第五章 サイレントブルー&ヴァイオレンスレッド
第五章 サイレントブルー&ヴァイオレンスレッド
1.
「気がついたか?」
「ん……どうしたの?兄さん」
水樹は目を閉じたまま答えた。頭痛がひどく中々目を開けることができない。
「ずっと唸っていたんだ。それで心配になってな」
ゆっくりと自分の体を見回す。体中に汗を掻いており布団にまで染みができていた。冬場だというのに体が焼けるように熱い。
「……そっか。ありがとう、大丈夫だよ」
「大丈夫ならよかった」
火蓮は水樹の肩を擦った後、一階へと降りていった。
彼が兄でよかったと思いつつも、体を再び見つめると鍛え抜かれた両腕があった。
火蓮のベッドの上だ。赤いシーツにアメフトのDVD。いつもの火蓮の部屋だった。
……また移り変わってしまったのか。
大きく溜息をついた後、昨日の出来事を思い出す。
もしかして自分は本当に火蓮なのか、今朝見た夢はそうだとしかいえない内容だった。
不意に火蓮の机に興味が沸き、下から覗いてみた。そこには新渡戸稲造の五千円冊がガムテープで貼られていた。
……これはもしかすると海に行った時、くすねたお金なのか?
意識を集中しようとするが、頭痛に阻まれる。どうやら二日酔いのようだ。火蓮は昨日酒を浴びるほど飲んでいたから、その後遺症だろう。
頭を抑えながら階段を降りると、朝ご飯が用意されていた。前回と同様に見た目も良さそうだ。だが食欲は沸かない。
「体の具合が悪いんじゃないのか? もしそうなら病院に行って来たらどうだ」
病院という言葉が頭を反芻した。現実を押し付けられそうな単語だ。聞きたくもない。
「兄さん、それより――」
「ああ、わかってる」
火蓮は入れ替わったことを自分から言い出さなかった。それは今日、自分が文化祭の演奏を楽しみにしていたのを知っているからだろう。
「……わかってる。悪いが俺が文化祭に出るしかないな」
「ああ、よろしく頼むよ、兄さん」
笑顔を見せると、火蓮は静かに微笑んだ。その笑顔が本来のものだと思うと、嫉妬の炎に焼かれそうになる。
「それにしても大丈夫か? きつかったら病院で見て貰えよ」
「うん、大丈夫。兄さんが飲みすぎただけだと思う。せっかく兄さんの体に入れ替わったというのにお酒を味わう気にもなれない」
「悪い悪い。昨日は本当に飲みすぎてしまった」
いつもだよ、という言葉は止めておく。これ以上火蓮を止めておくわけにはいかない、これから彼はリハーサルを行なうためにホールに向かわなければならないだろう。
「今日は風花と文化祭を見に行くつもりだったが、最悪、家で寝ておいてくれ。俺の方からも連絡を入れておく」
今の状態では無理だろう。まして、自分の演奏姿などみたくない。
「わかった。なるべく、問題がないよう動くようにするよ」
火蓮が出て行った後、水樹の頭の中には様々な誘惑が浮かんでいた。二日酔いなのに酒が飲みたくてたまらない。それに煙草だって吸えるものなら吸い続けたい。
一番の誘惑はヴァイオリンだった。昨日見た夢は鮮明に覚えており、ヴァイオリンが弾きたくて堪らない。
ピアノを覗いてみると、昨日と同じ状態で置かれており壊れていなかった。凛とした表情で悠然と佇んでいるピアノを見て心が落ち着ていく。
昨日の夢は、やはり夢で間違いない。
……とりあえず水を飲もう。
一息つこうと冷蔵庫を開けると、ワインの残りが目に入った。思わず手がそちらに伸びてしまう。ここで飲んでしまったら後には戻れないと懸命に我慢する。
……後には戻れない? 何をいっているんだ、オレは。
今日の一日だけ火蓮なのだ。後はずっと水樹としての日常が待っている、今日くらい飲んでも問題はない。
……いいや、だめだ。
首を振って火蓮の好きな硬水を飲む。舌触りがよく少しだけ気持ちが落ち着く。今日は病院に行って確かめないといけないことがある、酒を飲んでる暇などない。
着替えた後、神山の病院に向かうことにした。もちろん普通の医者に見て貰ってもしょうがないからだ。彼に事故の話を聞かなければならない。
バスに乗り窓に映る自分の姿をじっと見つめた。自分の頭の中には二つの意識がある。冷静に水樹に戻ろうとする意識と興奮の中で火蓮に馴染もうとする意識だ。二つの意識は天秤の上でぐらぐらと今でも揺らいでいる。
水樹は目を閉じて誰かに縋るように祈りを捧げた。
どうか自分の勘違いであって欲しいと――。
どうか大切な人を奪わないで欲しいと――。
2.
受付で神山に見て貰いたいというと、予約が必要だといわれて断わられた。いつもなら丁寧に対応してくれるはずなのだが、火蓮の姿とあって強くはいえない。
気は進まないが、こういう時はコネクションを使うしかないだろう。美月に電話を掛け相談すると、彼女はすでにコンサートホールにいるようだった。
「急にどうしたの?火蓮」
電話越しに様々な楽器の音が漏れている、きっとホールで練習していたに違いない。
「いきなりで申し訳ないんだが、今日先生に診察して貰えるように頼んでくれないか?」
「それはもちろんいいけど。まさか心臓が痛いの? 大丈夫?」
「いや、大したことじゃないんだ。こないだ借りたアメフトのDVDを返そうと思ってね」
神山もアメリカンフットボールをよく見ることを火蓮から聞いていた。もちろん借りてなどいない。
「それくらいなら私から返すわよ。それに今日、休みでしょ?ホールに来たらいいじゃない。その時に私が預かるわ」
もちろん美月がそう述べることも予測している。
「内容について話がしたいんだ。先生の診察はいつも予約でいっぱいだろう? ゆっくり話がしたい時は雑談でもいいから、美月に連絡を入れてくれといわれている」
電話越しにピアノの音が聴こえてくる。まだ表現は浅く拙い感じだ。学生のピアノだろう。
しかし今の自分よりは遥かに上手いのは確かだ。急激に嫉妬が体を渦巻いていく。
「……わかったわ。話してみる。その代わり条件をつけていい?」
「ああ、オレにできることならな」
一瞬の間が空いた後、美月はいった。
「今日のコンサートに必ず来て」
「なんだ、そんなことか。いいぜ、たまには学生の演奏も悪くない」
美月のほっとする吐息が聞こえた。「絶対だからね。じゃあ、今からお父様には連絡しとく」
「嘘はつかないよ。じゃあまた後でな」
再び美月からの着信が来た所、時間外で見て貰えることになった。診断まで時間があるので近くを散歩することにする。もちろん当てなどない。無意識に歩いて記憶の矛盾を辿っていく。
……今朝見た夢が幻でないのであれば……。
もし自分が本当に水樹であるなら、ピアノしか弾けないはずだろう。家に残っていたビデオではピアノ以外弾いた記録は残ってない。夢の中だけだが、ヴァイオリンの感触は懐かしく大切なパートナーのように感じた。
劇団の指揮をした時にしてもそうだ。あんなに他の楽器の音に心を奪われることもなかっただろう。仮に有ったとしても、指揮をした時の体の馴染み具合は言葉ではいいようがなかった。
……もしこの体が自分のものであるのなら、風花との関係は……。
仮に自分が火蓮の人格だとしたら夢の記憶と適合し辻褄が合う。観覧車に乗っていないのは火蓮と美月で、観覧車に乗っていたのは水樹と風花だ。夢の中での視点は観覧車に乗った二人を下のベンチから眺める構図だった。
……もしかすると今まで入れ替わる毎に見た夢は全て、火蓮の時の記憶なのか?
幼少期はピアノを弾きながら灯莉に怒られる夢で、
小学生は火蓮と風花と海にいった夢だった。
中学生の夢は……あまり覚えていないが、高校生は観覧車で彼に嫉妬する夢だった。
色々と考えているうちに面会時間が迫っていく。
……オレは一体どっちの人格なのだろう。
その思いを胸に水樹は神山がいる部屋に向かった。
「どうしたのかね?火蓮君。この間来たばっかりだったじゃないか。何か問題があったのかね」
「いえ、そうではないんです。今日は相談に参りました。実は事故に会う前の記憶が少しずつ蘇って来たんです」
それを聞くと神山は手を叩いて喜んだ。
「素晴らしい。それはどんな記憶なんだい?」
具体的に話し過ぎると美月に話される危険性がある。できれば神山に話を進めて貰えるように策を練らなければならない。
「事故の時の記憶です。先生はオレ達が事故に遭って、この病院に来るよう誘導してくれたんですよね? その話を訊かせてもらえませんか。オレから話すと、記憶が混同する恐れがありますから、先生から話を伺いたいんです」
「いいのかね?辛い記憶にしかならないが」
「ええ、覚悟はできています」
よろしい、と神山はいって話し始めた。
「君の家族は車でドライブをしている所、トラックにぶつかったんだ。もちろんそれはトラック側に非があった。トラックは車の前面に衝突し。助手席、君のお母さん側に大きくぶつかったんだ。お母さんとお父さんは即死だったと聞いている」
記憶にはないが、彼らの気持ちを思うと胸が痛む。今でも両親の顔を思い出せない自分が歯がゆい。
「トラックの運転手はどうなったんですか?」
「残念ながら病院に搬送された後、亡くなった。一度彼の奥さんとその娘さんが見舞いに来たが、風花君が断わっていたよ」
「そうですか……」
トラックの方に非があったと聞いても、何故か悲しみの感情が心を揺さぶった。誰であろうと命を失うということは聞きたくない。
「君達には奇跡的に外傷は少なかった。君の場合でいえば背中に窓ガラスが少し刺さったくらいで、水樹君には左耳から出血しただけだ。もちろんそれは完治している。
問題は内面の方にあったんだ。二人とも心臓の動脈の血が止まっていた。簡単にいえば、心不全を起こしており危険な状態だったわけだ。速やかに手術が行われなかったら、命の保障はできていなかった」
神山の説明には一つ嘘が混じっていた。今は火蓮の体で来ているため、水樹の耳のことについては治っていると、わざと嘘をついてくれたのだろう。自分との約束を守ってくれているのだと思うと水樹は嬉しくなった。
「なぜオレ達には外傷がなかったんでしょうか? ただ運がよかっただけなんですか」
「君達が身構えていなかったかららしい。水樹君の場合は車の中で音楽を聴くためにイヤホンをしていて、君の場合は本を読んでいたらしい」
一瞬、水樹の頭に電流が走った。イヤホンと聞いて今までの疑惑が確信に変わる。
「どうしたんだ?火蓮君?」
大丈夫です、と水樹はそういうだけで精一杯だった。
「顔色があまりよくないね。ここまでにしておこうか」
「……大丈夫です。是非聞かせて下さい」
「そうか。苦しくなったら、正直にいうんだよ」
神山は顔色を伺いながら続けた。
「君の両親のことは前から知っていた。美月がヴァイオリンに夢中になっていたから、私も色々とクラシックは聞いたんだ。コレクションの中に君のお父さん、カイさんの曲も入っていた」
神山は思い出すように遠くを見つめた。
「本当にいい曲ばっかりだった。お父さんが指揮する曲はどれも気持ちのいい静寂を感じるものばかりだった。名前の通り、本当に海の中にいるような感じだ。もちろん、君の指揮も迫力があり素晴らしいものだ」
いつもの神山ならこんな話はしない。それは『火蓮』の記憶が戻ったことに対して嬉しくて饒舌になってしまっているからだろう。今まで我慢していたのもあるのかもしれない。
「そこでだ。君達の名前を聞いた時に私はすぐにうちに来るように命じた。手術室も入院できる部屋も空いていたからね。必ず君達を助けようと心に誓った。そして手術は無事に成功した」
「その時にですか? 水樹の耳の突発性難聴が起こるようになったのは」
「……君に隠し事は難しそうだね」
神山は唸りながら白状した。
「君の耳は本当にいいから、余計にわかってしまうのかもしれないな。水樹君から口止めされていたんだ、すまない」
神山は優しい口調で水樹に諭すようにいった。
「左耳のイヤホンが原因らしい。トラックの衝突で鼓膜の先までイヤホンが入り込んでしまったみたいだ」
水樹は心臓を抉られるような感じがした。わかっていることなのに、こうはっきりといわれると辛かった。
「やはりそうだったんですね」
神山は深々と頭を下げた。大きく息を吐いて、水樹の顔を見つめてきた。
「耳の手術、心臓の手術。どちらかを選択しなければいけなかった。しかし私は迷うことなく心臓の手術を行なったよ。水樹君が音楽家になりたいという夢も知っての上でだ」
神山は瞳を潤ませながら続けた。
「その選択が正しかったかは今でもわからない。もしかしたら両方とも助ける方法があったかもしれないからね。音楽家として彼が生きていけなくなるのであれば、その時は私を恨んでくれたらいいと思っていた」
神山の気持ちは痛いほどわかる。定期健診に行く度に彼は自分のことをわが子のように心配していたからだ。少しでも体に不安を覚えると親身になって相談に乗ってくれた。特に耳のことを話す時には、神山自身が身を切られるような思いで話を聞いてくれていた。
「水樹もわかっていると思います。神山先生にはいつもお世話になっているといっていますから」なるべく思いを込めて告げる。
「そうだったらいいんだがね」
「ええ、大丈夫ですよ」
こほんと神山は一つ咳をして、火蓮の背中の傷について話し始めた。
「君の場合も大変だったんだ。命に別状はないが、出血がひどく大きく跡が残る手術だったからね」
「運がよかったんですね」
「運がいいというか……やはり血の繋がりというのは凄いなと思ったよ。咄嗟の判断で君は水樹君を守ったんだから」
「え? 身構えていないから二人とも傷が浅かったんじゃないんですか」
「それはトラックがぶつかった時だ。その後、ガードレールにぶつかっている。その直前、君が水樹君を庇ったんだ。水樹君を覆うようにしてね」
再び事故の記憶を彷徨う。
トラックの衝突があった時、窓ガラスが割れて火蓮が水樹を咄嗟に庇ったのだ。そして車は横転し近くのガードレールに叩きつけられた。その時に火蓮は水樹を覆ったままの状態でいたため、水樹の左耳を潰したのだ。
……オレがやったんだ。水樹の体の耳を潰したのはオレだ。
「そんな……オレが水樹の耳を」
「……いいかい、火蓮君」神山は水樹の肩を掴んで諭すようにいった。「鼓膜を潰したのは君のせいかもしれない。だけど今の水樹君があるのは君がいたからなんだよ。彼のピアノが聴けるのは君がいるからなんだ。どちらの方が大事かと聞かれると間違いなく命だ。その命を守ったんだ、胸を張っていい」
「……ありがとうございます。この話は水樹にはしないでくれませんか? 彼の記憶が戻ったとしてもきっと彼には辛いだけの話ですから」
「大丈夫だ。この間も約束したばかりじゃないか」
「え?」
再び耳を疑う。約束とは何のことだろう。火蓮はこの間、記憶のことは何も話していない。
「すいません、この間の約束というのは……」
水樹が質問すると、神山は再び笑って答えた。
「もちろん、定期検診の後に来た時の約束だよ。水樹君の前でできない話があるといってその後、また来たじゃないか」
3.
家に辿り着き、文化祭を見に行く準備を始める。気は進まないが、ここで行かなければ美月に申し訳が立たない。それに風花を裏切ることにもなるだろう。
だがどうしてもいきたくない気持ちがある。これから知ることになる真実を受け入れる自信がないからだ。
……火蓮はきっと感づいている、自分よりも正確に。
ピアノを見ていると不吉な予感を覚える。自分自身を否定されるような気がして億劫な気持ちになる。もし今朝見た夢が本当なら、ここにがかりが残っているだろう。
……もし、火蓮が本当にピアノを壊したのであれば、この裏に跡が残っているはずだ。
ピアノを少し前にずらし、後ろをそっと覗き込んでみた。すると後ろの壁が自分の思った通りの模様を描いていた。
……まさか、火蓮は本当にピアノを壊したのか?
壊していないにしてもここに一年間ピアノはなかったことになる。新調したピアノはどこにいっていたのか。
不吉な予感がじわじわと胸を締め付けていく。火蓮はきっと自分の人格が違うことを一年前から知っていたのではないだろうか。
……仮にもし、火蓮として生きていくことになればどうなるのだろう。
火蓮として生きていく場合でも、音楽で飯が食っていける状況には変わりはない。ピアノがタクトに変わるだけだ。
それに指揮を振る楽しさはこの間味わったばかりだ。このまま続けていける自信はある。仮にピアノが弾けなくなっても、一からやり直せばいい。別に客の前で披露することだけが目的じゃない。
……しかし風花は別だ。
絶望の風が体全体を絡めていく。もし火蓮が本当の体であるのならば、風花との関係は間違いなく崩れることになる。それだけはなんとしてでも避けたい。
……火蓮はひょっとして、今まで我慢してきたのではないだろうか。
そう考えると納得する部分があった。ポーランドにいる時も嫌に風花について尋ねてきていた。日本に戻ってきても、結婚の話をちらつかせて来たのだ。それは自分のためじゃなくて本当は火蓮自身の気持ちだったのではないか。
……もしそうなら、同情しかできない。
火蓮には非は一つもない。事故だって偶然起こったものだし、風花だって気づくわけがない。話し合う場がくれば、その時こそ有るべき姿に戻るのだろう。そんな時間は永久に来て欲しくないが……。
突然インターフォンが鳴った。
ドアを開けると、風花があっけらかんとした顔で立っていた。
「火蓮、体調が悪いんだって? 大丈夫? 文化祭に行けそう?」
「うん、大丈夫だ。まさか向かえに来てくれたのか」
外を見ると、風花の愛車・ミニクーパーが止まっていた。
「水樹から聞いたの。火蓮の具合が悪いようだから、車を出してやってくれないかってね」
心の中で火蓮に礼をいう。きっと当初は彼自身が運転して行くつもりだったのだろう。
「そうか、やっぱり水樹は気が利くな。助かるよ」
風花は仄かに唇を上げて自分のことのように嬉しそうな笑顔を見せた。
次に掛ける言葉は思いつかなかった。
4.
「……そろそろ始まるね。やっぱり凄いなぁ、水樹は」
風花は目を輝かせながら、ホールを一瞥している。
「彼女としても鼻が高いわ。さあ、今日はどんな演奏を聴かせてくれるのかしら」
コンサート会場は市の中では一番大きい響ホールだった。子供の頃、よくコンクールで使っていた所だと風花から聞いている。
指定席に座った後、自分の記憶を辿ってみた。しかし小学校、中学校のコンクールに出た記憶は残っていなかった。
……当たり前じゃないか、オレは火蓮なんだから……。
胸の辺りで未だ乾いた風が吹いている。このどんよりとした気持ちは当分消えてくれそうもない。
「ねえ、火蓮あっちを見て」彼女の指先は前方にある。「あそこにたくさん女の子がいるでしょ? あれ、みんな水樹のファンなんだって」
ぼんやりと眺めるとドレスを身に纏った女性達が豪華な花束を抱え席に座っていた。
「おい、あの花束はまさか……」
風花はにやりと笑った。
「うん、あの花束ね、お父さんと私で作ったの。カードも添えて下さいっていわれてね。思いっきり店の名前が書いてあるカードを使っちゃった」
「そりゃあいつも大変だな。ファンから貰う花束を彼女が作ってるんだからな」
「そうでしょ?」彼女は口元を緩めて笑う。「もし知ったらどんな顔すると思う? それを想像するだけでも面白くってさ」
風花の笑顔に戸惑う。今は純粋に笑う彼女を受け入れられる自信がない。この笑顔は今の自分には辛いだけだ。
「……どうして、あいつのことを好きになったんだ?」
気がつくと心の声が漏れていた。
「どうしたの? 急に。真面目な顔しちゃって」
「ごめん。気になったんだ」
「それってさ、私に対するやきもちなの? それとも水樹に対するやきもち?」
「……もちろん水樹に対してだ」
「なんだ、残念」そういって風花は舌を出した。「私ってさ、小さい頃から引っ込み思案だったじゃない? 何をするにも人の機嫌を伺っていたの。きっとお父さんに似たんだろうね。お父さん優しいから、何でも自分以外を優先して考えちゃう人だから」
……風花が引っ込み思案?
知らない情報だったが、彼女はそのまま話を進めていく。
「幼稚園の頃はさ、私、いつも一人で遊んでいたの。寂しかったけど、他の人の輪に入るのが怖かったんだ。そんな中で水樹が初めに声を掛けてくれたの。嬉しかったなぁ、あの時は……」
頭の中で反芻してみるが、やはりその記憶はない。もしかしたら火蓮の中にあるのかもしれない。
「もしオレが先に声を掛けていたら、今の立場は逆転していたのかもしれないな……」
「そうかもしれないわね。何? 今頃になって私のことを好きになったとか? 止めて下さいよ、お兄さん。仮にも結婚を約束している身なんですから」
風花は屈託のない笑顔を作っている。純粋に自分のことを火蓮として見ているのだろう。
火蓮の立場ならこんな辛いことはない。今まで自分が付き合ってきた相手にこんな言葉をいわれたら、受け入れるしかないはずだ。
「あ、始まるみたいだよ」
観客に降り注いでいたスポットライトが突如消え、ステージにだけ灯が点いた。甲高い歓声の中、水樹の体を身に纏った火蓮が入ってきた。
その顔は水樹そのものだった。まっすぐに背筋を伸ばし、緩やかな微笑みを見せている。指の先から足のつま先まで全て自分が見せる姿と同じものだった。その仕草はいつも自分の行動を見ているからか、本来の姿からなのかは検討がつかない。
火蓮が椅子に座ると燕尾服が風でふわりと浮いた。鍵盤に指を置くと、聴衆が息を潜めていく。彼の軽やかな動きにさえ心が奪われていくようだ。
彼の指から煌びやかな音が流れ始めた。音が連続することでメロディとなり、ホールを反射して自分の耳に届いていく。その音を聞いて森の泉が連想されていく。本物の『バラード第三番』だと確信してしまう。
……ボクはピアノが好きなんだ。
火蓮の優しい音色が言葉となって自分に語りかけてくる。
どうかこのままボクにピアノを弾かせてくれ。
ずっとこのままピアノを……。
彼はそのまま鍵盤を深く叩いていきテンポを上げていく。機械式時計の歯車のように正確で隙のないタッチはどこか人間技とは思えない冷たさを感じる。
彼の瞳には研ぎ澄まされた日本刀のような鋭さがあり、何ものも近寄れない雰囲気を漂わせていた。彼を見ているだけで自分の存在意義を全て握りつぶされるような圧迫感を覚えてしまう。
……オレにすら、ここまでの技術はない。
唇を噛み締めて彼の動きに嫉妬する。本物だからこそ、できる指裁きではないかという考えが脳裏を掠める。
メロディラインは右手、左手と入れ替えて反復を重ねる毎に水の勢いを増し深くなっていく。まるで深い海の底に引きずり込まれていくようだ。
彼の和音が水の流れを一気に抑えていく。和音の余韻が波紋のように響き渡る頃には演奏は終了していた。
ごくり、と唾を呑み込む音が聞こえた。それは自分が喉を鳴らした音だった。完全に呑まれていた、火蓮の『バラード第三番』に。
一息入れた後、彼はそのまま息を吐きながら次の曲の準備を始めた。今回は二曲弾かなければならない。しかし一曲は自由だ。
……はたして火蓮は何を弾くのだろうか?
彼が鍵盤に触れる前に、水樹の心臓は熱くなっていた。なぜかれから弾く曲が頭に浮かんでくるのだ。あれしかない、という確信すら沸いている。
水樹の背筋を冷たい風が通り過ぎると共に、火蓮は鍵盤を激しく鳴らし始めた。
……やはり、これなのか。
次に流れてきたのはコンクールで中国人の女性が弾いていた『革命』だった。激しい左手のメロディが悲惨な戦場を作り出し、右手からは高い音が銃声のように飛び出している。
突如、母親の『革命』を思い出す。ビデオの中の彼女は凄まじい熱気を帯びており溶岩を踏みつけるかのように鍵盤を叩いていた。左手の旋律から死者の絶叫がこだまするかのような右手の和音が空間を震撼させる。火蓮と初めて見た時には言葉が出なかった。
自分の長い髪が再び母親とリンクする。彼女の演奏が今、目の前に起こっているのではないかと錯覚してしまう。
……なぜ火蓮はこの曲を選んだのだろうか?
火蓮がポーランドに来てヤン・ミンの『革命』を聴いた時に恐怖を抱いたといっていた。なぜ彼は恐怖を抱いたのだろうか。ショパンの人生に興味を持たなかった彼がなぜそんな感情を覚えることができたのだろうか。
様々な憶測が出した答えはやはり人格の転移だった。きっと自分の記憶を探したに違いない。火蓮は水樹の体が本当の体だと疑っていたのだ。
……兄さん、いつから知っていたの?
唇を噛み締めながら演奏を聴く。仮に人格の転移が真実だとしても十年間練習してきたのはオレだ。ショパンコンクールで優勝したのはオレなんだ。あれだけ練習してきたのに……それがたった一日でなくなるなんて、ひどすぎる。
心をごまかそうとしても火蓮が音を刻む度に心が揺れる。彼が奏でる音は悲痛な叫びだった。百獣の王で父親が亡くなるシーンのような甲高い声で叫んでいるようだった。
……や、止めてくれ。
水樹は目を閉じて抗議した。
なんでオレがあの場所にいないんだ、本当はオレがあそこで弾くべきなんだ。どうしてオレじゃない。毎日練習して掴んだ技術なんだ。風邪できつい日だって、鍵盤を弾くたびに指の皮がぼろぼろになったことだって、どんな困難だって、全部オレがやったことなんだ。
……何故なんだ、どうして――。
演奏が終わると、観客は席を立ち拍手の渦で火蓮を祝福した。頭の中では百獣の王のフィナーレが蘇っており、観客の声も一つの歌になっているようだった。
……やはりオレはもう、ピアノを弾くことができないのだろうか。
年末のコンサートの夢を達成できずに、火蓮としての人生が待っているのだろうか。
隣にいる風花を見ると、彼女は意識を奪われているようで余韻に浸っていた。その姿を見て心を一層かき乱されていく。
……もうあの舞台に立つことはできないのか。オレはもう、ピアノを弾くことさえも許されないのか。
オレはもう――。
5.
「ほら、火蓮。ファンの子達が花束を渡してるよ」
演奏が終わると、前衛にいた女性群が一気に火蓮に押し寄せた。火蓮は苦笑いを浮かべながら、それぞれの花束を受け取っていた。その苦笑いでさえ自分のものになっていた。
拍手が鳴り止むと、美月がオーケストラを従えながら入ってきた。赤いドレスを身に纏い端正な顔立ちで両頬が浮き上がっている。作り笑いだなと水樹は思った。
司会者が曲の題名をいう。その題名を聞いて耳を疑った。
『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノの変奏曲作品2』
生涯を通してピアノにこだわり続けたショパンが作った数少ないオーケストラの曲だ。オーケストラとピアノによる曲は六つしかなく、もとは学校の課題だったらしい。
タイトルの意味は『お手をどうぞ』。ワルツの曲をショパンがアレンジしたものだ。
美月は軽やかなヴァイオリン捌きを見せながら観客を圧倒させていた。学生のオケの中に一人プロが混じるとここまで変わるものなのかと驚愕する他ない。
……なぜ彼女はこの曲を弾いているのだろう。
ショパンのオーケストラは味気なくつまらないといっていた彼女がだ。火蓮の指揮があるまではコンマスをしないといっていた彼女がなぜ――。
……もしかするとこの曲自体に思い入れがあるのだろうか?
不意に中学時代の記憶が蘇る。確か東京であったコンテストの優勝記念にチェンバロで日本交響楽団と演奏できたはず。あの時は自分が優勝して、チェンバロを弾いて……。
……それにしても、曲に添ったイメージではない。
彼女のヴァイオリンから溢れる弦の振動は可憐なイメージではなかった。明らかに作曲者ではなく自分の意思を貫いている激しさを伴っている。
……本当は弾きたくないんじゃないのか? 美月。
――あいつもショパンや。大学におる時は嫌っとったのにな、あいつもヨーロッパのコンクールに出まくって、色々収穫があったんかもしれん。
川口先生の言葉が蘇る。なぜ無理をしてショパンを弾くのか。
違和感を覚えながら美月の演奏を見守ると、十八分の長い演奏を終え、彼女は颯爽と退場していった。
その姿にはもう笑みはなかった。
コンサートが終わり、水樹は風花と共に楽屋の前で火蓮と美月を待っていた。周りを見渡すと、楽屋の前で学生が文化祭の後片付けをしている。毎年その日のうちに学生が掃除をすることがしきたりとなっているからだ。
楽屋から火蓮が出てくる前に川口先生が出てきた。いつにもまして機嫌がよさそうだ。
「おお、火蓮に天谷やないか。元気にしとったか」
「先生、ご無沙汰してます。ちょっと話がしたいんですが、時間ありませんか?」
「ああ、構わんよ。どうした?」
「すいません、ここでは何ですから、あっちで。風花、すまない。十分だけ席を外してくる」
「うん、その代わり早く戻ってきてよ」
「……わかってる」
妙な胸騒ぎを感じつつ、水樹は川口と近くの踊り場に向かった。
「何や? 話っちゅーのは」
「先生はオレが勤めている劇団と繋がりが深いですよね?」
「おお、そうや。だからお前を紹介したんやないか。それがどうかしたか」
水樹はそのまま大声を上げて問いただしたかったが、平静を装った。
「いいえ。あの時は推薦して頂き、ありがとうございました。もう一度きちんとお礼を述べておきたかったんです」
「何やそんなことかい。律儀な奴やな、お前は」川口は缶コーヒーを上手そうに啜りながらいう。「しかしいきなりやったもんな。あん時は本当にびっくりしたわ。指揮科の先生も驚いとったで。お前のために留学を全部準備しとったもんな。奨学金の手続きだって上手いこといって、後はフランスに向かうだけやったやんか」
「……ええ、そうでしたね」できるだけ火蓮の表情を作って答える。
「やっぱりあれか、親父と同じ道を辿ることは嫌やったんか。それとも神山に愛想つかされたんか?」川口はにやにやと頬を緩ませた。
「違いますよ。水樹にコンクールを任せて、オレは地に足をつける仕事をしたかったんです。だからこれでよかったと思っています」火蓮が述べていた言葉をそのまま告げる。
「そうか。悩むっちゅーことが学生の特権やからな。色々と考えることが仕事みたいなもんやもんな。今の選択でよかったと思うなら、それでええ。たまには顔出しに来いよ」
「はい、ありがとうございます。もう一つだけ聞いてもいいですか?」
彼に一番訊きたい質問を投げかける。
「オレから先生にお願いしたんですよね? 劇団の指揮の仕事をしたいと」
「ああ、そうや。それがどうかしたか?」
「いえ、何でもありません」
そのまま頭を下げて火蓮の元に戻ろうとした。すると川口が後ろから声を掛けた。
「水樹やって頑張ったんや。それは認めてやらんといかんよな。何せコンクールの評価がない中で予備予選を通過したんやし」
水樹は首を傾けた。川口は何のことをいっているのだろうか、予備予選はコンクール歴で決まっているはず。中学の時の優勝が決めてになったはずだ。
「どういうことですか、それは」
「なんや。聞いてなかったんか。ショパンコンクールにはコンクール歴を送らないかんやろ? あいつを評価できる賞はなかったんや」
「中学の時のコンクールは一位じゃないんですか?」
「違うで。全日本中学ピアノコンクールは二位や。やからこそ、あいつは本番でうまいことやったんやろ」
水樹は驚きを隠せなかった。震えた唇のまま声を上げた。
「え、それじゃ一位は一体……」
「確か、鷹尾っちゅー名前やったな。それからそいつがコンクールに出る所は見てないなあ」
鷹尾。夢の中でそんな名前があった気がした。しかし思い出せない。
「まあ、そういうことや。やからあいつをあんまり攻めんでやってくれ。仕事はこれからわんさか来るやろ」
コンクールの結果は二位、なぜ自分が一位ではないのか、あの夢は嘘だったのだろうか。
納得がいかなかったが、これ以上川口の前で狼狽するわけにもいかない。
水樹は頭を下げて逃げるように踵を返した。
6.
火蓮がいる部屋に向かうと、ちょうど出て来た所らしく、彼の手にはたくさんの薔薇の花束が載っていた。口はへの字に曲がっており頭を掻いている。
「参ったよ。たった二曲しか弾いていないのに、こんなに貰ったら悪いよね」
「そうだよね」風花は笑いながら答えている。「せっかくだから、家に帰った後、メッセージカードをよく見てみたらいいよ」
「ん? 帰ったら、カードの中身も見ることにするよ」
「うん、それがいいよ」
風花は嬉しそうに微笑んでいる。その微笑みには薔薇のように棘が入っているんだよと火蓮に伝えたかったが、そんなことをいえる状況にはない。
「水樹、オレはちょっと用があるから先に帰るぞ。花束を持っていたら大変だろう。オレが先に持って帰ってやるよ」
「いやいいよ。どうせ帰るだけだし」彼はかぶりを振るが、横にいる風花が早く花束を奪いとれと促している。
「今から行く店にちょうどいい手土産になるんだよ。カードはとっておくから家に返って確認すればいい」
風花は口に手をあてて笑いを堪えている。
「うん。それがいいよ。そうして貰いなよ、水樹」
「……兄さん、今日は遅くなるの?」
「そうだな。すぐには帰らない。だからお前達もゆっくりしてくればいい」
水樹は口元を引き攣らせながら颯爽とホールを後にした。二人が後ろから手を振っている様子が見えたが、振り返ることはできない。
……これでいいんだ。オレが火蓮になりきれば。風花にとってもそれがいいんだ。
先ほどあった風花との会話を反芻する。
「演奏が終わったら、二人で食事に行かせてくれない?」
「いいよ。ついでに花束を持って帰ろうか?」
「うん、その案いいね。それでいこう」
……今度からはこれがオレの幸せになるんだな。
風花にばれないように彼女をサポートする。これが自分の使命になるのだ。心は痛むが、なるべく無視するように務めなければ――。
ホールを出た後、後ろから女性の大きな声がした。驚いて後ろを振り返ってみると、真っ赤なドレスを着た女性が息を切らしていた。美月だった。
「火蓮、なんで何もいわずに帰ってるのよ? 私との約束は忘れたの?」
「約束? 何のことだ?」
「とぼけないで」美月は剣呑な目つきで睨んだままいう。「文化祭が終わった後、私とご飯を食べに行く約束をしたでしょ」
ホールに行くとはいったが、食事に行くとはいっていない。それに今は一人になりたい気分だ。
「そうだったかな。すまない、今日はちょっと飲みに行きたい気分なんだ」腕を上げて花束を見せ前に進もうとする。
「そんなたくさんの花束を持って? どこに行くのよ」
「いいじゃないか。大人の店だ」
美月の顔が徐々に高潮していくのがわかった。しかし彼女の気持ちを考えている余裕はない。
「じゃあ私もそこでいいから、ともかく話をさせて」
「明日じゃ駄目なのか?」
「……駄目。今日じゃなきゃ」
美月の足元を見ると、ドレスの下には不釣合いな白のスニーカーがはみ出ていた。急いで出てきたのがわかると、これ以上押し付けることはできない。
「……わかったよ。場所はお前が決めていい」
美月はほっと胸を撫で下ろし、人差し指を立てていった。
「じゃあ火蓮の家で飲まない? どうせあの二人は今日遅くなるだろうし」
あの二人、という言葉を聞いて気が狂いそうになる。風花の顔を思い浮かべると胸が苦しくて焼けそうだ。
「それで構わないが……先生にはちゃんと連絡しておくんだぞ」
美月は無言で頷いた。その瞳には強い意志が宿っていた。
7.
家に帰り着き、花束の包装紙を強引に破り捨てそのまま花瓶に叩き込んだ。冷蔵庫からワインを取り出し、グラスに注いで美月に渡す。
「で、話っていうのは何だ?」
「特にないわ」美月はきっぱりといった。
「それはないだろう。何か用があったからオレを呼び止めたんだろう?」
しかし彼女は何も答えない。先ほどの剣幕は嘘のように消えて、落ち着きを放っている。
しばらく二人とも無言で酒を呷っていると美月の方から話を切り出した。
「そういえばあの二人、やっと結婚の話が出ているんだって?」
「ああ……。そうらしい」今一番聞きたくない話題だった。
「結構のんびりしているわね、私はもっと早く結婚するのかと思ってた」
「まあいいじゃないか。あの二人は昔から仲がいいんだから、焦る必要もないだろう」
「………………」
美月の顔色が途端に変わる。何かを確かめるような感じで自分の顔を眺めてくる。
「……どうしたんだ? 何かまずいことでもいったかな?」
「……いや、何でもないわ」
再び気まずい空気に陥る。無言になる前に彼女に尋ねなければならないことがある。
「今日は何でショパンの変奏曲を弾いたんだ? ショパンは退屈でつまらないといっていたじゃないか」
「……あの曲だけはね、特別なの」美月は遠くを見ながらいう。「中学の時に一度だけ弾いたことがあってね。その時はオリジナルのモーツァルトだったんだ」
「ふうん」
「その時に仲良くなった子がいたんだけど、元気にしてるかな」
「なんだ、それから連絡をとってないのか?」
「うん。取りたいんだけど、どこにいるかもわからないからね」
「そうか……。でも音楽を通してれば出会えるかもしれないな。その子が続けていれば……必ず」
「そうだといいなぁ……」
美月の表情は相変わらず固いままだった。下を向いて何かを考えるように押し黙っている。
再び沈黙が訪れる。頭を振り絞って話題を練るが、水樹であることを感づかれる恐れがあるため中々切り出せない。
「そうだ、美月の海外遠征の話を聞かせてくれないか?」
「え?」彼女の顔が急速に曇っていく。「この間、話したばかりじゃない。どうして?」
「もちろん聞いたけど全部じゃないだろう?」その答えは想定済みだ。動揺を悟られないように平然と続ける。「オレはフランスに行ったことがないんだ。将来海外で指揮をすることもあるかもしれない。色々とヨーロッパの情報を仕入れておきたいんだ」
「……そうね」美月は含みを持たせるように答えた。「この間はパリの話をしたから、今度はウィーンの話をしようかな」
美月は特に表情を変えることなく、留学の話をすらすらと始めた。しかし自分の頭には何も入らない。頭の中を回っているのは風花の現在の状況だけだ。
今頃二人は本来の関係に戻って食事を楽しんでいるに違いない。そう思うだけで沸々と怒りが沸いていく。
……なるほど、火蓮が酒に溺れるのも無理はない。
彼の心境を考えれば納得がいく。酒を飲んでいるだけで平静さを保てるようになったのは、いつからなのだろうか――。
……けれどオレだって風花を渡すことはできない。
火蓮の体で強く思う。十年掛けて彼女とたくさんの思い出を気づき上げてきたのは自分だ。彼女だけは火蓮に渡せない。渡したくない。
目を閉じると、風花との思い出が走馬灯のように駆け巡っていく。
春には桜の花びらが舞い散る中、公園で手を繋いでデートをしたこと。
夏には夜の海で波の音を聴きながら何度もキスをしたこと。
秋には一緒に近くの山を登って、山頂で風花の手作りの弁当を食べたこと。
冬には慣れないドレスを着こなす彼女を見ながら、ホテルの屋上レストランで食事を楽しんだこと。
そしてその後、お互いの体を確かめ合うように何度も抱き合ったこと。
ふうか、ふうか、風花――。
オレには風花が必要なんだ、どうしても。
こんな別れ方があっていいのか……いや、あっていいわけがない。人格が入れ変わらなければ、こんな気持ちを味わなくてすんだのに。
オレはこれから先、お前を見るだけしかできなくなるのか――。
「……火蓮? ねえ、火蓮、どうしたの?」
「……すまない」水樹は頭を振りながらグラスを置いた。「飲み過ぎたみたいだ、ちょっと酔いを冷ましてくる」
「……うん。それよりも唇切れてるよ。大丈夫?」
唇を触ると赤い液体が滲んでいた。どうやら歯で噛み切ってしまったらしい。
「どうしたの、火蓮。やっぱり何か大きな悩み事があるんでしょ?」美月は唇に触ろうと近づいてくる。「今日わざわざお父様の所にいったのはわけがあるんでしょ? 話したいことがあったら何でも話してよ、お願いだから……」
体の奥から何かが込み上げてくる。彼女に全てを話してしまいたい。だがここで話したら後戻りはできない。
「……いいや、何でもないんだ。ただ酔っただけだ」
「何でもないことはないでしょ。じゃあ何で私を裏切ったの?」
「裏切った? 何のことだ?」
「とぼけないでっ」美月は大声を上げた。「公演の初日だってあれだけ約束してたのに、なんで約束を破ったの……」彼女の目には大粒の涙が膨れ上がっていた。
「美月?」
「私だってずっと我慢してきたのよ。だけど二人のことを考えてきたから、私は今までずっと耐えてきたのよ。今までずっと……」
「何をいってるんだ? わかるように話してくれ」
彼女の表情を見てまずいと思ったが遅かった。
美月は自分を抑えていたダムを崩壊させるように、激しい口調で訴えた。
「私はずっと、この十年間あなたのことしか考えて来なかったのに……。あの日に戻るために私は今まで頑張ってきたんだよ。あなたに認めて貰えるようにたくさんの賞を貰ったわ。その度にあなたは褒めてくれたけど、私は技術を褒めて欲しくて賞を取ったわけじゃない。あなたと一緒になりたかったからよ」
彼女の表情を見て驚愕する。今までにこんなプライドを投げ捨てて懇願する姿を見たことがなかったからだ。
「あなたと一緒の道を歩きたいから頑張ってきたのに。それなのになぜ留学を止めたの? なぜ留学を止めて風花のいる劇団に入ったの?」
彼女の勢いに圧倒する。こんな状況が存在しているとは少しも考えていなかった。逆に火蓮に問いただしたいくらいだ。
彼はなぜ美月の約束を破棄したのだろうか、そしてなぜ川口に頼んで劇団の指揮をすることにしたのだろうか?
フランス留学を止めた理由。それは人格の転移しかないと思った。人格が入れ替われば再び美月を苦しめることになるからだ。
「オーケストラで同じ舞台に立った時、今度こそ付き合おうって約束したよね? なのになぜ断わったの? 他に特別な相手がいないことくらいわかってる。なのにどうしてなの?」
公演が始まる前の争いを思い出す。火蓮と美月が争っていたのは確か彼女が劇団にゲストとして呼ばれた初日だったはずだ。
まだあの時は人格の転移は起こっていない。それなのにどうして火蓮は彼女を拒んでいたのだろう。
「火蓮、何とかいったらどうなの? ねえ、どうしてなの?」
水樹は取り繕わず正直に気持ちを述べた。
「すまない……今は仕事に集中したいんだ。年末のオーケストラはオレたち兄弟の夢だったんだ。だからあと少しだけ時間をくれないか」
「……わかってるわよ、そんなこと」美月は俯いたまま、嗚咽を漏らした。「わかってるわよ……。あなた達兄弟だけの夢じゃなくて、私も風花も見てる夢なんだから。やっぱり……。やっぱり、そうなのね……」
体中に悪寒が走る。彼女は何をいうつもりなのだろう。自分の考えていることをいわれそうで彼女には何も訊けない。
「何で何もいわないの……やっぱり……やっぱり二人は違うの?」
二人は入れ替わっていて中身が違うの?
そう訊かれているように感じた。
「……どういう意味だ?二人は違うっていうのは」
冷静に美月に問う。彼女はたじろいだが、覚悟を決めて自分の目を見据えていった。
「二人の……中身が入れ替わっているんじゃないのと訊いてるの」
8.
「……そんなことがあるわけないだろう」
絶望を隠せず否定した。その言葉だけは聞きたくなかった。だからこそ火蓮もごまかし続けたのだろうと今頃になって心境を理解する。
「どうやらお前は完全にでき上がってるみたいだな」
「……酔っ払ってないわよ」彼女は目を鋭くさせながら答えた。
「じゃあなんでそんな大胆な発想が生まれるんだ。お前にしては中々面白いジョークだ」
「冗談でこんなこといわないわよっ」
「なんだ、オレが笑わなかったから怒ってるのか? 悪いな、その発想はなかった」
「だから違うっていってるでしょっ」
そういって美月は近づいてきた。彼女から発せられる甘い香りが心臓の鼓動を加速させる。
「ねえ、今ここで私を抱ける? 風花と思ってくれてもいいわ」
美月の香水が脳を刺激する。意識が飛びそうになるのを辛うじて我慢する。
「そろそろお開きにしよう、ちょうどいい具合に酔っ払っただろう」
「……逃げるの?」
「逃げるわけじゃない。今ここでお前を抱いて何になる。シラフの時にしよう。オレだってお前のことが好きな気持ちはあるんだ」
一瞬、美月の表情が固まった。しかし彼女は鋭い目つきのまま背を向けた。
「……ヴァイオリンを聴かせて。それで帰るわ」
「それで酔いが冷めるのか?」
美月は背を向けたまま小さく頷いた。
「わかったよ、それで満足するのならいくらでも弾いてやる」
そのまま火蓮の部屋に入りヴァイオリンを探す。二つのヴァイオリンケースがあり一つには鍵が掛かったままだった。夢に見た父親のヴァイオリンケースだった。
自分の手が震えるのがわかった。開けて中を確認しなければならない。この中身はおそらく……。
そのまま力を込めてこじ開けようとした。鍛え上げている火蓮の腕なら開けられる気がしたからだ。思いきり力を込めるとネジが緩み金具が音を立てて外れた。
……やっぱり、あれは夢じゃなかったんだ。
中を見ると粉々に砕け散ったヴァイオリンが入っていた。木片が散らばっており木屑も残っている。
もはや腕に力が残っていなかった。ヴァイオリンケースはそのまま滑り落ち、木片はバラバラになって散り散りになった。
「……火蓮? どうしたの?」
美月が階段を上がってくる音が聞こえる。体が途端にすくみあがっていく。
この姿だけは見せることはできない。
「来るなっ」
「何があったの? 凄い音が聞こえたけど?」
「大丈夫だ、足が滑っただけだ」
美月はそのまま上がってきて、部屋のドアを叩いた。
「……開けるわよ」
美月をこの部屋に入れることはできない。
彼女が扉を開ける前に、咄嗟にもう一つのヴァイオリンを取り出して音を鳴らした。
無我夢中でヴァイオリンを弾く。曲を浮かべる余裕はなく即興演奏で弦を振動させた。ヴァイオリンからは心地いい音色が流れていく。
……この音だ。オレが欲しかったのはこの音だったんだ。
ヴァイオリンが自分の気持ちを汲み取って音を鳴らしているようだ。この音は自分の乾いた心をたっぷりと潤してくれる。
「……綺麗な音色ね」
美月はドア越しに耳を傾けているようだった。しばらく弾いていると美月が細い声で言葉を発した。
「ごめんね、変なこといって。今の音色は間違いなく火蓮のものだとわかるわ」
「……酔いが冷めたのならよかったよ」
ヴァイオリンを仕舞いドアを開けようとした。しかし美月の体重がドアに掛かっているようで開けることができない。
「ちょっと待って……もうちょっとだけこのままでいさせて」
しばらく待っていると、美月の方からドアがひらいた。
「ごめんね、もう少しだけ飲まない?本当に酔いが冷めちゃった」
美月の顔を見ると先程と比べて明るい顔をしていた。しかし化粧が崩れており彼女の顔を凝視できなかった。
美月とそれとない会話を交わしつつ、飲み終えた所で彼女を送るタクシーを呼んだ。
彼女は酔っ払っているにも関わらず背筋をぴしっと伸ばしていた。目の端で横顔を覗くと凛とした表情で立っている。それが演技なのかどうかは自分にはわからなかった。もしかすると火蓮にならわかるのかもしれない。
美月を見送った後、水樹は縋るようにヴァイオリンを弾き続けそのままベッドに倒れこんだ。
頭痛で目が覚めると、今度は青いシーツの上にいた。
9.
……今度は青いシーツの上か。
水樹は大きく溜息をついて自分の腕を見比べた。華奢な腕を見ると一旦は落ち着くのだが、少し時間が経つと本当にこっちの姿でいいのかという焦燥感に駆られてしまう。
火蓮はすでに仕事に向かっているようで、家の中に人の気配は感じなかった。一階に降りてテーブルを見ると一枚のチラシの裏に冷蔵庫にご飯が入っていると書いてあった。どうやら朝帰りしたわけではなさそうだ。
……火蓮は一体何時ごろ帰ってきたのだろう?
不安が胸を押しつぶす。どちらにしても彼は風花と愛し合ったに違いない。自分が彼の立場なら間違いなくそうする。
不意に火蓮に対して憎悪が沸いていく。自分が嫉妬するのはお門違いなのだろうが、沸き上がるものは抑えることができない。
冷蔵庫の中身を確認すると、サンドイッチがきちんと三角形に切り揃えられていた。中身は卵、ハム、キュウリと定番で水樹の好きなものばかりだった。
彼が食事を作っている姿を想像すると、怒りが込み上げてきた。きっと自分の体に戻るための準備を着々と行なっているのだ。そのまま皿ごとゴミ箱に叩き付けた。
少し動き回るだけで頭痛がした。きっと昨日の飲みすぎで体が弱っているのだろう。二日酔いの薬を探し始めると、それがいかに意味のないことをしているかが理解できてきた。
……オレが二日酔いで頭が痛いわけがない。
水樹は声を上げて笑った。自分は昨日火蓮だったのだから、酒の飲みすぎで頭が痛くなるわけがないのだ。
……もはや自分が誰なのかすらわからなくなっている。
これから先一体どうなるのだろう。自分は結局どっちの体が正しいのだろう。
先を考えるといいようのない焦燥感が再び襲ってくる。ピアノができようが、ヴァイオリンができようが、本当はどっちでもいい。風花さえいてくれたら、それで――。
水頭を抑えながらピアノの前に座った。
……自分こそが水樹だ。
ピアノを弾かなければ水樹でいられない。風花が好きなピアノを弾こう。それしか風花と一緒にいられる術はない。
鍵盤を叩き思いを込める。しかし頭が割れそうなくらい痛く、思った所に指が動かなかった。椅子に座るだけで体が磁石のようにピアノから反発していく。
ヴァイオリンに逃げたかった。水樹であることから逃げたかった。右手で弓を持ち左手でヴァオイリンを支え思う存分弾き鳴らしたかった。きっと心地いいに違いない。その誘惑が数秒毎に襲ってくる。
頭の中にはショパンの曲は一つもなく、百獣の王のコーラスだけが流れていた。激しい旋律が頭の中をミルフィーユを作るように何度も何度も重なってゆく。ヴァイオリンの音色が頭の中を何度も何度も反芻し、ピアノの音がどこかに消えていきそうになった。
……このままじゃ駄目になる。一息つかなくては。
ピアノから逃げるようにして席を離れ冷蔵庫に向かった。水のペットボトルを掴み封を切る。そのまま飲もうとすると、昨日の残りのワインが目に入った。
気がつくとペットボトルを投げ捨ててワインの瓶を口につけ飲み干していた。体温が上がりしばらくは心地よい気分を味わうことができたが、それも一瞬ですぐに吐き気が襲ってくる。再びヴァイオリンの音色が聴こえてくる。百獣の王のコーラスが再び自分を誘惑してくる。
……どうしたらいいんだ、オレはもう水樹じゃいられない。
オレは、もう――。