第三章 藍の静寂と茜の鼓動
1.
火蓮はいつの間にか席を立っていた。
ホール全体が水樹の演奏を讃えるように、地響きのような拍手で鳴り響いている。自分自身も無意識のうちに拍手を贈っていた。それだけ素晴らしい演奏だったということだろう。
前列を陣取っている審査員を一瞥する。今回の審査員は誰をとっても歴史に名を残す著名人ばかりだ。ほとんどがポーランド人だったが、どれをとってももショパンにゆかりのある人物が揃っている。この中で演奏を行うこと自体が名誉のあることだな、と火蓮は嫉妬を感じ唇を噛んだ。悔しいが彼の演奏は認めざる負えない。
水樹のピアノは恐ろしくなる程の静寂を作り出していく。研ぎ澄まされた純水の中に全身が浸かっていくようなものだ。何もない沈黙が時に最高の音楽になることを彼は知っている。
そしてまた水樹は要となるアクセントを忘れない。ピアノの音が単調にならないように緩急をつけ、耳が慣れすぎないように微妙な強弱を打ち込んでくるのだ。絶妙なバランスでアクセントとなるメロディを吹き込み、さらに深い海の底に引きずり込もうとする。
それがまた、たまらなく心地いい。
演奏が終わっても、観客達は穏やかな表情のまま拍手を贈っていた。このホールにいる中で深海に飲み込まれていないものはいないだろう。審査員も含めてだ。
今回はショパン国際コンクール予選の三次審査だ。この審査に通れば、いよいよ本選が待っている。
……審査をするまでもない。
この場は水樹のための一人舞台のようなものだ。彼の次に弾く人物が持てる力を発揮したとしても、今回の演奏に掻き消されるに違いない。それくらい魔力を持った演奏だった。
次の人物の紹介が始まったが、火蓮はそのまま席から立ち去ることにした。これ以上ここにいても仕方がないと思ったからだ。音が立たないように扉をそっと開き、水樹の元に向かうことにした。
外に出ると、水樹が何度も光を浴びながらインタビューを受けていた。彼は戸惑いながらも拙い英語で話している。日本人の記者もたくさんいるが、現地の記者に飲まれ入り込めていない様子だった。
この様子ならしばらく時間が掛かるだろう。時間を潰すため、煙草が吸える場所を探すことにした。
辺りを見回していると、水樹が大股でこちらに近づいてきた。どうやら自分に気づいたらしい。取材陣を振りほどきながら悠々と手を振っている。
「兄さん、来てくれたんだね」
彼は火蓮の手を大きく掴みながらいった。
「……近くに寄っていたものでね。そのついでだ」
演奏が聞きたかったとは恥ずかしくていえない。
「イギリスに行っていたんだ、本場のミュージカルを見に行っていた」
水樹は合点がいったように頷いた。
「そっか、わざわざ来てくれてありがとう。来るなら来ると行ってくれたらよかったのに。いつ来たの?」
「昨日の夜、来たばかりだ。ポーランドは初めてだが、いい所だな」
火蓮が微笑むと水樹はにっこりと笑った。
「そうでしょ。こんなに静かで気持ちがいい街は中々ないよ」
自分達の後ろで現地の記者がぶつぶつと文句をいっている。水樹が急に席を外したからだろう。だが自分には関係ないことだ。
構わず火蓮は話を続けた。
「今日の演奏は全て聞かせてもらった。本当に素晴しかった。本選出場は間違いないだろうな。このままいけば、日本人で初めての優勝者が出るんじゃないのか。母さんの念願だった一位が……」
「それは買いかぶり過ぎだよ。僕はまだショパンに弾かされているだけだ。自分のものにできていないよ」
「そうかな? お前以上にショパンを弾ける奴はいないと思うけどな。お前のピアノを聞いていると、すっーと意識が遠のいて、海の底に引き込まれているようだった」
「うんうん、僕も海をイメージしながら弾いていたよ。父さんの好きな海をね」水樹はくすくすと笑いながらいった。「コンサートホールごと、水に浸けてやろうと思って演奏したんだ」
「そうだと思った。お前はピアノのことになるとスケールがでかくなるからな」口元を緩ませた後、親指で玄関の扉を指す。「演奏はもう終わったんだろう? どうだ、一緒に食事でも」
「そうだね、いい所を知ってるんだ。っていっても僕のバイト先になるけどね。それでいいかな?」
「もちろん。ワインが旨ければどこでもいい」
「じゃあ決まりだ」水樹は胸元からメモ帳を取り出していった。「悪いけど、先に行ってて貰っていいかな? この格好じゃさすがに外に出るのは恥ずかしいからさ」
彼の正装姿を改めて眺める。黒の燕尾服が異様に似合っており、長い黒髪も男でありながら妖艶さを醸し出している。
「わかった。じゃあ十九時にしよう。俺も荷物を一旦ホテルに置いておきたい」
「了解。じゃあ十九時で」
「ああ」
火蓮は手をあげて、振り返らずにそのままホテルに戻った。
2.
「兄さん、体の調子はどう? 薬もちゃんと飲んでる?」
「当たり前だ。お前こそ大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。兄さんも充実しているみたいでよかった。安心したよ」
水樹はほっと胸を撫で下ろし、彼を見た。たった一年離れていただけなのに、何もかもが懐かしく感じられる。
「水樹、イギリスのミュージカルは凄かったぞ」火蓮は目を輝かせながら煙草の封を切った。「やっぱり本場は違った。向こうでは一つの舞台だけのために一つの建物があるんだぜ。舞台には螺旋階段があるし、楽器の配置も全く違う。打楽器は二階で一人で演奏していたり、各パートが独立している感じだった。ともかく、びっくりさせられっぱなしだったよ」
火蓮は劇団でオーケストラの指揮を執っており、その勉強と称してイギリスに単身で行ったらしい。そのついでに自分の留学先・ポーランドのワルシャワに立ち寄ってくれたのだ。
「そっか、劇団を選んで正解だったね。フランス留学する予定だったのに、なぜ突然変更したの?」
「今のお前にはまだ話せないな。ショパンコンクールのことだけを考えればいい。それよりもお前、風花のことは心配じゃないのか?」
「まさか。別に心配にはならないよ。何より兄さんが近くにいるじゃないか」
「……俺が奪っちゃうかもしれないぜ?」
火蓮の剣呑な目つきにたじろぐが、そんな心配はしたことがない。
「兄さんはそんなことしないよ。だから安心して任せられるの」
そういうと、火蓮は前のめりになっていた体を戻して小さく溜息をついた。
「……なんだ、面白くない。少しは心配しろよ」
「それよりも僕は風花の演奏の方がよっぽど心配だ。調子はどう?」
「……そっちの心配かよ」火蓮の腕が椅子から滑り落ちる。「まあ、確かにお前がこっちに来てから演奏の幅は狭くなったよ」
……やっぱり。
風花のことを考えると胸が痛む。ポーランドに来ることは火蓮には前もって知らせていたのだが、風花には事前に話しただけだった。彼女は精神的に弱いため、タイミングを考えていると、ずるずると先延ばしになりいつの間にか出発当日になっていた。
彼女に話した時、公演がなかったことが唯一の救いだった。もちろん思いっきり泣かれ、逃げるようにして日本を出ることになったのだが、それは自分の責任だ。
「きっちりと演奏はしているが、それだけだ。機械的な音色になっていたよ。しばらく風花の素晴らしい高音は拝むことができなかった」
「……そうだろうね。風花には本当に申し訳ないことをした。あの時は本当にどうしたらいいかわからなかったんだ」
「……仕方ないさ。急に決まったことなんだからな」
一年前の出来事を思い出す。
事の発端は大学のピアノ講師・川口だった。彼がこっそりとショパンコンクールに応募していたため、無計画な海外留学をするはめになったのだ。
ショパンコンクールは五年に一度しかない。さらにいえば、二十八歳以下という規定がある。水樹は今年で二十五歳、この機を逃せば後はなかったのだ。川口の説得を受け、水樹はポーランドに向かった。審査を受理してくれた母の師でもあるジェヴェンツキの近くで宿を取り、毎日練習に励んだ。
一次予選、二次予選を突破し、今日の三次予選を終えた所だ。明日にはその結果が迫っており、受かればついに本選の切符が手に入るのだ。今までの練習は自分の持てる力を全て賭けたといってもいい。
「髪が伸びると、母さんに似ているな。女装した方が売れるかもしれないぜ?」
そういって火蓮は水樹の髪をくしゃくしゃに乱した。
「ん、何かついてるぞ?何だこの粘土みたいなのは」
「…あ、それ。ワックスだよ」水樹は髪を掻き上げて答えた。「公演で汗をたくさん掻いたから溶けてきたんだ。急いでここに来たから髪を洗うこともできなかったんだよ」
「そうか、そりゃ失礼」
「兄さんはさ、僕に女になれっていうためにわざわざこんな遠い所まで来たの?」
「…まさか。本題があるに決まっているだろう」
「そうだよね。兄さんみたいな合理主義者が、わざわざ演奏を聞くために来るとは思ってなかったよ」
「なかなか辛辣なことをいうようになったじゃないか。話が早くて助かるが」
「兄弟だからわかるんだよ」
火蓮は間を置いて、大きく空咳をした。そして水樹の目を見て勿体ぶりながらも声のトーンを落とした。
「実はな。一つ大きな仕事が入ったんだ」
「ど、どんな仕事?」
心臓が大きく跳ねる。火蓮が大きいというのであれば、とてつもない規模のものだろう。
「まあ、そう慌てるな」火蓮は再び空咳を交えていう。「オーケストラの指揮が入った。全日本交響楽団だ。曲はショパンのピアノ協奏曲『第一番』だ」
「え? それって……もしかして……」
「そう、つまり俺達が夢描いてきたものが現実になったということだ」
水樹の心臓は喉元まで飛び出ていた。
「凄い、本当に夢が叶うんだ……」高鳴る心臓を押さえながら呟く。「ショパン生誕二百年記念コンサートで指揮をするっていうことだよね?兄さんがあの場で指揮を振るなんて、本当に夢みたいだ」
新米の指揮者にそんな大仕事が来ることは在り得ない。それは火蓮の才能が認められたということだ。
だが――。
「ありがとう。俺はもちろんこの仕事を請け負うつもりだ。例え父さんの力が働いていたとしても……な」
水樹の頭にもその考えはあった。父親の名があるからこそ、その仕事は舞い込んできたのだろうと思ったが、口には出せなかった。
水樹達の父親は全日本交響楽団の名誉常任指揮者という肩書きを持っている。ショパン百九十年生誕記念で指揮を振ったのが父の観音寺海だ。もちろん今でも生きていれば指揮が振れる年齢だが、事故で帰らぬ人になってしまった。
「確かにそうかもしれない。それにしても、そんな大事な指揮を任せるということは兄さんの実力を評価しているからだよ」
「まあ、この仕事を引き受ければ罵声を浴びることは必須だがな」火蓮は照れ隠しなのか無表情でいう。「だが俺は父さんの意志を引き継ぎたい。父さんの思いを継いで、指揮台の上に立ちたいんだ」
火蓮の言葉に胸がざわついていく。なぜ自分には指揮棒が振れないのだろうという思いが込み上げてゆく。
理不尽なのはわかっている。自分にはピアノの才能しかないこともわかっている。父親の意志を引き継げるのは火蓮だけだということも―――。
それなのに、どうしてこんな感情を覚えてしまうのだろう。
「兄さんなら大丈夫だ。羨ましいよ」
「俺だってお前が羨ましいさ。俺には母さんのようにピアノは弾けないからな」
母親・観音寺灯莉はショパンコンクール第二位の成績を収めた優秀なピアニストだった。その実力を引き継ぐために自分はここにいる。
「話を戻そう。オケのメンバーは三名までなら俺が決めていいそうだ。今回は特例でそれが認められたらしい。やはり俺が若すぎるからだろう」
火蓮は口元を緩めていった。
「いきなり指揮者だけを放り込んでも演奏がうまくいかないと思ったんだろうな。最悪、他のメンバーからボイコットされるかもしれないと考えたんだろう」
歴史ある全日本交響楽団に若手の指揮者が入ったら間違いなく反発は起きるだろう。それは最悪、演奏中止ということにもなりうる。
「なるほど。それで誰を選ぶんだい?」
「人選はすでに決まっている」火蓮は口元を緩ませたまま続けた。「第一候補はお前だ」
「冗談だろう? 僕はまだピアニストじゃない。コンクールを受けているだけの僕が演奏していいはずがないよ」
「まあ、今の段階ではな。だが今回の演奏を聴いたことで確信した」火蓮はドンとテーブルの上に両手を叩き付けた。「今回のコンチェルトにはやっぱりお前が必要だ。今回演奏する曲で一番大事なのは静寂さだ。お前も知ってるだろうが、第三楽章まで持たせるためには場面を変える力がいる。お前の空間を入れ替えるようなピアノのメロディが確実に必要になるんだ。だからお前を日本に連れ戻しに来た」
「と、とりあえず落ち着いてくれ。兄さん。そんなこと、いきなりいわれてもすぐに返事はできない。もちろん……やりたい気持ちはあるけどさ」
火蓮はそのままテーブルの上に頭を下げた。
「どうか頼む。一緒に来てくれ。演奏に使うピアノはウミハだ。お前が好きなピアノで思う存分演奏ができる。これだけは確実だ」
……そんなことをいわれても。
今すぐに火蓮に返事ができる心境ではない。明日には審査の結果が出るからだ。
水樹が黙っていると、火蓮は畳み掛けるように続けた。
「明日の審査で受かれば、本選で協奏曲を演奏することになるんだろう? どっちを弾くつもりだ」
「もちろん『第一番』の方だよ」
やっぱりな、と火蓮は嬉しそうに頷いた。
「そうだと思った。じゃあ問題ないじゃないか。本選が予行演習というのは中々贅沢だぞ」
「そうはいってもさ……」
ショパンコンクールの本選では、オーケストラを率いての協奏曲となる。ショパン自身が協奏曲を生涯に置いて二つしか作っておらず、演奏者はどちらかを選択しなければならない。そしてほとんどは『第一番』を演奏することになる。『第一番』の方が難易度が高く曲のメリハリがあり、コンクール向きだからだ。
「ところで兄さん、他の二名は誰をいれるつもりなんだい?」
「楽器はフルートにバイオリンといっている。それはもちろん風花、美月を入れるつもりだからだ」
「ということはコンマスは美月が?」
「ああ、そのつもりだ」
コンマスというのはコンサートマスターの略称で第一ヴァイオリン主席を表す。指揮者と同様に音の調律をする第二の指揮者というポジションだ。
「美月になら任せられるね。彼女のテンポは機械よりも正確だから」
「お前もそう思うか。やはり美月にお願いしよう」火蓮は頷きながらワインを口に含んだ。「それにあいつがいれば他の演奏者は俺達についてくるしかないからな」
「そうだね。指揮者とコンマスが手を組んでいれば最悪のことにはならないと思うよ」
「そうだろう、後はお前が入ってくれれば完璧なんだがな」火蓮はそういって次のワインを頼もうとした。
「兄さん、ちょっと飲みすぎだよ」
「大丈夫だ、しばらくこっちにいるつもりだからな。明日も特に予定はない」
どうやら本当に帰る気はないらしい。
「お前が決めてくれるまで帰るつもりはないよ」
結局、火蓮は酔いつぶれホテルに送ることになり、水樹は彼の部屋に入った。
「兄さん、ついたよ」
部屋のベッドまで火蓮を引っ張りドアを閉める。彼はそのままベッドに倒れ込み、むにゃむにゃと独り言を呟いている。
部屋はツインベッドで、急遽とったものにしてはいい部屋だった。天井は低いが、冷蔵庫がちゃんと置いてありバスタブもある。
「あ、薬」
食後の薬を飲んでいないことに気づく。自分の部屋にあるが、今は持っていない。
悩んだ挙句、火蓮のバックを漁ることにした。彼のバックにはおそらく同じ薬が入っているはずだ。
薬を探し当て錠剤を二つ取り出す。冷蔵庫を開けると、封が切れていないミネラルウォーターがあった。早速取り出して火蓮に促して飲ませる。そのまま水樹も一緒に薬を含み水で流した。
……やっぱりまずい。
顔をしかめながらボトルを見ると、硬水だった。ポーランドで市販されている水のほとんどが硬水で、自分の舌には合わない。一口だけ飲んで封をする。
突如、頭がフラフラしてきた。立っていることが難しく足がおぼついてしまう。きっと久しぶりにアルコールを摂取したからだろう。
……少しだけ休憩していこうかな。
スーツのジャケットを脱いだ後、水樹はそのまま瞼を閉じて布団の中で体を丸めることにした。
◇.
目を開けると、背の高いショートカットの女性が目の前に立っていた。彼女の眉間には皺が寄っており怒りの表情が満ちていた。
「全然駄目よ、もう一回」
背筋を丸めて自分の意思を見せると、容赦なくそこに張り手を喰らう。今すぐにでも泣き叫びたいくらいの痛みを伴う。
「早くしなさい、練習時間は限られているのよ」
涙で視界がぼやけているが、ここでやらないわけにはいかないようだ。だがどのペダルを踏んでいいのかすらわからない。ペダルは三つしかないというのにだ。それほどまで極限状態に置かれている。
そのまま母親の顔を見ると、再び怒鳴り声が響いた。
「音の強弱に気をつけなさい。同じ音でも印象は変わるのよ。ピアノは音を出す機械じゃないの。思いを表す生き物なのよ」
少年は涙を拭いてから尋ねた。
「……どういうこと?」
「今扱っているピアノはね、ウミハさんというの」彼女は鍵盤の上に書かれた文字を指で差した。「ウミハさんはね、優しい音を出すのが得意なのよ。優しい音を出すためにはピアノと仲良くならないといけない。鍵盤を乱暴に扱ったら駄目。ウミハさんと会話をするように心を込めなさい」
……ピアノが生き物?
少年は怖くなって鍵盤から咄嗟に手を離した。生き物と聞いて逆にどうしたらいいかわからなくなった。
「お母さんはさ……どんなピアノが好きなの?」なるべく母の気を反らせるよう穏やかな口調でいった。このまま別の話題に変え練習から逃れたい。
「私が好きなピアノはストーンウェイね」彼女はきっぱりといった。「とっても気難しいんだけど、繊細な表現ができるの。だけどあなたにはまだ早いわ。さあさあ、続きをやってちょうだい」
……やっぱり無理か。
少年は気を引き締めて取り組むしかなかった。肩の力を抜き鍵盤の上に両手を載せた。
生き物に触る感覚に集中する。近所で飼われているチワワを触る感覚でいこうと決めた。それなら優しい音が出せそうだ。
どれくらい時間が流れたかわからなかったが、母親が満足する音が出せたようだった。彼女はピンと伸ばしていた背中を曲げて、自分の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。それは彼女の機嫌がいい時にする仕草だった。
「偉いわね、よく頑張りました。今日はあなたの好きなハンバーグを作りましょうね。お父さんもほら、感動して言葉が出ないみたいよ」
少年はそのまま大声で母親の胸で泣いた。張り裂けそうな緊張からくる涙ではなく、母親に認められたことが嬉しかったのだ。
涙が止まるまで彼は母親の背中で泣き続けた。
3.
「おはよう。どうだ、気分は?」
「あ……兄さん。おはよう」
どうやらそのまま眠ってしまったらしい。辺りを見回すと、火蓮が朝食を買って来てくれていた。
「そろそろ起きたらどうだ。もう十二時を回ってるぜ」
水樹は体を起こし窓を覗き込んだ。雲一つない青空が広がっており日差しが入り込んでいる。
「ポーランドの景色は本当にいいな。お前が気にいったのもわかる気がするよ」火蓮は硬いパンをビリビリと破りながら窓の風景をぼんやりと眺めていた。
パンを食べようとすると、もたれていた胃袋が動き出した。パンの中身を見ると、そこには小さなハンバーグが入っていた。
「兄さん、朝から結構食べるようになったんだね」
「いや、たまたま食べたくなってね。売店にあったから、ちょっと挟んでみたんだ」
シャワーを浴びながら今朝の夢について考える。あれは本当にあった出来事なのだろうか。今までに昔の夢など見たことなかったのだが……。
シャワールームから出ると、火蓮がペットボトルを持ったまま立っていた。
「結果はいつ発表されるんだ?」
「それが決まってないんだ。今夜中にはわかるんだけどね」頭を拭きながら答える。「今日は他の人の演奏を聞こうと思ってる。落ち込むことになるだろうけど、いい勉強になるしね」
「じゃあ俺も付き合おうかな。ほい、こいつも飲め」火蓮はペットボトルを投げてきた。昨日の水とは違って軟水だった。
「ありがとう。近くに売ってるの?」
「ああ、このホテルは軟水も売ってるんだ。日本人向けのホテルらしい。俺は硬水の方がすきだけどな」
「なるほど。それでハンバーグね」
久しぶりに食べる和風ハンバーグに懐かしさを覚える。やっぱり日本食の方が味付けは抜群にいい。
「それにしても薬の効果は抜群だったな。睡眠薬かと思うくらい一気に眠ってしまった」
「僕もだよ。それに久しぶりに夢を見た。事故よりも前の夢を……ピアノを弾いている夢だった……」
「お前もピアノをか?」火蓮は目を見開いていた。「俺もだ。ピアノを弾いている夢を見たんだが、自分では信じられないくらい上手くいったんだ。母さんがそれを見て褒めてくれていたよ」
「僕の場合は母さんにしごかれた夢だったよ。張り手まで喰らった夢だった」
ぼやくと、火蓮は大笑いした。
「俺達二人とも、最初はピアノからだったからな。それから俺はヴァイオリンに移った。それから色んな楽器を試していったな……」
日本の自宅には火蓮が様々な楽器を練習していくビデオがある。最初の一週間で基本をマスターし、次の一週間で一曲覚え、次の週にはお気に入りの曲を見つけ、さらに一週間すると楽譜がなくても弾けるようになっていた。
天才とはこういう人のことをいうのだな、と水樹はビデオを見ながら思った。
水樹が映っているビデオはピアノを弾いているものがほとんどだった。ヴァイオリンを弾いているビデオが残っていたが、見るに耐えない映像だった。きっと他の楽器も扱えなかったに違いない。
「よし、飯も食ったしそろそろ行こうか。ここからだと歩いていけるし、散歩しながら向かおう」
4.
「ラファエル・エキエトル。ストーンウェイ」
会場に入ると、次の演奏者の名前が読まれていた。火蓮が声を細め自分の耳にひそめいている。
「ストーンウェイっていうのはピアノの名前だよな?」
水樹は頷き簡単に解説した。
「そうだよ。ショパンコンクールでは四つのピアノが選べるんだ」
「なるほど、それでお前の名前が呼ばれた後にはウミハと呼ばれたんだな」
「そういうこと」
目を凝らして演奏者を見る。呼ばれたのはポーランド人で、前回の審査で上位に食い込んでいた人物だ。確かこの人物の師はショパンコンクールの推薦楽譜を作っていたはず。目を閉じて演奏に入り込む準備を整える。
会場が静かになった後、ラファエルは鍵盤に触れた。ピアノから繊細なメロディが生まれていく。それはやがて会場一体を包み込むほどの甘いベールへと変わっていった。
即興曲 第4番 嬰ハ短調 作品66『幻想即興曲』
彼が奏でるメロディは甘く切なかった。頬を撫でるような甘い誘惑が辺りを覆っていく。再び目を閉じてその世界にまどろんでいく。
彼はショパンと旅をしているのだ、と感じた。ショパンの人生が音を通じて淀みなく溢れてくるからだ。ショパンがどのように生きてきたか、どんな感情を知っているか、人生を通して何を伝えたいかを鍵盤を通して囁いている。
彼の演奏にはまた華やかさがあった。彼はきっと裕福な家庭で育ったに違いない。ショパンと同じように本当に旅をしたのだろうと納得させる何かが曲に表れていた。
コンクールに参加しているピアニスト達は金持ちばかりではない。様々な過程を経てこの舞台に立っているのだ。人生の苦しみを唄う者もいれば、喜びを唄う者もいる。それはピアノを通せば素直に表れてしまう、本人の自覚なしにだ。
ラフェエルの演奏が終わると、辺りを覆っていた甘い煙はなくなっていた。彼の演奏は素晴しかったが、本当にコンクール向きの演奏でショパンの楽譜を忠実に再現しただけだった。きっとお国柄の事情があり点数重視で望んだのだろう。もっと彼の感情が知りたかったなと水樹は残念に思った。
次に出て来た人物は中国人の女性だった。すらっとした赤いドレスを身に纏い凛とした表情でピアノに向かっている。
……ついに彼女の番か。
水樹は気を引き締めて目の前の彼女を見つめた。
ヤン・ミンは水樹の恩師でもあるジェベンツキの弟子でありライバルだ。個人レッスンのため直接的な面識はなかったが、彼女のピアノは有名で今回の最有力候補といわれている。
「ヤン・ミン。ストーンウェイ」
彼女は挨拶を終えると、深呼吸もせず、すっと鍵盤に手を置いた。彼女がメロディを刻むと、途端に会場が熱気の渦を帯びた。激しい旋律が音だけでなく深い爪痕を残すように刻まれていく。
エチュード(練習曲)ハ短調作品10ー12『革命』
心の中に乾いた風が入り込んでゆく。その風はとても冷たく自分の背中を凍らせ空虚な気持ちにさせていく。
先ほどの甘い誘惑など断ち切るかのような強い、拒絶感。ショパンの苦しみを感じさせる音が演奏にいくつもちりばめられている。
ショパンの声ではない、と思った。明らかに楽譜以上の速さのテンポで演奏され強弱の幅が一回り大きいからだ。
……これは彼女の声だろうか?
ヤンのピアノには奮闘する戦士の叫びは聴こえない。ただ一方的に惨殺されていくような絶望だけが犇めき合っている。
左手で奏でられる途切れることがない低音のメロディが故郷の無残な姿をさらけ出す。右手の高音が無残に死んでいった叫び声のように鳴り響く。
…これはやっぱり、彼女の―――。
水樹は目を閉じてさらに音に集中した。彼女が作り出した風に禍々しい狂気が絡み始める。人が人を殺す狂気を表しているのだろう。その風はどんよりとした暗いオーラを放っており一つ受ける度に心が枯れ果てていく。
……ピアノにはこれほどまでに果てのない狂気を演じることができるのか。
目の前にあるピアノは今までに見たことがない程、歪んだ生き物のようにみえる。狂気を帯びた彼女達は一体となって、このフロアを熱風で包んでいく。
心臓が圧迫され息苦しい。咄嗟に何度も口を手で覆いながら、息をする。そうでもしなければ呼吸困難に陥りそうだ。
夢中にヤン・ミンを見つめる。体全体でこの曲を再現している彼女の瞳から深い闇が零れていた。
自分は今、生きている。
だからこの場でピアノが弾けるのだ。
私の思いを聴けっ!
気がつくと、熱く乾いた風は消えており、轟音にも近い拍手がホールを震撼させていた。その時間差に自分が飲まれていたと認めるしかなかった。
水樹は惜しみなく彼女に拍手を贈った。こんな絶望的なショパンを聞いたことはなかった。新しい発見と共に溜息が漏れる。やはり来なければよかったなと落ち込んでしまう。
火蓮を見ると、息を呑むのも忘れていたようで演奏が終わった途端、喉を鳴らして唾を飲み込んでいた。
「水樹、凄いな。母さんの好きだった曲なのに別のように感じたよ……」火蓮は目を大きく開けたままいった。「弾き手によってこんなにイメージが変わるなんて恐ろしいな。戦場を駆け抜けるような恐怖感を味わった」
「うん、本当に力強いピアノだった……」こめかみを押さえながら答える。「きっと彼女の気持ちが籠もっていたんだよ。なぜ僕がここまで残れたのか不思議なくらいだ」
「何をいってるんだ。お前は二次審査まで合格しているんだ。何も問題ないじゃないか」
火蓮の激励を聞いても心が晴れない。彼女に心を掴まれた状態では何を聞いても落ち込むだけだ。
「まあ、そうなんだけどさ。こう、何もしてない状態でピアノを聞くのは怖いんだ。その曲をありのまま受け入れないといけないだろう? 心が落ち着かない」
「それはお前が弾いている時だって同じさ。お前の次に弾いたフランスのねーちゃんは椅子に座るのでさえ、億劫な感じだったぞ」火蓮は涼しい顔で返答する。「お前の曲に飲まれて動きが悪かった。お前の演奏が負けるはずがない。中国人のピアノに劣ってなんかいないよ」
「ありがとう、兄さん」
しばらくして次の演奏者が入って来た。火蓮は突然トイレに行くといって席を立った。
「寒気が来たんでな。あんなピアノの後だったらきっとトイレも満杯だろうな」
「そんな馬鹿な。兄さんみたいに耳がいい人はそうかもしれないけどね」
「こんな所に来ている連中の耳が悪いわけがない。トイレの人数をカウントしてきてやるよ」
カウントしてどうするの、という言葉を発する前に火蓮はホールから出ていた。余程行きたくてたまらなかったに違いない。
次の演奏が始まる前に、水樹の前に座っているカップルがヤン・ミンの話題を出していた。どんな風に絶賛の声をあげているのだろうと思い耳を傾けたが、それは予想だにしない言葉だった。
「本当に彼女の演奏は素晴しかった。彼女の名前の通り、炎を扱っているような演奏だったね」
「いいや、それは違うね。彼女は人殺しの娘らしい。だからあんな『革命』が弾けたんだ」
5.
全ての審査が終わり、会場は閉幕となった。結果が発表されるのは例年通り審査員の意見が纏まってからだ。
水樹は火蓮と共にバイト先のバーで飲むことにした。
店で火蓮と雑談をしていると、店の店主から声を掛けられた。どうやら水樹宛に電話が掛かってきているらしい。時計を見ると、すでに日を跨いでいた。
慌てて受話器を受け取ると、ジェヴェンツキ先生から喜びの声が洪水のように溢れてきた。
水樹はその日、生涯忘れることができない日になった。
火蓮に話をすると、大袈裟に抱きついてきて自分の体を回し始めた。現地の人間にはわかるはずもない日本語で、こいつは俺の弟なんだぞ、ショパンの本選に残ったんだぞと騒ぎ始めた。
火蓮の声はほとんど怒鳴り声に近いもので頭が割れそうだったが、それ以上に兄の祝福が嬉しかった。
母さんの念願だったショパンコンクールの本選に出場できる。
この夜は興奮し、朝まで兄との宴は続いた。
そして三日後。
水樹は本選出場を果たし見事、日本人初の一位を獲得した。式が始まり、水樹はショパンコンクールに推薦してくれた先生と挨拶を交わした。ジェヴェンツキは足が不自由なため、水樹は腰を曲げて抱き合った。
隣にいる第二位のヤン・ミンを見ると、演奏中とは打って変わって親指同士を擦り合わせて緊張していた。悔しがる様子もなく、顔には仄かに笑顔があった。
大勢の報道陣の前で水樹は拙い英語で気持ちを伝えた。
亡くなった両親に向けて、このメダルを捧げたい。そしてこれからは日本で前面的に活動をしたいと訴えた。
報道陣はその発言に驚嘆と悲愴感を漂わせていたが、水樹には関係のないことだった。
彼の瞳には火蓮がタクトを振るっている、ショパンの生誕を祝うコンサートが浮かんでいた。