一章 亡霊の蔵
居間のちゃぶ台に養父への書き置きをし、玄関を施錠。築ウン十年のボロアパートの階段を降り、待ち合わせの公園へ向かう。太陽は没し、空は既に茜を過ぎて濃い紫色だ。通りも薄暗く、街灯が点き始めていた。
(あいつ、大丈夫かな……)
去年の夏、環紗の商店街の喫茶店で暴行事件が起こった。被害者はそこで屯していた同じ学校の中等部の不良共。そして―――加害者はあの柚芽だ。未だに自分の見た光景が信じられない。
ガシャァンッッ!!!
カラッと晴れた午後だった。投げ飛ばされた男子学生が硝子を突き破り、買い物袋を提げた俺の目の前に落っこちてきたのだ。吃驚した拍子に、危うく袋を落として買ったばかりの卵を潰しかけた。
着崩したYシャツのボタンは凄まじい力で千切られ、あちこちベッタリと血が付いていた。が、顔中ボコボコにされた本人に比べれば屁でもない被害だ。
キィッ……。『た、助けて……』『わっ!!』
折れた片手足を引き摺りながら出て来た不良女学生は、そう呻いたのを最後にうつ伏せで倒れた。どうやら気絶したようだ。が、先輩を介抱する時間は無かった。―――暴力の元凶、見覚えのある同級生が出て来たせいだ。
『起きろ、この卑怯者共!まだお姉ちゃんに謝るって約束してないでしょう!?』
蹴飛ばされた拍子に女学生の脛がボキッ!えらく小気味良く折れた。その激痛に跳ね起き、絶叫。
『嫌、いやっ!!来ないで化物!!!』
『誰がよ!謝りなさいお姉ちゃんに!!虐めてごめんなさいって!!不登校にさせてごめんなさいって!!!』
振り上げた拳が店の壁に激突し、半径一メートルの煉瓦がガラガラと崩れた。―――人間、の仕業じゃねえ。こいつは、先輩の言う通り、
『分かった!皆で家に行って理南に土下座する!だからこれ以上痛い事しないで、お願い!!』
その手足じゃ無理だろ、と突っ込む気にもなれない程必死に頼む。
『嘘じゃないでしょうね?』
『うん!だから早く救急車を呼んで―――あ、そこの人!助けて!!』
離れていた俺に気付き、女は声を荒げる。
『この頭のおかしい女が、突然店にやって来て暴力を』ガンッ!!『ぎゃあっ!!』
『嘘吐き。一回死ねば?』
『おい、止めろ!!』
必殺の踵落としに、俺はとうとう当事者として飛び込んだ。蹴られた腹を抱えて呻く先輩との間に割って入り、変化を解いた腕で一撃を受け止める。
ガキィンッ!!『ぐっ!?』
人間いや、同じ龍族ですらこんな馬鹿力はまず出せない。ヤバい!俺が逆に殺される―――!!
(今思い出してもゾッとしねえな……)
あの後痛みと恐怖で失神したらしく、気付いたら病院のベッドだった。隣には大家から聞いて駆け付けた養父が心配そうな顔で座っていた。
『危なかったな庚。お前以外は全員重傷らしいぞ』
腕は折れてこそいないものの、レントゲンを撮るとバッチリ罅が入っていた。鉄に近い硬度を持つ龍族の鱗を突き破る衝撃とか有り得ねえ―――と、回想している間に無事到着。公園の時計は六時五分前を指している。
「やっと来たな。お前が最後だぞ」
しかし予想に反し、待ち合わせ場所には俺と境と後一人しかいなかった。しかもそれはついさっきまで突き合わせていた顔で。
「柚芽」
憮然とした表情。いつも学校で着ているブラウスとパンツでなく、大きな出目金の描かれた青の浴衣。普段ストイックなだけに、年相応の可愛い格好は新鮮だった。
「人数も揃った事だし行くぞ。庚、お前先頭な。俺は柚芽をエスコートするからよ」
粗野な笑みを浮かべ、掴もうとした肩は既に無い。
「さっさと終わらせるわよ」
怒気をありったけ含ませて耳元で囁き、問答無用で俺の腕を引く。
「馬鹿らしいって言ってたのに、何で来たんだ?ってか親にはどう言って出て来たんだよ?あとその浴衣」
「親は姉さんと外出中で、もうしばらくは帰って来ないわ。で、これは私服。うちでは基本的に浴衣か着物しか着ないの」
「へえ。似合うな、そう言うの。学校でも着てくればいいのに」
素直にそう褒めると、何故か鳩が豆鉄砲食らったような顔をされた。
「本当に……?社交辞令なら怒るわよ」
「何で俺がお前相手に世辞を言わなきゃいけないんだよ。ほら、学校の時はいっつもシャツの一番上のボタンまでピッチリ閉めているだろ。今の方が首元楽そうだし、授業中机に向かうのも」
「そう、ね……気が向いたら」
ドンッ!いきなり背中をドツかれ、前のめりに倒れかけた。勿論犯人は一人しかいない。
「柚芽、先に行ったらこわーい幽霊に襲われちまうぞ?ほら、俺の後ろに」
「………」
当然本人は無視。っつうか拙い。握り締めた拳が今にもそのゴリラ面を粉砕しそうだ。
「つれねえな。ま、そこがいいんだが」暢気な奴め!
骨董屋の裏門から敷地内に不法侵入。目的の蔵はすぐ見つかった(と言うより蔵自体が一つしかなかった。奥にも建物はあるが、佇まいから言って恐らく離れだろう)。扉に付いた南京錠は掛け忘れたのか外れている。中には誰もいないらしく、天窓から光は漏れていない。
「おい庚。お前一人で入れ」
「何でだよ?折角ここまで来たのに」
「もし凶暴な幽霊がいて、か弱い柚芽が怪我したら困るだろ?その点丈夫だけが取り柄のお前なら心配無い」
(祟りに身体の硬さなんて関係無いだろ……)
こいつ、正真正銘の低能だ。柚芽の言う通り速攻転校させるべき。
「そんなに危険なのか?殺人事件の被害者の霊なんだろ。襲ってくるとは思えない」
「俺達を犯人と勘違いして復讐してくるかもしれねえだろ?」子供相手に?お前じゃあるまいし。「俺は慎重な男なんだよ。つべこべ言わずとっとと行け」
境はどうでもいいが、柚芽はあれで一応女子だ。もう辺りはすっかり暗く、早く家へ帰してやりたい。俺は渋々OKした。
「分かった。呼んだら来いよ」
「おう」
絶対来ないな。ニヤニヤしっ放しの奴に対し、才女は浴衣の帯の上で指を叩き続けている。早く帰って来ないと本気で暴発物だ。正直、お化けよりリアルの血達磨の方が百倍怖い。
「失礼しまーす……」ガラガラガラ……「っ!!?」
いないと思っていた所に人がいた、しかも二人。
従業員らしきオッサン達は明かりの行燈を中央に置いたまま、木箱を移動させる作業中だった。こちらに気付いて振り返る。
「ん?何だ僕?何処の家の子だ?」
「もう夜だ。早く帰らねえと親御さんが心配すっぞ?」
オッサン達の足はちゃんとある。何だ、普通に使われているじゃないかこの蔵。
「す、済みません。お仕事の邪魔して」素直に頭を下げ、心から謝罪の意を示す。「俺、帰ります」
「まあ待てや僕」
「そう急いで出て行かなくても、別に怒ったりしねえよ」
踵を返そうとした俺を、何故か彼等は呼び止めた。
「折角来たんだ。一個用事をしてくれないか」
「は、はい。何でしょう?」
「悪いがこいつを玄関の郵便受けにこっそり入れておいてくれ。俺達はもう仕舞うからよ」
そう言って黄ばみかけた分厚いアルバムを手渡す。
「何で俺が?オッサン達ここの店員だろ。自分で返しに行けばいいじゃん」
「不法侵入に目を瞑る見返りだ。とっ捕まって警察に補導されたくないだろ、な?」
くっ、流石に見抜かれてたか……境の糞野郎はともかく、俺を心配して家を出て来た柚芽に迷惑を掛ける訳にはいかない。ここは素直に従うしかないな。
「分かった、お安い御用だ」
「頭の回転の速い僕だ。将来有望だぞ。じゃ頼む」
そう言って二人のオッサンは再び木箱の移動を開始した。この隙にとっとと逃げよう。
蔵を出ると、二人は数メートル離れた塀の下にいた。勿論互いの距離は取られている。そりゃそうだ。幾ら惚れてても、あんな殺気立った女においそれと近寄れるか。
「おう、どうだった?いたか?」
「ああいたさ、従業員のオッサンが二人。幽霊なんて影も形も無かったぞ」
「そいつは残念だ」全然残念でなさそうに言い、それから俺の手元を覗き込んだ。「おい、そいつは何だ?」
「郵便受けに突っ込んでから帰れってさ。ったく、大人って汚ねえ……柚芽、どうした?」
真っ青な顔をした彼女は、両腕を組んでガタガタ歯を鳴らしていた。
「どうした、具合悪いのか?」
「う、ううん……ただ、さっきから寒気が……」
「大丈夫か?俺が温めて」
スカッ。気持ち良く境の腕を避け、俺の手を引く。
「早く返して帰りましょう。寒いの、特にこの蔵の前。感じない?」
紫色の唇を震わせながら尋ねる。
「下、ちゃんと着てこなかったからだろ。今夜は冷えるってテレビでも言ってたぞ」
「うち観ないの。姉さんが怖がるから」ブルブル。「ねえ、本当に何もいなかったの?」
「ああ、片付け中のオッサン達だけだ。火の玉一つ飛んで―――」