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第二章 青の鼓動と赤の静寂

 第二章 青の鼓動と赤の静寂


  1.


 蛇口を捻り水で顔を洗う。この寒い時期に冷や水で洗えばすっきりするだろう。きっと酒が残っており頭がおかしくなっているのだ。

 バシャバシャと勢いをつけて、顔にぶちまけるように水を被って鏡を見る。だが何度やっても火蓮の顔がそこにあった。頭髪はきっちりと短く切りそろえられており、シャープな顎から水滴がゆっくりと垂れ落ちている。腕を見ると、自分の華奢な白い腕ではなく筋肉質の焦げた腕になっていた。

 ……まだ夢の中にいるのだろうか。

 せっかくだから、煙草でも吸ってみよう。煙草を取りに部屋の階段を登るが、足がすんなりと伸び二段飛ばしができるようになっている。高身長に対して羨望と嫉妬の思いが同時に駆られてしまう。

 彼の部屋の中にはヴァイオリンケースが二つあった。一つは橙色でもう一つは瑠璃色だ。きっと一つは火蓮のもので一つは父さんのものだろう。蓋を見ると彼のケースはだらしなく口が開いており、中が丸見えだった。父親のヴァイオリンケースには鍵が閉められており、きっちりと収納されているようだった。

 再び煙草を探すと、一箱だけ机の上に寂しく立っていた。どうやら昔のカートン買いは止めたようだ。一本取り出し火を点けて大きく吸い込んでみる。

 ……うまい。

 咳き込むかと思ったが、それは杞憂に終わったようだ。脳が目覚めるような感じで今までに味わったことがない満足感に満たされていく。

 一本灰にするまで味わった後、隣の部屋を覗くとそこには布団を抱きしめて寝ている者がいた。華奢な体にすらっと伸びた足、自分の体がそこで横になっている。

 ……煙草が美味しいのなら、コーヒーの味はどうなるのだろう。

 彼の嫌いな飲み物を味わうため、冷蔵庫に向かう。冷えたものをコップに注いで啜ってみると、ゴーヤを丸ごと煮込んだような味になっていた。

 ……ということはワインが飲めるのだろうか?

 水樹は冷蔵庫から新品のワインを取り出し、コルクを外すためソムリエナイフを取り出した。そのままネジに力を入れてコルクを押し上げると、コルクは粉々に砕け散ってしまった。どうやら力加減を間違えたらしい。

 地面にあるコルクを回収すると今までに感じたことのない芳醇な香りがした。胃がもたれているのに、ワインをそのままガブ飲みしたい欲求に駆られている。

 欲求を抑えながらワイングラスに注ぐ。ドボドボと赤い液体がグラスの中を踊りながら入っていく。その瞬間に自分の喉がごくりと音を立てて唾を飲んだ。

 グラスの胴体を左手で掴み揺らしてみる。グラスから溢れ出る香りが食欲を刺激する。

 ……さあ、一口飲んでみよう。

 ワイングラスを少しだけ傾けて舌で味わってみる。

 美味しい。舌を通して体中にワインが巡るような感じを受ける。体温が上がり気分がよくなっていくのを実感する。もう一度、口に含むとついに我慢ができなくなり、そのままグラスを大きく傾けた。

 ……どうせ夢なのだ、このまま飲める所まで飲んでみよう。普段の自分にはどうせできないのだから。

 灰皿を席の近くに置き、煙草を吸いながらワインに舌鼓を打った。ワインボトルが半分くらいに減った頃、自分の体が降りて来ていた。

「おい、そこのお前。何してるんだ?」

 彼の瞳には厳しい視線があった。そこに火蓮の意思を感じた。

「おはよう、兄さん。ワインを飲んでいたんだ。一緒に飲んでみない?」

 そういうと自分の体はゲラゲラと体を揺すって笑った。

「これは夢なのか? そうか、どうして俺の腕がこんなに細くなっていたのかがわかったよ」

 二人でワイングラスをぶつけると、聞き慣れたピアノの音がした。後ろを振り返るが、ピアノの扉は固く閉ざされている。

 ……聞き間違いだろうか。

 確かに今、ソのフラットが鳴り響いたと思ったのだが。

「こんな不味いもの、飲めたもんじゃない。腐ってるんじゃないか、これ」

 彼はグラスを一舐めした後、冷蔵庫に向かい軟水のミネラルウォーターを口にした。彼のゴクゴクという規則正しい飲む音が心地よく聞こえてくる。

「お前の体じゃ楽しめるのがないな。そうだ、ピアノを弾いてみるか」

 そういいながら火蓮は長い髪の毛を気にしながら鍵盤を撫でるように触っていった。

 優しい音色から紡ぎ出される音はまさしく水樹が長年に掛けて作り出した音だった。流れるように溢れ出る高音のワルツは軽やかで、子犬が玉遊びに夢中になっているようだ。


 ワルツ第6番変ニ長調 作品64-1 『子犬のワルツ』 


 火蓮は途中からテンポを遅らせてなめらかなメロディに変えていく。このフレーズがあるからこそ高音のメロディを生かすことができるのだと水樹は一人で納得した。

 テンポが徐々に上がっていく。素早い動きを要求される場面でも彼は一つのミスをすることなく進んでいく。

 気がつけば火蓮の指は止まっていた。二分ほどで終わる演奏はあっという間に過ぎていた。

「……兄さん」

 水樹は愕然とした。今の演奏はまさしく自分のものだと思った。

「ああ、もう認めるしかない。これはどうやら夢じゃないらしい」

 火蓮は思いついた曲をどんどんと弾いていく。

『舟歌』、『英雄ポロネーズ』、『別れのワルツ』……。

 どれもショパンで水樹が好きな曲ばかりだ。そして今まで自分が改良を重ねて習得してきた技術を余す所なく使っている。

「水樹……これはお前の体に間違いない。これは夢なんかじゃない」

 そんなことがあるはずがないという思いはある。だがこの音は受け入れるしかない。夢の中で出せる音じゃない。

「……うん。これは現実なんだろう。なんたっていつもより音が鮮明に聞こえるからね」水樹は大きく頷いた。「兄さんの耳がいいとは思っていたけど、ここまでいいとは思ってなかったよ」

 火蓮は絶対音感を持っている。思い起こせば、起きてから今まで聞いた音が全て音符になって聞こえていたのだ。

 顔を洗っている時の蛇口から出る音はワンオクターブ上げたドの音の連続だった。まるでピアノにある鍵盤が全てドに変わり、その鍵盤を端から端まで撫でているような清らかな音に変わっていたのだ。コーヒーマシンのコーヒーを擦る音はラのシャープだったし、液体が出てくる時に発する電気音はシの音だった。火蓮とグラスを重ねた時の音はソのフラットが響き渡った。

 全ての音が五線譜に書き込めるように聞こえている。

「……俺もだよ。他人の耳がこんなに聞こえにくいとは思わなかった」

「よくいってるだろ、僕はピアノを弾くしか能がないってさ。しかし凄いな、兄さんは全ての音が楽譜に示せるなんていっていたけど、本当にできそうだ」

「ああ、それはいいんだが……。水樹、お前もしかして耳が悪いのか?」

 心臓を掴まれたような圧迫感を受ける。

「兄さん、何をいって……」

「とぼけないでくれ」

 火蓮の目は真剣だった。憶測でものをいってる顔ではない。「正直に答えてくれ。お前、左耳が悪いんじゃないか?」

「ちょっとだけね。たまに左の耳が聞こえにくい時がある」 

 水樹は観念して白状することにした。

「……どうして今まで隠していた」

 火蓮はがっくりと首をうな垂れていった。

「手術は完璧に成功したといっていたじゃないか……俺が誰かにばらすと思っていたのか? 俺を信用していなかったのか?」

「いいや、違うんだ。兄さん」水樹はかぶりを振った。「僕は生まれた時から悪かったのかもしれない。母さんが突発性難聴だったじゃないか。だから話すのを躊躇ったんだ」

「なるほど……」

「僕らは事故前の記憶がないだろう? だから左耳の調子が悪いのは事故後だとは言い切れない」

 母・灯莉あかりは耳を患っていた。そのせいで母親はピアニストの道を諦め、父親とのコンチェルトを断念した。

「……に、兄さん。それよりも……」

 時計の針が一瞬にして現実に巻き戻していく。もしこれが現実ならワインを飲んでピアノを聴いている暇などない。

「兄さん、今日の公演は?」

「……もちろんある。もうすぐ風花もここに来るだろう」

 このまま議論をしていてもしょうがない。今すべきことは火蓮の体で水樹が指揮を振らなければならないということだ。

「兄さん、どうしよう。僕に指揮が振れるかな」

「大丈夫だろう。俺がショパンを弾けたんだ。お前だってできるはずだ」

 今の自分を納得させるには充分だ。行くしかない。

「風花には連絡を入れて二人でいこう。今日は俺が送ってやるよ」

「ありがたいけど……兄さん、その体じゃ免許がない。無免で捕まったら、コンサートに出られないよ。タクシーで行こう」

「……そうだな」

 火蓮の部屋に入ると、着替えがどこにあるのか鮮明に浮かんできた。三段ケースの一番上はパンツやタンクトップなどの下着、二番目には上半身に着るワイシャツ類、一番下にはズボンが入っている。

 着替えを終えてタクシーを待っている間、不意に煙草が吸いたくなった。我慢をして思考に集中していく。

 これは本当に夢じゃないのか、この状況はいつまで続くのか、はたして火蓮に恥をかかせることなく指揮はできるのか。

 ……乗り切るしかない。

 横にいる火蓮を眺めながら思う。今日は両耳を思う存分味わえ、父親と同じように指揮が振れるのだ。未知の体験が迫っていることに大きく胸が高鳴っていく。

 火蓮を目の端で捉えると、どこか遠くを見るような目をしていた。今から起きることよりも彼はもっと先のことを考えているようだった。

 

  2.


「火蓮さん、また遅刻ですか。困りますよ」

 プロデューサーが冗談をいうように注意した。しかし皆何も口にせず無表情のままだ。

 それだけ火蓮の遅刻癖が認められているのだろう。実の弟として情けない気持ちが沸き起こる。

「相変わらず遅刻癖は直ってないみたいね、カレン」

 美月が自分の方に手をあげている。

「申し訳ない。明日からは気をつけるよ」

 そういうと彼女は一瞬、何があったのか理解できていないように固まっていた。

「どうしたの、火蓮? どこか具合でも悪いの?」

「いや、そんなことはないんだけど……」

 喋り方が違うのだ。いくら声のトーンが一緒だとしても、口調が違っていれば怪しまれる。

 椅子に座っていた風花が横から茶々をいれてきた。

「火蓮はまだ起きてないのよ、美月。今日タクシーで来たんでしょ? まったく、しっかりしてよね」

「悪いな、そうなんだ。まだ頭に酒が残っていてな」

 火蓮の言葉遣いを思い出すようにして言葉を選ぶ。手の中には汗がじんわりと浮き出ている。

 風花に寝坊したことを告げ、先にいくように仕向けたのは兄だ。自分が運転して彼女をここまで運ぶことなど不可能で、ルートや走り方など、全く同じやり方はできない。ずっと一緒にいた彼女なら、その些細な点でも違和感を覚えるはずだからだ。

「まさかタクシーの中でも飲んだんじゃないでしょうね? お酒臭いわよ。顔でも洗ってきたら?」

 申し訳ないと思いつつ洗面所で顔を洗う。顔を洗っていると、横から恰幅のいい男が声を掛けて来た。名前はわからないが、打楽器を担当している人物なのだろう。指の皮が厚く手のひらが大きい。

「どうしたんですか、火蓮さん。昨日は飲みすぎたんですか?」

「ああ、ちょっとな」

 そういうと男はがははと笑いながら、紙を取り丁寧に手を拭いている。きっと手の油をふき取っているに違いない。

「火蓮さんと演奏するのも、来週までかぁ。ちょっと寂しいですよ」

 彼の発言に思考が傾く。どうやらすでにここを去ることは告げているらしい。ということはなるべく明るく接しない方がいいのかもしれない。怪しまれるような言動は慎むべきだ。

「ああ、そうだな……」

 敢えて低い声でいうと、男はにっこりと微笑みながら背中を軽く叩いてきた。

「今日も気合入れていきましょう。いつもの掛け声、お願いしますよ」

 彼の言葉にふっと意識が飛びそうになる。指揮だけではなく火蓮特有の癖がたくさんあるのだ。それはほぼ毎日接している人物から見れば、すぐにわかるものだろう。

 足がガタガタと震え下半身に寒気がくる。一体どうすればいいのだろう?

 時計を見ると、演劇が始まるまでに後十五分しかなかった。悩んだ結果、火蓮に電話することにした。

「……やっと掛かってきたか。待ちくたびれたぞ」

「わかってるなら先に掛けてくれよ」

「お前の携帯の扱い方がわからなかったんだ」

「あ、そっか。ごめん。ってそれどころじゃない」

 水樹は状況を説明した。火蓮も相槌を打ちながら話を理解していく。

「ああ、わかってる。まずな、お前は演奏するチームを近くに集めて号令を掛ける。その順番は誰からでもいい。そしてみんなの士気を高めるためにスクラムを組むんだ。俺がアメフトを好きなのは知っているだろ?」

「……兄さん、今から音楽を奏でるって時にスクラムを組むの?」

 火蓮は当たり前だと声を荒らげた。

「音楽だってスポーツと一緒で団体戦だからな。皆で声を出さずに右足をタンタンタタンと三回叩く」

「タンタンタタンね、わかった」

「その辺は多分体が覚えているだろう。そして両腕にいる相手の腰を落とすんだ。わかったな?」

「うん、なんとかやってみるよ」

「まあ、やってみたらわかるさ。みんなの気持ちが一つに纏まるのは気持ちがいいぞ」

 素早く電話を切って楽屋前に駆け込んだ。開演十分前だ。火蓮の話では、すでに演奏者が楽屋前で待っているだろう。

 楽屋前に行くと皆が視線で針を飛ばしてきた。急いでスクラムを組めということだろう。水樹は頭を下げながらみんなの輪の中に入った。

 どうやら名前を読み上げる時間はなかったらしい。皆何もいわずにタンタンタタン、とリズムを刻み腕の力で相手の背中を押した。息はぴったりだ。それぞれが会場に入り所定の位置に着いていく。

 ……なかなか気持ちいいじゃないか。

 集団が一つに纏まる気配を感じ、水樹は指揮台の上に立った。


  3.


 会場の明かりが音を立てて消えていく。

 いよいよ劇が始まるのだ。指揮者である自分がタクトを強く握らなければならない。もちろん、どう握ればいいかなんてわからないが、何度も握り返しては感触を確かめて感覚に頼ろうとする。

 幕が閉まったまま、長老役であるヒヒの叫び声が上がった。意識を集中しようとすると、体が強張り震えだす。

 ……落ち着け、兄さんのためだ。

 右手にタクトを持ったままいつもの癖で目を閉じる。しばらく目を閉じていると、叫び声が楽譜のように小節を刻んでいくのを感じた。 

 力を抜いて腕をゆっくりと上げる。後はタイミングを見計らって降ろすだけだ。

 ……大丈夫。いつも兄さんを見ていたじゃないか。きっと体が覚えているはず。

 気がつくと右手は大きく振り落とされ、自分の指揮と共に木琴の軽やかな音が流れる。幕が開いていくに従ってフルートの音色が響き渡り、演劇者の叫びに程よく絡み合っていく。

 どうやら出だしは成功したらしい。叫びが歌に変わり、様々なキャラクターが唄い始めている。徐々に大きくなる音の集合体は一つに纏まるためリズムを合わせて渦を巻く。たくさんの風が一つの竜巻を作るように、音の集合体は一つの音楽へと変わっていく。

 そのまま体は誰かに操られているかのように緩やかに動き出した。体に張られている神経の糸に身を委ねると、体の節々が音楽を奏でるために絶妙なタイミングで動いていく。

 全ての音が一つになった瞬間に水樹は左拳で幕を引いた。それと同時にどっと滝が流れるような歓声が沸き起こった。拍手の音が自分を肯定していた。

 ……気持ちいい。

 こんなにも高揚感を得られたのは久しぶりだ。体温は急激に上昇し、もやもやとしていた心の底に眠っていた重い空気が一気に吹き飛んでいく。全身にアドレナリンが巡るようで体の芯まで熱くなっている。まるで脳味噌が丸ごとワイン樽の中に浸かっているようだ。ピアノで味わう充実感とはレベルが違う。

 身を焦がすような恍惚とした感触を噛み締めながら再び手を挙げる。次の場面に入らなければならない。

 小さく手を振り、木琴にできる限り小さい音で始まるように合図をする。木琴の軽やかな音が男性の叫びと女性の叫びの仲介役となる。あくまでメインはコーラスだ。

 タクトのスピードを上げて次に入るマラカスの速度を促すように計らう。この後は打楽器がくる、なぜか次に始まる演奏が頭に浮かび上がっていく。

 唇を噛み締め、打楽器が集まっている集団に目線をやる。トイレであった恰幅のいい男性が勢いよく音を鳴らしている。

 打楽器とコーラスが最高潮に達した瞬間、曲は終わりを迎えた。

 次は少年ライオンと少女ライオンがサバンナで遊び回るシーンだ。早く大人になりたくて待ちきれない少年ライオンは、少女ライオンと激しく動き回る。

 この躍動感を表現するためには、風花のフルートの高音が一番相応しい。風花の顔を覗き込み、もっと大胆に吹くように合図を送った。彼女はそれに応じるかのように、頭でリズムをとりながら高音を吹き鳴らしている。シンバルの音が所々アクセントに入り、フルートの音色を際立たせていく。

 耳から脳に向かってたくさんの楽譜が送り込まれていくのを感じる。自分が考えている以上に膨大な数の楽器が音を鳴らしているようだ。このままだと音の洪水に飲み込まれてしまうかもしれない。

 意識を冷静に保ちつつ無意識になるように懸命に体を動かす。このなんともいいようのないバランス感覚はとても論理で主張できるものではない。

 曲が次々と終わり、そつなくこなしていく。何も考えなくても次の場面が浮かんでくる。すでに恐れはなくなってきている。

 次に来る場面は第一部のクライマックス、父親ライオンと叔父ライオンのバトルだ。男性の絶叫が物語の雰囲気をがらっと変えてしまう。

 自分の予測通りに絶叫が響き渡った。テンポは二次関数のように急激なカーブを作り一気に上昇していく。

 ヴァイオリンの不気味な音色から始まり、男性と女性の甲高い叫び声が上がった。父親ライオンが叔父ライオンに殺される場面だ。命が掛かっている場面に相応しく緊迫した音楽が流れる。

 懸命に体を動かすが、体が鉛を背負っているかのように重くなっていく。しかしここで気を抜くわけにはいかない。帯を締め直すように全身に力を込める。

 演劇者の叫び声がオペラのように、さらに甲高い声に変わった。凄まじい緊張感が続く中、叔父ライオンがバッファローの群れに父親ライオンを突き落とした。父親ライオンがワイヤーを使ってゆっくりと落ちると共に、打楽器が激しくホールを賑わしている。小太鼓、シンバルが特大のハンマーで叩きつけるようにガンガンと鳴り響く。父親ライオンが亡くなると同時に叔父ライオンが高笑いし始めた。

 クライマックスを迎えると同時に、左拳で幕を閉じる。

 ようやく第一部の終了だ。


  4.


 休憩を合図する音声が流れると共に、水樹はタクトを指揮台の上に置いた。倒れこみたくなる程体力を消耗しており、立っているのがやっとだ。このまま指揮を続けることは大した練習もせずマラソンに挑むような無謀なことではないかとさえ思ってしまう。

 しかし自分の代役はいない。なんとか騙し騙しやるしかない。額の汗をぬぐい、頬を両手で叩いて気を引き締める。

 トイレに向かおうとすると、美月から声を掛けられた。

「カレン、ちょっといい?」

 彼女の表情は欺瞞に満ちていた。

「……どうしたんだ?」

「今日は何か感じが違う気がしてね。何かあったのかなと思って」

「何もないさ」水樹は首を振った。「酒が残っている感じはあるけどな。そのせいかもしれない」

「ふうん、そっか……。それならいいや、ごめんね」

 美月の表情は変わらない。心臓が飛び出しそうになりながらも平静を装うしかない。

「同じ劇だって、毎日同じ感情じゃないだろう? まだ半分だ、最後までついて来いよ」

「わかってる。火蓮こそ最後までちゃんと持たせてよ」

「ああ、もちろんだ」

 美月へ手を振りトイレの方に向かうと、風花と目があった。彼女はペットボトルに口をつけたまま水樹の方を見ている。そのまなざしは何かを吟味しているようだ。何だか全てを見透かされているようで怖い。

 風花から視線を外し足早にトイレに向かうことにした。


 トイレで顔を洗い自分の顔を見つめるが、やはり火蓮の顔だ。心を静めようと近くの自動販売機でミネラルウォーターを買う。

 軟水より硬水の方がいいなと呟きながら、再び入れ替わったことを推察する。

 何が原因でこうなったのだろうか? 元に戻る方法はあるのだろうか?

 もちろんわかるはずがないが、考えないわけにはいかない。考えれば考えるほど体が硬直していくのを感じてしまう。体に掛かる重力が二倍にも三倍にも上がっていく。

 定期的に足に震えがくる。筋肉質の両腕で足を抑えなんとか踏み留ろうとする。

 ……ここからだ。ここからが本番だ。

 体を持ち直しても、心臓の激しい高鳴りは抑えることができない。自動販売機で出て来るつり銭のように、鼓動音がカツンカツンと規則正しく鳴り響いていく。

 ……この感情は刺激が強すぎる。

 今まで味わったことのないエネルギーが自分の心に浸透していき理性を抑えきれなくなっている。ピアノで味わう静寂さなど、どこにもない。同じ音楽でもここまで違うのかと実感する他ない。

 ミュージカルの音は一つ一つが個性に溢れ、一つとして同じものはない。タイミングが少しでもずれると、ただの騒音になる危険性を秘めている。

 火蓮は絶妙な指揮を執ることで一つの音楽を作ることに成功しているのだろう。一つのタペストリーを編むように、様々な色を混ぜ合わせていくのだ。一度リズムが狂うと綺麗な柄が途端に汚く見えてしまう可能性を秘めている。

 火蓮の指揮は大胆に行う上で緻密な計算が行われているのだ。普段の姿から見えない努力の結晶に兄に対して尊厳を抱かずにはいられなかった。

 顔を拭き舞台に戻る準備を整える。指揮台に戻ると体が再び震え始めていく。先程よりも激しく、コンクリートに穴を開ける機械のようにガタガタと震えていく。

 何度も腹を括っているのに体が落ち着かない。水樹はタクトを思いっきり掴んで宙に浮いているスポットライトを見つめた。

 ……やるしかない。やるしかないんだ。

 水樹は大きく息を吸い込み、左手でタクトを振り上げた。


  5.


 第二部は少年ライオンが青年ライオンになった場面からだ。青年ライオンは村から追い出され、イノシシとミーアキャットと出会い、三人は意気投合し陽気に唄い始める。風花のフルートが再び軽やかに舞い木琴がベースを作っていく。

 楽しい曲の終わりには青年ライオンが少女ライオンと偶然出会うシーンに入る。少女ライオンは青年ライオンに戻ってきて新たな王になって欲しいと説得する。青年ライオンは怯え、自分には無理だという。

 しかし少女ライオンは納得しない。小さい頃から青年ライオンのことが好きだったからだ。少女ライオンの恋の物語を後押しするように、ここから幻想的な音楽に移る。

 夜の舞台に相応しく、フルートの風に乗ってヴァイオリンが優しい音色を醸し出している。まるでノクターン(夜想曲)のように風花と美月のメロディがハーモニーを作り出していく。

 青年ライオンは悩み抜いた末、世話になったヒヒに出会う。彼に教えを説かれ青年ライオンは過去を払拭するために村に戻ることを決心する。過去から逃げず自分の使命を全うするためだ。

 突如、自分の体が高揚していった。それはタクトを振るっているせいではないと思った。ヒヒの言葉を聞いているからだと感じさせる何かがあった。


「過去は痛いものだ。しかしそれが本当の自分である。痛みから逃げずに立ち向かわなければならない時がある」


 ……どうしてこの言葉に体が反応するのだろう?

 理由はわからなかったが、今の自分には魔法を奏でるように何度も頭の中で反芻していった。この言葉が心を捉えて離さない。

 いよいよラストシーンが始まるぞと脳が指令を出してきた。青年ライオンと叔父ライオンの戦いだ。水樹はタクトを振りながら劇に夢中になった。

 体の虚脱感は嘘のようになくなり、体が再び熱を帯びていった。昨日見た劇なのにこの場所で見ると全てが新鮮に見える。

 ……全く大したものだよ、兄さん。

 再び火蓮の圧倒的な力に驚嘆する。このホールの全てを支えているのはたった一人の指揮者だ。当たり前に思っていたが、これだけの労力を要するとは思っていなかった。

 打楽器が勢いよく流れリズムを重ねていく。そこに木管楽器達が戦慄を感じさせるメロディを吹き込んでいる。エレキギターもアクセントでメロディの隙間を埋めていく。

 音が途切れないのは戦いの緊迫感が薄れないようにするためだろう。歯を食いしばりながら懸命に腕を振るい、クライマックスを迎えていく。

 フィナーレまでもう少しだ。青年ライオンが叔父ライオンを追い詰めるシーンに入る。弦楽器が一斉に叔父ライオンの哀れな姿を強調するように振動し、ホール一体を揺らした。その後、一端音が途切れ、父親ライオンと同様に甲高い叫びが入る。

 叔父ライオンが絶叫を上げながら谷から飛び落ちた。父親ライオンと同様に激しい打楽器が後を追っている。ヴァイオリンが狂気の渦を作り、打楽器が叔父ライオンの哀れな心境を汲み取るように激しく打ち鳴っている。

 青年ライオンは復讐を果たし新しい王となった。新しい王を祝う盛大なコーラスが鳴り響く。最後の曲は最初に行った曲に躍動感をつけたものだ。観客はすでに声援を上げており、立ち上がる者までいた。

 ここからは楽器だけでなく音を鳴らす全てのものが一つの音楽を作りあげていく。もちろん観客の声援もだ。

 会場にいる全ての人間が一つに纏まっていく姿を見て体に熱いものを感じていく。楽器も人の声も一つの楽譜を持っている。その楽譜達が音を立てて旋回し、ホールを震撼させているのだ。

 ……兄さん、本当に尊敬するよ。

 水樹は火蓮に畏怖の念を込め演奏に集中した。指揮者としてだけではなく、舞台を作り上げる一人の人間として、最後のワンフレーズまで体を動かしてやる。

 コーラスは最高潮に達し、それを後押しするように楽器がついていく。自分の体はもはや灼熱の中にある。全てを昇華させるために火に身を委ねなければならない。その思いを腕に込め懸命に振るう。

 楽器とコーラスが螺旋状に絡まり一つの音の集合体となっていく。そこに観客の声援が加わり、全ての音が一本の糸のようにねじれ、繋がり、纏まっていった。

 ホール全ての音が一つになったと感じた時、水樹は紅蓮の炎を掴むように右拳でピリオドを打った。


  6.


 会場は熱気に包まれたまま、幕が閉ざされた。水樹は流れ落ちてくる汗を拭いながら体全体で呼吸をしていた。しばらくはこのまま立ち尽くすことしかできない。

 体全体がピリピリと引きつっていくのを感じ、きっと明日は筋肉痛になるだろうと思った。だがこの疲れは次の日にはどうなるのだろうとも考えが働く。

 もしこのまま明日も火蓮であるのならば、自分が感じる痛みとなるだろう。だが明日自分の体に戻っていれば、火蓮が肩代わりしてくれるのだろうか。

 答えが出ない問題だけに頭の中で何度でもその問答が繰り返される。

「お疲れ様、今日もよかったよ、火蓮君」後ろからプロデューサーらしき人物が声を掛けてきた。

「あ、ありがとうございます」

 風花と美月も声を上げて挨拶をしている。やはり彼が責任者なのだろう。二人はそのまま火蓮の方に近寄ってきた。

「お疲れ様、何だか今日は凄かったね。いつもの火蓮じゃないみたいだった」

「そうだな。久しぶりに全力で挑んだ気がする」火蓮ならそういうだろうなと思いつつ、得意顔でいう。

「ふうん。まあ、やる気になったのはいいけどさ、目からも汗が出てるよ」

「……えっ?」

 目元を抑えると、涙が溢れていた。

「これはな、汗が入って……」

「いいじゃない、それだけ本気で取り組んだってことでしょ。それに今日のカレンは特別格好よかったわ」

「何だよ、いつもは格好悪いってか?」おどけながらいう。「今日はいつもと違ったんだ。内容がわかっても感動することってあるんだな」

 美月は当たり前じゃない、と一喝した。

「劇場でみるメリットがなければDVDで充分よ。だから私達はこうして仕事にありつけているんじゃない」

「違いない。さてと、帰るとするか……」

「何よ、今日は飲まないの?」美月が不服そうな顔で睨んでくる。

「ああ、水樹を待たせてあるんだ。それに明日は病院で定期健診があるからな」

 そういって後悔する。今の体は火蓮なのだ、彼は定期健診に行っていない。

「そうはいっても行くのは水樹だけでしょ? カレンはほとんど来たことがないとお父様は嘆いていたけれど?」

「当たり前だ、オレは何の問題もないんだからな。あいつは几帳面だから通っているだけだ。まったく病院代だってタダじゃないのにな」

「じゃあ決まりね、一杯くらい付き合ってよ」

「そうはいってもな……」

「ごめん、私も今日はまっすぐ帰るね」風花は帰る準備をし始めている。

「何よ、二人ともつれないわね」美月は頬を膨らませて腕を組んだ。「水樹が来てるってことは二人で何か食べにいくんでしょ? お酒は飲まなくてもご飯くらい食べにいかないの?」

「いや、すまない。今日は本当に用があるんだ。また次回、ちゃんと埋め合わせはするからな」

 謝り倒した後、彼は美月の返事を待たずにそそくさと楽屋を後にした。振り返ることはできなかった。


 火蓮に連絡を入れると例のレストランで待ち合わせをしようといってきた。もちろん異論はないので了解と返事を送る。劇場から少し離れているのでなるべく人通りの少ない道を選んでいく。

 夜の街はいつもより魅力的に映った。自分が行ったことがない店の扉を見るだけでも店の雰囲気が浮かんでくるのだ。その店の得意料理、店主の顔、キープしてあるボトルの量など様々な映像が頭の中で巡っていった。飲食街だけでなく女性が酒を注いでくれる店のイメージも容易に浮かんでくる。火蓮のお気に入りの子まで脳裏に焼きついてしまう。これこそがプライバシーの侵害だろうなと関係のないことを考えて街を通り抜けていく。

 目的地に向かっている途中で火蓮の姿が見えた。彼も気づいたようで手を大きく振っている。

「よう、お疲れ様。見事な指揮だったよ。俺が感動しちまった」火蓮は周りに構わず、がははと大笑いしている。

「よくいうよ。こっちは倒れそうだったんだから」

 二人で立ち話をしていると、臙脂色のケースを肩に掛けた女性が火蓮に後ろから抱きついていた。

 風花だった。

「水樹、ひどいじゃない。来てるなら連絡くらいちょうだいよ」

 火蓮は驚いて言葉に詰まっている。「ああ、すまない。ちょっと用があってこっちまで来ていたんだ……」

 胸の中に葛藤が生じていた。風花は当たり前の行動をしているだけなのに、それを受け入れられない自分がいる。

「じゃあ劇は見てないの?」

 火蓮は首を振った。「いや、見させてもらった。風花の演奏はとってもよかったよ」

 風花はぶぅーっといって、頬を膨らませた。

「いっつもそうなんだから。よかった、しかいわないじゃない。もうちょっと言葉を選んでよ」

 火蓮は苦い顔になり無理やり言葉を並べ立てていた。その仕草は自分のものと近い感じで、役者になれるかもしれないなという別の想像が働く程だった。

「風花の演奏はいつもばっちりだからね。俺の肌に合うんだ、だから褒める必要なんてないよ」

 風花は満足いっていないようだったが、まあいいや、といって車を取りに行く素振りを見せた。

「今日はタクシーで来たんでしょ? 私が送ってあげる」

 火蓮と水樹は顔を見合わせた。打ち合わせなしに言葉を発したら最悪ばれる可能性がある。

「いや、いいよ。ちょうど二人で飲もうと思ってたから」

 まずいと思ったが、遅かった。火蓮は美月の件を知らない。今日は飲食以外の用事があるといっているのだが。

「……そう。それなら仕方ないわね。水樹さん、明日の約束はちゃんと覚えてるよね?」

「……ああ。覚えてる」横にいる火蓮が小さく頷く。

「よろしい。じゃあまた明日ね」

 そのまま彼女は駐車場へ向かっていった。

 風花が見えなくなるまで手を振り続け、姿が見えなくなってから二人は大きく溜息をついた。

「……危なかったな。もう少し大きな声で話していたら、聞こえていたかもしれない」

 火蓮はそういったが、風花の後ろ姿を見ると全てを見透かした上での演技のようにも思えた。彼女にしては物分りがよ過ぎたからだ。

 そうかもねと水樹は頷き、タクシーを止めるため手を挙げた。


  7.

 

 家に辿り着き、再び現在の状況を話し合う。

 二人の意見で一致した部分は薬が原因ではないかということだ。

「あの薬は確か兄さんがくれたものだよね?」

「ああ、そうだ。お前がコンクールで忙しいから、風花がまとめて薬を貰ってくれてそっちに送ったんだ」

 二人で薬を確認し合う。見た目には特に異常はなさそうだ。特別な成分が入っているようにもみえない。

「僕達が同時に薬を飲んだことが原因なのかな」水樹は頭を掻きながらいった。いつもより髪が短いので違和感を覚えてしまう。

「それはいつでもあり得ることだ。それよりも……酒が関係しているのかもしれない」

「酒?」

「ああ。入れ替わった時に飲んだものは酒と薬のセットだ」

 昨日は四人で酒を飲み、帰ってきてから一緒に薬を飲んだ。その途端に眠気がきたのだ。

「そうかもしれない。けどポーランドで人格は入れ替わらなかったじゃないか。朝起きてもお互い自分の体だった」

「入れ替わらなかったわけじゃない。入れ替わったけど、気づかなかっただけかもしれないぞ」

「どういうこと?」

 火蓮は目の前にあるソファーにどっぷりと腰を下ろしてから続けた。

「あの時、お互いに夢を見たといったよな? あれは本当に自分の夢だったのか?」

 水樹は近くにある椅子に座り頭を垂らした。

「うーん、どうなんだろう。確か母さんに怒られる夢だったな」

「お前は母さんに怒られたことはないはずだろう? 俺達が見たビデオの中ではお前が怒られているものは一つもなかった」

 記憶を辿る。確かに今まで見たビデオの中にはそんな映像はなかった。だが母親に怒られない子供はこの世にいない。

「実際の所はわからないけどね」

 自分は母親からピアノを習っていた。それは灯莉の方がピアノに精通していたからだ。父親は楽器を何でも上手に扱えたが、ピアノの腕では灯莉には敵わなかったと風花から聞いている。

「お前は母さんにほとんど怒られていないと思う。怒られたのは俺の方ばかりだった」

 教育方針の違いというものだろうか。火蓮には父さんが、自分には母さんが重点的に教育を施しているように見えた。それはきっとお互いの癖を見抜いてのことだったのだろう。

「つまりだ。お前はあの時、俺の夢を見ていた。そして俺はお前の夢を見ていた。意識こそないが俺達は入れ替わっていたんだ」

 火蓮の考えは妥当だった。この不思議な現象を考える上では。

「確かに、そう考えると辻褄が合うね」

 しかし、と水樹は新たな疑問を投げかけた。

「ポーランドで人格が入れ替わっていたと仮定しよう。朝起きた時にはなぜ人格が戻っていたんだろう?」

 どうやら彼はそれについても考えを持っているらしい。表情を変えず説明に戻った。

「それは多分、薬の効き目だと思う。俺達が最初飲んだ時には眠っている時間、おそらく十二時間くらいだった。それ以下の時間だけ人格が入れ替わったんだ。そして、今回は二回目。それより時間が延びたということじゃないか?」

「どうして時間が延びたと思うの?」

「俺がその前に一つ飲んでいたからだ」そういって彼は頭を下げた。「すまない。お前と一緒に薬を飲む前に、俺は自分で飲んでいた。だから効果が二倍になったんだ」

「なるほど……もしそうなら兄さんの説が有力になるね」

 水樹は小さく吐息をついた。火蓮を咎める気にはなれない。咎めた所で何かが解決するわけがない。今一番解決しなければならない問題はいつ人格が戻るのかということだ。

「この人格はどうやったら戻るのかな?」

「……多分何もしなくてもいいんじゃないか」火蓮は素っ気なくいった。「俺の予想では、明日には戻っているような気がする。薬が切れていれば、元に戻る可能性は大だ」

「もし、戻っていなければ」

「元に戻る方法はわからない」

 現状何もできることはないということらしい。

「兄さん、明日は定期健診の日だ。明日こそ行った方がいい」

「そうだな、明日は行って確認しよう」

 火蓮もことの重大さを理解しているようだった。いつもと違って真剣な表情をしている。

 いくら双子とはいえ人格が入れ替わるのはまずいだろう。夜の街を見ただけでイメージが膨らんだように、お互いのプライバシーが筒抜けの状態にある。火蓮もまた風花を見てきっと様々なイメージを働かせたに違いない。

 それに明後日には文化祭での演奏がある。ボランティアとはいえ後輩の前で演奏するのだ。下手な演奏はできないし、彼に任せるつもりもない。

「明日も早いしそろそろ寝ようぜ」

「そうだね。早い所、休んだ方がいいね。明日には戻っていたらいいけどね」

 お互いの部屋に向かうため階段を上がり、おやすみと手を上げる。もちろん、お互いに部屋を間違えて苦笑いしたのはいうまでもない。

 火蓮のベッドの上で泥のように体を溶かしていくと彼の匂いが優しく体を包み込んでいた。

 懐かしい感情が心の中で何度も沸き起こっていた。


  ◆.


「うう、寒いね」

「そりゃそうだ。雪が降ってるんだから当たり前だろ」

 目が覚めると、俺は近くの公園のベンチに座っていた。

 辺りを一瞥すると、街灯がぽつぽつと点灯し始めている。公園の真ん中には巨大なクリスマスツリーが立っており、一番上には金星が光っている。木全体にもデコレーションがされており、深いモスグリーンと濃いカーマインレッドのコントラストが雰囲気を高めている。

 横には長い黒髪をポニーテールにしている女の子が背中を丸めて座っていた。制服の上にネイビーブルーのダッフルコートを着ている。思わず肩を抱き寄せたい衝動に駆られる。

 彼女は左手からキャメル色の厚紙に包んだ袋を取り出した。

「これ、クリスマスプレゼント」

「ありがとう」俺は予め用意しておいた袋を取り出して彼女に渡した。「これは俺の分とあいつからの分だ」

 彼女はわあといって声を上げて喜んだ。

「嬉しい……開けていい?」

「もちろん」

 彼女は包み紙を取り除くと、嬉しそうにケースを眺めた。彼女はフルートをしており、そのケースがお下がりだったということで、新しいものをプレゼントすることにしたのだ。

「ありがとう。ちょうど欲しかったんだ」

 そういって彼女はプレゼントを俺の前に出した。色はワインレッドだった。配色を決めたのは俺だ。

「喜んで貰えてよかった。俺も開けていいかな?」

 彼女は無言で頷いた。袋を開けると、そこには細長い棒が入っていた。

「お母さんに教わって作ってみたの。下手だけど、喜んで貰えると思って」

 木で出来た指揮棒だった。よく見るとあまり頑丈そうな作りではなかった。細くて軽いが、ちょっとした拍子に折れそうだ。大事に使わなければならない。

「ありがとう。お前の手作りなんて嬉しいよ」

「いえいえ。喜んで貰えてよかった。その木ね、お母さんと同じ名前の木だから、愛着が沸いちゃった。大事にしてよね」

 彼女はか細い声で説明を続ける。

「中学校に入ってからさ、英語の勉強をしているじゃない? それでイニシャルを入れたら格好いいかなと思って入れてみたの」

 暗くてよく見えないが、その棒にはイニシャルが入っているようだった。

「俺のために作ってくれたんだな。本当にありがとう」

 精一杯笑顔を見せたが、彼女には俺は映っていないみたいだった。目に光はない。

「……あいつは馬鹿だよな、お前みたいな可愛い子を振るんだからさ」

「ずっと彼のことだけ見てきたのに……苦しいよ」彼女はそういって啜り泣きを始めた。

 ……絶好のタイミングだ。

 俺にとって今、この瞬間、彼女を手中におさめるためにはこの機会を利用するしかない。

 しかし本当にこれでいいのかと心の天秤が揺れている。このまま付き合うことができたとして……、彼女を幸せにできるのだろうか。

 心が揺れたままでもいい。俺は正直に思いを伝えたい。

 だって俺はお前と出会ってから、ずっと――。

「俺がずっとお前の傍にいる……。だからもう泣かないでくれよ」

「ごめんね、私、いっつも泣いてばっかりだね……」

 俺はベンチに袋を置いて彼女の唇に口づけした。受け入れてくれているのか、それともただ流されているのかはわからない。唇の感触では拒絶の感情は見当たらなかった。

「……今は、俺のことだけ見てくれよ」

「……うん」

 もう一度口づけを交わした時に、袋からプレゼントが零れ落ちた。

 そこにはK・Kと書かれた指揮棒が顔を覗かせていた。 


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