第六章「術師体感せしは恐怖と絶望」
夜の帳がすっかり降りてしまっているが、フレッドは未だ森にある小屋とやらに辿り着
けないでいた。
「パール、本当に小屋が有るんだろうな。」
「アンタ、私の魔法を信じないって言うの?」
そうは言っても、もう危険極まりない時間帯。いつ何処から異形が襲ってくるか分から
ない状況なのだ。早く探さないと、大変なことに成りかねない。
いざとなったらパールレインの魔法の力で片付ければ良いとは言え、仲間を呼ばれたり
して囲まれるような状況になったら、彼女の力を持ってしてもまず生き残れまい。
「そっちよ、もう直ぐ着くはず。」
パールレインが、右方向に指をさす。フレッドがよろよろと方向転換。
いい加減歩き疲れているし、パールレインをずっと負ぶっているのだ。グラットンみた
いに腕力体力が飛び抜けている訳でもないし、特殊な能力を持っているとは言っても体の
造りは普通の人間と変わりないのだ。
延々歩き続ければ、そりゃあ疲れもする。
「頑張って、フレッド。もう少しだから。」
森に入ってからと言うもの、パールレインは急に優しくなった。フレッドの対応如何に
よっては毒のある言葉で返してくるが、激励の言葉を掛けたり心配してみたりと、何だか
彼女らしくないのだ。
何か狙いが有るのかと逆に訝しく思ったが、それにしてもいつもと違う。フレッドは戸
惑っていた。
「なぁ、パール。」
「何よ。」
「お前、何か変じゃないか?」
ゴスッと鈍い音が、暗い森の中に消えた。
「何で殴るんだよ!」
「人のこと変だなんて言うからよ、この馬鹿!」
まぁ確かに、単刀直入過ぎるか。
「そうじゃなくて、何か何時もと違うっつってんだよ!態度とかさぁ!何も殴るこたねぇ
だろ!」 言われて、パールレインが赤くなった。握り拳を挙げたまま硬直する。
「な、何でよ。別に良いじゃない。」
「良いけどさ、何でそんなに優しいわけ?今日に限って。」
ゴスッ、と、二回目。「うぐっ」という小さな呻き声付きで、夜の闇に消えた。
「…この馬鹿ッ!」
顔を真っ赤にしながらプイっとそっぽを向く。照れているのは分かるが、何か裏があり
そうでならないと、フレッドは警戒心を一層強めた。
そんなやりとりからしばらく経ち、フレッドもいい加減体力の限界が近付いてきた頃。彼にとって予期せぬ出来事が起きてしまった。
背中側からとても心地よさそうな寝息が聞こえてきて、フレッドが思わずギョッとする。まさかと思うが、いや、絶対に、あのパールレインがそんな無防備なことをするはずが無い。…と思いたいが、この寝息は。
「おい、パール。」
呼んでみたが、返事が無い。
後ろを見やると、パールレインの寝顔が飛び込んできて、改めて驚いた。
パールレインは寝顔を見せたがらない。特に、男性に対しては。弱い所も見せたがらないし、無防備な所も決して見せようとしない。完全主義と言っては少し違うような気もするが、とにかく彼女はそういう所で妙な意地を張る。
やけに穏やかで優しい態度も変だったが、それよりも男性の、フレッドの背中で寝るなんて事は普段の彼女からすれば絶対に有り得ない事であり、ついでに言えば彼女自身も寝るなんて事はしないようにと意地を張り、何が何でも起きていようとするはずなのに。
それに、彼女は魔法の力を持ってして、長期間の睡眠も不必要にする事が出来るくらいの力を持っている。
彼女は、理と知と力の全てを持つとされる神の分身『聖霊』を体に降ろし、神の力を得るという魔道の大秘術「聖霊降ろし」を自らに行使し、失敗しているもののその力の一端を扱う事が可能である。そんな彼女が、何故こうも簡単に眠気に屈するのだろう?
しかしながら、何だかフレッドは妙な気分に駆られた。
「パール…何か、安心しきってるみたいだな。」
寝顔からは、警戒の念など微塵も感じない。いつもの刺々しい、どこか冷たい雰囲気も無い。
何だかいい匂いがする。パールレインからのものだった。魔法の力で常に清潔を保っている所為も有るだろうが、それだけではない。しかし、フレッドにはよく分からなかったが。
意外に可愛い寝顔をこうして目の当たりにするのは、とても久し振りの事だ。何年前だろうか、彼女のこんな寝顔を見たのは…
まだ旅を始めてあまり経っていない頃、グラットンと出会い、それからすぐに彼女と出会った。
どんな形で彼女と行動を共にする事になったのかはあまり覚えていないが、恐らくそれくらいの頃だったろう。彼女の安眠している姿を見たのは。
「また、皆と一緒に旅して、こうやって何時も安心しててくれればなぁ…」
改めて、仲間達との別れを思い知らされるフレッド。
そうして一人ごちながら、重くなった足を前に出していた、その時。
不意に、奥の繁みが怪しく揺れた。
フレッドは即座に其れに気付くと、いつでも走れるように体勢を整えてから辺りをぐるりと見回した。
がさがさ…ざわざわ…と、木々や繁みのあちこちが不自然に揺れて音を立てている。そのうち一つを睨め付けながら、チッと舌打ちした。
一、二、三、四…五匹。夜の森に、人間がわざわざ入り込むなんて考えられない。森をざわめかせているのは、異形以外に有り得ない…!
「パール、パール!起きろ!」
声のトーンは落として、しかし語気を強く、パールを呼んだ。更に揺り動かす。
ざわざわ。
どうやら彼女は相当深い眠りに落ちている様で、なかなか目を覚ましてくれない。パールレインの力を借りずして、この危機を打破するのはフレッド一人では無理である。
彼の持つ禁忌、絶対的なその能力をもってすれば、異形を払うのは造作も無い。しかし、彼の持つ破壊の力は、自分で制御できるものではないのだ。森は完全に消し飛び、異形も、そして背に負ったパールレインも、跡形も残りはしないだろう。
「パール!目を覚ませ!」
少しだけ強く揺さぶる。パールレインの目蓋がピクリと動いた。
がさがさ。
ううん、と小さく声を上げて、パールレインが薄らと目を開いた。
「起きたか、パール。」
「あら、私、いつの間にか眠って…!」
少しだけ眠気眼だったパールレインの双眸が、途端に細く、冷たくなった。見る見るうちに顔が紅潮していく。
「フレッド、アンタ…何もしてないでしょうね。」
「誰がお前なんかに手ぇ出すかっての。」
バシン、と平手打ちの音が、森の闇に消えた。
ざわざわ、がさがさ。
「そんな事より、ちょっとヤバイみたいだぞ。」
右頬に真っ赤な紅葉を張られながらも、フレッドは努めて冷静に言った。ここでやりあってもしょうがない。
パールレインも森の異変に気付いた様で、辺りを見回す。
「…囲まれてるのね。」
どこか恐怖を帯びた声色で、彼女は言った。
「パール、お前の魔法で何とかしてくれ。異形五匹相手じゃ、逃げられそうもない。」
走る体勢は作っているが、全力疾走して逃げ切れる相手ではないだろう。何せ、ここは深い森なのだ。そこに棲む連中も、その環境に適した体をしている筈である。走る獲物に追い付けない、もしくは捕らえる事の出来ない体の造りの生物が、好んで森に棲む訳がないのだから。
「…駄目よ、フレッド。私は今…!」
パールレインが何故だか弱気だ。異形五匹程度に恐れをなす彼女ではない筈なのに。
ざざざざざ…!
一際激しく森が揺れ、繁みから黒い影が飛び出してくる!
しかし、パールレインは戦闘の体勢に移らず、ただただフレッドにしがみ付くのみだ。
「パール、何やってる!」
冷や汗を拭う事も出来ず、フレッドは緊迫した声を上げる。しかしパールレインの恐怖に歪んだ顔を見て取り、何事かと眉根を寄せた。
「一体どうしたってんだよ、パールッ!」
今更声を殺しても変わらず、フレッドは力の限り大声で言った。それは悲鳴にも近かった。それでもパールレインは、ふるふると首を横に振るばかりだ。
「駄目、駄目よ…私、今、魔法が使えないの…!!」
パールレインの発した言葉は、フレッドを絶望させるのに充分な効果を上げた。勿論、パールレインも今まで味わった事のない恐怖と絶望を感じていた。
魔法が使えない?何故?どうして、突然?
予想だにしない事で、フレッドは混乱する。だが、魔法が使えなくなったパールレインは彼以上に混乱していた。
じりじりと近づいてくる異形達。しかし、いくらフレッドが軍師だからと言って、この状況を打破する起死回生の策を閃けはしないだろう。否、フレッドではなくとも、どんな軍師であろうとも。
「いや…!」
震える声でパールレインが搾り出した、弱気な言葉。
それを合図にしたかのように、異形達は一斉にフレッドとパールレインに飛び掛った。