第一章 青の静寂と赤の鼓動
二作目の投稿です。
この作品は某出版社の最終選考にまで残った作品です。
もしあなたのお時間が許されるのであれば、途中まででも構いません。
是非読んで見て下さい。それではよろしくお願いします。
※iphoneで縦読みを希望される方は小説viewerというアプリが非常にオススメです。
文庫のような感覚が読みやすく、個人的には目も疲れにくいと思います。
小説viewerダウンロード→小説を読もう→検索 魂のクオリア→魂のクオリアをクリックした後、左下にあるダウンロードボタンを押せばそれでオッケーです。ダウンロードしても何の表示もでないのですが、ダウンロードされています。
後は書庫に保存されているので、栞をつけながら読むこともできます。
「ニュースをお伝えします。福岡県福岡市で乗用車とトラックが衝突しました。この事故で乗用車に乗っていた四名のうち、二名が死亡、二名が重体です。
死亡したのは観音寺海 <四十歳>さん、灯莉 <四十歳>さん、重体となっているのはその息子・水樹 <十五歳>君、火蓮 <十五歳>君です。
トラックに乗っていた鷹尾啓次容疑者 <四十二歳> は意識不明ということです。
なお、彼らは同じ病院に搬送され……」
第一章 青の静寂と赤の鼓動
クオリア。
これは言葉ではいい表せない感覚を差す。
頭の中に、赤い林檎を想像して欲しい。
今、あなたが想像した『赤』色はどんな色だろうか?
『赤』といってもたくさんのアカがある。緋、朱、紅、茜……。これらはどれも赤色をさすけれど、決して同じ色ではない。色の表現は言葉では言い表せないからだ。
だからあなたが想像した『赤』はオレが想像した『赤』と同じかどうかわからないし、それを確かめる術はない。
まして完全に好きな色が被ることはない。同じ『人間』でない限り、共通の好き嫌いになることはないのだ。
クオリアができる過程にはディープラーニングという、その人物が培ってきた『記憶』が重要になる。だからたとえ、オレ達が双子だといっても、同じ『共感覚』を持つことはありえない。
オレは今、自分の感覚に疑問を感じている。
扱ったことがない指揮棒を通じて、魂が喜びに打ち震えているのだ。初めて扱うものが全て、何かの糸に導かれるように円滑に進行していく。この感情に抗うことはできない。きっとオレの魂が、この体こそが、自分の体だと認識しているのだろう。
『オレ』は本当にピアニストの水樹で間違いなかったのだろうか――。
1.
「兄さん、そろそろ起きないと遅刻するよ」
「まだ十一時じゃないか。後三十分は寝れる」
「またそんなこといって。ほら、風花が先に来たよ」
インターホンが何度もこだましている。水樹は足早に階段を降りてドアを開けた。
「おはよう、水樹」
ドアを開けると、風花がにっこり微笑んでいた。先日、水樹がプレゼントした細身のワンピースを着ている。
「……火蓮はまだ寝ているの?」
「ああ、そうなんだ」水樹は顔だけで笑った。「兄さんが起きてこないから、まだご飯も食べていない。先に家の中に入ってくれない? すぐにコーヒーを淹れるよ」
風花は頷きながら小さくお邪魔しますと声を上げた。そのまま窓際にあるベージュ色のソファに座ってくつろいでいる。
ポーランドから実家に帰ってきて一週間が経とうとしていた。一年ぶりの日本での生活にすでに馴染んでおり、時差ボケも解消されている。
再び二階に上がり火蓮の部屋に入ると、赤いシーツの上で火蓮がごろごろと転がっていた。きっと二度寝に入ったに違いない。どこが立派な社会人になったのだろうと再び溜息をつく。
「兄さん、そろそろ起きてよ」
「ふへ、そうだな。後十分だけ……」
「まったく、早くしてよ。風花はもう来てるんだからね」
一階に降り、風花の席にコーヒーソーサーを並べその上にカップを置く。
「わざわざこんな準備をしなくてもいいのに。普通のでいいよ」
「……まあ、ゆっくりしててよ。兄さんもまだ時間が掛かるみたいだし。本人は立派な社会人になったつもりらしいけど、僕にはその変化がわからない」
風花は口に手を当てて微笑んだ。
「あたしの目から見ても何も変わってないわね。一年なんてあっという間だもの……」風花はコーヒーを一口飲んで、カップを持ったまま口元を緩ませた。「……水樹のコーヒーはやっぱり落ち着くね。帰ってきてくれてよかった。あのまま日本には帰ってこないと思ったから」
「必ず帰ると約束したじゃないか」
たじろぎながらも牽制すると、風花はぶるぶると首を振った。
「……だからこそ怖かったの。出発当日に打ち明けられる気持ちなんて、あなたにはわからないわよ」
風花はカップを置いて、ソファーの背もたれにぐいっと寄りかかった。火蓮が降りて来ないことに託けて、今のうちにたまりに溜まった鬱憤を吐き出すつもりらしい。
「あの時は本当にすまなかった。いうタイミングがわからなかったんだ。それでどんどん伸びていって……」
「ほんと、タイミングがいいのはピアノの入り方だけよね」
返す言葉が見つからない。ケトルを握ったまま、背筋を伸ばすことしかできない。
そのまま沈黙を貫いていると、風花は笑顔を見せて呟いた。
「でもね、もういいの。水樹がちゃんと帰って来てくれたからね、それだけで嬉しい。賞を取った時の約束覚えてる?」
……え? 何のこと?
そう口にしたかったが、心の中で言葉を丸め込む。入賞を果たした時には結婚しようと誓ったのだ。
ショパンコンクールのレベルの高さをわかっているからこそ、できた約束だった。どうせとれる筈がないとたかをくくっていた。しかし一位をとって凱旋帰国してしまったのだから、断る理由はない。
「……ああ、覚えてるよ。もちろん約束は守る。でもまだ早いんじゃないかな。僕達はまだ――」
「まだじゃないわよ。もう結婚ができる年齢はとっくに過ぎてるわ」風花は席を立って水樹の唇を指で塞いだ。「あたしはずっと待ってたんだから、そろそろ決めてくれないとこのまま首を絞めちゃうかもよ」
風花はそのまま水樹の首筋に手を掛けて首を絞めるポーズをとった。指の感触からいって、返答次第ではこのまま本当に絞められる恐れがある。
「おいおい、冗談は止めてくれ。う、眩暈がする……」
「え?ちょっと、大丈夫?」
「ああ、時差ボケかもしれない」
笑顔で答えると、彼女はがっくりと肩を落とした。
「はぁ、何いってるのよ……。そんなに結婚したくないの?」
「したくないわけじゃない。時期の問題だよ」実際にはまだ早いと思っている。「風花だって仕事があるし、結婚するとなったら子供のことも考えないといけないだろう? まだ定職についているわけじゃないし、それからでも遅くはないと思うよ」
「まあ、そうだけど……」彼女は自分の腰の辺りで親指を擦り合わせた。緊張した時にする癖だ。「…………そっか。そうかもしれないね。水樹がそういうのなら、もうちょっと待とうかな」
「そうだよ。風花は何人の子供が欲しい?」
「あたしは一人でいいわ。男の子がいい」
「意外だね、女の子がいいと思ってた」
「だって女の子が生まれてきたら、あたしのことをライバルとして見るかもしれないでしょ。それが二人も生まれてきたと考えただけでも…………大変だわ」
水樹は大袈裟に笑った。「そんなことになるわけないよ。変な所で心配症だなぁ」
「いーや、わからないわ。水樹はころっと女の子を騙しちゃうくせがあるからね。ポーランドでも何人の女の子をくどいてきたのよ」
「浮気なんてするわけがない。気にし過ぎだよ」
唇に口づけをしても、風花は納得がいかないようだ。眉間に皺が寄っている。
「だってこれだけ有名になったのよ、心配にならない方がおかしいわ。それに水樹は格好がいいから、これから女性のファンが増えるわよ」
「これからどうなったって風花だけだよ」
「じゃあ、そういうんならさ……」風花はくるりと背を向けて、ピアノに指を差した。「あたしだけのために一曲弾いてよ」
「弾かせて頂きますよ、お姫様。どんな曲名をお望みで?」
笑顔で答えると、風花は頬を膨らませて腕を組み始めた。
「……またそうやって訊く。何でもいいよ、水樹のピアノなら」
彼女が何でもいいという時は何でもよくないということだ。頭を捻り考えた結果、穏やかなメロディを奏でる曲にした。
ピアノ協奏曲『第一番』第二楽章
協奏曲でありながら前面に渡って奏でられるピアノはソロでも充分に魅力が伝わる曲になっている。ショパンコンクールの本選で弾いた曲でもあり、風花にとっても馴染みがある曲だった。
ハーブのように柔らかい音色をぽろん、ぽろんと奏でると、部屋の中が静謐な森のように穏やかな空気に包まれていった。ピアノの前で彼女と再び口づけを交わしていると、後ろでにやにやしている火蓮の姿が見えた。
「覗きとは趣味がよくないね。兄さん」
「悪い悪い。代えのシャツを探していたら、うっかり見えてしまってね」
火蓮は手刀を切りながらワイシャツに袖を通している。背中に残っている傷跡がちらりと姿を見せたが、すぐにワイシャツが覆いかぶさった。
風花の方を覗くと、機嫌はさらに悪くなったように見えた。じっとりした瞳が物語っている。
「……もう終わりなの?意気地なし」
彼女は水樹から離れると、そのままソファーに腰掛け余ったコーヒーを啜った。
……一年分のツケはまだ、まだ払い切れそうにない。
彼はぬるくなったコーヒーを飲みながら肩を竦めた。
2.
「げ、また瓦蕎麦かよ?」
火蓮が溜息を漏らしながらネクタイを締めている。
「今週に入って何回目だよ。たまにはうどんにしてくれ」
「遅刻してきた兄さんが悪いよ、文句をいわれる筋合いはないね」
火蓮が起きてきたことで、水樹は蕎麦をフライパンで焼き始めた。蕎麦の香ばしい匂いがフライパンから沸き上がってくる。焼き終えた蕎麦を皿に盛り、その上に卵焼きと葱を切り刻み完成だ。
「うわぁーおいしそう。あたしの分は?」
「食べてきたんでしょ。それに早く行かないと間に合わないよ」
「……けち」
風花から無言の圧力を受けながら蕎麦を啜る。やっぱり日本食は最高だなとゆっくりと味わい噛み締める。
「ごちそうさま。さてと、行くとするか」
火蓮は一気に飲み込むようにして蕎麦を食べ終えると、目の前の菓子折りを掴んだ。
「なんだこれは? 食い物か?」
「それは今日持っていくから駄目」
「なんだよ、楽屋で食ったって変わらないじゃないか」
「兄さんの所に持って行くわけじゃない。川口先生の所に持って行くんだ」
菓子折りを取り上げると、彼は納得がいったように肩を竦めた。
「……なんだよ、そういうことなら早くいってくれ。危うく破る所だった」
「……だと思ったよ」
二人を玄関まで送ると、風花が声を上げた。
「水樹も後で来るんだよね?」
「うん、今日は観客の一人として楽しませて貰うよ」
「じゃあ、後でね」
二人を送り出し、ピアノの前に座る。
……さてと、練習するか。
ここの所毎日三時間以上触っているが、未だ馴染めていない。ピアノは同じメーカーであっても、一つ一つ微妙な癖があるからだ。
生まれた時からあったピアノが修復不可能になったため、一年前に泣く泣く新しいピアノに変えたのだが、ショパンコンクールでポーランドに向かわなければならず、結局、一年間ピアノを放置したのだ。
鍵盤に触れながら過去の思い出に浸っていくと、川口との約束の時間が迫っていた。
火蓮が食べようとした菓子折りを掴みながら水樹は玄関の扉を開いた。
「水樹、早かったな」
ピアノ課が練習する部屋を横切ろうとすると、川口が気づき部屋から出てきた。
「すいません、練習中に……」
「構わんよ。ちょうど終わる所やったんや」
練習していた女生徒がこちらを見て固まっている。
「川口先生、この人はまさか……」
「そうや。今一躍有名になっている観音寺水樹や」
女生徒はそのままこちらに近づいてきて握手を求めてくる。
「はじめまして、岸野といいます。お、お会いできて光栄です」
「こちらこそ。ピアノを聞かせてもらったけど、上手だね」
「いえ、とんでもないんです」
「こいつも音楽で飯が食いたいそうや。すでに就職活動は始めとるで」川口が横から告げる。
「そっか、頑張ってね。今は色々と厳しいだろうけど、絶対就職先はあるから。諦めないでね」
「お前がいうことやないやろ、このプータローが」川口が大声で口を挟む。「お前を呼んだのは他でもない。この子達の文化祭に出て欲しいんや」
「文化祭……毎年行なっている響ホールでのOB演奏ですか」
「そうや」川口はにやりと笑う。「この子達の先輩として十分くらい演奏してくれへんか」
「なるほど、そういうことですか。それなら構いませんよ。仰る通り、プータローですし」
水樹が冗談を込めていうと、川口は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「ほんまか、よかったわ。実はすでにもう時間を空けとるんや」
「本当に変わってないですね、先生」水樹は溜息をついた後、微笑んだ。
……本当に変わらない。
一年前を振り返る。
川口は自分には一言も喋らずにショパンコンクールに推薦状を出したのだ。母親を交通事故で亡くしてから、ずっと独学で来た自分を指導してくれたのも彼だった。
「まさか優勝してくるとは思ってへんかったよ。灯莉も天国で喜んどるやろう」
水樹の母、観音寺灯莉は川口の同期だ。彼自身も彼女とショパンコンクールに出場した経験を持っている。
「そうだといいんですが」
「そうに決まっとるよ。しかし血統っちゅーものは本当にあるんやな」川口は天井を仰ぎながら続ける。「俺は一年間ポーランドで勉強しとったのに、あいつは全日団に入っとったから、三ヶ月しかポーランドにおらんかったやぞ? それやのにあいつは日常会話もこなして二位、片や俺はポーランド語もしゃべれず三次審査落ちやからな」
「そうだったみたいですね」何度も聞いた愚痴を頷いて返す。「でも川口先生のピアノも素敵でした。豪快さがあって迫力があって……」
「いまさらおべっか使っても遅いわっ。まあそれはそれとして」
川口は眉をひそめ水樹の顔をじろじろと眺めた。
「……本当にひやひやさせおってからに。やっぱり緊張しとったんか? 本選一日目やったくせに、次の日の繰越しになっとったのは本当にびっくりしたわ」
「すいません。ちょっと体調が悪くて次の日に変えてもらったんです」
「やはり、そうやったか」川口は納得したように頷いた。「でもそれがよかったのかもしれへんなあ。なんたってあんなコンチェルトを最後にやってしまったら審査員かて点数つけんわけにはいかんやろ。それにお前が得意な協奏曲『第二番』を演奏せんかったのはよかったな。『第一番』で優勝が決まったのは間違いない」
「……ありがとうございます。それで先生、文化祭では何を弾いたらいいんです?」
「もちろんショパンに決まっとるやろ。一曲は『バラード第三番』を弾いて貰いたい。もう一曲は好きなように弾いてもらって構わんよ。特にルールがあるわけやないし、特別ゲストとして広報には知らせんつもりやからな」
『バラード第三番』と聞いて胸が高鳴る。あの曲をホールで演奏できればいい予行練習になりそうだ。
「わかりました。じゃあもう一曲は何か考えておきますね」
「おう。まあ、俺としては灯莉が弾いとった『革命』がいいんやけどな」
「僕には母さんのように激しい曲は弾けませんよ」
「わかっとる、冗談や」豪快に笑う川口は続けて話題を換える。「まだ秘密やけどな、神山もお前とは別口で演奏するんや」
「へぇ、美月が……意外ですね」美月のバイオリンを想像し胸が高鳴る。「それで何をするんです?」
「あいつもショパンや。大学におる時は嫌っとったのにな、あいつもヨーロッパのコンクールに出まくって、色々収穫があったんかもしれん。今日から火蓮達の劇団で演奏するみたいやで」
「ええ、聞いてます。実は今日それを見に行くんです」水樹は頷いた。「何でも一週間特別ゲストで出演するみたいですね」
「そうや」川口は満足そうに首を縦に振った。「俺が火蓮に頼んだんや。あいつも俺に貸しがあるから、いうこと聞かへんわけにはいかんからな」
……貸しとは一体何のことだろう?
頭を捻るが、思いつかない。火蓮は指揮科にいたのだから、ピアノ科の川口とは面識がないはず。
「先生、貸しというのは……」
「いやいや、別に大したことやない。聞き流しといてくれ」
「すいません、観音寺先輩……」
岸野と呼ばれていた生徒が、何かをいいたそうにこちらを見ていた。
「……先輩、あの、よかったら一曲だけ弾いて貰えませんか?協奏曲『第一番』、本当に素晴らしい演奏でした。ワンフレーズだけでもいいんです。お願いします」
川口も懇願するように続ける。
「そうや、一曲だけでも弾いてやってくれへんか? こいつも才能があるんやが、家庭環境があまりよくなくてな。家にきちんとしたピアノがないらしい」
苦笑いを浮かべながら了承したが、ピアノを見ると機嫌が変わった。
「先生、ピアノはウミハじゃないんですか」
「ああ、今年からストーンウェイに変えて貰ったんや」川口は自慢するように声を上げた。「やはり海外で活躍する人間にはこっちの方がいいからな」
「……そうですか。すいません、今日はちょっと遠慮させて貰っていいですか? 実は腕の調子があまりよくないんです」
そういうと、女生徒は甲高い声を上げた。
「ええっ? 大丈夫ですか? すいません、私ったら失礼なことをお願いして」
川口も想定していなかったようで口が開いたままだ。「……そうか。それなら仕方ないな。文化祭は三日後なんだが、大丈夫か?」
「ええ、それまでには問題ないです。先生、文化祭のピアノは……」
「もちろんウミハや。スポンサーは変わらんよ」
……よかった。
菓子を渡し、理由をつけてストーンウェイがある部屋から離れた。心の中には未だ靄が掛かっていた。
3.
ホールに着くと、美月の顔が大きくプリントされてあるポスターが目に入った。大学時代よりも化粧が大人びており、髪も毛先だけ緩いパーマを当てていた。
受付に火蓮から貰っていた特等席のチケットを渡し席に向かう。演奏者と演劇者を一望できる席で、家族でよく利用した席だ。
「水樹、おーい。こっちだよー」
下から自分を呼ぶ声が聞こえる。シートから立ち演奏者側を眺めると、風花の姿が見えた。右手にフルートを掴んで左手で大きく手を振っている。
……変わらないな、彼女も。
手を小さく振った後、口元に人差し指を添える。幼馴染でありながらも、どことなく幼さを覚えるのは愛情の一種なのだろうか。
風花から目を離すと、火蓮が背の高い女性と話をしているのが目に入った。真っ黒なドレスに一輪の赤い薔薇が胸元に飾られている、きっとこの為だけに新しいものを新調したのだろう。さすがは病院のお嬢様だ。
だが服装とは違い、彼女の表情は厳しい。それだけ演奏に力を込めているのだろうか。
……ここに来るのも久しぶりだな。
今日の劇・『百獣の王』は家族の中で最も人気のあるミュージカルだ。この劇に家族一同で虜になっており、事故当日もこれを鑑賞した帰りだった。
この物語は一匹の子供ライオンからスタートし、王へとなるドラマをミュージカル形式で作られている。登場人物は全て動物で、あたかもサバンナにいるかのような演出が施されている。そのため打楽器中心の活気溢れる叫びがメインとなっている。
もちろんそれだけではミュージカルは成り立たない。叫びを支える下地の音楽があるからこそ、心地いいものになり飽きがこなくなるのだ。この音楽の抑揚があるから劇が成り立っているといっても過言ではない。
一瞬の静寂があった後、拍手喝采が起きた。スポットライトを浴びているのは火蓮だ。彼を見ると凄まじいオーラを感じた。会場の熱気を火蓮一人で作っているのではないかという考えまで浮かぶくらいにだ。来週で一旦、劇団の指揮を打ち切るためかもしれない。
幕が上がり舞台が始まった。ヒヒの叫びから連鎖して他の動物の叫び声が鳴り始めていく。叫びはやがて一つの歌に変わっていった。少年ライオンの誕生を皆で喜び分かち合おうとする歓喜の歌だ。
暗闇の中から火蓮のタクトが振り落とされる。柔らかい木琴の音がゆっくりとリズムを刻み始める。それと同時に木製のフルートが鳴り始めた。風花の出番だ。フルートの音色は優しく動物の叫びをサポートし深みを出している。
演劇者の叫びが一つに纏まって最高潮に高まった瞬間、幕が一瞬にして再び下がった。
物語のスタートだ。
事故当時の過去を振り返ろうとするが、記憶は蘇らない。やはり事故後の記憶しか残っていないようだ。
再び幕が上がり、少年ライオンが少女ライオンと駆け回るシーンに入った。軽快な音楽で蝶でも舞っているかのような可憐なイメージだ。こういった場所ではフルートの高音が特に合う。
……さすがだな。
耳を傾けながら風花を覗き込む。遠くから見ても見入ってしまう程彼女の指裁きは軽やかで、さらに腕が上がっていると確信する。舞台が始まってからは一辺してプロの顔だった。その姿には大人の色気まで含まれている。
突如舞台が暗くなり、青白い光に染まった。悪役のハイエナ三匹の登場シーンだ。この場面ではオーケストラでは珍しくエレキギターが使われる。
三人のハイエナが不気味に笑い、叫び、ギターの激しいロック調のメロディが舞う中で踊り狂う。この大きな変化がたまらなく一層物語に入り込ませるのだ。
火蓮の方に目をやる。彼は激しくタクトを振りかざして体を大きく揺らしている。その姿には禍々しい煙が漂っていた。
……俺が独占してやる。
突如、心の中に不吉な声が入り込んできた。それはテレパシーのようなもので彼が発したかどうかわからないものだったが、その声は一段と大きくなって自分の中に入っていく。
俺が指揮をやっているんだ。お前にはこの感触を味わうことができない。父親のようにお前は指揮を振ることはできないんだ。お前はそこでただじっと、見ていればいい。
俺が……俺だけがこの空間を支配できる。
火蓮から目を離すことができない。まるで三脚で固定されたビデオカメラのように視点を変えることができなかった。彼の一挙一動に自分の心は大きく揺さぶられていく。
体全体を使って激しい指揮を行っている時には心に熱い溶岩のようなものが流れ込み、針でつくような俊敏な指揮を執っている時には体から酸素が奪われるように苦しくなり、涙を誘うような穏やかな指揮の時には暖かい何かの液体で満たされていく。
……本当に凄い。
唇を噛み締めながら火蓮の動きを見つめ続ける。彼が一度タクトを振るう度に、体が無意識で反応してしまうのだ。体だけでもなく、頭の中でもリズムを取らされている。ゆったりとした椅子にどっぷりと浸かっているのに、体はついつい前のめりになってしまう。
……しかし何なんだ、この感覚は。
体があの舞台に立って指揮を行えと叫んでいた。火蓮のように体を動かせと嘆いている。今までに感じたことのない焦燥感を覚える。
……わからない、この感覚は何なのだろう。
シンバルの音が耳を通り過ぎた後、水樹は突然目が覚めたように我に返った。その音で今までの感覚が嘘のように消えていった。
……何だったんだろう、今の感覚は。火蓮の指揮に夢中になっていただけなのだろうか。
気がつくと劇は第一部を終えており、十分の休憩に入っていた。自分の心を大きく揺さぶるものの正体はわからない。はっきりとわかったのは火蓮の技術が格段に上がっており、悪意に近いものを感じたということだけだ。今まで彼の指揮からはそんな禍々しい感情を感じたことがなかったのに。
第二部が始まっても水樹は演劇者の動きは目に入らず、ただ兄の動きだけを目で追っていた。
4.
いきつけの店のテーブルに座ると、三人とも疲れきった顔をしていた。だが一日の仕事を終えた充実感で満ちている。
全員ビールで乾杯した後、水樹は賞賛の声を送った。
「お疲れ様。美月の生演奏は久しぶりに聞いたけど、やはり素晴しかった。また腕を上げたね」
「君にいわれてもお世辞にしか聞こえないわよ」
美月は小さく手を振った。
「ショパコン(ショパンコンクール)で一位をとった君にいわれてもね」
「ごめん、そういう意味じゃないんだ。本当に素晴らしい演奏だったからさ……」
慌てて抗議すると、美月は肩を震わせながら笑った。
「……本当に変わってないのね、君は。気にしないで、いってみただけだから。水樹の演奏を聞いた後だと、何をいわれても嫌味にしか聞こえないのよ」
「ようやく美月もわかるようになったか」火蓮はにやにやと口元を緩めながらいう。「俺もずっとそう思ってた。子供の頃からずっと一緒にいて、水樹のピアノを聴いてみろ。その辺を走っている暴走族の方がまだ可愛げがある音を鳴らしてくれるよ」
「ありえない」水樹は大きく首を振った。「僕の方が劣等感を持ってるんだ。兄さんは何の楽器をやってもそつなくこなしてきたくせによくいうよ」
「幼い頃だけならな。けれどお前はそのままピアノ一筋で腕を伸ばしただろう? 片や俺は器用貧乏だ。やっぱり音楽をやるものとしちゃ一つに秀でた方がいいよな。アメフトの世界でも同じだが、一人の選手には必ず一つの使命があるんだ。皆それぞれの役割を全うして初めてチームを組むことができる。一つだけ極めた人間が一番強いよ」
火蓮の言葉にたじろぐ。アメフトで例えられても興味がないので何といっていいかわからない。
「そういうのなら、火蓮だって指揮者として優秀じゃない」風花が愚痴を零すようにいう。「あたしの代わりはいくらでもいるわ。皆の才能が羨ましいよ……」
返す言葉が見当たらない。風花の演奏は素晴らしいが、心に残るものがない。それはアクション映画のようで、見ている時は夢中になるのだが、見終わった後には余韻が残らない感じに似ていた。
「そんなこというなよ、俺は風花の演奏が好きだぜ。爽やかなフルートの音色が俺の肌に合うんだ。だからお前の代わりはいない」火蓮が大振りに手を振りながら口を開く。「というか何の話をしているんだ。せっかく久しぶりに会ったんだから、もっと他の話題があるだろう」
「……そうよね、ごめんなさい」美月が頭を下げて周りに謝っている。「私がちょっと水樹の冗談に突っかかったから。水樹、本当におめでとう。素晴しかったわ」
美月の姿に驚きを隠せない。プライドの高い彼女が謝るのは初めてみるからだ。川口がいった通り、欧州の旅が彼女を変えたのかもしれない。
「僕の方こそごめん。ついムキになってしまって……」
「はい、これで仲直りね」風花はお互いの手を合わせていった。「せっかくだから、みんなグラスを開けてもう一回乾杯しましょ」
風花の合図とともにグラスを空にして、皆で同じものを注文した。
「兄さん、なぜ今日集まることにしたんだい? 三人とも疲れているだろう。別の日でもよかっただろうに」
火蓮は待ってましたといわんばかりに、鼻の穴を膨らませた。
「ああ、今日集まって貰ったのは他でもない。年末のコンサートについての相談だ」
「……結局音楽の話題じゃないか」
水樹は軽口を叩いたが、他の二人は口を開けたまま静止していた。まさか、まだ二人には話してなかったのだろうか。
「まあ、いいじゃないか。俺たちにはやっぱりこの話題しかない」火蓮はワインで喉を潤しながら饒舌に語り始めた。「年末に東京でオーケストラの指揮をすることになった。それでこのメンバーの結束を固めたいというわけだ」
「え、どういうことなの、カレン。まさか年末というのは……?」
「ああ、全日本交響楽団からのオファーが来た。そこでそのオケに風花と美月にも出て欲しい。曲はショパンの協奏曲『第一番』だ」火蓮は声を高らかに上げていった。
風花は信じられないといった感じで目を見開いている。美月に到ってはグラスを掴んだまま震えていた。
「兄さん、まだいってなかったの?」
「ああ、お前にいったのが最初だ」
「火蓮、どういうこと。ちゃんと説明してよ」
火蓮は二人を宥めてから説明に入った。その度に二人は相槌を打ち、次々と酒を注文した。完全に彼のペースに乗せられている。
「凄いね、そんなことがあるなんて」と風花。
「カレン、何か後ろめたいことをしたんじゃないでしょうね?」と美月。
「まあ、それに近いものがある可能性は否定できないな」火蓮は大袈裟な手振りを加えながら続ける。「俺だって初めて聞いた時はドッキリだと思ったよ。だけど親父がそこで指揮をとっていたのは知ってるだろう? そこの関係者から連絡が入ったから間違いない。俺のミュージカルの指揮を見てから決めるといっていたんだが、どうやらお気に召して貰えたみたいだ」
父・観音寺海はショパン百九十周年記念コンサートで指揮を振るった音楽家だった。今年でショパンは二百周年を迎える。そこにその子供が指揮を振るというのは宣伝としては抜群にいいだろう。
「ということはあたし達の演奏も聴いてくれていたの?」
「ああ、そうだ。だから心配することはないといったんだ。美月に関しては名前を出しただけで了承してもらった。そして、ピアノに関してはもう証明済みだ」
二人の視線が強く刺さる。だがまだ確実に出るとはいっていない。
水樹がたじろういでいると、火蓮は美月に視線を合わせた。
「お前にはコンサートマスターをして貰う」
「は? 私がコンマス?」美月の視線が火蓮に降り注がれる。「止めてよ。正気なの?あんたは残りの人生、捨てに掛かってるんじゃないの?」
「お前がコンマスを勤めたら指揮者がいなくても成り立つと思ってる」
「馬鹿いわないで。たかだか二十五の私がコンマスをして誰がついてくるというの」
「二十五歳の指揮者の方がよっぽどお笑い草だ」
美月はそれを聞くと、しばらく顔を傾けたまま沈黙した。そしていきなり腹を抱えて笑い始めた。
「……なるほど、身内で固めようっていう作戦なのね。確かにそうじゃないと、誰もついてこないかもしれない。ご年配が権力を持ってしまえば、指揮者なんてただの置物になってしまうものね」
「わかってるじゃないか。つまりそういうことだ。俺一人が指揮者として踏み込んでも、二十人以上の人間を纏めることはできない。しかしだ、ピアノにコンマス、そして高音のフルートが入ればそれだけでも最低限の音楽は成り立つ」
火蓮のいってることは検討外れではない、コンマスのリズムを指揮者が誘導できれば、それはほぼ全ての主導権を掴んだことになる。
そして一般大衆が興味を持つ音といえば高音だ。管楽器の中で一番高いフルートは他の楽器より明確で聞き取りやすい。
そこにほぼ全面に渡って演奏されるピアノが入れば他の者もついて来るしかない。
「そこでだ。俺達は来週の公演で一時小休止だ。今年の残りは全て年末のコンサートに注ぎ込む」
「……ちょっと待って」風花が無表情のまま水樹の顔を覗き込んできた。「水樹はちゃんと参加するんだよね?」
正直迷っている、と風花に伝えたかった。だがこれだけ盛り上がっている中で、自分だけが降りられるわけがない。そのために今日は呼ばれたのだろう。
こうなれば腹を括るしかない。
「……そうだね。参加しようとは思ってた。だけどちゃんと覚悟を決めるよ」
「よっしゃ、よくいった水樹。お前は昔からわかりにくい性格だったからな、やっと肩の力が抜けたよ」
そういって火蓮はさらに赤ワインを注文しようとした。
「……兄さん、この前みたいに飲みすぎたら駄目だよ」
「ああ、わかってる」
火蓮は口だけで頷いたが、ワインを堪能している。「やっぱり日本で飲む方が美味いな。いくらでも飲めてしまう」
「やっぱりそうなんだ。……あたしも行きたかったな、水樹のコンクール」
風花のじと目を遮りながら告げる。
「テレビで見るのと、変わらないよ。ねえ、兄さん?」
「そんなことがあるはずない」
火蓮は大きく手を振った。すでに酔っ払っているようで風花のことを気に掛ける余力は残ってないようだ。
「実際に見た方がいいに決まってる。凄かったぞ、風花。水樹のピアノはまるで海の中に引き込まれるような感覚だった」
火蓮は空咳を交えて続ける。
「ピアノを弾く人間というのは徐々に自分の意識を開放する方が圧倒的に多いんだ。それはやっぱり自我が出たり、練習によって無理やり押さえつけられた人間だと思う。
そんな人間のピアノを聞いてみろ。途端に同情しちまうんだよ、俺は。練習の成果を見て下さい、一日十時間はピアノの練習をしてきました。どう、私のピアノは凄いでしょ? って感じにな。
そういう奴らはピアノを弾いている時にしか音に対する意識がないんだ。そんなピアノを審査員は全て平等に同じ時間、聴かないといけないだぜ。同情という言葉しか浮かばないよ」
火蓮は自分の理論が絶対だといわんばかりにテーブルを両手で叩いた。
「だけどな、水樹の場合は違う。いきなりどっぷりと水の中に入るように意識が持っていかれるんだ。そしてそれは最後まで終わらない。お前のピアノは独奏で最後まで物語を見せてくれるんだよ」
頷く風花。それに合わせて火蓮はさらに饒舌に語る。
「音楽を楽しむ人間なんて一番の目的は、音の世界に入り込むためだろう? 自分を今の世界じゃない所に連れていって貰えるだけでお釣りがくるんだ。それに他の楽器を合わせてみろよ。きっと映像の向こう側まで連れていってくれるだろうさ」
「何よ、そんなピアノの前で私達に演奏をしろといってるの?私達はただの飾りじゃない」美月は肩を揺らして右側の頬を上げて笑った。愛想笑いのように見えるが、彼女の機嫌がいい時に見せる表情だった。「映像の向こう側? 全く、とんだブラコンになったわね」
「ああ、笑いたきゃ笑え。俺は水樹を愛してるんだ。もちろん、風花も美月もそう。皆、愛してる」
火蓮はそういいながら、風花と美月に投げキッスを何度も送っている。
「どうやら、酔っ払いに反論しても時間の無駄なようね」風花は舌を出して火蓮を威嚇している。「何か美味しいデザートでも食べよっと」
「何だよ、人がせっかく真剣に告白しているのによ。そりゃ、ひどいだろう」
そういって火蓮は肩の力を抜いて笑った。風花もそれに合わせて微笑んでいる。
結局、皆で同じデザートを頼み食事を終えることになった。
久しぶりの楽しい夕食は、思い出深い大学生活を蘇らせてくれるようだった。
5.
店の前で美月と別れた後、三人でタクシーに乗った。どうやら彼女は別に行く所があるらしい。ぐでんぐでんに酔っ払っている火蓮をタクシーの中に押し込んで、後ろに三人で座ることにした。
「兄さん、また潰れちゃって。本当に困ったもんだ」
「火蓮も楽しかったんでしょ。あたしもあんなにたくさん笑ったのは久しぶり」
目の端で風花を捉えると、彼女は大きく自分に寄りかかって目を擦っていた。
「そうかもしれないね。四人で会うなんて本当に何年ぶりだろう」
水樹は朦朧とする頭で少しだけ大学時代を振り返ることにした。
――僕らは皆、同じ音大生だった。
風花は幼馴染だが、美月は高校に入ってから知り合いだ。その頃は火蓮もヴァイオリンに専念していたので、二人は意気投合して自分よりも兄妹のように見えて、その仲に羨望を感じていた。
事故で失った両親の代わりに、美月の父親であり医師である・神山明が体と共に進路まで世話してくれたのだ。
四人には音楽家として生き、四人でコンチェルトをする夢があった。火蓮は指揮者になるつもりだったが、最初はヴァイオリン科に入っていた。もちろん大学の学科にも指揮科というものは存在するが、彼はコンマスの気持ちを理解するために入ったといっていた。
四人が夢の舞台でショパンの歴史に名を刻むことができる。そう思うだけで言葉にならない程感情が溢れてくるー―。
「……ちょっと。あたしの話、ちゃんと聞いてる?」
反射的に風花に視線がいく。彼女の目が再び鋭くなっている。
「ごめん、ちょっとぼんやりしてて……。何の話だったっけ?」
「何度もいってるじゃん。そろそろ二人っきりでデートして欲しいんですけど」
……なんだ、そんなことか。
水樹が溜息をつくと、風花の眼がさらに尖った。
「当分お仕事ないんでしょ? あたし、明後日休みだからちゃんと考えておいてね」
「ごめん、明後日は病院に行かないといけないんだ。神山先生に会うのも久しぶりだし長くなるかも」
「じゃあ午後からでもいいわ」
彼女の瞳は揺るがない。返す言葉がなく水樹は頷いた。
「わかったよ。どこがいい?」
「……またそうやってあたしに決めさせようとする。水樹が行きたい所でいいから、ね?」
図書館でもいい? と訊いたら、きっと横で寝ている火蓮共々蹴りを喰らうことになるだろう。
ここは機嫌を損ねないように、肯定しておかなければ。
「わかりました、考えておきます」
「そう、それでよろしい」
そういうと、風花はタクシーの中で得意げに鼻歌を歌いだした。
風花を先に送った後、自宅に到着した水樹は火蓮の左腕を肩にかけて玄関を登った。
……そうだ、薬。
ポーランドでも服用していた薬を二つ取り出す。
「兄さん、これを飲まないと」
「むにゃ、もうこれ以上は飲めません」
「もう、何いってるの」水樹は無理やり火蓮の唇を左手でこじ開けて薬を放り込んだ。「早く飲んで。明後日は定期健診でしょ。ちゃんと飲んでないと、先生に怒られるよ」
火蓮に薬を飲ませた後、自分の口にも含み水で押し込んだ。ポーランドとは違い、軟水が体に勢いよく沁み込んでいく。
飲み込んだ途端、急に眠気が襲ってきた。そのまま彼は火蓮に覆いかぶさるようにして瞼を閉じた。
◇.
「……みずき? 大丈夫?」
目を開けると、横に風花がいた。海風が頬を撫で漣が鼓膜をくすぐっていく。辺りを見回すと、砂浜の上に座って海を見ている所だった。
「……うん。ここは?」
「若松海岸だ」火蓮は砂を握りながらいった。「今頃何をいってるんだよ。一緒に練習をサボってここに来たんだろう?」
彼は砂を何度も掴んでは捨て、砂の感触を楽しんでいるようだった。横にいる風花は貝殻を耳に当てて何かを聞いているようだ。
海の方をぼーっと眺めていると、太陽がちょうど海に沈む所だった。そのまま太陽は綺麗な円を描いて、ゆらゆらと輪郭がぼやかしながら沈んでいく。
突如、痛みを感じ足に目をやると、ふくらはぎがぱんぱんに張っていた。触ってみると、スーパーの安売りの牛肉のように硬まっていた。
「よくここまで来たもんだ」
火蓮がそういうと、風花も黙って頷いた。
後ろを振り返ると背の低い三つの自転車がガードレールにぐったりと寄り掛かっているのが見えた。自転車で二時間も掛けてこの海を見に来たのだとふと思い出す。
再び海の景色に視線を戻す。夕日を浴びて海の色は菫色に染まっており、砂浜と同化していくようだった。水と砂が混じりあい、細かい白砂で出来たキャンパスに波の模様が描かれては消えている。
三人は特に会話をすることなく海をぼんやりと眺めていた。ただ淡々と海を見ているだけで、心が穏やかになっていく。普段と違うことをしているだけで気晴らしになっているのだ。
水樹は目を閉じて再び波の音に耳を傾けると、火蓮が声を上げた。
「……今から自転車で帰るのは面倒だな。これで帰るか」
火蓮のポケットには五千円札が入っていた。
「え……お兄ちゃん、それどこから持ってきたの?」
水樹は怖くなって、火蓮の顔を凝視することができなかった。火蓮が小遣いで持てる額ではない。
「これか? 偶然、ポケットに入ってたんだよ」
水樹は火蓮が掴んである紙を見た。それは新渡戸稲造が映っているものだった。
「いーけないんだ、いけないんだ。せーんせーいにいってやろ」
風花の罵声を受けても火蓮の態度は変わらない。
「なんだ、二人とも体力あるな。じゃあ俺だけタクシーを使って帰ろっと」
自分だって車で帰りたい。だがそれで帰ったら両親の怒りは増してしまう。
「お兄ちゃん、そんなことしたら駄目だよ。いけないことなんだよ」
「もちろん悪いことだってわかっているさ。じゃあ練習をサボってここまで来たことは悪くないのか?」
彼の瞳にたじろぐ。皆、すでに練習をさぼってここまで来ているのだ。ならここで悪いことを重ねても大丈夫かもしれない。
波の音が深くなっていく。漣が桔梗色にまで染まっている。
自然と風花に視線がいった。彼女は倒していた自転車の方に向かっていくようだ。胸を張って火蓮を無視するかのように悠然と歩いていく。
自転車のサドルを掴んで風花はいった。
「あたしはちゃんと自転車で帰るもん。きついけど、ここまで来たのは自分で決めたことだから。ちゃんと最後まで頑張るもん」
風花の視線は水樹を照らしている。太陽の光を浴びて彼女の瞳は茜色に染まっていた。一緒に帰ろうと無言の合図を送ってきてるようだ。沈黙の中、風花の長い黒髪が風に乗って揺らめいていく。
……やはりこれは悪いことだ。
風花の意見に賛同し覚悟を決める。火蓮には悪いが、さらに怒られるのはごめんだ。これ以上悪いことはできない。
「お兄ちゃん、僕も自転車で帰るよ。だって、悪いことをしてさらに悪いことしたら、ピアノが弾けなくなっちゃう」
「……そうか」火蓮は組んでいた腕を放し背伸びした。「ならしょうがないな。お前達二人じゃ夜道は危険だから、俺がついていかないとな」
そういって火蓮は手に持っていた紙をびりびりと音を立てて破った。
「何も破らなくてもいいじゃないか。そのまま返したらいいのに」
水樹がそういうと、火蓮はわははと大きく笑った。
「やっぱりみずきは甘ちゃんだな。一芝居打ってよかった」
そういうと火蓮は破った切れ端を水樹に見せた。それはお金ではなくただの古い新聞紙だった。
「え、まさか、お兄ちゃん……」
「ああ、お金なんて初めから持って来てないよ。お前が駄々をこねると思ったから、はっぱを掛けたんだ」
風花もびっくりしているようで、手に掴んでいる自転車が揺らめていた。彼に何かいおうと口をすぼめているがそれは言葉にならず、自転車のベルを鳴らすだけに留まった。
彼女のベルを皮切りに三人は自転車を漕ぎ始めた。暗い夜道を走っていると、しばらくして風花が泣き出した。どうやら恐怖に駆られてペダルを漕ぐことができないらしい。
その場で自転車を乗り捨てた火蓮は風花を慰め始めた。それでも彼女は泣き止まない。自分も次第に不安が強くなっていく。
しばらく風花の相手をしていた火蓮は再び自転車に乗った。
「みずき、お前もここにいろ。俺が誰か連れてくる」
不安の色がさらに増す。火蓮がいるから、ここまで来れたのだ。風花と二人っきりでいることの方が怖い。
「大丈夫だ。お前達は俺が守る。だからもう少しだけ辛抱しててくれ。必ず戻ってくる」
火蓮が走り出してから辺りは真っ暗になった。風花を慰めようと近寄るが、彼女は頭を垂らしたまま動かなかった。そのまま彼女に寄り添う形で留まった。
どれくらい時間が経ったかわからないが、一台の車のライトが水樹の目を刺激した。目を細めながら車を眺めていると、火蓮が車の中から降りてきた。
「遅くなったな」
「……兄ちゃん」
よく見ると赤いテールランプの点いたパトカーだった。助かったと水樹は肩の力を抜いた。
三人ともパトカーに乗り込み、交番で降りた後、それぞれの両親が待ち構えていた。怒鳴り声を上げるかなと身構えていたが、彼らは涙声になっていた。
だが家に着いた途端、母親にこってりと絞られた。何をいっているのか、わからないほどの剣幕で怒られ、父親は黙って聞き役に徹していた。
母親の怒りがおさまった後、父親はこっそり水樹たちを呼び出した。何をしてきたか純粋に知りたかったようだ。海を見にいったというと、それはいいと満面の笑みを見せてくれた。
父親は自分の名前の由来を語り、音楽をする時のイメージはいつも海から得ているといった。
水樹は嬉しくなり、父親と同じものを共有できていると思うと、いっそう海が好きになった。
再び波の音を思い返す。夕日に輝いた波の音が耳にこびりついているようで離れなかった。
また行きたいな、という思いがすでに膨らんでいた。
気がつくと赤いシーツが目に入った。回りを見渡すと、アメリカンフットボールのDVDやヴァイオリンの楽譜など自分のものではないものが部屋に散らかっていた。
……自分の部屋じゃないのか。
水樹は足を振り上げて体を起こした。妙に体が重い。昨日飲みすぎたせいだろうか?
いつもは難なく通れる扉に頭を打つ。やはり飲みすぎたようだ。体が自由に動かない。
部屋の扉を開けると、火蓮の部屋だということがわかった。恐らく昨日、間違えて彼の部屋で寝てしまったのだろう。
頭がガンガンと鳴り響き眩暈がする。酒はこりごりだと思いながらも、飲んでしまう自分を呪いたくなった。とりあえず冷たい水で顔を洗おう。
……昨日の夢は何だったんだろう。
それにしても綺麗な海だったな、と思い返す。あれほど綺麗だった景色は今まで見た覚えがない。
洗面台の上に立つと、見慣れた顔があった。思わず後ろを振り返ったが誰もいなかった。
……ん?どういうことだろう?
再び鏡を見ても、自分の顔はない。どうして自分の顔が映ってないのだろう。
照明を点けて確認するが、そこにはやはり火蓮の顔しか映っていなかった。