罠―the trap―
“chocolate”
女なら誰もが好む甘味。私は|orange peel《オレンジの皮》入りが好物。
“ガウン”
寝巻きのことね。私はいつも風呂上りはこれだ。
“ワイン”
私の大好物、生きる原動力。んでもってヒュー家の資産源の八割くらいを占めている農産加工品。
幼かった頃のことを思いす。当時のヒュー家は、本家と分家で内部分裂があり、内乱の危機に晒されていたこと、よく憶えてる。
私と直属の上司でありヒュー家の現当主であるシェン・チャールズ・ヒューは、互いにヒュー家の分家の生まれ。私の父上は分家の中でも本家への反発が酷い派閥の筆頭で、シェンの父上は当時、ヒュー家内部分裂の最後の柱だったと聞いている。本家と分家の橋渡しをしていたわけ。それで、私たちの父親二人はよく会う機会があったから、必然的に私とシェンも遊ぶ機会が多くなった。
自宅兼所属事務所であるヒュー家の屋敷から見える、ロンドンの夜景を眺めながらワインを舌の上で転がす。最高の夜ね。例え仕事が失敗しちゃった日でも、最高のメンタルコンディションに戻す事ができる、私のおまじないだ。
シェンの奴、怒らなかったなぁ。
「――というわけ。依頼は失敗したわ。……悪いわね」
「そうか。相手が堅気じゃないなら、夕闇さんに任せた方が良かったかな。とにかく、よく戻った」
王子様のように美しい上司の眉根をが寄せてられていたのを思い出す。何だかんだいって、あの若い現当主様もストレスが溜まってるのだろう。そのストレスをまた増やしてしまったにもかかわらず、人事のように思えてしまう私はやっぱりただのヴィッチーかもね。
「でどうすんの? この仕事ミチルに譲る? それともこのまま君が殺るの、ジャン?」
ミチルってのは、ダスクのファースト・ネームだ。本名使ってくるときのコイツは、本気だ。この依頼すぐにでも殺り遂げないといけないってことか。次は失敗が許されないみたい。――逃げてしまおうか? 一瞬そんな甘美な誘惑がよぎった。でも。私は口元を引き上げて、これでもかってくらい不敵な笑みを浮かべた。
「いいえ、譲る気はない。あの男には返さなきゃいけない借りができたのよ。――私のお尻は高いんだから」
「……尻?」
ボソッと呟いた言葉を不思議そうな表情で考え込むシェンは放っておいた。受けたセクハラの話を男の上司にしても、意味なんてないしね。
一人きりの回想タイムに浸っていると、自室のtelephoneが鳴り響く。相変わらず興の覚める音だわ。まあ他の貴族たちみたいに一々メイドやら執事やらが来ないのは良いことだと思うけれど。数回ベルが鳴るのを待って、受話器に手を伸ばした。
「ハロー?ミスター。あなたがまさか、夜景をお楽しみ中のレディの邪魔をするgentだなんて思ってもまなかったわ?」
誰からのcallかもわからないのに、随分高圧的なことですって? ふふ、ベル音が用途ごとに分けてあるから、誰からの電話であるかはすぐにわかるの。因みにこのベル音は、シェンの執務室専用。でもどうやら今度からは向こうの声を確かめてから反応したほうが良さそうね。電話の向こうから聞こえてきた声は、シェン本人の声じゃなかったみたいだ。相手の、その鈴のような声が少し震えちゃってかわいそうな気がした。
「そう、なのか?……すまなかった。僕は夜景を楽しむなんて高等な趣味を持ち合わせていないから……」
この声は、ミチルね。あちゃー、落ち込ませちゃったかしら。でも彼女が電話で連絡をくれるのは初めてだったから、正直ちょっとビックリ。5年越しの友人をこれ以上落ち込ませないためにも、なるだけ優しい声で答えてあげなくてはね?
「その声は、ミチル? やぁだ何故? 私てっきりシェンからだとばかり思っていたのよ。じゃあないと私があなたにこんな口、利くわけないじゃないの」
自分でも驚くほど動揺していた。それだけこの友人は私にとって大事な存在なんだろうと思う。本当は結構冷静なつもりなんだけど。何せあの私の大切な仕事仲間は、大変純粋な心の持ち主。これだけ弁解したってきっとフォローにはならないのだから。
「ジャン、でも僕がお楽しみを邪魔したのは間違いないよ。それは謝る」
電話越しなのに、まるで叱られた犬みたいに頭を垂れている姿が思い浮かぶようだ。ああもう。またこの子は私に気を遣って!!
「私達友達でしょ?友達って、許し合える関係だと思うわ」
表情なんて見えないってわかってるけど、自然に頬が緩む。このダスクに出会った頃、彼女は殺し屋という存在である自分を攻めてばかりで人付き合いなんて全くしていなかった。多少不器用なくらいなんてことはない。友達になった今だって、ダスクが私を気遣ってくれるのは嬉しい。でも、
「良くて、ミチル。“Courtesy should be exercised even among intimate friends.(親しき仲にも礼儀あり)”、それは間違ってないと思うの。でも、私たちそろそろ腹を割って話せるようになりたいと、そう思うのは私だけなのかしら?」
電話の向こうで、ハッとしたような息遣いがされるのを感じた。うん、わかってくれたみたい。
「ええと、ごめんなさい。僕、友達なんて出来たのジャンが初めだから」
「いいのよ」
面倒さを我慢してでも、彼女とは友達でいたいと思ってる。互いのよきライバルで、よき理解者でそして、上司であるシェンの恋人だもの。
「それで、あなたが電話で連絡してくるなんて、何か急ぎの用かしら?」
ミチルの方から連絡があるときは、私たちが仕事で使用し、いつも肌身離さず持ち歩いている左耳の飾りのような獄小端末、マイクロ・オーエスにメールが届くことがほとんどだった。
「時代の最新機器より電話を選ぶなんて、相変わらず古い物好きね~」
人をからかうのって嫌いじゃないわ。とくにミチルは素直だからからかい甲斐があって面白い。
「いや、今回はそうじゃないんだ」
あら、思いのほか真面目なオハナシ? 私の話は軽くスルーされた。
「今度から、暇なときシェンの手伝いでもしようかなって。ほら、アイツすっごい働くじゃん。止めても無駄だから、せめて僕が役に立てたらなーと思ってね。それで、シェンから君への言付けを預かってるんだけど」
現時点で最強と言われる殺し屋が、恋人のために電話番してるなんて知ったら、みんなきっとビックリしてひっくり返るわね。
「そりゃ随分と可愛らしい理由ね。ええ、聞くわ。どうぞ」
貴族のお偉いじいさまがたがひっくり返るさまを想像しちまったじゃないの。笑いを必死にこらえながら応える。
「本日の貴族会合にボディーガードとして同行せよ。だたし、ヒュー家の人間として恥ずかしくない服装で」
「ありゃ。そんなの、アナタを連れてきゃいいのにねぇ」
因みにこれはからかってるわけじゃなくて、本心よ。これまでは確かに、そうしていたのに。ダスクが外せない仕事でもあるのかしら。
「僕じゃ駄目なんだ。今回は、貴族以外の会場立ち入りが禁じられている」
「ふーん。そりゃあまた、面倒なこって……」
貴族以外立ち入り禁止なんて、誰が考えたのかしら。まあどちらにせよ楽しい仕事とは思えないわねー、あああああ憂鬱ううううう。
「シェンを頼めるかな」
ああ、わかった、この子はこれが伝えたかったのね。多分、私の実力が彼女に劣るからとか、そいいうんじゃない。単純に友として頼まれてるんだ。私、信頼されてるなぁ。
でも、伝統があって市民の支持率も高く(半分くらいは王子様みたいな現当主さまのルックス効果だけどね)市民の期待に応えてる筈のシェンが果たして狙われるだろうか? 狙われるとしたら、私たちの存在――ヒュー家専属雑用処理班――の被害にあっている一部の上流階級だけだと思うけれど。しかも、その被害者達が私たちの存在に気付いている可能性は低い。何故なら、私たちはヒュー家でも当主とそのフィアンセであるミチルくらいしか知らない組織であるためである。
「シェンのやつそんなに恨み買ってるの?」
「わからない。でも最近、何者かがシェンを狙ってる気がしてならないんだ。さっき、執務室に警告書まで届いた。理不尽な殺生を止めよ、不利益にしかならないって」
「宛名は……なさそうね。消印は?」
「なし。屋敷の見張りに浮浪者が直接渡してきたらしい」
「できるわね、そいつ」
何となく脳裏に漆黒の髪とグリーンアイズが浮かぶ。アイツはそう言うことをする奴には思えないけど……。でも、一番怪しい相手でもあった。
「わかった。必ず出席すると伝えて。あと、ドレスはやっぱりセクシーすぎないほうが良いのかしらね?」
「背中が見えなければいいってさ」
「じゃあ胸元は有りってことね」
さっそくドレス選びに行かなきゃね。ヤダ、急がないと間に合わないわ。
「それじゃあミチル。ドレス選びに付き合ってくれるわね?」
「もちろん」
結局、襟がないタイプで背中が隠れるようなデザインを選んでいたら、何だか清楚な印象の真っ白なミニドレスになった。
「何だか私じゃないみたい」
「でも、貴族のお嬢様感は出てる。そっちの方が自然だと思う。あとは、念のためカラーコンタクトを用意しておいてくれってシェンが」
夕日色の瞳っていうのは、珍しいらしい。私のコード・ネームの由来であるこの瞳は、普段なら気にするほどの事でもないけれど(見た感じ貴族の女性が、まさか殺し屋だとは誰も思わないわよね)私たちの存在が公になってきた今、ちょっとでも疑われる可能性は回避したいんでしょうね。
「あの、出来ればグリーンがいいと思う。その、シェンもそうだから」
そう言えばそうね。グリーンと聞いて一瞬だけあの男の顔が浮かんだ。Shit!何がMiss.assだっつーの。 急いで振り払う。グリーンのカラーコンタクトは、この自由に伸びて毛先だけ器用にカールする栗毛と相性が良かった。
「間違いなく今私、ジャンヌお嬢様ね」
「ジャン……かわいいな」
白いレースのミニドレスにカラーコンタクトをした私を、ミチルがうっとりと見つめている。試着ってやつだ。そのガラス球みたいなブルーアイズに見つめられると落ち着かない。
「あなただってこの数年で可愛くなったわよ? 髪も随分伸びたわね」
男の子みたいなベリーショートだったミチルの髪は、肩ほどまで伸び、ボブになっている。ますますJapanesedollに近づいたわね。女の褒め合いほどこ滑稽なものはないとわかってるけれど、私は本当にミチルのこと大好きだもの、これは割と本気で思っていることだったりする。
「そう、かな」
ミチルは照れくさそうに頬を染めた。かわいい、かわいすぎる。何だこの子。……と。見つめているミチルの表情が心配そうな面持ちで歪められた。
「無事に、戻ってきて」
ブルーアイズが揺れる。何か不安でもあるのだろうか。何と言うか、彼女らしくない。
「あなたらしくもないわね。何かあったの?」
「具体的に何かあったわけじゃないんだ。だた、何となく不安で」
うーん。確かに、貴族限定のダンスパーティが開かれるなんて久しぶりよね。それに、よく考えたら会場にはカルロ家の人間だって来る。あいつ……イーサンが来る可能性だってあるわけだ。そういえば、と。ずっと気になっていたことを聞く。
「そう言えば今回のパーティ会場はどこ?」
「それ、言わなきゃって思ってたんだけどなかなか言い出せなかった。実は、カルロ家なんだ」
BONGO。それって相手のシマじゃないの。予想はしていたけど、最悪の事態だわ。なぜこの時期に?
「カルロ家が何を考えているのかはわからないけれど……。屋敷までは僕も着いて行く。」
「あなたと仕事が出来るのは嬉しいわ。」
「僕だって。さて、屋敷に戻ろう。もうそこに車を待機させてある」
そういってミチルは微笑んだ。薔薇色に染まった頬が大変かわいらしいことで。しかしソレとコレとは別の話で。
「つまり私は今から会合の間までは、お嬢様扱いってことね」
面倒ね。私、運転手とかメイドとか執事って苦手だわ。端から信用してないのよ。本当に忠義のあるやつなんて何人いるのかしらね。まあ、お金がある限りは忠義を尽くしてくれるフリくらいはしてくれそうだけれど。ミチルは私の表情だけで何を考えているかわかってくれたらしい。
「気持ちはわかるけど、これも仕事の一つとして我慢してくれ。運転手くらいは僕がするからさ」
ミチルにエスコートされるがままに着いていくと、既に車の用意が整っていたようだ。シェンは一足先に乗車下らしい。さて、と。ここからは仕事モードに切り替えなくっちゃ。私だってダテにお嬢様やってきたわけじゃないわ。背筋をピンと伸ばし不敵に微笑む……おっと、これは違う違う、ついいつもの癖が。気を取り直して優雅に微笑みなおした。
ミチルがドアを開けると車内からシェンのエスコートする手が。でも、これは何だかフィアンセ扱いみたいでミチルに悪かったから、お断りした。
「ありがとう、後は自分でできてよ。お待たせして申し訳ありません、ミスター」
幼少期はまともなお嬢様として暮らしてきた私だ。これくらいの言葉遣いは嫌というほどこの身に染み付いている。
「レディの身支度に時間がかかることくらい百も承知さ」
シェンがウィンクなんぞを投げかけてきた。ううっ、どうせらしくないわよ。絶対からかってるに決まっているわ!! 他人をからかうのってキライじゃないんだけど、からかわれるのっていい気分になれないわね。むくれていると、唐突にシェンが耳打ちしてきた。
「それなりに様になってる。全く別人だな、いい仕事するじゃないか?」
それ、褒めてるんだかけなしてるんだかわからないわね。きっと後者でしょうけれど? 抜群の笑みを浮かべて礼を言ってやった。
「それはどうも。ミスターは相変わらず背広がお似合いですわね」
周囲に気を配りながらも、ミチルが時折ミラー越しにこちらを見てくる。あれ、きっとシェンの背広姿が見たいだけね。わかってるわ。その視線に気付いているのか、シェンもまんざらじゃなさそうな視線を送りあう。ああ、Shit! なんなのこの空間は。
やきもきした気分で会場に到着する。とんだかませ犬にされた気分よ。でも、例え最悪なジェラシー気分でもここは表情に出さないほうが良さそう。何といっても、これから私はシェンにエスコートされるレディとして振舞わなきゃいけないんだもの。シェンに続いて、今度はやむなくそのエスコートを受け――私達はカルロ家の屋敷へと足を踏み入れた。
ダンスパーティというものは本来、時間と金のある貴族と一部の裕福な庶民が行ういわば、婚活だ。だからこそ社交界デビューというのは、結婚適齢期に行う。でも、極稀に貴族限定で行われるものもあった。それは、ええと良くわからないのだけれど、確か庶民の生活を支えるべき存在である貴族がよりパートナーシップを高めあい何とやらで……。ま、要するに交流会みたいなものらしい。
会場に入るなり、様々な貴族達から声をかけられまくるシェンにくっついて回るはめになった。
「ずいぶんと人気者ね」
「僕の花嫁にという娘が多いのさ。うちは貴族一家としての歴史も権力もあるからね」
あながちそれだけではない気がするのだけれどね。きっと貴族の娘様方もこの王子様にはぞっこんなのだろう。私は挨拶をするたびにフィアンセかとしつこく探りを入れられたが、やんわりと誤魔化しておいた。ハッキリ違うといってもきっとシェンが大変だろうしね。
一通りの挨拶が終わると、カルロ家の現当主が開催宣言をした。あの男の姿は見えない、か。それはそれで何だか不安ね。いったい何を考えているの?
「イーサン・カルロの姿はないようだな」
どうやらシェンも同じことを考えていたらしい。
「いてもおかしくはない立場の筈よねぇ」
何だろう、この違和感。何だか胸騒ぎがするわね。嫌な気分。私は近くにいる給仕に進められるまま、シャンパンを口にした。一通りの料理を口にした頃(個人的にはカナッペがすごく美味しかったわ)会場に音楽が流れ始め、自然に中央に男女が集まりだす。ダンスムードへと突入だ。
「とりあえず一曲お相手願おうか?」
シェンがエスコートの手を差し出した。うっ、断れないわよね~この雰囲気。ごめんね、ミチル!
「よろこんで、というべきかしらね?」
はじめは簡単なステップ。徐々に複雑なものへと変わっていく。ダンスは何とか覚えてるわね。実は自信なかったなんてシェンが知ったら、どんな顔すると思う? 想像するだけでおかしくって、遂笑みが零れる。
「何だ、そんなに俺とのダンスが楽しいか?」
「いえ、ちょっと別件よ」
危なくバレるところだった。罵り合っているだけなのに、傍から見れば私達は囁きあいながら時折親しげに笑っているように見えるだろう。これも作戦、という事にしておきましょうか。
三曲くらい踊ると、流石に疲れたのでシェンも開放してくれた。現在は他の女性と踊っている。あいつ、元気ねー。流石に久しぶりに踊ると、疲れる。喉が渇いた、そう思った頃に給仕がシャンパンを勧めてくれる。さっきからタイミングバッチリね、この給仕。家の屋敷に欲しいくらいだわ。
「あなた――」
家に来ないって言おうとして、その給仕の顔を見た……漆黒の髪に、グリーンの瞳。
「イーサン・カルロ……!!」
どうしてとか、よりによって給仕なのとか、あなたいったいつからとか色々聞きたい事はあるけど、とりあえずビックリしすぎて言葉にならなかった。イーサンのグリーンの瞳が私の紛い物のそれを目に留める。
「おや、今日は雰囲気が違いますね? 主に瞳の色とか。Miss.ass」
「だーれが、Miss.assだこの変態ドスケベ!!」
おっと、ついつい素がでてしまったわ。誰も見てないわよね? 本業じゃないけれど、私は只今絶賛お仕事中なんだから!!
「おや。何のことかなマドモアゼル。それは濡れ衣だ。ところでどうです、俺と一曲お相手願えませんかね?」
「だーれが給仕なんかと……っていつの間に!?」
先程まで給仕服だった男は、すでにパーティ用の背広へと変身していた。こういっちゃ何だけど、敵ながらアッパレね。
「男の服装は、女性ほど複雑じゃないからな。さ、お手を」
それにこいつ、色男ではあるのよね。紳士的な微笑でエスコートされたら断る理由が見つからないじゃない。ええと、そのこれはあれよ、私は今ヒュー家のお嬢様だからであって胸の鼓動がいつもより早い事とは無関係の筈、だ。
私は仕方なくエスコートを受けて一歩、踏み出す。シャンペンのせいか、ちょっとだけ体が熱い。いけない、これ回転とかしたら目が回るレベルね。そのままフラフラしつつ、ゆっくりと踊る。イーサンのやつ、私の体調に気づいてる?だとしたら、誘わなきゃ良いのに……。何の嫌がらせなの、全く。ふと、視界から今日のパートナーが消えたことに気づいた。流石に、護衛として来ているのだから、目を離すのは不味いだろう。
今シェンはどこ? 何となく、不安になって会場内をくまなく視線で探る。いた、そしてやっぱり不安は的中した。どこぞの貴族のお嬢様と踊るシェン。視界の端に、映ったものを私が見逃すはずもなく。相手の表情がわずかに黒い笑みをたたえて――。
「シェン!!!」
私は女の手の中にキラリと光るものが見えて、とっさに駆けようとする、が。グラリ。視界がゆがむ。おかしい、さっきよりもクラクラする。もう酔いが回ったというの!?
「ああそうか……シャンパン。Shit!!」
ふらつく体を支えられて、睨むようにして叫んだ。そうか、ここは敵の根城だった。しかもシェンペンを渡してきたのはイーサン。きっと何か盛られたんだわ。耳元でテノールヴォイスが囁く。
「猛毒じゃない、安心しろ。でもあまり激しく動いて体に回りすぎると、身の安全は保障できない」
これは脅しだ。でも嘘じゃないのかもしれない。私はプロ殺し屋だ。この位のことは何度もされた。チラ、とシェンを見る。大丈夫まだ無事だ。ちょうど女とナイフの押し戻しになって、一息尽きたくらいだけど。シェンの真っ白な手袋が血色に染まっていた。狭い会場内だ、騒ぎを起こしたくないのだろう。無関係な他の招待客の興を冷ますのを、彼は望まない。幸い、多少動きに違和感があるくらいで二人のダンスは続いている。周りは待ったく気付いていない。
ああ、でもこのままじゃきっと時間の問題ね。申し訳ないけど、アンタの気障には付き合ってられないのよ、シェン。これは騒ぎになるわね。私にの頭にはあるアイディアが浮かんでいた。痛みに顔をしかめるシェンとジリジリと迫るナイフを見たとき、渾身の力で支えられている手を払い、鳩尾に肘鉄を食らわせることに成功した。
「がっ……な!?」
おおかた驚いたような顔をしているであろうイーサンを見る余裕もなく、一目散に駆け抜ける。シェンのもとへ。だって、ミチルが泣いているところなんて見たくないんだもの。だから、タイミングを待ってた。通路が開いて、シェンが切りつけられる、その一歩手前を。
「ジャンヌ!」
シェンと女の間に割り込む――良かった間に合った。次の瞬間、背中にものすごい衝撃が走った。ドレス、破れたかなあ。切りつけられた場所がとても熱い。痛い。
「無駄に格好ばかり、つけ、る、と。殺られるわ……シェン。ごめん、なさいね?」
やせ我慢して虚勢を張ってみるけど、こりゃもうダメかも。何で泣けてくるんだろう。私には珍しく、真っ白いドレスだったのにね、真っ赤になっちゃうかしら。意識が飛ぶ寸前、シェンが肩を抱きながら何かを必死に叫んでいる声と、会場に響き渡る悲鳴と、それから何故か傷ついたように歪められたグリーンアイズが見えた気がした。