白鬼始末帖 ―捨てられた悪童は、すべてを失った雪の夜から悪を討つ―
< 一 >
朔が初めて代官所の白洲に引き据えられたのは、十六の冬だった。
その日は朝から雪になりそうな空をしていた。低く垂れこめた雲は山の稜線を半ばまで呑み込み、風が吹くたび、板塀の向こうで裸木の梢が乾いた音を立てた。まだ雪そのものは落ちてこなかったが、湿った冷気は着物を通して肌にまとわりつき、地面に敷かれた白砂までが冷えて見えた。
朔は後ろ手に縄を打たれ、その白砂の上に座らされていた。
髪がひどく目立った。
墨へ灰を混ぜたような淡い色をしている。肌も、生まれつき色が薄かった。真夏の日差しを浴びても人並みに焼けることはなく、ただ赤く腫れ、数日もすればまた白く戻った。瞳も薄い琥珀色をしていたから、幼いころから人々は、あれは人の子ではない、白い獣の仔だ、などと好き勝手なことを言った。
親の顔は知らない。
自分が捨てられた理由も、本当のところは知らなかった。
ただ、おまえのような気味の悪い子を親が欲しがるものか、と何度も言われたから、そうなのだろうと思っていた。
記憶の始まりは、川沿いの祠の軒下だった。誰かに拾われたことがあったのか、それとも初めから一人だったのか、それさえ曖昧だった。腹が減れば残飯を漁り、見つからなければ盗んだ。盗みが見つかれば逃げ、捕まれば殴られた。町の子供が石を投げてきても大人は知らぬ顔をしたが、朔が殴り返したときだけは、どこからともなく誰かが現れて朔を叩いた。
そのうち、朔は先に殴ることを覚えた。
三人に囲まれれば、一番強そうな一人を徹底して叩けばよかった。そいつが立てなくなれば、残りはたいてい逃げた。
欲しいものがあるなら奪う。
腹が減れば盗む。
自分を傷つける者には、それ以上の痛みを返す。
それが、この世で誰にも守られずに生きる方法だった。
「盗みは三度目だな」
声が降ってきた。
朔は顔を上げた。
白洲の向こうに、榊重景が座っていた。
この土地を預かる代官である。
四十をいくつか越えたころだろう。細身で、威圧するほどの体格でもなく、目立った風貌でもなかった。声も低く、必要以上には張らない。
朔は、この男が嫌いだった。
役人というものはもっと怒鳴るものだと思っていた。罵り、罪人を人間とも思わぬ目で見るものだと思っていた。
榊は違った。
「知らねえ」
朔は答えた。
「一度目は銭。二度目は干し魚。此度は米問屋の蔵を破り、米二俵」
「覚えてねえよ」
「追ってきた奉公人二人を棒で打っている」
「向こうが先に捕まえようとしたんだ」
「盗人を捕まえようとするのは当然だろう」
淡々と返された。
朔は舌打ちした。
「知らねえって言ってんだろ」
しばらく沈黙があった。
庭先のどこかで、竹が風を受けて鳴った。
「そうか」
榊は言った。
「ならば、覚えるだけ打たせよう」
顔色一つ変えなかった。
笞が背へ落ちた。
最初の一つは、熱かった。
二つ目からは痛かった。
三つ、四つと重なるうちに、痛みはひとかたまりになり、背中全体へ燃えるように広がった。
朔は歯を食いしばった。
声だけは出さなかった。
それは意地だった。
泣いたところで誰も助けないことを知っている。ならば泣くなど、弱い者がすることだと思っていた。
打擲の音に混じって、ぴちり、と小さな音がした。
軒に残った夜露が落ちたのかもしれない。
ぴちり。
しばらくして、また落ちた。
やがて数を数えることもできなくなり、朔はただ白砂に爪を立てていた。
「そこまで」
榊の声で、ようやく終わった。
息をするたび背が痛んだ。
「奉公人二人の傷は深い。だが、幸い命に別状はない。盗った米も戻っている。此度の沙汰は、これで終いとする」
朔は息を乱しながら顔を上げた。
「……牢には入れねえのか」
「入れてほしいのか」
「殺しゃいいだろ」
榊の眉が、ごくわずかに動いた。
「死罪にするほどの罪ではない」
「また盗むぞ」
「そのときは、その罪を裁く」
「人も殴る」
「なら、その分も裁く」
朔は返す言葉を失った。
榊は目の前の罪だけを見ていた。
白い髪も。薄い目も。生まれも。
町で何と呼ばれているかも。
何一つ訊かなかった。
「帰れ」
それだけだった。
代官所を出るころ、雪が降り始めた。
初めは粉のように小さなものが一つ二つ舞っているだけだったが、町外れに差しかかるころには、屋根にも道にも白いものが薄く残り始めていた。
朔は榊が嫌いだった。
鬼の仔だと呼べばよかった。
ろくでなしと罵ればよかった。
そうすれば、こちらにも憎む理由ができる。
だが榊は、盗みを盗みとして裁き、暴力を暴力として罰しただけだった。
憎まれないということが、かえってひどく居心地の悪いものだとは、それまで知らなかった。
< 二 >
町外れに、源吉という老人が住んでいた。
川沿いの細い道を抜けた先にある、屋根の傾いた小屋だった。庭というほどのものもなく、軒下には竹の束が積み上げられ、晴れた日には源吉がそこへ腰を下ろして笊や籠を編んでいた。
朔が初めて源吉に会ったのは、八つか九つのころだった。
盗んだ饅頭を懐へ入れて逃げているところを見つかった。
「盗ったものは、うまいか」
そう訊かれたので、朔は老人の脛を蹴った。
源吉は尻餅をついた。
翌日、町で出くわしたとき、老人は朔を呼び止めて握り飯を一つ寄越した。
「今日は盗んどらんから、食っていいぞ」
気味が悪いと思った。
何か企んでいるのだと思った。
それでも食べた。
腹が減っていた。
以来、源吉は妙に朔を気に掛けた。
説教はしなかった。
喧嘩で顔を腫らしていれば薬を塗った。竹を割る仕事を手伝えば、小銭を握らせた。
「なんで俺なんかに食わせる」
ある日、朔は聞いた。
源吉は竹を削る手を止めなかった。
「腹が減っとるからだ」
「それだけかよ」
「飯を食わせる理由に、ほかに何が要る」
朔には分からなかった。
分からないまま、何年も源吉の小屋へ出入りした。
その年は、ひどい凶作だった。
前年から続いた長雨で稲が傷み、春になっても町から冬が抜けなかった。
米の値は上がり、食を減らす家が増えた。道端には頬の痩せた子供が座り込み、商家の裏へ行けば残飯を奪い合う姿があった。
源吉は、そんな子供たちへ飯を配った。
「やめろよ」
朔は何度も言った。
「何をだ」
「自分の分までやるな」
「年寄りはそんなに食わん」
「嘘つけ」
老人の頬は、日に日に削げていた。
朔は荷運びや薪割りをして銭を稼ぎ、その銭で買った米を持っていった。
源吉は米袋を見て、まず訊いた。
「盗ったか」
「働いた」
「なら、もらおう」
笑った。
それでも足りなかった。
梅雨に入る前、源吉は床についた。
朔が小屋へ入ったとき、部屋には湿った土と煎じ薬の匂いが籠もっていた。閉め切った窓の隙間から細い光が差し、それが舞い上がる埃を照らしていた。
布団の中の老人は、ひどく小さく見えた。
「医者を呼ぶ」
「いらん」
「黙ってろ」
「銭がもったいない」
「俺の銭だ」
立ち上がろうとした朔の袖を、源吉が掴んだ。
以前なら簡単に振りほどけただろう。
だが、その手の弱さに、朔はかえって動けなくなった。
「朔」
「なんだよ」
「腹を減らしとる奴がおったらな」
「喋るな」
「飯をやれ」
「知るか」
「そう言うな」
「俺は、あんたじゃねえ」
源吉は薄く目を開け、ほんの少し笑った。
「知っとるよ」
その夜に死んだ。
翌朝から雨になった。
軒から幾筋もの水が落ちていた。
小屋の隅には、干し芋を包んだ古い紙が置かれていた。近所の子供へやるつもりだったものらしい。
朔はそれを見た。
長いこと見ていた。
胸の中に何かが詰まっていた。
どうすればいいのか分からなかった。
泣き方を知らなかった。
だから三日後、酒に酔った浪人を殴った。
三人いた。
一人の腕を折り、もう一人の前歯を折った。最後の一人を井戸端の石へ叩きつけようとしたところで、背後から場違いなほど快活な声がした。
「おう。いい腰をしてるな」
朔が振り返ると、大男が立っていた。
四十ほどで、肩幅が広い。いかにも力のありそうな身体をしているくせに、顔には妙にのんびりした笑みが浮かんでいた。
「なんだ、てめえ」
「鷹取玄蔵」
「知らねえ」
「そうか。俺もおまえを知らん」
「じゃあ失せろ」
「だが、面白いから見に来た」
「何が」
「おまえが」
朔は殴りかかった。
拳は何もないところを抜けた。
次の瞬間、足元が消えた。
空が見えた。
背中から地面へ落ちた。
痛みより先に、何が起きたのか分からなかった。
「……何しやがった」
「投げた」
「それくらい分かる!」
朔は立ち上がり、もう一度向かった。
今度は井戸へ落とされかけた。
三度目には、本当に川へ放り込まれた。
< 三 >
鷹取道場は町から半里ほど離れた林の中にあった。
古いが手入れの行き届いた建物で、正面に広い稽古場があり、その奥に玄蔵と娘の住まいが続いていた。
背後には山があった。
春には梢が淡い緑に煙り、夏になると山全体が黒みを帯びるほど葉が茂った。秋には風が吹くたび落ち葉が庭へ流れ込み、冬には裸になった木々の間から冷たい風が道場へ吹き下ろした。
剣も槍も教えなかった。
鷹取の家に伝わるのは、己の身体だけで相手を制する術だった。
投げる。崩す。急所を打つ。
刃を持つ相手に対する術もあった。
「刀を持った奴が来たらどうすんだ」
初日に朔は訊いた。
「斬られる前に懐へ入る」
「馬鹿か」
「なら、刀を持った奴には近づくな」
「それができるなら苦労しねえよ」
「違いない」
玄蔵は笑った。
朔には、その笑い方が腹立たしかった。
最初のころ、朔は男を玄蔵と呼んでいた。
弟子になったつもりなどなかったからだ。
飯を食わせると言われた。
寝るところもあると言われた。
その代わり稽古をしろという。
なら、しばらく居てやってもいい。
それだけのつもりだった。
ところが、勝てなかった。
何度殴っても当たらなかった。
蹴れば足を払われ、掴めばいつの間にか床へ転がされていた。
玄蔵は朔より二回り近く年上である。
力で負けるならまだ分かる。
だが、玄蔵はほとんど力を使っているようには見えなかった。
「もう一度」
「今日は終いだ」
「逃げんのか」
「飯の時間だ」
「もう一本!」
「腹が減ってる奴は弱いぞ」
結局、飯を食ってからまた挑んだ。
一月が経った。
二月が経った。
三月が経った。
いつの間にか、町へ下りて盗みをすることはなくなっていた。
盗む必要がなかった。
働けば食える。
稽古をすれば腹が減る。
腹いっぱい食えば眠くなる。
翌朝になれば、また玄蔵を倒すことを考えた。
ある日の稽古で、朔は床に転がされたまま口にした。
「師匠。もう一回」
言ってから、自分で気づいた。
玄蔵も気づいたらしい。
一瞬だけ目を細めた。
だが、何も言わなかった。
「立て」
それだけだった。
玄蔵には、一人娘がいた。
澪という。十八だった。
母親は幼いころに亡くしているらしく、道場の炊事や細かな世話の多くを澪がしていた。
もっとも身体は丈夫ではなかった。
生まれつき胸が弱く、少し長く歩けば息が上がった。寒暖の差が大きい日は朝から床を離れられないこともあり、夏の暑さにも弱かった。
けれど、暗い娘ではなかった。
むしろ道場で一番よく笑った。
門弟が玄蔵に投げられれば笑い、朔が投げられればもっと笑った。
「そんなに面白えか」
「だって、朔さんはいつも同じ辺りに落ちるんですもの」
「今度は違うところに落ちてやる」
「投げられないようにする、ではないんですね」
くすくす笑う。
「うるせえな」
「では、黙っています」
そう言って、本当に黙る。
朔が気まずくなって、
「別に喋るなとは言ってねえだろ」
と言うと、また笑った。
春が終わり、夏が来た。
道場の裏山は濃い緑に沈んだ。
昼になれば蝉の声が幾重にも重なって林を満たし、庭へ出れば白い陽射しが土から照り返した。
そのころには、澪が体調を崩すと、朔がそばにいることが増えていた。
玄蔵は薬を取りに町へ行くことがあった。
門弟たちは薪を割り、井戸から水を汲み、畑へ出る。
朔は、なぜか澪の部屋に残された。
「俺でいいのかよ」
「おまえは案外、病人には静かだからな」
玄蔵はそう言った。
腹立たしかったが、否定もできなかった。
澪が眠っている間は縁側で稽古の型をさらった。
咳が聞こえれば水を持っていった。
夜まで熱が下がらないときには、柱へ背を預けたまま眠ったこともある。
目を覚ますと、澪の方が起きていた。
「なぜそこにいるんです」
「知らねえ」
「帰って寝ればよかったのに」
「師匠がいねえんだから仕方ねえだろ」
「優しいんですね」
「寝ろ」
朔は背を向けた。
耳が妙に熱かった。
夏の盛り。
澪が少し具合を悪くした日のことだった。
午後になって熱は下がったが、身体を起こすとまだ息苦しい様子だった。
庭の土は日差しに白く乾き、向こうの木立だけが暗く沈んでいる。風はほとんどなかった。
蝉の声の向こうに、山が見えた。
「朔さん」
「なんだ」
「北の山へ行ったことがありますか」
「ああ」
「頂近くに、大きな桜があるそうですね」
「あったな」
「どんな桜ですか」
朔は少し考えた。
「……でかい」
澪は呆れたように笑った。
「それは聞きました」
「桜なんて、どれも同じだろ」
「そんなことはありません」
言ってから、澪は山を見た。
「私は一度も見たことがないんです」
「なら行けばいい」
「行けないから、訊いているんですよ」
責めるでもなく言われて、朔は黙った。
道場から麓へ行くだけでも、澪にはかなりの負担だった。まして山道など歩けるはずがない。
「父さまには、子供のころから何度も連れていってやると言われました。でも、麓まで行ったところで具合が悪くなってしまって」
「師匠が背負えばいいだろ」
「父さまも、そう言いました」
「じゃあ――」
「私が嫌だったんです」
澪は笑った。
「途中で具合が悪くなって、皆に迷惑をかけるのが怖かったので」
朔は庭を見た。
蝉が鳴いている。
ひどくうるさいはずなのに、そのときは妙に遠く聞こえた。
「来年」
「え?」
「来年の春」
澪がこちらを向いた。
「俺が背負っていく」
一瞬、澪は何も言わなかった。
「山ですよ」
「知ってる」
「途中で何度も休むかもしれません」
「休めばいい」
「重いですよ」
「もっと食え」
澪は吹き出した。
笑った拍子に少し咳き込み、朔は慌てて水を取った。
椀を受け取った澪は、一口飲んでから朔を見た。
「では、約束してください」
「何を」
「来年の春」
その目があまりに真剣だったので、朔も笑えなかった。
「ああ」
「私を山の桜まで連れていってくれると」
「ああ」
朔は頷いた。
「俺が背負っていく。だから来年は、絶対に見せてやる」
そのとき、ようやく風が吹いた。
山の木々がざわりと鳴り、庭の木陰が揺れた。軒に掛けられていた小さな風鈴が、忘れていたように一度だけ涼しい音を立てた。
澪は目を細めた。
「約束ですよ」
「ああ」
朔は、もう一度答えた。
< 四 >
秋になると、朔に勝てる門弟はいなくなった。
もともと喧嘩だけなら、道場へ来る以前から大人を何人も相手にしていた。痛みに強く、相手の動きを見る勘もあった。
そこへ玄蔵が、立ち方から呼吸まで一つずつ叩き込んだ。
力任せに振っていた拳から無駄が消えた。
殴る前に動く相手の肩が見えるようになった。
足をどこへ置けば、相手の身体が崩れるのかも分かるようになった。
そして秋の終わり、初めて玄蔵に技が入った。
稽古場の戸は開け放たれていた。
外では枯れ葉が風に流れ、庭の隅へ集まっている。
玄蔵が踏み込んだ。朔は受けなかった。
一歩外へ出て、その懐へ入った。
足で床を踏み、腰を回す。
掌が玄蔵の胸へ当たった。
どん、と低い音がした。
玄蔵の身体が半歩下がった。
道場にいた者が息を呑んだ。
朔自身が一番驚いた。
「……入った」
「そうだな」
「入ったぞ、師匠」
「聞こえてる」
玄蔵は胸を押さえた。
「痛え」
朔は笑った。
どうしてこんなに嬉しいのか、自分でも分からなかった。
「あと五年もすれば、俺を越えるかもしれんな」
「五年?」
「五年だ」
「二年で越す」
「言うようになったな」
「一年でもいい」
「調子に乗るな」
玄蔵の拳が飛んできた。
次の瞬間、朔は床を転がった。
縁側から、澪の笑う声が聞こえた。
冬の気配が近づいたころ、玄蔵が珍しく朔を囲炉裏端へ呼んだ。
澪もいた。
炭が赤く熾り、ときどき小さく爆ぜた。
「朔」
「なんだ」
「澪を嫁にもらう気はあるか」
口に含んだ茶を、朔は本当に吹いた。
「父さま!」
澪が顔を真っ赤にした。
「いずれ話さねばならんだろ」
「だからといって、そんな聞き方がありますか」
「回りくどいのは性に合わん」
「俺を見るなよ」
朔は言った。
「聞かれてんのはおまえだ」
玄蔵は平然としている。
逃げる場所がなかった。
敵が百人同時に挑んできたとしても、今よりましなのではないかと思った。
しばらくして、朔は澪を見た。
澪は俯き、膝の上で指を重ねていた。
「……俺でいいなら」
自分の声とは思えないほど小さかった。
「俺は」
そこで言葉が詰まった。
盗むことなら迷わなかった。
殴ることも。
なのに、これほど難しい言葉がこの世にあるとは知らなかった。
「澪と一緒にいたい」
ようやく言った。
澪の睫毛が震えた。
やがて、小さく頷いた。
玄蔵は何も言わず、火箸で炭の位置を直した。
「なら、春になったら祝言だ」
その夜、朔はなかなか眠れなかった。
道場の外では、北風が林を渡っていた。
板戸がときおり小さく鳴る。
春。 祝言。山の桜。
そういうものが、自分の先にある。
そのことが、どうしても信じられなかった。
自分には明日の飯すら保証されていなかったころがある。
夜を越すだけで精一杯だったころがある。
それが今は、春を待っている。
不思議なことだった。
< 五 >
十二月の初め、朔は源吉の墓へ行くことにした。
祝言が決まったことを報せたかった。
墓は峠を越えた源吉の生まれ村にあったから、往復には二泊かかる。
出立の朝、空は一面に白く曇っていた。
玄蔵は庭で薪を割っていた。
「雪になるぞ」
「降る前に峠を越える」
「無理はするな」
「師匠に言われたくねえ」
玄蔵は笑った。
門まで行くと、澪が待っていた。
「気をつけてくださいね」
「おまえこそ寝込むなよ」
「努力します」
朔は一度門を出た。
それから何か思い出して振り返った。
「澪」
「はい」
「春になったら山だぞ」
澪は笑った。
「忘れていません」
「俺もだ」
朔は手を上げた。
澪も、小さく手を上げた。
それが最後になった。
二泊して戻る日の昼過ぎから、雪が降り始めた。
峠を下りたころには、枯れ草の上が薄く白くなっていた。
道場へ続く林へ入る。
そこで朔は足を止めた。
何かがおかしかった。静かなのだ。
冬なのだから蝉は鳴かない。鳥も少ない。
それでも、道場には人がいる。
いつもなら薪を割る音がする。掛け声が聞こえる。誰かが笑う。澪が箒を使う音さえ、林の中では案外よく聞こえた。
今日は何もなかった。
雪が葉を失った枝に触れ、かすかな音を立てるだけだった。
朔は歩いた。
自然に足が速くなった。
門が開いていた。
片側が外れかけている。
門柱に深い傷があった。
刃物の跡だった。
その下に、雪を吸って黒くなったものが落ちていた。
竹刀だった。
折れていた。
朔は走った。
庭に人が倒れていた。
門弟の一人だった。
「おい」
返事がない。
肩を掴んだ。冷たかった。
その向こうにも倒れている。
井戸端にも。縁側にも。
白くなり始めた庭のあちこちに、暗い血が染みていた。
「師匠!」
朔は叫んだ。
声が妙に大きく聞こえた。
「澪!」
道場へ駆け込む。
戸が外れていた。
稽古場の床には泥の足跡が乱れ、柱にはいくつもの刀傷があった。
壁際に男が倒れている。
黒い縄を手首に巻いた、見覚えのない男だった。
その向こうにも、もう一人。
玄蔵が倒したのだろう。
「朔……」
かすかな声がした。
振り向いた。
門弟の一人が壁際にいた。
腹を深く斬られている。
朔は膝をついた。
「誰だ」
門弟の唇が震えた。
「黒縄……」
「黒縄衆か」
わずかに頷いた。
「兵馬が……来た。先生が……」
「師匠はどこだ」
門弟の目が奥へ動いた。
「娘さんを……」
そこで声が切れた。
朔は肩を揺すった。
「おい」
返事はなかった。
奥の部屋へ行った。
玄蔵がいた。壁際に、半ば座り込むような姿勢で倒れていた。
その腕の中に、澪がいた。
朔は敷居を越えたところで止まった。
何も考えられなかった。
玄蔵の前腕には深い傷があった。
だが、最も深い傷は背中に集中していた。
肩口から斜めに走る傷が一つ。
その下に、もう一つ。
さらに脇の近くには、後ろから突かれた跡があった。
最後には敵へ背を向けていたのだ。
澪の前に立ち、自分の身体を盾にして。
「……師匠」
声が出た。
当然、返事はなかった。
朔は膝をついた。
玄蔵の腕の中から、澪の手が落ちている。
その手を取った。
冷たかった。
夏の午後が浮かんだ。
蝉の声。青い山。風鈴。笑った顔。
『来年の春』
『約束ですよ』
『俺が背負っていく』
「……澪」
呼んだ。
返事はない。
障子が破れていた。
その穴から雪が吹き込み、澪の髪へ落ちた。
白い粒は、溶けなかった。
朔はそれを見た。
奇妙に、そのことだけがはっきり分かった。
春は来る。自分が何をしようと。
ここにいる人間が一人残らず死のうと。
春になれば山では桜が咲く。
だが、澪は見ない。
来年は来るのに、澪には来ない。
胸の奥に大きな穴が開いたようだった。
悲しいのか、苦しいのか、それすら分からなかった。
源吉が死んだときと同じだった。
泣くことができない。
玄関の外に出た。
雪の上には、まだ新しい足跡が残っていた。
大勢のものだった。
門の外へ続き、山の方角へ向かっている。
降り始めてから、さほど時間が経っていない。
黒縄衆は、まだ遠くへは行っていない。
朔は稽古場へ戻った。
棚に畳まれた白い稽古着を取った。
袖を通した。帯を締めた。
床へ手をついた。
この床で、玄蔵に何百回も投げられた。
澪に笑われた。
門弟たちと飯を食った。
初めて人の中で眠った。
初めて、明日もここへ帰ってくるのだと思った。
いつからか。ここが家だった。
「師匠」
朔は言った。
「行ってくる」
雪の中へ出た。
< 六 >
雪は次第に強くなった。
足跡を追って山へ入るころには、木々の根元まで白くなっていた。
黒縄衆は、このところ山中に潜んでいた浪人崩れの一党だった。
戦の時代に食い扶持を得ていた者、主家を失った者、仕官が叶わず荒れた者。はじめは街道で旅人を脅す程度だったらしいが、やがて村へ押し入り、米や銭を奪うようになった。
玄蔵の道場にも何度か使いが来ていた。
門弟をよこせ。道場を宿に使わせろ。
そう言われるたび、玄蔵は追い返した。
「武術は、弱い奴から物を奪うためにあるんじゃねえ」
笑いながらそう言った。
頭目は葛城兵馬。
戦場を知る男だという。
足跡は山中の廃寺へ続いていた。
雪に霞んだ山門の向こうで、灯籠に火が入っている。
二人の男が立っていた。
「誰だ」
朔は歩いた。
「止まれ」
男の手が刀にかかった。
朔は止まらなかった。
「止まれと言っている!」
刀が抜かれた。
男の肩が動く。
玄蔵に何千回と教えられた。
刃を見るな。人を見ろ。
刃は勝手には動かない。
肩が動く。腰が動く。
それから刀が来る。
男が横に薙いだ。
朔は刃の外へ逃げなかった。
半歩、前へ出た。
白刃が髪を掠めた。
懐へ入る。
掌で顎を突き上げる。
男の身体が仰け反った。
もう一人が刀を抜く。
朔は倒れかけた男を押した。
二人がぶつかる。
手首を取った。捻る。
刀が雪へ落ちた。
肘へ一撃。
男が声を上げる。
腹へ膝を入れた。
崩れたところで首の付け根を打った。
二人とも動かなくなった。
息はある。
朔は刀を拾わなかった。
寺の中から鐘が鳴った。
途端に人の声が湧いた。
戸が開く。
足音。怒号。
正面へ出れば囲まれる。
朔は境内の脇へ走った。
鐘楼と本堂の間に、人一人がようやく刀を振れるほどの狭い通路がある。
そこへ入った。
追ってきた男が突きを放つ。
壁へ肩を寄せる。
刃が脇を通った。
腕を掴む。そのまま壁へ叩きつけた。
骨の折れる感触が手へ伝わる。
二人目が前の男を押し退けた。
刃が来る。
避けきれない。
左の上腕が裂けた。
熱いものが流れた。
だが、動いたのは痛みより先だった。
男の喉へ拳を入れる。
息が止まったところへ身体を入れ替え、背から壁へ叩く。
三人目。
四人目。
朔は後ろへ下がらなかった。
ここを抜ければ囲まれる。
だから、来る者を一人ずつ倒した。
それでも無傷では済まなかった。
前腕。肩。腿。
浅いが、いくつも斬られた。
血が稽古着へ滲み、雪へ落ちた。
それでも身体は動いた。
玄蔵に教えられた通りに。
やがて通路へ来る者がいなくなった。
朔が境内へ出ると、五、六人ほどが散らばっていた。
皆、刀を持っている。
だが、勢いは先ほどとは違った。
「……こいつ」
一人が言った。
朔は息を整えた。
白い髪が血で固まり、頬にも赤い筋があった。
白かった稽古着は、胸から袖まで斑に染まっていた。
「白鬼だ」
誰かが呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、幼いころの石の痛みが蘇った。
白鬼。化生。鬼の仔。
昔なら、その言葉だけで殴りかかっていただろう。
今は何も感じなかった。
「来いよ」
朔は言った。
「刀があるんだろ」
二人が同時に来た。
朔は下がった。
石段へ誘う。
雪で足元が滑る。
一人が踏み込んだ瞬間、僅かに足を取られた。
朔はそこへ入った。
手首を払い、胸へ掌を打つ。
男が後ろへ倒れ、後続を巻き込んだ。
横から刃が来た。
背を反らす。
間に合わない。
胸元が裂けた。
浅い。
そのまま相手の懐へ入り、肩を担いで投げた。
男は雪の積もった石段を転がった。
起き上がらない。
残った者の顔に、恐怖が浮かんだ。
「化け物……」
一人が後ずさった。
朔は追わなかった。
呼吸をするだけで胸が痛んだ。
右の拳は裂け、左腕には力が入りにくい。
それでも、一歩進んだ。
男はさらに下がった。
「白鬼だ!」
叫んだ。
踵を返して走った。
別の二人も続いた。
残った者も刀を捨てた。
「……俺は知らねえ。兵馬に言われただけだ」
朔は男を見た。
「兵馬はどこだ」
男の目が、本堂の奥へ向いた。
< 七 >
本堂の奥には、小さな灯が一つだけあった。
外の雪明かりが障子を白く浮かび上がらせ、室内には古い木と油の匂いがしていた。
葛城兵馬は、そこで待っていた。
五十前後。
大柄ではない。
むしろ無駄な肉のない、細い身体をしていた。
傍らには黒鞘の刀がある。
「ずいぶん減らしたな」
兵馬は言った。
朔は答えなかった。
息を整えた。
身体のあちこちが熱を持っている。
「鷹取のところの小僧か」
兵馬は朔の髪を見た。
「ああ。思い出した。白い野良犬だ」
「師匠を殺したのは、おまえか」
「最後に斬ったのは俺だ」
兵馬は立ち上がった。
鞘を左手へ取る。
「強かったぞ、玄蔵は」
朔の拳に力が入った。
「十八人で行った。二人はあの場で殺された。四人はまともに動けなくされた」
鯉口が切られた。
小さな金属音がした。
「娘さえいなければ、もう何人か持っていかれたかもしれんな」
朔の中で何かが切れた。
床を蹴った。
兵馬の姿が揺れた。
次の瞬間、胸元に冷たい感触が走った。
朔は反射的に止まった。
稽古着が裂けた。
一拍遅れて、血が滲んだ。
「遅い」
兵馬の刀は、すでに正眼へ戻っていた。
朔は息を呑んだ。
違う。
これまでの者とは。
一歩入れば刃が来る。
右へ回っても、すでに兵馬の身体が正面を向く。
足を狙おうとすれば切っ先が落ちる。
玄蔵以外の者を相手に、ここまで間合いが遠いと感じたことはなかった。
「徒手か」
兵馬が薄く笑った。
「玄蔵らしい」
突きが来た。
朔は首を逸らした。
耳が裂けた。
返す刀が横から来る。
下がる。
さらに兵馬が踏む。
速い。
肩へ刃が落ちた。
避けきれない。
前腕で急所だけを庇った。
布が裂け、皮膚が切れた。
痛みに身体が強張る。
刀が上がる。
「終わりだ」
そのとき、玄蔵の声がしたように思った。
『刃を見るな』
兵馬の目ではない。
肩。刀を振り下ろす直前、右肩が僅かに上がった。
朔は踏み込んだ。
逃げるのではない。
刀が最も力を持つ場所よりも、さらに内へ。
刃が肩口を掠めた。
熱が走る。
だが、入った。
朔の拳が兵馬の脇腹へ沈んだ。
「……ッ」
兵馬の息が止まる。
顎へ肘。入った。
兵馬が二歩下がる。
朔は追った。
初めて届いた。
「なるほど」
兵馬は口端の血を拭った。
「確かに玄蔵の拳だ」
言葉の途中で踏み込んできた。
刀ではなかった。
柄頭が朔のこめかみへ叩き込まれた。
視界が白く弾ける。
朔は床を転がった。
身体を起こすより早く、兵馬の足が腹へ入った。
「ぐっ……」
「素手であれば、剣士は蹴らぬとでも思ったか」
朔は咳き込んだ。
口に鉄の味が広がった。
「おまえは玄蔵には及ばん」
兵馬は言った。
「……知ってるよ」
朔は立ち上がった。
「俺はまだ、一度しか師匠に技を入れてねえ」
「ならば、ここで死ね」
兵馬が来た。
一刀。二刀。三刀。
朔は下がった。
胸を切られた。
腿も切られた。
避けるたび、少しずつ傷が増える。
兵馬は息を乱さない。
こちらだけが削られていく。
背中が柱へ当たった。
もう後ろはなかった。
兵馬の刀が上がる。
朔は身体を沈めた。
刃が柱へ食い込んだ。
ほんの一瞬。
朔は刀を持つ手首を掴んだ。
兵馬は迷わなかった。
刀から手を離した。
空いた手の指が、朔の目へ伸びる。
顔を逸らした。
爪が頬を裂いた。
同時に、膝が腹へ入った。
二人で床へ倒れた。
朔は初めて知った。
この男は刀が強いのではない。
人を殺すことに慣れているのだ。
床の上でも、兵馬は迷わなかった。
肘。拳。喉。
急所ばかりを狙ってくる。
やがて兵馬の前腕が朔の喉へ食い込んだ。
息ができない。
視界の端が暗くなっていく。
「玄蔵はな」
兵馬が低く言った。
「あの娘さえ捨てれば、生きられた」
朔の手が止まった。
「馬鹿な男だ。娘を抱えたまま敵に背を向けた」
兵馬が笑った。
「守るものがある奴は弱い」
違う。朔は思った。
源吉が浮かんだ。
自分の飯を子供へ渡した老人。
玄蔵が浮かんだ。
背中に傷を負いながら、澪を抱いていた男。
澪が浮かんだ。
来年の春を信じて笑った娘。
皆、死んだ。
誰かを捨てなかったから。
だが。
それは弱かったからではない。
「……うるせえ」
兵馬の眉が動いた。
「なんだ」
「師匠を」
朔は兵馬の腕へ両手を掛けた。
「てめえなんかが語るな!」
兵馬の重心が浮いた。
何百回と玄蔵に投げられた形。
今度は、自分が投げる。
兵馬の身体が床へ叩きつけられた。
朔も転がった。
兵馬はすぐに起きた。
刀へ手を伸ばす。
朔も立つ。
間に合わない。
兵馬の指が柄へ届く。
朔はその手首を踏んだ。
骨が鳴った。
兵馬が初めて叫んだ。
だが、左手が腰へ伸びる。
脇差。
朔は気づいた。
遅かった。
刃が横から走った。
脇腹へ熱が走った。
深い。だが、刺されてはいない。
刃は肉を深く裂きながら外へ抜けた。
兵馬は手応えに笑った。
その一瞬。
朔は脇差を持った兵馬の左腕へ絡みついた。
「……何?」
抱え込む。
逃がさない。
「離せ!」
「嫌だ」
頭突き。
兵馬の鼻から血が噴いた。
膝を腹へ入れる。
一度。
二度。
兵馬がよろめいた。
だが倒れない。
強い。
それでも。
朔は右手を開いた。
秋の日を思い出した。
道場の板床。
開いた戸の向こうを流れる落ち葉。
縁側で笑っていた澪。
そして。
目の前に立つ玄蔵。
『腕で打つな』
足を踏む。
『地面からもらえ』
腰。
『腰から肩へ通せ』
肩。
『最後に掌へ渡せばいい』
兵馬が朔の動きに気づいた。
右手を上げようとした。
遅い。
朔は踏み込んだ。
掌底が兵馬の胸へ入った。
音は大きくなかった。
どん、と。
ひどく低い音がした。
兵馬の身体が後ろへ飛んだ。
柱へ背中から激突した。
本堂が震えた。
梁から埃が落ちた。
兵馬は床へ崩れた。
朔も膝をついた。
息ができない。
脇腹から血が落ちる。
それでも兵馬は動いた。
手を伸ばす。
床に落ちた刀へ。
「……化け物め」
朔は立ち上がった。
一歩。
もう一歩。
「違う」
兵馬が刀の柄を掴んだ。
「俺は」
刀が僅かに持ち上がる。
朔は最後の一歩を踏んだ。
「鷹取玄蔵の弟子だ」
拳を振り下ろした。
兵馬の手から刀が落ちた。
今度こそ、男は動かなかった。
< 八 >
どれほどそこにいたのか分からなかった。
外へ出ると、すっかり夜になっていた。
雪はまだ降っていた。
境内には、倒れた男たちがいる。
呻く者もいた。
動かない者もいた。
逃げた者もいた。
朔は彼らを見なかった。
白かった稽古着は、もうほとんど赤黒く染まっていた。
右拳は腫れ、左腕は上がらない。
脇腹を手で押さえた。
血は止まらないが、歩けない傷ではなかった。
朔は山を下りた。
途中で何度も転んだ。
雪へ手をついた。
立った。
また歩いた。
どうして代官所へ行こうと思ったのか、自分でも分からなかった。
ただ、一人だけ思い浮かんだ。
十六の冬。
自分を憎まず。庇いもせず。
罪の分だけ罰した男。
榊重景。
あの男なら。
自分を正しく殺してくれるのではないかと思った。
夜半、代官所の門番は、雪の向こうから歩いてくるものを見つけた。
初めは人間に見えなかったという。
白いものが、ゆっくり歩いてくる。
雪かと思った。
やがて、それが髪だと分かった。
男だった。
髪は雪より僅かに灰色。
着物は血で赤い。
歩いたあとには、点々と赤い跡が残った。
「止まれ!」
門番が槍を構えた。
男は止まった。
「何者だ!」
「朔だ」
門番の顔が変わった。
朔は顔を上げた。
「榊を呼べ」
「何事だ」
「人を殺した」
雪が肩へ降り積もる。
「何人も」
白い息を吐いた。
「だから、榊を呼んでくれ」
ほどなく榊が現れた。
夜着の上に羽織を着ていた。
朔を見る。
傷を見る。
赤く染まった稽古着を見る。
「黒縄衆か」
朔は目を上げた。
「……知ってたのか」
「追っていた」
「俺がやった」
「ああ」
「殺した」
榊は黙っている。
「殺せ」
返事はない。
「聞こえねえのか」
朔は笑おうとした。
笑えなかった。
「俺を殺せよ」
そこで膝が折れた。
地面が近づいた。
雪の白さが視界いっぱいに広がった。
誰かが身体を受け止めた。
そこで視界は黒に転じた。
< 九 >
夢の中では、蝉が鳴いていた。
澪が縁側に座っている。
庭は夏だった。
山は青かった。
『来年の春ですよ』
分かっている、と朔は答えようとした。
声が出なかった。
澪の向こうで桜が咲いた。
季節が違う、と朔は思った。
花びらが舞う。
ひらひらと落ちる白い花びらが、途中から雪へ変わった。
澪の姿が見えなくなった。
朔は手を伸ばした。
「目を覚ましましたか」
知らない声だった。
目を開ける。
天井が見えた。
身体中が痛かった。
少し動いただけで脇腹が引きつった。
「動かないでください」
若い娘がいた。
二十歳ほど。
髪を簡素に結い、薬の入った椀を手にしている。
「……ここは」
「代官屋敷です」
「なんで」
「死にかけていたからです」
「放っときゃよかっただろ」
「嫌です」
即答だった。
朔は娘を見た。
「誰だ」
「榊椿です」
「榊?」
「父は榊重景です」
代官の娘だった。
「なんで代官の娘が俺なんか看てる」
「皆が嫌がったので」
「なら、おまえも嫌がれよ」
「嫌です」
「俺は人を殺した」
椿は少し考えた。
「それを決めるのは父です」
「俺がやったって言ってる」
「罪があるかどうかを決めるのは、あなたではありません」
朔は口を閉じた。
変な女だと思った。
澪とは、少しも似ていなかった。
顔も違う。
声も。
澪なら、もっと柔らかく言っただろう。
けれど。
相手がどんな人間なのか知る前から恐れようとしない、その目だけが妙に似ていた。
< 十 >
再び白洲へ出されたのは、それから十二日後だった。
正座はまだできなかった。
脇腹の傷が引きつるため、片膝を崩して座ることを許された。
冬の日差しが庭へ落ちていた。
雪は軒下に残っている。
だが、陽の当たるところでは融け始めていた。
屋根から雫が落ちた。
ぴちり。
朔は昔を思い出した。
十六の冬。
ここで笞を受けた。
あのときと同じ音だった。
「沙汰を申し渡す」
榊が言った。
朔は顔を上げた。
「黒縄衆については、かねてより街道筋の強盗、人攫い、村への押し込み、役人二名の殺害により追捕を命じていた」
朔は黙って聞いた。
「所在を掴めずにいたが、此度、鷹取道場への襲撃により居場所が明らかになった。逃げた者のうち三名はすでに捕らえた」
榊は傍らの書付へ目を落とした。
「その三名の証言、および現場を改めた者の報告は一致している。おまえは無腰で寺へ入り、先に刀を抜いたのは黒縄衆。倒れて抵抗できなくなった者へ追い打ちをした形跡もない」
朔の眉が動いた。
「葛城兵馬についても、最後まで刀を取ろうとしていたと、生き残った者が申している」
「……俺は仇を討ちに行った」
「ああ」
「殺すつもりだった」
「そうだろう」
「なら、罪だろ」
榊は朔を見た。
「心の中で何を思っていたかではなく、何をしたかを裁く」
「俺は何人か殺した」
「追捕を命じられた凶賊が刀を抜き、おまえはこれと戦った。その結果として五名が死んだ」
五人。
朔は初めて数を知った。
「本来、私怨で一人乗り込むような真似を褒めるつもりはない」
榊の声は少しも優しくなかった。
「愚かな行いだ。おまえ自身が死んでいても何ら不思議ではない」
朔は黙った。
「だが、此度の死者について、おまえを罪に問う根拠はない」
ぴちり、ぴちり。雫の音が響いた。
「咎めなしとする」
朔は榊を見た。
榊も見返した。
憐れんでいるわけではない。
庇っているわけでもない。
十六のときと同じだった。
罪があれば罰す。
なければ罰さない。
それだけだ。
「それとな」
榊は言った。
「玄蔵から、おまえの話は以前より聞いていた」
朔の顔が変わった。
「……師匠から?」
「二度ほど、ここへ来たことがある」
「何しに」
「黒縄衆について知らせにな」
これで、なぜ代官が黒縄衆を知っていたのかもつながった。
「その折、おまえのことも聞いた」
朔は膝の上の拳を見た。
「何を」
「盗みはしなくなった。喧嘩も減った。稽古だけは馬鹿みたいにする」
「師匠がそう言ったのか」
「ほかにもある」
「……なんだよ」
「口は悪い。愛想も悪い。だが、困っている者を見ると案外放っておけん」
「嘘だ」
「玄蔵の言葉だ」
拳が震えた。
榊は少し間を置いた。
「朔」
「なんだ」
「ここで働け」
朔は顔を上げた。
「……何?」
「黒縄衆のような連中は、ほかにもいる。役人だけでは潜り込めぬ場所もある」
「俺に何させる気だ」
「探索と捕縛だ。役人の手先として働け」
「悪党を殴って連れてくりゃいいって?」
「簡単に言えばな」
「殺せってことか」
「必要のない相手は殺すな」
「必要なら」
「その判断も覚えろ」
朔は乾いた笑いを漏らした。
「よく俺なんか使う気になるな」
「腕が立つ」
「俺は人殺しだぞ」
「此度については罪人ではない」
「そういう話じゃねえ!」
朔の声が白洲へ響いた。
「俺がいたら、人が死ぬんだよ!」
榊は黙った。
「俺の親だって俺を捨てた! 源吉も死んだ! 師匠も死んだ! 澪も!」
言葉が詰まった。
「俺が大事にした奴は、みんな死ぬ!」
視界が歪んだ。
朔は目を瞬いた。
頬に熱いものが落ちた。
手で触れた。
濡れていた。
しばらく、それが何なのか分からなかった。
涙だった。
「もう何もねえんだ」
声が掠れた。
「俺には、もう何も残ってねえ」
涙が次々と落ちた。
止められなかった。
子供のころ、石を投げられても泣かなかった。
殴られても。
飢えても。
笞を受けても。
源吉が死んだときさえ、泣けなかった。
なのに今になって、すべてが溢れ出してきた。
「頼む」
朔は床へ手をついた。
「もういいだろ」
榊を見ることができなかった。
「殺してくれ」
自分の声が震えていた。
「俺を死罪にしてくれ」
そのまま朔は目を強く瞑った。
涙を止める方法も知らなかった。
ただ、目を閉じても、涙は止まらないということを知った。
ぱん、と乾いた音がした。
朔の顔が横を向いた。
頬が熱い。
目の前に椿が立っていた。
屋敷から飛び出したのだろう、裸足だった。
「……何しやがる」
「腹が立ちました」
「椿」
榊が低い声で言った。
「父上、少し黙っていてください」
榊が僅かに眉を上げた。
だが、止めなかった。
椿は朔を見た。
「あなたが死んだら、鷹取様は喜ぶんですか」
朔の身体が強張った。
「黙れ」
「澪様は喜ぶんですか」
「黙れ!」
「あなたと祝言を挙げることを望んだのを、後悔するんですか」
「知らねえくせに!」
朔は叫んだ。
椿は引かなかった。
「知りません」
「だったら――」
「私は澪様に会ったことがありません」
椿は言った。
「でも、あなたは知っているでしょう」
白洲が静かになった。
軒から雫が落ちた。
ぴちり。
「あなたと一緒にいた澪様は、不幸だったのですか」
朔は答えられなかった。
夏の縁側が浮かんだ。
蝉。
風鈴。
青い山。
水の入った椀。
笑った顔。
『約束ですよ』
「……違う」
声が漏れた。
「なら」
椿の声が強くなった。
「勝手に不幸にしないでください」
朔が目を上げた。
「亡くなった人たちの人生を、あなたの罪にしないでください」
何も言えなかった。
「源吉様は、あなたへ食べ物を与えた」
涙が落ちた。
「鷹取様は、あなたを弟子にした」
さらに落ちた。
「澪様は、あなたと春を待とうとした」
朔の肩が震えた。
「それを全部、あなたがいたから不幸だったことにするんですか」
「……俺は」
「生きてください」
椿は言った。
「生きて、誰かを助けてください」
「俺が?」
「あなたがです」
「俺に何ができる」
「悪い者を一人止めれば、その人に傷つけられるはずだった誰かが一人助かるかもしれない。十人止めれば、十人かもしれない」
椿は朔をまっすぐ見ていた。
「そうして生きたら」
僅かに声が震えた。
「あなたを助けた人たちが、あなたを助けたことは、間違いではなかったことになるでしょう」
朔は俯いた。
源吉の手。
玄蔵の笑い声。
澪の白い指。
全部、もうない。
けれど。
なかったことにはならない。
朔は床へ額をつけた。
肩が震えた。
声を殺そうとした。
できなかった。
その日、朔は生まれて初めて、誰にも隠さず泣いた。
< 十一 >
翌朝、雪は止んでいた。
屋敷の庭はまだ白かったが、東から差す日の光には、前日までとは僅かに違う柔らかさがあった。
朔は縁側に座っていた。
裸の木々を見た。
まだ芽はない。
春には遠い。
北の山の桜は、もっと遠い。
足音がした。
榊だった。
「朔」
「なんだ」
一枚の書付を差し出された。
「西の村で子供が三人消えた」
朔は書付を受け取った。
「いつ」
「一人目が五日前。二人目が三日前。昨夜、三人目だ」
「役人は」
「探した。見つからん」
朔は文字を追った。
立ち上がった。
傷が引きつった。
「まだ寝ていなければ駄目でしょう」
後ろから椿の声がした。
「歩ける」
「歩けることと、治っていることは別です」
「うるせえな」
「傷が開いたら、また私が縫います」
「それが脅しなんだよ」
椿は少しだけ笑った。
朔は門へ向かった。
「朔」
榊が呼び止めた。
振り返らない。
「春になったら」
榊は言った。
「北の山へ行ってこい」
朔の足が止まった。
長いこと、何も言わなかった。
軒から、雪解けの水が落ちた。
ぴちり。
十六の冬。
笞を受けながら聞いた音。
あのころは、ただ冷たいだけの音だった。
今は違った。
冬の終わりにしか聞こえない音だった。
「……ああ」
朔は答えた。
それから門へ向かって歩き出した。
春には、まだ遠い。
澪はもう、山の桜を見ることはない。
失ったものは戻らない。
死んだ者が帰ってくることもない。
それでも、季節だけは巡る。
そして朔もまた、その中を生きていかなければならない。
白い髪が朝日に淡く透けた。
かつて、鬼の色と呼ばれた髪だった。
その男が後に、代官榊重景の手となり、刀を持たずに悪人を捕らえて歩くことになる。
人々は畏れを込めて、いつしか彼をこう呼んだ。
――白鬼。
これは、その始まりの話である。




