吸をしてさらに低い声で呟いた。

「お前、ショパンコンクールの時、耳栓してただろ」

 一瞬、時が止まったような感じがした。何とか笑い飛ばしたかったがそれもできない。

「何をいってるんだ。演奏中に耳栓する人なんているわけがない。どうやってピアノを弾くんだよ」

「俺だって最初は半信半疑だった」火蓮は物怖じせず言葉を返してきた。「お前がそんなとんでもないことをしているなんて考えもしなかったよ。でもな、お前の気持ちになって考えたら、納得の行かない部分がたくさん出てきたんだよ。母さんは左耳じゃなくて右耳の難聴に掛かっていた。それがお前にも遺伝した。違うか?」

 水樹は鼻で笑った。

「根拠もなく、そんなことをよく推理したね。探偵にでもなれば成功するんじゃない?」

「根拠ならある」火蓮は真面目な顔を崩さず、両手を合わせて大きな拳を作っていった。「神山先生にカルテを見せて貰った。お前は事故で左耳が難聴に掛かったといっていたがそれは本当だろう。だが右耳も悪かった。だからお前はコンクールの時にどちらの耳も塞いで演奏したんだ」

 神山先生に見せて貰った、か……。

 火蓮の言葉は嘘だとわかる。神山はそんなことはしないし、それに外科が内科のカルテを見せるわけがない。そもそも兄弟だといってカルテを調べることはできないはずだ。

 しかし面白い推理だ。

「なるほど。仮にその推論が正しければ、どうやって兄さんの声を聞くことができるんだろうね?」水樹は敢えて彼の挑発に乗ることにした。「両方とも聞こえないのであればこうやって会話すらできない。違うかな?」

「そうだ。だから俺は半信半疑だったんだ」火蓮は弱った声を上げながら頭を掻いた。「しかし今日の練習を見て確信した。お前はピアノの音を聞いて練習していない。手の感触だけでピアノを弾いていたんだ。思えば、お前のピアノは他とは一線を越えていた。理由は簡単だ。最初からどっぷりと浸かれるのは、お前が最初から音のない世界で創造していたからだ」

 ……だから火蓮は今日の指揮でわざと見えにくいように演じていたのか。

 そう考えれば今日の彼の動きに納得がいく。

「会話になってないな。僕はどうやって話をしているかと訊いているんだ」

「それはどちらも突発性難聴だからだ」火蓮は怒声を上げながら水樹の胸倉を掴んできた。「お前はどっちの耳も普段は聞こえるのだろう。だがピアノを弾いている時に耳が聞こえなくなることを恐れた。だからピアノの音でなく鍵盤の感触で弾いているんだ」

 火蓮の手を振り払う。力強い感じはなく軽々とほどくことができた。

「詭弁だね。本当にそういった才能があればよかったよ。それはない」

「じゃあショパンコンクールの時についていた黒い粘土はなんだ? あれから俺はあの粘土を調べたんだ。すると精度の高い耳栓だってことがわかった。普通の耳栓じゃ微かに音が漏れるらしいからな」

 水樹は大袈裟に両手を合わせて叩いた。

「素晴らしい。音を聞かずに鍵盤を鳴らすピアニスト、最高の肩書きじゃないか。仮にも僕は優勝者だよ。耳栓をしていたのは他の演奏者の音を塞ぐためだ。コンクールに出る人物ならよくやっていることだ」

「お前はそんな逃げるような真似はしないよ」火蓮は溜息をつきながら首を振った。「ピアノのことになるとプライドが高くなるからな」

 そういって火蓮は煙草に火を点けた。

「本選の時にお前はなぜ体調が悪くないのに休んだんだ? それはその前にお前と同じ協奏曲を演奏する人物がいなかったからだろう。確かお前の前に演奏した人物はヤン・ミンだったよな」

 彼女の名前を聞くだけでいいようのない感情が生まれていく。この感覚は嫌いだ。

「だから何だというんだ? 兄さんがいった通り、僕の前に協奏曲『第一番』を演奏する人物はいなかった。それが何になるというの?」

「お前は内心焦っていたんだろう。心の方は万全ではないから、あながち仮病とまではいわないがな」火蓮は不敵に笑う。「協奏曲『第一番』を選んだ理由は簡単だ。これまでの演奏者が『第一番』を多く選んできたからだ。しかしお前の予想を翻して、ヤン・ミンは『第二番』を演奏することになった」

 火蓮はワインで唇を潤して続けた。

「確率でいえば50%以上だったんだろう。だがお前の賭けは外れ切り札を使うことになった。次の日に演奏することにし、前日の『第一番』演奏者のデータをとることにしたんだ」

 それに、と火蓮は付け加えた。

「何といったってフィルハーモニー管弦楽団が演奏するんだからな。前日のデータさえ取れれば、お前は完璧に演奏を行なえる」

 背中には冷えた汗が流れていた。体が無意識のうちに震えている。

「何がいいたいのかわからないな。はっきりといってくれないか」

「さっきいったじゃないか」火蓮は水樹を睨みながらいった。「お前はピアノを弾く時に音を聴いていない。指の感触だけでピアノを弾いているんだ。協奏曲を弾く時は指揮者を見て弾いていた。だからお前が得意な協奏曲『第二番』ではなく、『第一番』を選んだ」

「まったく大した推理だ」水樹は笑うしかなかった。だが喉が渇いており笑い声が擦れた。「そんな凄技ができる人物がいたらお目に掛かりたいね。考案して実践した人物は余程天才か向こう見ずの馬鹿だ。リズムが狂えばそれで演奏は終了する」

「実践したのはお前が初めてじゃない。最初にやったのは母さんだ」火蓮はきっぱりといった。「お前は母さんのビデオを見てそれを思いついたんだ」

「ビデオにそう書いてあったの? 私は耳を塞いで演奏しますと」

「まさか。そんなわけがない」火蓮は大きく首を振った。「プライドの高い母さんがそんなことをするわけない。きっと父さんにも黙っていたんだ。お前が黙っていたようにな」

「やっぱり兄さんは名探偵だよ。確証もなしにそこまで考えれるなんて本当に凄い。ホールでの演奏後は探偵事務所を構えればいい」

「やはり最後までいわないとお前は認めないんだな」一つの間を置いて火蓮が重々しく答えた。「ここまでいわなくてもいいと思ったんが、最後までいうぞ」

 部屋の空気が一段と重くなる。曲の終盤で火蓮は空咳を交えた後、告げた。

「……ストーンウェイだ」彼は唇を舐めて真剣な眼差しを水樹に向けてきた。「お前が必要以上にストーンウェイを拒絶する理由がわからなかった。文化祭の時、女生徒が俺に花束をくれた時にこういったんだ。ストーンウェイではうまくなれないのか? とな」

 ……あの生徒か。

 水樹は歯を食い縛りながら火蓮の話を聞いた。

「今日の練習で確信した。お前はウミハで培ってきた鍵盤の感触を狂わせてまでストーンウェイを弾いている。このまま今回の演奏を乗り切ったとしても、二度とピアノを弾くことができなくなるぞ。お前はそれでいいのか?」

 水樹は大きくかぶりを振った。

「そんなことがあるわけないだろ。それは全て誤解だ。ただ単純にストーンウェイを弾きなれていないだけだ。じきに慣れるさ」

「慣れた頃にはお前はピアニストとして生きていけなくなる」火蓮の冷たい視線が痛い程突き刺さる。「お願いだから、捨て身にならないでくれ。日本に身を置くといったのもウミハのピアノで演奏するためなんだろう? このままじゃお前、本当にピアノが弾けなくなるぞ」

「仮にそうだとしても、僕はピアノを弾けなくなるんだ。僕は『火蓮』だからね」水樹はグラスで喉を潤した。味は全くわからなかった。「別にいいじゃないか。兄さんが僕の体に入ったからといって感覚が変わることはない。兄さんは『水樹』そのものなんだから」

「諦めるな、水樹。自暴自棄になって今まで作り上げてきたものを一時の感情で壊すのか?」

「すでに壊れているよ、兄さん」水樹はピアノを眺めながらいった。「兄さんこそ今のうちに美月をものにした方がいい。なぜ彼女と付き合わないんだ? それはやっぱり僕に義理立てしているのかい?」

 火蓮は首を振った。しかしそこに自分の意志がないように見えた。

「それは……仮の話だ。まだ真相はわからない」

「じゃあ、僕が風花を奪ってもいいの? 今からでも僕が声を掛ければ風花は一夜を共にすることができる。悔しくないの?」

「俺にだって思い出はある。だが今までだって我慢してきたんだ。最後の公演まで粘ってみせるさ」

「ふん、それならそれで構わないよ」

 頼む、そういって火蓮は頭を下げた。額と両手をカウンターにつけ涙声で訴え始めた。

「お前はストーンウェイを弾かない方がいい。俺達の考えが間違っていたら、お前は二度と舞台に立てなくなるぞ。頼む、兄貴からの一生の願いだ」

 水樹の心は揺れていた。火蓮のいっていることは全て正しい。だが……。

「ここで諦めるということはピアノ自体を諦めるということさ。僕は諦めない。必ず成功させて風花の心を掴む。それが僕の最後の願いだ」

「水樹……」

「……それに」火蓮の目を覗きこむ。そこには自分の姿ではなく火蓮の体が映っていた。「兄貴は僕だ。君じゃない」

「……わかった。そこまでいうのなら俺はもう止めない」

「ああ、そうしてくれ。こちらも変える気はない」

 火蓮はそのまま何もいわずに店を出ていった。

 水樹は残った酒を一気に呷った。体が焼けるほど迸っていた。


  10.


 ……一、二、三。よし、今日も大丈夫だ。

 胸に手を当て心臓音を確認する。一秒毎に規則正しく刻まれているため、今日も演奏は完璧に行えると確信する。

 火蓮が腕を大きく広げ始めた。今からショパン協奏曲『第一番』が始まろうとしている。彼が両腕を下げた瞬間に美月を含むヴァイオリン勢が一気に弦を弾いていく。

 『第一番』第一楽章の始まりだ。これから風花のフルートが絡みつくはず。水樹は心臓の鼓動音を正確に測った。

 火蓮の指揮に意識を集中する。彼はフルートを演奏する二名の方に向かって大きく体を震わした。すでに百二十秒経ったということだ。ヴァイオリンが一度手を下ろした。百八十秒経過。体内時計、火蓮の指揮にも狂いはない。

 後五十秒後に水樹の出番が来るはずだ。膝の上で指を動かし、出番が来るのを待った。

 火蓮の視線が水樹を捉えた。水樹はそれに反応するように強烈な和音を叩き、一気に鍵盤を高音から低音に弾き流すパッセージにはいった。ここからは三百三十秒、ピアノの演奏がメインだ。

 火蓮の指揮を嘗め回すように見つめながら、淡々と演奏していく。優しく軽やかに。哀愁を漂わせる『幻想即興曲』のように。

 哀愁を表現した後は甘美なバラードへと曲は移り変わる。甘い誘惑は回りの景色を溶かすように表現するのだ。和音を三連符に変えて演奏するアルペジオを用いて軽々と鍵盤を叩いた。

 調を変えて一気に物語を加速させる場面がきた。加速した先にはオーケストラとのメロディの交代が待っている。

 心では冷静に時間を数え、体では激しく演奏にのめりこむ。いつものことだ、何も問題はない。

 自分の指が低音から高音に向けて徐々に駆け上がっていった。最高潮に達した瞬間、美月の弓がヴァイオリンに激しく絡まっていく。

 ……次の演奏は七十秒後だ。

 火蓮のスコアのページ数を確認する。成功したようだ、心の中で小さく拳を握る。

 次の入りはとても穏やかだ。美月の弓が上下に激しく揺れている。ここからは再びフルートが入りこむはず。演奏者に目配せしながら自分の演奏を静かに待つ。

 ここからだ。第一主題と変わらない旋律から入り込み、水の流れを思わせる流麗なメロディ部分がきた。上半身を緩やかに上下に動かし、リズムをとりながらメロディを流していく。

 高音高速のアルペジオの繰り返しはまさしく水そのものにならなければならない。留まることを知らずに何度も何度も振動を繰り返し、切り株の如く何重もの波紋を作り出す。

 自分の体はすでに水の中に入っている。水の調べは妖精が跳ね回るかのように煌びやかにだ。上下する津波のようなパッセージから再びオーケストラに主導権を渡す。

 三十五秒後、火蓮がスコアをめくると同時に最初の主題部分に入った。曲は改めてまどろみの世界に突入する。

 先程の津波のパッセージを経て最終部分に入る。高音の渦を作り上げるトリッキーな右手に対し、左手は颯爽とトリルを行い曲のトップスピードまで持ち上げる。

 スピードを維持したまま高音のパッセージでピアノは幕を閉じる。その後、三十秒ほどオーケストラが演奏し、最後はトゥッティで閉め上げるのだ。

 火蓮が一息ついた。場面転換のため気を抜いているのだろう。しかし自分はそれを行なうことができない。常に神経をすり減らさなければタイミングを逃すことに繋がるからだ。

 火蓮がゆっくりと手を縦に振った。第二楽章はさっきよりも簡単で六十秒後に四百八十秒の独奏状態に入る。水樹は悠々とピアノを弾き上げ、静謐な時間を過ごした。

 ……問題は次の第三楽章にある。

 ここからはオーケストラとピアノが入り乱れるロンド形式に入るためだ。火蓮の指揮にまだ慣れていないため、今回は自分の耳で聞いて覚えなければならない。

 水樹は耳栓を取りハンカチで素早く覆った。


「お疲れ様。順調のようだね。最初は慣れてないようだったけど、さすがはショパコン一位の水樹君だ。本番でもよろしく頼むよ」

 プロデューサーに肩を叩かれ、水樹は勢いよく返事をした。

「もちろんです。任してください」

 火蓮を見ると、昨日とは打って変わって冷淡な表情を作っていた。きっと自分の粗を探そうとやっきになっていたに違いない。

 ……オレの演奏は完璧だった。

 横にいるプロデューサーを眺める。彼は金にがめつい人間だが、火蓮と同じく耳がいい。こいつが褒めたのだから、まずミスはない。

 演奏を終えそのまま帰ろうとすると、ホールの玄関で風花に止められた。

「何だ、最近は待ち伏せが流行っているのか?」

 水樹が軽口を叩くと風花は大きくを手を振った。

「え……そんなつもりじゃ」彼女の顔にはか細い笑顔が張られている。きっと無理に微笑んでいるのだろう。

「水樹、ちょっとだけ時間をくれない?」

「……少しだけなら」


 二人とも無言のまま近くの公園に辿り着いた。会話がないため中心にある噴水の音がやけに大きく感じる。

 回りを見渡すと懐かしい雰囲気を覚える。一度、いや何回かこの公園に来たことがあるような気がするのだ。だがそんなことを彼女にいえる雰囲気ではなかった。

「……クリスマス、終わっちゃったね」

 風花は寂しそうな顔をしながら、水樹を覗きこんできた。

「……そうだね」去年はポーランドにいて彼女と過ごすことはできなかった。今年は一緒にいるのに気まずい雰囲気だ。

「体調は大丈夫?最近、詰め込みすぎてるように見えたからさ」

「当たり前だ、明日が本番なんだよ。風花こそ大丈夫なの?」

「うん、大丈夫」風花は控えめな声で頷いた。「ねえ、水樹。また私に何か隠してない?」

 隠していることしかない、と告げたかったが水樹は自分の気持ちを押し殺した。

「この間さ、何かいおうとしていたじゃない。あの時はさ……何をいおうとしたの?」

 風花は真剣な表情で自分を覗いていた。その瞳に吸い込まれそうで、今まで抑えていたものが一瞬で溢れ出そうだった。

「コンサートが終わってからね。その時に風花に話さなければならないことがある」

「今じゃ駄目なの?」

「今話したら、オレが演奏できないよ」

「そっか……わかった」風花は口を一文字にしたまま頷いた。「今日は何も聞かない。だけど私は水樹を信じてるからね」

 自分の心に傷が入る。水樹を信じるということはオレじゃないということだ。わかっていたことだけに聞きたくない言葉だった。噴水の音が一層大きく聞こえていく。

 だけど、その一言で吹っ切れたよ、風花――。

「ありがとう。オレも明日は全身全霊を掛けて演奏してみせる。風花の気持ちに残るよう弾いてみせるよ」

「うん、期待してる」風花は表情を取り戻したかのようにふっと微笑んだ。いつもの笑顔だった。

 風花の笑顔が自分の心を落ち着かせてくれる。この笑顔だけは忘れたくない。

 ……火蓮、すまない。もう一度だけ許してくれ――。

 噴水の音をバックに、風花を引き寄せて唇を合わせた。噴水の音が再び自分の心に染み込んでいった。


  11.


 本番当日、水樹は早起きしてホテルから出発していた。風花の顔を見ずに一人で向かいたかったからだ。

 まだ時間があるため昨日訪れた公園に向かった。噴水の近くにあるベンチに座っていると、黒のパンツスーツ姿の女性が声を掛けてきた。どこかで見たことがあるなと思えば、ショパンコンクール第二位のヤン・ミンだった。

「お久しぶりです」ヤン・ミンは流暢な日本語で話し掛けてきた。「私のこと、覚えていますか?」

「ええ、もちろんです。こんな所で偶然ですね」水樹はゆっくりと頷いた。「今日は演奏を聴きに来てくれたんですか?」

「……そうです」ヤンは目を伏せながらいった。「昨日の便でポーランドから来ました。ジェヴェンツキ先生から預かりものがあります。今、お時間大丈夫ですか? 演奏後でも構いませんが」

 演奏後には風花との話し合いがある。水樹は空いている席を指差した。

「今からでも構いません。どうぞ、こちらに」

 ヤン・ミンは一礼した後、隣の席に座った。

 何の話かなと思って待っていると、ヤンは特に話しかける訳でもなくベンチにぐっと腰掛けた。肩の力を抜いてくつろいでいる。

「それで、何の話でしょう?」

「……ああ、そうでした」

 ヤンは空咳を付いた後、水樹に手紙を渡した。封を切ると、見慣れた文字で綴られていた。ジェヴェンツキの字だった。

「先生は残念ですがここには来れません」

「そうみたいですね、本当に残念です」

 水樹が手紙を朗読している最中、ヤンは公園の風景を懐かしむように眺めていた。不思議に思い尋ねてみる。

「ここに来たことがあるんですか? なんだか懐かしむように眺めていますが」

「ええ、実は日本に住んでいたことがあるんです」

 ……日本語が上手いのはそのためか。

 水樹は一人で納得した。

「そうでしたか。では両親のどちらかが日本人ですか?」

 ヤン・ミンは再び苦笑いしている。何か不味いことをいったのだろうか?

「ええ、そうです。父が日本人で母の故郷が中国の台湾にあるんです」

 そういってヤンは簡単に自分の過去を話し始めた。

 日本人の父親と中国人の母親の間で生まれ日本で生活していたが、家庭の事情で中国に旅立たねばならなかったという。

 それを聞きながら水樹は、三次予選を見ていたカップルの話を思い出していた。


 ――彼女は人殺しの娘らしい。だから、あんな『革命』が弾けたんだ。


 家庭の事情、人殺しの娘というのは本当なのだろうか?

 彼女の姿は端正でありながらストイックな雰囲気を兼ね備えていた。恐らく水樹とは正反対の道を歩んできたに違いない。

 ヤンは唐突に話を振ってきた。

「観音寺さん、なぜ日本で活動することにしたのですか? あなたが国内から出ないということで私に仕事が回ってきているんです。ですが納得がいきません。もしよければ納得の行く理由を教えてくれませんか?」

 またかと水樹は顔をしかめた。自分のことを知りもしない人物が話題を振るとしたら大抵この話題だ。

「日本で活動がしたかったからです。日本で仲のいいメンバーと音楽を通して仕事がしたいというのが一番の理由です」

 ヤンは眉を寄せ自分を睨んでいた。納得できないといった表情だ。再び棘のある口調で攻めてきた。

「あなたほどの腕があって、仲良しごっこがしたいから日本に留まるというのですか? あなたは音楽を馬鹿にしている。そしてあなたのお母さん、灯莉さんを馬鹿にしていますよ」

 嫌悪感を抱きつつも、母親の話題が気になった。水樹は気持ちを押し殺して灯莉のことを尋ねた。

「母さんのことをよく御存じなんですね。何か母さんと関係があるのですか?」

 もちろんです、と彼女はいった。

「私にピアノの素晴しさを教えてくれたのは彼女です。彼女がいたから私はピアノを続けられたんです。直接話したことはありませんが」

 ヤンが日本に来た理由はただ一つ、灯莉の出生地だからだそうだ。灯莉のピアノが彼女の人生を変えたらしい。

「私は灯莉さんの演奏を見て、彼女のようになりたいと思ってあの舞台に立ちました。一位でなくとも私にとっては希望の星でした。きっと灯莉さんも海外で活躍しようと考えていたと思います。それでも耳を患っているため、活動を休止せざるを得なかった……」

 ヤンは冷たい視線と共に告げた。

「もしかして、あなたも難聴を患っているのですか?」

「そうだとしてもあなたには関係のないことです」水樹は大きく唸った。「僕の夢はここなんです。今回の舞台が目標だったんです。あなたにそんなことをいわれる筋合いはありません」

 ヤンの顔は強張っていた。だが眉間に皺を寄せたまま、水樹から視線を反らすだけに留まっていた。

「……やはりそうだったのですね。失礼しました」

 頭を下げた後、ヤンは声のトーンを抑えながら続けた。

「ずっとおかしいと思っていたんです。あなたのお母さんはストーンウェイを扱っていましたが、あなたはウミハしか弾かないことで有名でしたから。その理由が知りたかったんです、申し訳ありません。今日はストーンウェイと聞いていますが、大丈夫なんですか?」

「それこそあなたには関係ないっ」水樹はきっぱりといった。「どうしてオレにそんなに突っかかるんですか? ショパンコンクールの時もオレのことを目の敵にしていたでしょう? 確かにあなたの尊敬する人物はオレの母かもしれません。しかしあなたとオレには繋がりがない。失礼だとは思わないのですか」

 ヤン・ミンはたじろいで言葉を失っていた。

「……やっぱり……覚えていないんですね……」

「何をです?」

「いえ。何でもありません」

 ヤンは小さく深呼吸し冷静に言葉を並べ始めた。

「最後に一つだけ……なぜ私が協奏曲『第二番』を選んだのか、わかりますか?」

「わかるわけがない。あなたのことを知らないのだから」

 ヤンの顔に表情はなくなっていた。目は伏せており、瞳に先ほどの力は残っていなかった。

「……そうですよね、もうあなたの前には表れません。失礼しました」

 彼女は涙を浮かべながら、一礼し走り去っていった。

 どこかで見た光景だった。何度もどこかで彼女が走り去っていくのを見た気がしている。

 心臓の鼓動が急速に高まり、頭の中では夢で見た景色がぼんやりと浮かんでいた。

 彼女の泣き顔をオレはどこかで、何度も見ている気がする――。

 

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