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匙加減

作者: 長嵜 景和

 彼が家に何とかたどり着きベッドの上に倒れこむようにして眠りについたのは、すっかり日付が変わった後のことだった。口元からほんのりアルコールの芳香を漏らしながら、チークを塗ったような目は閉じられている。律儀にも、ネクタイピンさえ身につけたままなので細身のスーツもさぞ迷惑そうに皺を寄せていた、そんな夜のことである。本来なら彼の横には妻が上下する胸の上で両手を組んだまま眠っているのだが、今日はそうではなかった。もっとも彼はそんなことさえ気づかない。つまりもたらされた眠りは彼を、(体は軽く覚醒したままなのに対して)意識という点では深いふかいところに沈めた。

 夢は、ふと水面下で息継ぎをしたような間にも消え失せたり、彼が戻ってくるのを待っていてくれたり、また前後不覚、脈絡を失って男に降り注いでくる場合もあった。元々夢見がいいのは普段から彼が夢想家だからだろうか。それとも空想をしているということで、社会でも生きていけるための自我形成に対する、エクスキューズとしているからなのか。ともかく、この日の夢はわけても多彩で、色鮮やかで、現実味を帯びた空想と言ってもいいものだった。一方で、その夢は彼の心に投影するには若干重すぎるものでもあり、暗喩に富んだものでもあった。

 その一つがジャムの夢だった。始まりは爽やかな風が吹き抜ける朝の食卓で、その前の夢(ギロチンにかけられた小太りの男を、最前列で見守っていた。喉仏がギロチンを受け入れようとした瞬間に意識が暗転した)のことを忘れられそうだった。白地に、緑色の葉がぽつぽつと模様づけされたマグカップからは湯気がたちこめている。皿の上にはこんがりとした焦げ目つきのトーストが一枚半と、添えられているのはスクランブルドエッグ。固まりきっておらず、流れた卵液がトーストを湿らせた。なんてことはない、彼の普段の朝食だ。彼はほっとした心地でおはよう、と台所に立つ妻に声をかけて食卓につきつつ、もう夢から醒めたのかなどと思った。あまりに日常の光景で、自然な時間の流れで現れたものだったからだ(次の瞬間、うっかり彼はコーヒーを手一杯に浴びたのだが何の痛さも、熱さも感じなかった。自分がまだ夢の中にいるのだとこの時確信できた)。おはよう。妻は彼の方を向かず包丁で何かを刻んでいた。ジャムが切れてたから新しいの買ってきたの。オレンジはなかったから別のものだけど、我慢してね。机の真ん中にあった瓶の中身は黒く、ビーズほどの大きさで潰れた果肉も浮かんでいた。ベリーの類か、あるいはあんこか、いずれにせよ新鮮な風味を思うと唾液が口の中を潤した。瓶に立てかけられていたスプーンですくってみると見た目よりべたっとこびりつき、持ち上げてみると糸をひくようでなかなか切れない。崩れた果実にはへたと思しきものが残っており、まるで瞳のようなそれが自分を見ている気がしてたまらず、むずむずと足を揺すってしまう。もう一度コーヒーを手の甲にかけてみたが、蛇口から流れ出る水がかかったのと変わりはない。一呼吸入れてその果肉つきジャムを、スプーンもろともトーストに押しつけた。焼けた表面とスプーンの滑らかな銀メッキがこすれる音と手に伝う感触。続けば続くほど暗い色に塗りたくられるトーストを、まったく塗りつぶし終わると迷うそぶりも見せずに口にした。舌の上に香ばしい小麦の風味が広がり、その上をなぞるようにジャムが彼の味覚を刺激する。刺激した。思いのほか弾力があり口蓋と舌で噛むようにすると味が染みだしてきた。染みだしてきて、彼は嘔吐した。胃からの酸味が口いっぱいにあふれた。だがジャムを味わった時もこれと同じ酸っぱさを感じた。昨晩飲み過ぎたせいか、胃の表皮と思しき肉片までテーブルクロスの上に落ちた。だがこれも暗い物体の中で溶けていた果肉とも皮と同じ味がしたように思える。

 結局これは何なんだ。妻が包丁でたたくのを止めたので、随分静かになった。時々彼がむせぶ音がするだけだ。心の味だって、面白そうだから買ってみたの。――ねえどうだった、濃厚な甘さが口裏の粘膜まで粘りつくのかしら、それとも喉を洗ってしまうほどきつい酸味がするのかしら。ねえ、どんな味わいだった? 彼に出来た精いっぱいのことは俯いて、皿の前に溜まった血が滲んだ褐色の(先ほどまでは何色だっただろうか)ぐずぐずとした吐しゃ物を見つめることだった。吐き出すことも味わいの一つなんだ、そんな苦し紛れの答えも彼はすることなく、唇を震わしていた。


朝が来た。


 彼はまず自分の身なりに驚いたようだ。すっかりよれたスーツのジャケットを洗濯かごに放りこんで顔を洗った。あくびを幾度とすると顎のあたりから関節が音をたてた。少しの痛さに、自分は今改めて起床したのだと自覚した。居間に行くと珍しく妻が先に座っていた。おはよう、昨日は夜中に帰って来たの。元々繊細で病弱な顔立ちをしている妻だが、この日は特に笑顔に力がなく思えた。特に目元、隈ができているだけではない、もっとぼんやりとした暗さを、笑顔に封したような。すまないな、何も連絡しなくて。いいのよ、十一時をまわったぐらいでもう諦めたもの――諦めた? いいえ、何でもないわ。さあ、食べましょう。妻はそう言って黄色がかった橙色のジェルが詰まった瓶を振った。昨晩作っていたの、初めてだけどなかなかの出来栄えだと思う。彼はほっとした思いで瓶を受け取るとスプーンで一すくい、今日二度目のトーストに塗りつける。口に含んでみると、蜜柑をはちみつ漬けしたもので爽快感のある甘さが彼の心持を軽くさせた。今日もきっといい一日になるのだろう。妻は彼が美味しそうにトーストを食べるのをにこやかに見つめていたが、ふと立ち上がって台所へと向かった。目が彼から隠れるかどうか、その角度で一度動きを止めた。

 今日、記念日なのよね。

 そう言うと流しで洗い物を始めた。彼は皿を見つめた――ちょうど夢と同じように。だがそこにはこぼれたパン屑しか残っていなかった。吐き出すには彼の嗜好に合いすぎていたようだった。そこで彼は、堪忍した面持ちでジャムをすくったスプーンでコーヒーをかき混ぜると一息に飲みほした。正夢ほどたちの悪いものはないというのにというぼやきを、妻は聞いたのかどうかよく分からない。


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