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第四章 藍の鼓動と茜の静寂 

 第四章 藍の鼓動と茜の静寂


  1.


 眩しい光に眠りを妨げられ、水樹は目を覚ました。腕を伸ばして目で確認すると、昨日のような筋肉質な腕ではなく細い華奢な腕に変わっていた。

 確認のためにシーツを眺めてみる。いつもの水色だ。それを見て安堵の吐息が漏れる。

 どうやら間違いなく水樹に戻れたらしい。

 一階の洗面所から歯を磨いている音が聞こえている。大抵昼ぐらいに起きてくる火蓮も今日に限っては早起きなようだ。

「おはよう。昨日はよく眠れたか?」

「うん、おかげ様で」

 火蓮は歯磨き粉で口の周りに白い髭を作っていた。いつものことなのに、その姿を見るとほっとする。

「朝一番に兄さんのゴツゴツした腕を見なくてよかったよ」

「ああ、俺もだ」彼はにやりと笑いながらいった。「艶々のロングじゃなくて本当に安心したよ。おかげで煙草もワインも楽しめる」

 そういって火蓮は口をゆすぎ始めた。昨日のように蛇口からはピアノの音符は聞こえてこない。 

 テーブルの上に数種類の朝食が並べてあった。水樹は怪訝な顔で火蓮を見た。

「これは……誰が作ったの?」

「俺が作らなかったら誰が作るんだよ」火蓮は鼻の下を擦りながらいった。「やってみようと思ったらできたんだ、凄いだろう」

 目玉焼きに野菜サラダ、ホットケーキがきちんとした配色で並べてある。見た目も綺麗にできており、美味しそうな香りがリビングに漂っていた。もちろん火蓮が朝食を作った所なんて今までに一度も見たことがない。

 ホットケーキをフォークで刻み一口ほおばってみる。卵の分量も丁度よくふっくらした食感を味わうことができる。

「美味しい。どこで覚えたの、風花に教えて貰ったの?」

「どこでって、お前の体からだよ」

 あやうくホットケーキが飛び出しそうになる。今の発言は勘違いされる類だろう。うっかり道端でこんな会話をしたら、主婦達の話題にされかねない。

「兄さん、言い方を考えて。室内だからいいけど、外ではまずいよ」

「何がまずいんだ? ホットケーキか?」火蓮は意味がわかっておらずきょとんとしている。

「ホットケーキは美味しいっていったでしょ。そうじゃなくて、他人に聞かれたまずい発言は止めてくれってこと」

「別にいいじゃないか、それくらい」火蓮はそういいながら呑気にフライパンを洗い始めている。

 溜息をつきながら目玉焼きを口に運ぶ。本当に美味しい。自分が作る朝食より美味しく感じるくらいにだ。

 どこかで読んだ料理本の記憶が蘇る。いつもの味付けの分量を少しだけ変えると、新鮮になり美味しくなると書いてあったのだ。今食べている料理がまさしくそれだ。

 女性の味付け、特に母親の味付けに飽きないのはそのせいだという。感覚を少しずらすことで味覚がうまく反応するらしい。

「旨いだろう? 俺も自分でびっくりしたよ」火蓮はふふんと鼻歌を歌いながら上機嫌で皿を洗っている。

「うん、本当に美味しい。僕の味付けじゃなくてちょっとずれている所がいいんだと思う」

 火蓮は口をへの字にして水樹を見た。「何をいってるのかよくわからんが……。まあ、うまいのならよかった」

 朝食を食べ終わった所で時計を見ると十時を差していた。午前中には病院の診察を終えておかなければならない。もちろん風花に締め上げられないためにだ。

「兄さん、そろそろ準備をした方が。午前中までに行かないと怒られるよ」

「……誰に怒られるんだ?」火蓮はにやりと微笑んでいる。

「先生に決まってるじゃないか」口を尖らせていう。「兄さんは行ってないからわからないかもしれないけど、神山先生は人気があっていつも予約で一杯なんだよ。午前中で診断が終わらなくなる」

「そうか、お前は午後から用があるんだな。彼女さんと」

 どうやらタクシーでの話を聞かれていたらしい。

「そうだよ、だから早めに終わらせないと、もう一度病院に通わないといけなくなる」

「……それはまずいな。急ごうか。先生も俺の顔を忘れていなければいいが」

「忘れるはずがない。兄さんの話題は尽きないんだから」

 ……もうこの検診も十年になるのか。

 事故前後の記憶を思い返す。自分達は事故から半年に一度は定期健診に行っている、それは医者が通常通りに推薦するものではなく神山が配慮してくれているものだった。

 神山は事故に遭ってから水樹達の境遇に同情し、力になってくれた。両親の残した保険金で生活することはできたが、音楽大学に入ることは叶わなかった。その資金の工面をしてくれたのも神山だった。

「先生と会うのは一年ぶりだなあ、元気にしてるかな」

「美月の話では特に変わった様子はなかったみたいだけどな」

「……そう。彼女とはまめに連絡をとっていたんだね」

 火蓮は意味がわからないといった顔をしたが、その後顔を真っ赤にして押し黙った。

 美月は水樹と同様にコンクールの遠征で海外にいたため、彼女から話を聞くためには自ら連絡しなければならない。彼女とは不仲になっていなかったのだなと思い安堵した。


  2.

 

「おお、水樹君。ショパンコンクール、実に素晴らしい成績を修めたね。私としても鼻が高いよ」神山は水樹を賞賛しながらも横にいる火蓮の方を見ていた。「それに今日は火蓮君も来てくれたのか。どうぞ、二人とも座ってくれ」

 並べられていた丸椅子に座る。先生は火蓮がいつも来ないことを承知の上で、二つの丸椅子を用意していた。まるでいつかはここに来ることがわかっていたかのようにだ。

 神山の診断を終えると、火蓮は静かに口を開いた。人格が入れ替わった所を上手くぼかしながら、薬の作用について話を伺っている。

「前にも説明したけどね、あの薬は心臓の働きを助ける作用があるんだよ。君達は事故に合ってから外的な損傷はほとんどなかったが、内臓に影響があったんだ。特に心臓にね。もしかして薬が合わないのかい?」

 火蓮は首を横に振って否定した。

「いいえ、そういうことではないんです。前に先生は僕がお酒を飲むのを控えるようにとおっしゃいましたよね? それでちょっと気に掛かることがありまして、お話を聞きに来ました」

 神山の顔つきが変わった。

「何か変わったことがあったのかね?」

「もちろん何もありません。ただ年末に大きなコンサートの仕事が入りまして用心しているといった所です」

「なんだ、そういうことか」神山はころっと笑顔になった。「びっくりさせるじゃないか。その話は美月からも聞いているよ。火蓮君は若いのにしっかり自分の使命を果たしているね。もちろん水樹君に到ってはいうこともないだろうが」

 神山は優しい口調で説明を続ける。

「君達の体はね、アルコールを分解する機能がほとんどないんだ。アルコールを分解することができなければ、もちろん血液にはアルコールが残る。アルコールが残れば薬の作用が何倍にも膨れ上がって過剰な効果が出てしまうからね」

 水樹はごくりと唾を飲み込んだ。

「つまりどういった効果が出るんでしょうか?」 

「端的にいえば呼吸がしにくいなどの症状が出る」神山は小さく唸った。「薬の効果が強くなればもちろん血液は早く回ることになる。そうなると体が活性化するだけじゃなくて過剰に酸素を必要とすることになるからね。それによって急に意識が飛んだりすることもある。つまり心臓が止まってしまうだってあるんだ」

 水樹は火蓮の方を見た。彼も自分の方を見ている。考えている所は同じだろう。二人ともこの反応を起こしている。

「もちろんアルコールを摂取していなくても起こることだ。激しいスポーツをしたり、大きな悩みがあればそれだけでも心臓はいつもより早く動くんだ。心臓はデリケートな生き物だからね。逆に過呼吸といって酸素をとり過ぎてうまく呼吸ができなくなることもあるんだよ。だからこれからも定期健診には来て欲しいね」神山は火蓮の顔を見ながらいった。

「すいません。これからはなるべく通うことにします」

「それがいい。じゃあ二人とも、いつもの薬を用意しておくね。それ以外に変わった点はないかい?」

 彼の瞳に自分達が映る。

 ここで答えたら、最悪年末のコンサートに出られなくなる可能性だってある。

「いえ……特に何もありません」

「そうか、それならいい。火蓮君、次の検診にも必ず来るんだよ」

「はい、ありがとうございます。それでは失礼します」


 いつもの薬局に行き病院から薬を受け取ると、火蓮が袋の中身を見ながらぽつりと漏らした。

「やっぱり薬が原因だったんだな」

「うん。やっぱり兄さんのいった通りだと思う。これに懲りて兄さんがお酒を止めてくれたらいいんだけどね」

 火蓮は顔をしかめた。「それとこれとは別だ。要は薬を飲む時に酒を飲まなければいいんだ」

 ……何のためにここに来たの?

 大きく溜息をつくが、酒のうまさを味わってしまったのだから文句のつけようがない。火蓮が酒を止めることはないだろうから、別の解決策を考えなければならない。

「今日のデートは場所を決めないといけないんじゃなかったのか?」火蓮はにやにやしながら水樹の様子を伺っている。

「うん。そうだけど」

 まだ考えてないよ、といおうとした瞬間脳裏に一つよぎった場所があった。

「もちろん考えてあるよ。それにあそこに行けば、記憶に関することが何か掴めるかもしれない」

 今日は風花を喜ばせることができそうだ。

 あの場所なら、彼女はきっと喜んでくれる――。


  3.


 目の前には『鏡花水月』と習字の筆でなぞられた看板が高らかに掲げられている。水樹達は店主に挨拶を交わしながら店の中に入った。

「お、いらっしゃい。水樹君に火蓮君」

 声を掛けてきたのは風花の父親・天谷遥あまたに はるかだ。風花の家は花屋を営んでおり、家と仕事場が一緒になっている。

「すいません、今日は娘さんをお借りします」

「うん、こちらこそよろしく頼むね」そういって遥は水樹に笑顔を見せた。

 店の中はほとんど遥一人だ。しかし固定客はきちんと掴んでいるようで、常に忙しそうに動き回っている印象がある。

「遥さん、お久しぶりです」火蓮が小さく頭を下げている。

「火蓮君、久しぶりだね。今日は三人でデートかな?」

「いえ、僕は水樹を送りに来ただけです」

「そう。折角だからお茶でも飲んでいかない?」

「すいません。ちょっと用事があるのでもう行かないといけないんです」

「すぐに風花が降りてくるよ。挨拶くらいしたら?」踵を返した火蓮の袖を掴みながらいう。

「劇場で毎日会ってるんだ。今日くらい仕事のことは忘れさせてくれよ」

 それもそうかと納得し、水樹は袖を離した。

 火蓮が車を発進させた所で遥と二人っきりになった。だが彼の雰囲気が重苦しいものにはさせない。

「はい、どうぞ」

 遥から暖かい緑茶を受け取り、水樹は冷ましながら一口啜った。両手を暖めながら風花が降りてくるのを待つ。

かえでさん、元気にしてますかね? 確か今はドイツにいるんでしたっけ」

「ああ、元気にしているようだよ。もう少ししたら帰ってくるようだけど、忙しいみたいだね」

 作業台の上には天谷家が映っている写真があった。風花の母親・天谷楓あまたに かえではフルート演奏者で海外を遠征している。水樹が小さい頃は日本で活躍しており、よく演奏を聴かせてもらったのだが名が売れて海外で活躍しているらしい。

「遥さん、確かこの看板は楓さんが書いたんですよね。どういう意味があるんです?」

 看板の『鏡花水月』という文字を見る。楓の父親は書道家だったらしく、その影響で楓も達筆な字が書けると聞いていた。

「幻を見ているっていう意味さ。鏡に映る花や水に映る月というのは目で見ることはできるけど、掴むことはできないだろう?」

 幻という言葉が昨日見た夢と重ね合わせてしまう。

 クリスマスに見たあの少女は風花だったのだろうか?

「花は数日もすれば枯れてしまう。ようは思い出に残るかどうかなんだ。花を貰ったその記憶が一番大事だと思ってるよ」

 過去の記憶。今の自分には最も関心のある話題だ。事故前の記憶は今でも戻っておらず、今のように火蓮と転移を続けるのであれば探らなければならないだろう。

「まあ花を贈ることで一番有効な方法は喧嘩した時だけどね。水樹君も風花と喧嘩した時に試して欲しいけど、うちの子は花より食い気かな」

「確かに、そうかもしれませんね」

 遥と雑談を交わしていると、風花が階段から降りてきた。薄い萌黄色のワンピースに深緑色のトレンチコートを着ている。化粧も念入りに行われているみたいだ。アイラインをきちんと入れており、唇のリップの艶もいい。

 いつもより気合が入っているようだ。

「ごめんね、遅くなっちゃった。行き先は決まりましたか、水樹さん?」


  4.


 若松海岸に辿り着くと、平日で人も少なく一組の親子が砂浜を歩いているだけだった。少し肌寒いが海の香りが心地いい。

「ちゃんと行ってくれたらいいのに。ここはブーツじゃ歩きにくいよ」

 風花は嬉しそうな顔を見せたが、すぐに不満を漏らした。

 彼女の顔を見ると本気でいっていないのがわかる。艶のいい唇が緩んでいたからだ。

「だって、先にいったら面白くないでしょ? 僕だって楽しみにしてたんだから」夢で見て、さっき思いついたなんていえない。

 砂浜を歩くと靴が砂の中に埋もれた。久しぶりに味わうこの感触がとても懐かしい。靴を脱いで味わいたかったが、さすがに子供じみた真似になるなと思い我慢する。

 風花はコートに手を突っ込んで波打ち際まで近づいている。

「……懐かしい。あれは小学校の時だったんだよ」

「うん、そうだったみたいだね」

 夢の中で見た景色を想像する。それと同時に波の音が自分の中に染み渡っていく。この海の景色を見たからこそ、自分はピアノの音に水の躍動感、繊細さを込めることができたのだと実感する。

 日が沈み海の色は淡い青色から仄暗い竜胆りんどう色に変わっていった。幼い頃に見た海は何色だったのだろう。

「少しだけ……記憶が蘇ったんだ」

 水樹は小さく呟いた。

「三人で自転車に乗ってここに来たこと、帰りが遅くなって母さんに怒られたこと、火蓮がポケットからお金を出してタクシーで帰ろうって提案したこと……」

「……」

 風花は何もいわずに波を見つめている。何かを考えているように表情は硬い。

「……どうしたの? 急に静かになって」

「んーん、波を見てたらついぼーっとしちゃって……」

 彼女の様子はとても呆然としているようには見えなかった。どこか記憶間違いでもあったのだろうか。

「そんなことまで思い出したんだね。嬉しいよ」

 風花は波を眺めながら続ける。

「本当に助かってよかった……あの時、本当にどうしたらいいかわからなかったよ。嫌がっている水樹を無理やりピアノの前に立たせたのは今でも悪かったなと思ってる……」

「そんなことないさ、あれがあったから今の僕はピアノが弾けるんだ。感謝してる」

 事故が起こったのは両親と百獣の王を見にいった帰りだった。父親が運転する車の中でうっすらと眠り掛けていた時、大きな金属音が聞こえた。気がついた時には美月の父親が働いている病院のベッドの上だった。

 両親は二人とも車の中で即死だったらしい。遺体が残らないほど車の前面が消失していたとのことだ。自分達の座っていた後車はガードレールに直撃し、お互いに一種の記憶障害が残ってしまった。

 その記憶の手助けをしてくれたのが風花だった。小さい頃のアルバムを引っ張り出して丁寧に説明してくれて、自分達の得意だった楽器を触らせてくれた。

 お互いに中々弾けずに戸惑っていると、彼女は家に残っていたビデオテープを再生させて楽器の弾き方を思い出させようとしてくれた。水樹にはピアノのコンクールのビデオが多数あり、火蓮の場合には家で様々な楽器を弾いていたビデオが残っていた。

 それからは火蓮に対抗意識を燃やして無我夢中でピアノを弾いた。次第にピアノに対する違和感はなくなり愛情が増していった。

「今でも思うよ、あの時に風花が僕達を熱心に介護してくれなかったら、今の僕達はいないからね」

「……」

 風花は黙って頷くだけだった。潤んだ瞳に何か別の感情が潜んでいるようにも見えるが、わからない。

「……ねぇ、水樹。あたしと初めてキスした時のことは思い出した?」

「ごめん、そこまでは思い出せてないよ。いつしたの?」

「聞きたい?」風花はにやにやして水樹の顔を見た。「あれは高校一年の時だよ。いつもの四人で遊園地に行ったんだ。新しくなった観覧車の中でね。火蓮が高い所、駄目だったから、二人で乗ったのよ」

 ……火蓮が高い所が苦手?

 そんなイメージはないが、当時はそうだったのかもしれない。

「ずっと待ってたんだけど、水樹がしてくれないから、自分から攻めてみたの」風花は髪を耳に掻けながらいった。

 今の自分には考えられない、自分の方が愛情が大きいと確信しているからだ。きっと高校生ということもあって恥ずかしかったのだろう。

「私は小さい頃からずっと水樹にアピールしてたの。だけどあなたは私のことを友達としてしか見てくれなかった。だから、私の方を振り向いて欲しくて頑張ったの」

 風花はえへへと笑いながら、海の方に体を向けた。両手の親指を擦り合っている。

「そっか。僕はその前から風花のことが好きだったと思うけどな」

「そうだったら嬉しいなぁ……」

 風花はしゃがんだまま波に当たるか当たらないかの瀬戸際で海を眺めている。

「その後はさ、火蓮達と別れて二人でデートしたの。美月もプライドが高いから、中々難しかったんじゃないかな」

「美月から攻めてたの?」

「気になる?」彼女は目を大きく開けて水樹の瞳を覗き込んできた。目の中にある虹彩が光を吸収して緋色に輝いている。

「お互いに好きだったみたいよ、私の推測だけど」

「じゃあ、それは当たってるんだろうな」

「どうして?」

「風花の嗅覚は鋭いからね。僕は今までに風花に対して一度も嘘をついたことがないよ。つけなかった、だけかもしれないけど」

「あら、そうですか。じゃあ一つ尋ねたいことがあるんだけど」

 水樹は体を震わせた。彼女の真剣な表情に息を呑まずにはいられない。

「昨日さ、ミュージカルを見に来てたでしょ。どこで見てたの?」


  5.


 火蓮に場所を聞くのを忘れていた。当日券を買ったのだから、二等席だろう。二等席は確か二階のはず。

「二階だよ」

「二階のどこ?」

 彼女を覗くと言葉に詰まる。緋色に染まっていた瞳がさらに深みを増している。

「もしかして……一階で見てたんじゃない?」

「何でそう思ったの?」

「水樹が……もっと近くにいると思ったの」

 心臓が大きくバウンドする。確かに彼女のいう通り、指揮台の上に立っていたのだから一階にいたといっても過言じゃない。

「こんな回りくどい言い方をして、指揮をしている火蓮がね、水樹に見えたの」

 全身が凍りつくように固まる。やはり風花は何かに気づいている。その正体は今の所まだわかっていないようだ。

「ごめんね、こんなこといって……気にしないで」

 苦笑いしている風花の横顔が映った。

「昨日のミュージカルは何か違ったの?」

「うん、いつもより火蓮に感情が籠もってたの。いや、そうじゃないなぁ」風花は一つの間を持って答えた。「いつも以上に心を奪われる指揮だったの。火蓮の姿を見ているだけで息が止まりそうだった」

 何もいうことができない。事実、その通りだったからだ。コーラスに絡まる打楽器、木管楽器、弦楽器、全てが新鮮だった。目を閉じれば振動音が今にも聴こえてきそうだ。

「正直に答えてくれてありがとう。こりゃ最悪、三角関係になるかもしれないな」おどけるようにいう。「今のうちに兄さんに釘を打っておかないと。大変なことになるかもしれない」

「……ならない」風花は強くいった。

「なんでそういえるの?」

「水樹以外を好きになるわけないじゃない」

「それはわからないよ」

「……わかるもん」

 もし中身が入れ替わっても? といいたかったが、水樹は止めて話題を変えた。

「ポーランドに行く時に結婚の約束をしたよね、なんであの時に決めたの?」

「……あのまま離れたら、もう二度と会えないと思ったから」

「帰ってくるっていったじゃないか」

「それは帰ってくるっていうだけで、本心はわからないでしょ」

 そういって彼女は我に返ったように顔を真っ赤にさせて、慌てて言葉を並べ立てた。

「もしかしたらさ、他の女の人、連れて帰って来るかもしれないじゃん。綺麗な外人さんとかさ」

「そんなことしないよ」

「いーや、水樹はわからないからね。自分よりうまいピアニストがいたら声掛けるでしょ?」

「そりゃ当たり前だ」

「じゃあ、それが女の人だったら、水樹のことを好きになるかもしれないでしょ」

「……ならない」

「なんで言い切れるの?」

「風花に怒られるのが怖いから」

「はぁ……もう一回、記憶飛ばしてあげようか?」風花は思いっきり首を絞めてきた。

「すいません、冗談でもいいません」

「よろしい」風花は手の力を抜いてそのまま体を寄せてきた。

「まったく、どれだけ心配してたと思ってるの。一年の埋め合わせは一日じゃできないんだからね。一生償ってよ」

「ごめんごめん、僕が悪かった」

 謝りながら唇を重ね合わせる。

「……もう一回して」

「後、一回でいいの?」

「私の気の済むまでしてくれる?」

「うん。帰りのバスの時間までで済むならね」

 再び口づけをする。いつの間にか激しい熱の奪い合いを始めるように絡み付いていく。彼女の体温が自分の中に伝わっていく。

 ……彼女以外を好きになるわけないじゃないか。

 水樹はもう一度、彼女のぬくもりを確かめた。胸に残る記憶が幻ではないと告げている。

 ……もう絶対に離したりはしない。

 心の中で誓いながら、彼女に再び口づけをした。


  6.


 家に帰りつくと、火蓮がソファの上でぐったりと横たわっていた。熱でもあるのかなと駆け寄ってみると、ただ酒に飲まれているだけだった。

 テーブルの上には空のワインボトルがあった。二本目も半分くらいなくなっている。

「……兄さん、飲みすぎだよ」

「いいじゃないか、昨日は飲めなかったんだ。お前も一杯やるか?」

 火蓮は立ち上がって、どんよりとした手つきでグラスにワインを注いだ。

「また人格が入れ替わるかもしれないじゃないか」

「ならねえよ、薬を飲まなければいいんだ」

「じゃあいつ薬を飲むの?」

「……うるさいやつだな」火蓮はぐいっとグラスを傾けた。「もういいじゃねえか、俺の人格が一回そっちにいったんだ。ワインだって旨く感じるんじゃないのか」

 何がいいんだと突っ込みたかったが、ワインのいい香りが水樹の脳を刺激した。

「うん、美味しそうな香りがする」

「そうだろう? 一杯だけでも付き合えよ」

 勢いに任せてグラスを傾けると、仄かなワインの香りが脳を刺激した。

「……お前、風花と結婚する気はあるのか」

「うん、するつもりはあるよ。だけど、僕達はまだ二十五だ。今すぐしなくてもいいと思ってる」

「そうか……」火蓮は冷えた目でグラスを覗き込んでいた。そのままワインの中に溶け込みそうな表情だった。「お前の結婚式には俺がオーケストラを引き連れて演奏してやるからな」

「そんな馬鹿な。どこの貴族だよ」

 そういうと火蓮はがははと大きく笑った。

「兄さんこそどうなの? 結婚しないの?」

「俺はお前と違って女に余裕があるからな。まだ一人に縛られたくない」

「美月とは付き合ってないの?」

「まさか。付き合ってないよ」

「もしかして美月とうまくいかなかったから、フランス留学を止めたの?」

「そんなことがあるわけない」火蓮は大きく腹を抱えながら笑った。「あれは俺にしても勇気のいる決断だったんだ。それなのに色恋沙汰で止めるわけがない」

 火蓮のフランスに留学する目的はブザンソン国際指揮者コンクールに出場することだった。このコンクールは若手指揮者の登竜門とも呼ばれており、彼にとって魅力的なコンクールの一つだった。日本指揮者が多数優勝している部門で、父の海もこのコンクールに出場しており優勝していた。

 美月も大学卒業後、二年間フランスに留学しロン=ティボー国際コンクールに向けて励んでいた。もちろんそれだけではなく近隣国のコンクールにほとんど出場し、数多くの入賞を果たしている。

 二人はフランスで再会することを夢見ていた。それを火蓮は急遽変更したのだ。

「じゃあそろそろ理由を教えてくれよ。あの時は何も教えてくれなくて、兄さんにどう対応していいかわからなかったんだ。小さい頃からの夢だったじゃないか。父さんの道を歩むことは」

 小学校の時にタイムマシンと称して学校に埋めた作文の中に火蓮は父さんと同じ道を歩み、さらにそれを越す指揮者になりたいと書いてあった。

 運命は自分の力で切り開く。力強い字だった。

「あの時は必死だったんだよ。俺だって何が正しいかなんてわからなかった。小さい頃の夢だったが、それはそれだ。父さんは運よく優勝できたから、他の劇団からオファーがあったんだ。俺はその博打が打てなかった。それだけさ」

 火蓮は一つ咳をし、はっきりとした言葉で話し始めた。

「確かに上を目指すものとしてはコンクールに出場した方がいい。だけどな、仕事をしながら指揮を振った方が断然力は身につくんだ。観客が目に見えるからな。お前だってポーランドではバイトしながらだったんだろ?」

「うん、そうだね。お客さんによってどんな演奏が好みだとか、自分の中じゃわからないことをたくさん教えて貰った」

 火蓮は勢いよく頷いて続けた。

「まさにそれだ。俺だって楽譜どおりの勉強をやるよりも、現場で学ぶことの方が多いと思ったから日本に残ったんだ。留学すれば音楽に対する知識は増えるかもしれないが所詮それだけだ。その後がない。優勝しなければ働き口はないし、第一コンクールで入賞を果たしたからといって客の心はわからない」

 納得できる話だった。現場主義の彼なら全うなやり方だ。「なるほどね、そういうことだったんだ。一年間ポーランドで過ごした僕には耳が痛いけどね」

 自分の立場に置き換えてみる。ショパンコンクールでは優勝を果たしたが、演奏の仕事は思ったよりも少なかった。約束された定期公演だけで後は取材などの演奏とは別の仕事が入ってくるだけだったのだ。

 もちろん海外からの仕事のオファーも数件入ってきていたが、日本に身を置くと宣言したのでこれを了承する気はない。

「じゃあ兄さんはなんで百獣の王の指揮者になったのさ? やっぱりそこが一番勉強になると思ったから?」

 火蓮はかぶりを振った。

「いーや、それはまた別だ。この不況の中で仕事は選べなかった。ともかく指揮が振れる所を探していたらあそこになったってだけだ」

「風花が聞いたら怒るよ、それ」

「間違いない。黙っておいてくれ」

 そういうと、火蓮は再びがははと笑った。

「劇を見に行った記憶はないが、毎年見に行っていたんだ。思い入れがないとはいわないよ」

「そうだよね」水樹は大きく頷いた。「徐々に記憶も戻って来ているし、そのうち全部わかるようになるかしれないね。劇団を見に行った記憶だって蘇るかもしれない」

「……ああ。そうなればいいな……」

 火蓮は独り言を呟くように細い声で漏らした。その瞳は深く憂いを帯びていた。


  ◇.


目を開けるとそこはコンサートホールの中だった。

 ホールを見渡すと、観客が惜しみない拍手を贈ってくれている。水樹は表彰を受け達成感を噛み締めていた。

 リストの超絶技巧練習曲第5番『鬼火』を人前で初めて成功させたからだ。跳躍をメインとし、一秒たりとも止まらない悪魔の火を操ることができるピアノはストーンウェイしかない。久々の鍵盤の感触は心地いいもので、彼の手によく馴染んでいた。

 水樹の隣には二位になった女性が悔しそうに俯いていた。薔薇色に染まったドレスを身に纏いながら涙をぐっと堪え歯を食いしばっている。

 一位になった者は後日、オーケストラとの競演曲『ドン・ジョヴァンニ』をチェンバロ(鍵盤楽器)で演奏できる特典がついている。恐らくはそれが目当てだったのだろう。

 しかし今の自分には関係のないことだ。自分の夢は火蓮とのコンチェルトを成功させることにある。後日また東京に来なければいけない決まりだったが、水樹はそれを隣の女性に託すことにした。

 表彰を終えた後、彼女を公園に呼び出して話をした。公園にはクリスマスツリーが飾られており、聖なる夜を迎えるのに絶好のシチュエーションとなっている。彼女はそのままの衣装ではなく、淡い桃色のワンピースに着替えていた。

 当初彼女は謙遜していたが、協奏曲を弾けない理由を話すと喜んで承諾してくれた。

「あなたにも夢があるんですね。私の夢はショパンコンクールで優勝することなんです」

 彼女の目は輝いていた。水樹はその輝きに自分と同じものを感じ嬉しくなった。

「僕も同じ夢を持っています。夢というか使命ですね。母の思いを受け継いでコンクールに望みたいと思っています」

「やっぱりそうだったんですね」彼女は優しく微笑んだ。「あなたのピアノを聴いてそうじゃないかなと思っていました。こうやってお会いできて光栄です」

「とんでもない。僕はまだ母さんのレベルには程遠い」

「謙遜されなくて結構です。あなたのピアノを聴いた時に灯莉さんと同じものを感じましたから。わたしの中でも彼女は憧れなんです」

 水樹の心臓が大きくバウンドした。お世辞でも嬉しかった。

「来年、ショパン百九十生誕記念コンサートがありますよね。あなたのお父さんが指揮を執られると聞いていますが」

 水樹は首を縦に振った。

「そうですよ。その次の生誕二百年のコンサートが僕と兄さんの夢です」

「そうなれば素敵ですね。言い遅れましたが、私は鷹尾鏡花たかお きょうかといいます。どうぞこれからもよろしくお願いしますね」

「こちらこそ」

 鏡花と手を交わすと熱いものが込み上げて来た。手を握っただけで心臓を捕らえられたように感じる。

「もしよかったらなんですが……。来年のコンサートの時にも会えませんか?」

 彼女の顔が急に高潮した。ショートカットのため表情が手にとるようにわかってしまう。自分にもその熱が連鎖していく。

「やっぱり同じピアニストを目指すものとして励みになるというか……」

「ええ、僕も鷹尾さんともっと話がしたいです」

 彼女を見つめると、いいようのない気持ちが流れてくる。体が浮きそうなくらい心が満たされていく。

 この気持ちは同じピアニストを目指すものとしてだけでなく、純粋に彼女に心を掴まれているように感じる。

「……鷹尾じゃなくて鏡花と呼んで下さい。そっちの方が親しく慣れそうだから」

「わかりました、鏡花さん。その代わり僕のことも水樹と呼んで下さい」

「はい、水樹君」

 鏡花は親指同士を擦り合わせながらいう。彼女の声から水樹という名が出るだけで熱を帯びていく。涼しい夜の風がなければ彼女と同じく顔が真っ赤になっているだろう。

「水樹君、もしショパコンの本選に残ったらどちらの協奏曲を演奏しますか?」

「もちろん『第一番』の方を演奏しますよ。鏡花さんは?」

「私は『第二番』です」

 水樹は訝しく思ったが、その理由はわかった。母親が『第二番』を演奏したからだ。

「灯莉さんの思いを受け継いで私が一位をとりたいんです。私にとって第二の母親みたいな存在だから……」

 気がつくと、水樹は鏡花の肩を掴んでいた。

「……あなたと会えてよかった。是非、本選で会いましょう」

「もちろんです。必ず叶えましょうね。これはもう約束ですからね」

 お互いの小指を絡ませる。彼女の細くて美しい指にこれ以上ない心臓の高ぶりを覚えていく。

 彼女と一緒に本選に出場したい。そして一位を掛けて争いたい。

 水樹がにっこり笑うと彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。彼女の姿を見て、早くも来年のクリスマスを想像していた。


  6.


 再び目を開けると、水色のシーツの上にいた。入れ替わってないことを確認してほっと吐息をつく。

 ……いやに心地がいい。

 おぼろげな記憶しかなかったが、今日見た夢はとても楽しかったような気がした。

 火蓮の部屋を眺めてみる。どうやら彼はすでに出発しているようだ。テーブルの上にはまたしても朝食が載っており、水樹は感謝の意を表しながら朝食を平らげた。

 ……さあ、練習を始めよう。

 いつもの椅子に座り込み体の訛りを取ることから始める。ここ数日は思うように練習ができていない。

 鍵盤を叩いているうちに奇妙な感覚が襲う。指がもっとスピードを上げろというのだ。感覚的には今のテンポがベストだと感じているというのに。

 これ以上スピードを上げると曲が纏まらずただ鍵盤を走らせるだけになってしまう。平静を保ちながら頭の中でリズムを刻む。いつもならそれで納まるはずなのだが、却ってリズムが狂い始めていく。

 ……感覚が狂ってきている。

 いわれのない恐怖を抱く。何かが自分の感覚を狂わせていく。久しぶりにメトロノームを用いて感覚を制御しようと試みるが、それでおさまる様子はない。

 ……指揮を振るったせいだろう。

 自分にはピアノしかないという概念が指揮を通して崩れてしまったのだ。ピアノ以外の音に初めて心を奪われたことが自分のリズムを乱しているに違いない。

 ……そうだ、昔のビデオを見よう。

 こういう時は初心に返るのが一番だ。コンクールに出場したビデオを一瞥すると、気持ちが落ち着いていく。

 中学生の自分がショパンの『雨だれのプレリュード』を演奏しているものだった。全体に渡って静かなメロディを奏でるこの曲は静謐な時間をもたらしてくれる。

 ……ん? これは何だろう?

 楽譜を見ていると、奇妙な点があることに気づく。鉛筆でストーンウェイを扱うようなハーフペダルを示す記号が書かれてある。

 ……今までにストーンウェイを扱ったことはない。

 もしかすると灯莉の楽譜かもしれない。彼女はストーンウェイしか弾かないことで有名だったからだ。

 リビングに戻り再びビデオを見ても違和感を覚える。自分の記録のビデオテープが全て同じ種類なのだ。

 ……そんなことがあるわけがない。

 幼児期から中学に掛けてのビデオテープが全て同じなんてありえるはずがない。

 張られてあるテープにしても動揺に汚れが均一で時代の流れを感じることができない。この字は本当に母親が書いた字なのだろうか。

 ……駄目だ、こんなことでは集中なんてできない。

 頭を振って気を取り直す。感覚が狂ってきているせいでナーバスになっているだけだろう。少しずつリズムを刻んでいくと、心に余裕が生まれていく。

 だが心臓の鼓動音が上昇していき、自分を抑えられなくなっていく。

 ……ともかく鍵盤を叩き続けるしかない。

 水樹は薬を飲んだ後、指の痛みに気づくまで貪るように練習に打ち込んだ。


 練習の対価として腕が棒のようになったが、この疲れはいやではない。今までは時間を決めて練習していたが、こういった練習も必要だろう。何より満足感が違う。

 ふいに煙草が吸いたくなった。火蓮の部屋に行き一本だけくすねて火を点ける。

 ……やはり苦い。

 ごほごほと咳き込みながら煙草を離し灰皿に置く。それでも気持ちが落ち着いていく、体が煙を受け入れていくのがわかるのだ。

 冷蔵庫から昨日の残りのワインを取り出し、一口だけ飲む。舌の上で転がすだけでも気持ちが落ち着いていく。ワインボトルが空になった時には意識が飛んでいた。

 突然、チャイムの音が頭に響いた。

 目を擦りながら辺りを見回すと、桃色のワンピースを着た風花が立っていた。


  7.


「風花、わざわざ会いに来てくれたの? 嬉しいな」

 水樹は風花を抱きしめてそのままソファーの上に倒した。

「ちょっと水樹、どうしたの? 嬉しいけど……今はちょっと困るかな」

「まったく……そういうことは俺がいない所でやってくれといっただろう」

「なんだ、兄さんいたのかい?」

「当たり前だ。俺がいなかったらどうやって風花は入るんだ」

「……それもそうか」

 リビングのソファに戻ると、背の低いテーブルの上に缶ビールがあった。手に取ろうとすると風花に取り上げられた。

「いつの間にお酒が飲めるようになったの?」

「俺のせいじゃないぞ、いや、俺のせいかもしれない」

 火蓮は風花に咎めなれながら弱ったような声を上げた。

「兄弟なんだ、それくらい大目に見てくれよ。風花も少し飲むか?」

「……そうしよっかな。水樹がこんなに酔っ払ってるのは珍しいし」

 冷蔵庫から冷えたビールを取り出して、二人は乾杯した。

「最近、調子がいいんじゃないの?」

「そうだな……ナンパの調子ならすごぶるいい」

「そっちじゃないわよ」風花は呆れた顔をして溜息をついた。「仕事しかないでしょ。年末のコンサートが近づいてるのもあるんだろうけど、いやに張り切ってるじゃない」

「そういう言い方はやめてくれ。俺がいつも真面目にしてないみたいじゃないか」

「うーん……それは否定しないけどね」

「俺の仕事はみんなの音を纏めるだけだ」火蓮は缶ビールを傾けていう。「俺自身は音を出すことはできない。一人一人が最高の音を出すために俺は合図を出しているだけなんだ。だから俺が気負わないようにはいつもしている」

「ふうん、なるほどね」風花は賞賛の声を上げながら彼を囃し立てる。「さすが上に立つ人間はいうことが違うわね、見直しちゃった」

「冷やかしはやめてくれ」

「冷やかしじゃないよ。この間の火蓮は……本当に格好よかった」

 風花はそういいながら、火蓮の方をはっきりと見た。「初めて火蓮に心を奪われちゃった。水樹がいる前でこんなことをいっていいのかわからないけど」

「……そいつはどうも」火蓮はグラスを大きく傾けて一気に飲んだ。「ところでいつ式を挙げるんだ? もうそろそろいい頃合だろう」

「まだ何も決まってないわよ。水樹は結婚したいっていってたの?」

「する意思はあるみたいだったぞ」

「……そっか」

「なんだ?嬉しくないのか」

「……もちろん嬉しいよ。でも、今はまだ、できそうにないかな……」

 風花はそういいながら寝息を立て始めて横になった。

 火蓮は彼女のために一枚の毛布を持ってきてそのまま被せた。立ったまま彼女の寝顔をじっくりと覗き込んでいる。

「早く、結婚してくれよ……じゃないと……」

「……兄さん。僕には毛布ないの?」

 彼の瞳はうっすらと濡れているように見えた。

「なんだ、起きてたのか……なら二階で寝るんだな」

「風花はどうするの?」

「時間が時間だからな。向こうの家に連絡を入れてみる。出なければ布団を敷くしかないな」

 火蓮は携帯を取り出して風花の家に掛けた。どうやら遥は起きているようで家に迎えに来るらしい。

「お前、いつ薬を飲んだんだ?」

「ごめん。練習がしたくて先に飲んでしまったよ」

「そうか。俺は今日、飲まないほうがいいんだろうな……」

「ごめん。兄さん、大丈夫? 動悸が来たりしない?」

「ああ、一日くらい大丈夫だろう。それに……明日は休みだからな。お前は明日公演だろう? だからお前に飲んで貰うつもりでいたんだ」

 インターフォンが鳴った。どうやら遥が到着したらしい。

「やあ、火蓮君。いつも迷惑ばかり掛けてごめんね」

「いえいえ、俺が勧めたんです。申し訳ないことをしました」

「最近、うちでも飲むようになってるんだよ。何でも水樹君が飲むようになったから、自分も飲めるようになりたいってさ。普通父親にこんなこと話さないよね」そういって遥は爽やかな笑顔を見せる。

「そうですか。でももうちょっと練習した方がいいと思いますよ。グラス一杯で潰れましたから」

「それはいけないな」遥の笑顔が苦笑に変わる。「風花には特訓が必要だね。じゃあ連れて帰るよ。風花、帰るぞー」

 風花はむにゃむにゃと独り言をいいながら、リビングで目を擦っている。

 水樹は風花の背中を押して、玄関まで連れて行った。

「こんばんは、遥さん」

「こんばんは、水樹君。その調子じゃ大分飲んでるみたいだね」

「ええ、最近飲めるようになって、つい飲みすぎました」

「そっか。そりゃあ、いいことじゃないか。僕は全く飲めないからね、羨ましい」

「風花がお酒に弱いのは遥さんの血を受け継いでいるんですね」

「まあ、それもあるんだろうね。残念なことに」遥はこめかみの辺りに指を突き立てた。「音楽の仕事っていうのはやっぱり精神を使うんじゃないかな。たまにはお酒でも飲んで楽にならないといけないよね」

「僕がいえる立場ではないですけど、それはあると思います。根を詰め過ぎてもいいものはできません」

「そうだよね。風花、危ないぞ。ちゃんと座って靴を履かないと」

風花はふらふらしながら靴を履き、そのまま振り返って水樹の顔に手を当てた。

 水樹はゆっくりと前方を指した。その方向を見て風花はすばやく手を離した。「あ、そっか。お父さんがいるんだった」

 遥は怒る所か風花をはやしたてた。

「ん?お父さんがいない方がいいんだったら、先に帰ってもいいぞ」

「そんなんじゃないよっ」

 遥は水樹の顔をじろじろと眺めながら続けた。

「風花はね、本当に君のピアノが好きらしい。僕がピアノを弾いている時は何もいわずにリビングから出て行くんだ」

「そうなんですね」

「それに、もう一つだけ愚痴を聞いてくれよ。ファーストキスの話を嬉しそうに話す娘がこの世にはいるんだよ」

「お父さんっ」

「いいじゃないか。娘の彼氏が水樹君だからいいんだ。確か観覧車だったと聞いているんだが、それは本当なのかな?」

 水樹は申し訳なさそうに頷いた。「ええ、そうみたいです」

 遥は嬉しそうにうんうんと頷き、さらに続けた。

「何でも火蓮君が四人で行こうと言い出したらしいね。火蓮君は観覧車が怖くて乗れないという嘘までついたらしいけど」

 火蓮はにやにやしながら遥の顔を見た。

「ええ、そうなんです。でも嘘じゃないですよ。高い所が怖いのは本当なんです。あのガタガタという狭い箱の中に入ると思ったら正気ではいられないですね」

 火蓮は真実とも嘘とも取れるような話し方でおどけた。

「そうなんだ。カイ(海)も君と同じように高い所が苦手だったんだ。そういう所も血の繋がりが関係しているのかな」

「もう、何の話をしてるのっ」風花は逃げるようにして玄関から飛び出していった。「じゃあね、水樹」

「まったく、少しくらい話をさせてくれてもいいのにね」遥は彼女を追うようにして出て行く。「それじゃ、二人とも。またね」

 遥を見送った後、水樹達はソファーに腰掛けた。火蓮は再びワイングラスに手を伸ばしている。

「兄さん、また飲むの?」

「ああ、もうちょっとだけ」

「僕はそろそろ寝るよ。明日はどうするの?」

「もちろん見にいくさ。美月も出るみたいだしな。あいつの調子を見に行くのも大事だ」

「もっと素直になればいいのに……」水樹は立ち上がった。「じゃあおやすみ」

 そのまま二階に上がり部屋に入る。布団の上でごろごろと横になっていると突然意識が飛びそうになった。またあの時と同じ感覚だ。なんとか意識を保とうと眉間に皺を寄せる。

 ……もしかして。

 不吉な予感が胸の辺りを覆う。もしかして火蓮は薬を飲んだのではないだろうか。それで再び眩暈が襲ってきているのでは……。

 必死の抵抗も空しく意識の塊は夢の中に溶けていく。次にある意識は果たしてどっちになるのだろうか?

 ……考えたくない、自分が自分でなくなるのが怖い。

 心臓が破裂しそうなくらい膨張する感覚を覚え、水樹の意識の線はぷつりと音を立てて消えた。


  ▽.


 目を開けると、目の前に観覧車があった。観覧車の色ははっきりとした橙色で遊園地にありながら他とは違う異彩を放っていた。

「ねえ、みんなであれに一緒に乗ろうよ」

 横にいるセミロングの女の子は子供のようにはしゃいでいた。観覧車に乗りたいといってジャンプまでしている。事実子供なのだが、高校生になって観覧車で喜ぶ彼女の姿にたじろぐ。

「仕方ないなぁ、よし乗ろうか」

 彼女の隣にいる長髪の男が肩を竦めながら歩き始める。

 オレは重々しくごほんと一つ咳をした。そして大きく息を吸い込み、申し訳なさそうな表情を作った後、頭を下げることにした。

「高い所は苦手なんだ、山の頂上から見る景色は好きだけど、観覧車の上からはちょっと……」

 長髪の男は口を手で抑えて笑いを堪えていた。

「何の冗談だよ。そんな話、初めて聞いたけど」

「本当なんだ、信じてくれ。オレは高い所というか機械が信用できないんだ。機械のガタガタした音が鳴る乗り物は怖くてね」

「私もパス。その間にソフトクリームでも食べるわ」

 俺の隣にいる長髪の女も首を振った。彼女の目にはオレが映っており、予定通りにしてあげると目で訴えている。

「そっか。じゃあ二人で行ってくるよ」

 長髪の男はそのままセミロングの女と一緒に観覧車に向かった。

 地上から二人が乗った観覧車を見上げる。内部は鮮明に見えなかったが、二人が隣同士の席でいちゃついているのだけはわかった。

 オレの心は波のように揺れている。スノーボードの選手がリズムをつけて波を作るように徐々にその振動は大きくなっていく。

 ……落ち着け、落ち着け。

 オレは目を伏せて祈りを捧げる。わかっていたことじゃないか、元々二人の付き添いで来たんだから。彼女のとびっきりの笑顔を見に来ただけだ。オレに対してではなく、あいつに対してのだが。

 二人っきりの時間を作ることがオレの使命だとわかっているのに。初めからわかっていたことなのに、何でこんなに胸が苦しいのだろう。

 もしかして、やはり彼女に対して未練が――。

 隣にいる彼女を目の端で捉える。彼女はオレとのデートを楽しみにしてきたのだ。ここで台無しにしてはいけない。

「どうしたの?」

「……いや、何でもない」

 オレは無理やり笑顔を作り、自分の気持ちを偽った。


 目が覚めると、頬の上でうっすらと涙が流れていた。

 水樹は腕を捲り両手を目の前にかざした。その腕は逞しく自分のものではないことは明らかだった。

 

  8.


 再び目を開けると赤いシーツの上にいた。目の前にはヴァイオリンケースが二つ仲良く並んでいる。

 隣の部屋に駆け込むが、そこには自分の体はない。

 ……これはまた、夢なのか?

 一階に下りて薬を確認する。昨日と錠剤の数は一緒だったが、納得がいかない気分になる。

 飲んだら人格が変わるといったのは火蓮の方だ。どうしてまた入れ替わってしまったのだろう。

 顔を洗い再び鏡を見つめる。やはり火蓮の顔だ。また入れ替わってしまったことは間違いない。

 ……気が狂いそうだ。

 自分は一体誰なのだ。本当に自分は水樹という人格で正しいのだろうか? その感覚すら危うくなってきている。

 顔だけでなくうなじから頭のてっぺんまで冷や水につける。凍えそうなくらい冷たい。それでも火蓮の顔のままだ。

 ……くそ、どうなってるんだ、一体。

 思いっきり左拳でガラスを殴りつける。ガラスは蜘蛛の巣状に割れ、ぱりぱりと音をたてて崩れていった。その破片にさえ火蓮の顔が無数に映っている。

 ……俺は水樹なんだ。火蓮じゃない、観音寺水樹だ。

 大股でピアノへ向かい、手を置いて指を走らせてみる。全く感覚が働かない。まるでピアノが自分を拒んでいるかのようにだ。

 鍵盤を拳で叩く。音は鳴らず鍵盤も動かない。固い鉄を叩いているように鈍い音が辺りに響くだけだった。何度も何度も両手で叩き付けるが、びくともしない。

 ……なんだ、ただのガラクタか。おもちゃのピアノに用はない。

 近くにあった鉄のハンマーで鍵盤を叩き付ける。鍵盤は跡形もなく吹き飛んだが、何の音も立てなかった。粉々に飛び散った破片が拳に突き刺さるが、痛みは感じない。

 ……一体なんなんだ、この感覚は? また夢なのか? オレは今どこにいるんだ?

 粉々になったピアノを想像し、一つの仮説が浮かび上がる。ピアノが音を鳴らさないのではなく、自分自身がただ弾けなかっただけではないのか。

 ……オレが得意なのはヴァイオリンのはずなのに、どうして弾けもしない楽器について考えていたんだろう。

 火蓮の部屋にあるヴァイオリンを探す。ヴァイオリンケースは二つありどちらも開いていた。そのうち瑠璃色に染まった箱を手に取った。父親の分だ。

 その箱はとても魅力的で、どんな言葉を使っても表現ができないほど妖艶な光を発していた。

 ……どうして、今までピアノに拘っていたのだろう。

 夢中に弓を動かす。ヴァイオリンが自分の帰りを待っていたかのように音を響かせている。煌びやかな音の中に、かつて自分が弾いていた記憶が舞い戻ってゆく。頭の中に入ってくる感覚が渦を巻いて体に浸透していく。

 ……一体、なんなんだ。この奇妙なまでに馴染む感覚は。

 今すぐにでもヴァイオリンから離れたいが、そんなことはできない。できるはずがない。体が求めているのだ、もっと弓を動かせと。指が擦り切れるほど弦を押さえろと。

 左肩に楽器を挟むと、今まで置いてなかったのが嘘のように馴染んでいた。元々そこにあった体の一部のように吸い付いている。

 ……くそ、くそ、わからない。なぜだ。どうしてオレが――。

 夢中でヴァイオリンを弾いてしまう。息をするのも忘れるくらい音の麻薬に酔いしれてしまう。感覚に身を委ねるだけで痺れていく。

 曲が流れている間は何も考えなくていい。そして一曲終える毎に考えたくない結論に達してしまっている。

 自分が何者であるかということをだ。もちろん受け入れることなどできるはずがない、できるはずがない。

 目の前には等身大のガラスがあった。ガラスに体を傾けると、そこに映っているのは紛れもなく火蓮の姿だった。

 ……オレは、やっぱりオレは……。

 頭の中でネットサーフィンをするかのように次々と曲が浮かんでいく。一度頭の中で楽譜を掴むと、それを弾かずにはいられない。

 楽譜を貪るように弾く。弾く。ただひたすらに弾いていく。風花を求めるのと同じようにヴァイオリンを何度も蹂躙していく。涎を垂らしながらその快楽に浸かっていく。

 ……ははっ、楽し過ぎて狂ってしまいそうだ。

 このまま体が朽ちるまで弾いてやる。弦が千切れるまでこの恍惚とした時を味わってやる。オレはもう、元には戻れないんだから。

 体は忘れてなどいなかった。火蓮のいった通りだ、体は正直だ。オレの体は忘れちゃいない。

 この体のあるじはオレだと――。

 ビリヤードのブレイクショットのように考えていた今までの謎が全て吹き飛びポケットに落ちていく。一瞬にして場には一つの玉だけになり、そこには一つの事実が映っていた。この体こそが真実だということをだ。

「オレは水樹じゃない。火蓮だったんだ」

 気がつくと木が擦れる音がした。ヴァイオリンを見ると弦が四本とも切れておりズタズタに切り裂かれていた。弓の方も同様に擦り切れている。お互いの木片が重なりいびつな音を立てていたのだ。

 ……なんて脆い楽器なんだ。こんなもの必要ないっ!

 擦り切れた弓を放り投げて両手でヴァイオリンの先を掴み地面に叩きつける。気が遠くなるほど叩き付けると、ようやく木が軋む音がした。

 ……風花に合わせていただけだ、オレは……。

 彼女の話に矛盾が生じていたことに気づく。オレはピアノが好きでピアノ以外の楽器は弾こうとはしなかったこと、本を好み落ち着いた性格だったということ。

 本来だったらそうなのだろう、だがオレは違う。机の上で勉強することは本来嫌いだし、そこには本などない。そこにあるのは海に行く前にくすねた金があるだけだ。

 指揮を通じて味わった躍動感はどんな本よりも魅力を持っていた。知識を得る以上の快楽を持っていた。オレはそれを知ってしまった。

 だから――。

 魂が本来の体に戻ろうとしたのだ。本当の体がある場所へと。

「これが本来の姿なのか……」

 目の前にあるピアノがオレを嘲笑していた。ぼろぼろに崩れたままオレを見下している。長年培った友情は全て偽りだったと…。

 オレは意識の崩壊と共に倒れた。人格を形成していたものが頭の中から音を立てて崩れていった。 

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