7色のムース
前作「愛のチョコレート」の続編です。
「店を辞めるってどういうことだ?」
拓斗がナイフを持った手を止め、店長の言葉に声を上げた。店長が申し訳なさそうに、テーブルの傍で体を縮めている。一緒に食事をしていた美奈も、目を見張って手を止めた。
「山野がどうしても…。いろんなところで修業したいという事で…」
「……」
拓斗は音を立ててナイフとフォークを置き、グラスの赤ワインを飲み干した。
ボーイが慌てるように、その空のグラスにワインを注いだ。拓斗がいらだたしげに言った。
「山野君をここへ呼んで。」
「はっはい!」
美奈は、初めて見る拓斗の不機嫌な様子に驚いていた。
しばらくして、達也が店長に連れられて現れた。
「山野君…」
拓斗が赤ワインを一口飲んでから言った。
「辞めたいそうだが、うちではもう修行する必要はないということか?」
「いえ…そういうわけでは…」
「じゃぁ、どうして1ヶ月も経っていないのに、他のところで修業したいなんて言うんだ?」
「……」
店長が、客が入って来たのを見て、慌てて言った。
「拓斗様…申し訳ありませんが、このお話はまた別の日に本店の方で…。お客様がいらっしゃいましたので…」
「…わかった…」
拓斗は苦虫をつぶしたような顔をして、またワインを飲み干した。
……
(達也が辞めるのは…私のせいかしら…?)
美奈はそう思った。…自意識過剰なのかもしれない。だが、全く関係ないとも思えない。
達也とは、あれから全く連絡は取り合うことはない。
だが週に1回、必ず拓斗とあの店で食事する。達也は、毎回新しい細工のスイーツを作り、拓斗を驚かせ満足させていた。拓斗は必ずテーブルに達也を呼び、賞賛の言葉を掛けた。その度に、美奈と達也は顔を合わせることになる。
(それが嫌になったんだわ…きっと)
美奈はそう思った。
……
翌週、拓斗から「今日は仕事で会えない」と言うメールが来た。美奈はがっかりしながらも、承諾のメールを返信した。
…だが、美奈の気持ちは複雑なままだ。
自分の勘違いで別れてしまった達也への想いが、再び湧きあがっているのは確かだ。
こんな気持ちのまま、拓斗と結婚していいのかと、美奈はずっと悩み続けていた。
それでも、恋人として申し分ない拓斗と別れることはできなかった。
…美奈が自分を責める日が続いた。
……
翌週-
美奈が大学の食堂に行くと、拓斗が座っているのが見えた。美奈はとっさに拓斗に近づこうとしたが、1人の女子学生が、拓斗に親しげな笑顔を見せて隣に座ったのを見て、思わず立ち止まった。
拓斗はにこやかにその女性と話している。
(同期生の人かな…)
美奈はそう思い、その場から離れた。
…その日の講義がすべて終わり、美奈は校門に向かった。すると、拓斗が食堂で話していた女子学生と腕を組んで歩く姿が見えた。
「!!」
美奈は驚いて、駆け出していた。だが、拓斗は何も気づかない様子で、女子学生と腕を組んだまま校門を出て行った。美奈はその2人の後姿を、ただぼんやりと見ているしかなかった。
……
美奈は夜になってから、拓斗にメールを出した。
「今日、腕を組んで歩いていた女の人は誰ですか?」
しばらくして返事が返ってきた。
「新しい、花嫁候補だよ。」
美奈は目を見開いた。そして、すぐに拓斗の電話番号を表示し、電話を掛けた。
拓斗が出た。
「もしもし?今、ちょっと食事中なんだけど…」
「すぐに終わります。…新しい花嫁候補ってどういうことですか?」
「ごめん、言えなかったんだけど…家の決まりでさ、長男は自分で妻になる人を選べないんだ。」
「!?」
「最終的に決めるのは父さんなんだけど、来年までに花嫁候補を5人探しておかなきゃならないんだよ。」
「…!…」
「君はそのうちの1人というわけだ。」
「…そんな…」
「ごめん、また電話するよ。」
…一方的に電話が切られた。
……
翌夕、美奈は拓斗と喫茶店にいた。
「君で4人目なんだ。彼女は最後の1人。」
拓斗は悪びれる様子もなく、コーヒーを飲みながら言った。
美奈はうつむいたまま、体を震わせていた。拓斗はコーヒーカップを置きながら続けた。
「…仕方ないだろう?それがうちのやり方なんだから。俺だって、最初父さんから言われた時は驚いたよ。でも父さんだって、そうやって母さんと結婚したんだ。」
「…どうしてそれを最初に言ってくれなかったんですか?」
「言ったら…つきあってくれないと思って。」
「!…」
「俺が本当に好きなのは、美奈だけなんだ。だけど父さんの手前、花嫁候補として他の子と付き合っているように見せなきゃならない。それだけは信じて欲しい。」
「……」
美奈は、顔を上げないまま言った。
「…私、抜けさせていただきます。」
「え?」
「候補から外して下さい。」
「え?どういうこと?」
「だから、別れてってこと!」
美奈はそう涙声で叫ぶと立ち上がり、足早に喫茶店を出た。…拓斗は追いかけて来なかった。
……
「何よ、人を物みたいに!本当に好きなのは私だけなんて…信じられるわけないじゃないの!!」
美奈は、雨の中を泣きながら歩いていた。
「達也…」
美奈は思わずそう呟いた。…脳裏に達也の笑顔が浮かんだ。
「達也…達也…」
美奈は泣きながら、何度もそう呟いた。
……
自室に帰った美奈は、濡れた体のまま携帯電話を取り出し、開いた。
達也の電話番号は、最後に掛かってきた時に登録し直していた。…だが、自分から掛けることはできなかった。…今日までは…。
美奈はしばらくためらったのち、達也の電話番号を表示し受話ボタンを押した。
呼び出し音が響いた。
『…ただ今、電波の届かないところに…』
そのアナウンスに、美奈は電話を切った。そして携帯電話を握りしめて、涙をこぼした。
「…達也…」
拓斗と別れてすぐに達也に電話するなんて事は、自分でも勝手だとはわかっている。だが、達也に会いたいという気持ちが抑えきれなかった。
しばらくして、電話が鳴った。慌てて開くと「達也」と表示されていた。
美奈は震える指で受話ボタンを押した。
「達也!」
「…美奈…どうした?」
達也のその優しい声に、美奈は泣き出してしまった。
……
「…そうか…拓斗さん、正直に言ったんだ。」
よく待ち合わせていた公園のベンチに座りながら、達也が言った。隣に座った美奈は驚いて達也を見た。
「達也、知ってたの!?」
達也はうなずいた。
「拓斗さん、毎日じゃないけど…曜日ごとに違う女性をあの店に連れてきてたんだ。それも毎回「俺の花嫁候補だ」と言ってさ…。…俺、それを美奈に言おうと思ったけど…美奈が俺の言う事を信じてくれる自信なかったし、拓斗さんが美奈を選べば、何も知らずに済むだろうから…って言わないでいた…」
「…!…」
「あのお店を辞めるって決めたのは…拓斗さんを信じきっている美奈を見ているのが辛かったからなんだ…。」
「…!…達也…」
達也はおもむろに、箱を美奈に差し出した。
「…これさ…新しいスイーツ」
「え?」
美奈は目を見張って、その箱を受け取った。
「開けてみて。」
「…うん…」
美奈は箱を開いた。7色のムースが重ねられたカップが入っていた。
「きれい!」
美奈が顔を輝かせたのを見て、達也は微笑んだ。
「それ…あの店での最後の作品。今日で辞めたんだ。」
「え?そうなの?」
「拓斗さんが必死に引きとめてくれたけど…。美奈の事だけじゃなくて俺…1つの店の個性だけに固まるのが嫌だと思って…。」
美奈はうなずいた。
「その達也の考え…いいと思う。」
「ありがとう。」
達也は美奈に微笑んだ。だがすぐに真顔になってうつむいた。
「…でも…こんなことしてたら俺…いつまで経っても、美奈にプロポーズできないよな。」
「!?…達也…」
「拓斗さんと別れた事を聞いてすぐに…こんなこと言うの卑怯だとは思うけど…。でも俺…美奈ともう1度やり直したい。」
「!…」
達也は、真剣な表情で美奈を見た。
「俺…美奈と別れて、本当に美奈の事が好きだったんだって気づいた。」
「!」
美奈のカップを持つ手が震えた。達也はその手に、自分の手を添えて言った。
「…もう1度、俺とやり直して欲しい。これからは怒らせたりしないから…。」
「達也…」
美奈の目から、涙があふれ出た。達也が続けた。
「ちゃんと美奈の事…1番に考えるようにするから…」
「……」
「だから…もう1度、俺にチャンス…くれる?」
「達也!」
美奈はカップを落として、達也の首に両腕を回して抱きしめた。達也の腕がそっと美奈の体に巻きついた。美奈が泣きながら言った。
「…私から謝ろうと思ったのに…先に謝られちゃった…」
達也が小さく笑った。そして、美奈を抱く腕の力をそっと抜いた。
美奈は両腕を下ろし、達也を見上げた。
達也が目を伏せて顔を傾けた。美奈の唇をぬくもりが覆った。
(終)