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ファンタジー

白鬼始末帖 ―捨てられた悪童は、すべてを失った雪の夜から悪を討つ―

作者: くるみ
掲載日:2026/08/11

< 一 >


 朔が初めて代官所の白洲に引き据えられたのは、十六の冬だった。


 その日は朝から雪になりそうな空をしていた。低く垂れこめた雲は山の稜線を半ばまで呑み込み、風が吹くたび、板塀の向こうで裸木の梢が乾いた音を立てた。まだ雪そのものは落ちてこなかったが、湿った冷気は着物を通して肌にまとわりつき、地面に敷かれた白砂までが冷えて見えた。


 朔は後ろ手に縄を打たれ、その白砂の上に座らされていた。


 髪がひどく目立った。


 墨へ灰を混ぜたような淡い色をしている。肌も、生まれつき色が薄かった。真夏の日差しを浴びても人並みに焼けることはなく、ただ赤く腫れ、数日もすればまた白く戻った。瞳も薄い琥珀色をしていたから、幼いころから人々は、あれは人の子ではない、白い獣の仔だ、などと好き勝手なことを言った。


 親の顔は知らない。


 自分が捨てられた理由も、本当のところは知らなかった。

 ただ、おまえのような気味の悪い子を親が欲しがるものか、と何度も言われたから、そうなのだろうと思っていた。


 記憶の始まりは、川沿いの祠の軒下だった。誰かに拾われたことがあったのか、それとも初めから一人だったのか、それさえ曖昧だった。腹が減れば残飯を漁り、見つからなければ盗んだ。盗みが見つかれば逃げ、捕まれば殴られた。町の子供が石を投げてきても大人は知らぬ顔をしたが、朔が殴り返したときだけは、どこからともなく誰かが現れて朔を叩いた。


 そのうち、朔は先に殴ることを覚えた。

 三人に囲まれれば、一番強そうな一人を徹底して叩けばよかった。そいつが立てなくなれば、残りはたいてい逃げた。


 欲しいものがあるなら奪う。

 腹が減れば盗む。

 自分を傷つける者には、それ以上の痛みを返す。

 それが、この世で誰にも守られずに生きる方法だった。


「盗みは三度目だな」


 声が降ってきた。

 朔は顔を上げた。


 白洲の向こうに、榊重景が座っていた。

 この土地を預かる代官である。

 四十をいくつか越えたころだろう。細身で、威圧するほどの体格でもなく、目立った風貌でもなかった。声も低く、必要以上には張らない。


 朔は、この男が嫌いだった。

 役人というものはもっと怒鳴るものだと思っていた。罵り、罪人を人間とも思わぬ目で見るものだと思っていた。


 榊は違った。


「知らねえ」


 朔は答えた。


「一度目は銭。二度目は干し魚。此度は米問屋の蔵を破り、米二俵」

「覚えてねえよ」

「追ってきた奉公人二人を棒で打っている」

「向こうが先に捕まえようとしたんだ」

「盗人を捕まえようとするのは当然だろう」


 淡々と返された。

 朔は舌打ちした。


「知らねえって言ってんだろ」


 しばらく沈黙があった。

 庭先のどこかで、竹が風を受けて鳴った。


「そうか」


 榊は言った。


「ならば、覚えるだけ打たせよう」


 顔色一つ変えなかった。


 笞が背へ落ちた。


 最初の一つは、熱かった。

 二つ目からは痛かった。

 三つ、四つと重なるうちに、痛みはひとかたまりになり、背中全体へ燃えるように広がった。


 朔は歯を食いしばった。

 声だけは出さなかった。


 それは意地だった。

 泣いたところで誰も助けないことを知っている。ならば泣くなど、弱い者がすることだと思っていた。


 打擲の音に混じって、ぴちり、と小さな音がした。

 軒に残った夜露が落ちたのかもしれない。

 ぴちり。

 しばらくして、また落ちた。

 やがて数を数えることもできなくなり、朔はただ白砂に爪を立てていた。


「そこまで」


 榊の声で、ようやく終わった。

 息をするたび背が痛んだ。


「奉公人二人の傷は深い。だが、幸い命に別状はない。盗った米も戻っている。此度の沙汰は、これで終いとする」


 朔は息を乱しながら顔を上げた。


「……牢には入れねえのか」

「入れてほしいのか」

「殺しゃいいだろ」


 榊の眉が、ごくわずかに動いた。


「死罪にするほどの罪ではない」

「また盗むぞ」

「そのときは、その罪を裁く」

「人も殴る」

「なら、その分も裁く」


 朔は返す言葉を失った。

 榊は目の前の罪だけを見ていた。


 白い髪も。薄い目も。生まれも。

 町で何と呼ばれているかも。

 何一つ訊かなかった。


「帰れ」


 それだけだった。


 代官所を出るころ、雪が降り始めた。

 初めは粉のように小さなものが一つ二つ舞っているだけだったが、町外れに差しかかるころには、屋根にも道にも白いものが薄く残り始めていた。


 朔は榊が嫌いだった。


 鬼の仔だと呼べばよかった。

 ろくでなしと罵ればよかった。

 そうすれば、こちらにも憎む理由ができる。


 だが榊は、盗みを盗みとして裁き、暴力を暴力として罰しただけだった。

 憎まれないということが、かえってひどく居心地の悪いものだとは、それまで知らなかった。


< 二 >


 町外れに、源吉という老人が住んでいた。


 川沿いの細い道を抜けた先にある、屋根の傾いた小屋だった。庭というほどのものもなく、軒下には竹の束が積み上げられ、晴れた日には源吉がそこへ腰を下ろして笊や籠を編んでいた。


 朔が初めて源吉に会ったのは、八つか九つのころだった。

 盗んだ饅頭を懐へ入れて逃げているところを見つかった。


「盗ったものは、うまいか」


 そう訊かれたので、朔は老人の脛を蹴った。

 源吉は尻餅をついた。


 翌日、町で出くわしたとき、老人は朔を呼び止めて握り飯を一つ寄越した。


「今日は盗んどらんから、食っていいぞ」


 気味が悪いと思った。

 何か企んでいるのだと思った。

 それでも食べた。

 腹が減っていた。


 以来、源吉は妙に朔を気に掛けた。

 説教はしなかった。

 喧嘩で顔を腫らしていれば薬を塗った。竹を割る仕事を手伝えば、小銭を握らせた。


「なんで俺なんかに食わせる」


 ある日、朔は聞いた。

 源吉は竹を削る手を止めなかった。


「腹が減っとるからだ」

「それだけかよ」

「飯を食わせる理由に、ほかに何が要る」


 朔には分からなかった。

 分からないまま、何年も源吉の小屋へ出入りした。


 その年は、ひどい凶作だった。

 前年から続いた長雨で稲が傷み、春になっても町から冬が抜けなかった。

 米の値は上がり、食を減らす家が増えた。道端には頬の痩せた子供が座り込み、商家の裏へ行けば残飯を奪い合う姿があった。


 源吉は、そんな子供たちへ飯を配った。


「やめろよ」


 朔は何度も言った。


「何をだ」

「自分の分までやるな」

「年寄りはそんなに食わん」

「嘘つけ」


 老人の頬は、日に日に削げていた。

 朔は荷運びや薪割りをして銭を稼ぎ、その銭で買った米を持っていった。

 源吉は米袋を見て、まず訊いた。


「盗ったか」

「働いた」

「なら、もらおう」


 笑った。

 それでも足りなかった。


 梅雨に入る前、源吉は床についた。

 朔が小屋へ入ったとき、部屋には湿った土と煎じ薬の匂いが籠もっていた。閉め切った窓の隙間から細い光が差し、それが舞い上がる埃を照らしていた。

 布団の中の老人は、ひどく小さく見えた。


「医者を呼ぶ」

「いらん」

「黙ってろ」

「銭がもったいない」

「俺の銭だ」


 立ち上がろうとした朔の袖を、源吉が掴んだ。

 以前なら簡単に振りほどけただろう。

 だが、その手の弱さに、朔はかえって動けなくなった。


「朔」

「なんだよ」

「腹を減らしとる奴がおったらな」

「喋るな」

「飯をやれ」

「知るか」

「そう言うな」

「俺は、あんたじゃねえ」


 源吉は薄く目を開け、ほんの少し笑った。


「知っとるよ」


 その夜に死んだ。


 翌朝から雨になった。

 軒から幾筋もの水が落ちていた。

 小屋の隅には、干し芋を包んだ古い紙が置かれていた。近所の子供へやるつもりだったものらしい。


 朔はそれを見た。

 長いこと見ていた。

 胸の中に何かが詰まっていた。


 どうすればいいのか分からなかった。

 泣き方を知らなかった。


 だから三日後、酒に酔った浪人を殴った。


 三人いた。

 一人の腕を折り、もう一人の前歯を折った。最後の一人を井戸端の石へ叩きつけようとしたところで、背後から場違いなほど快活な声がした。


「おう。いい腰をしてるな」


 朔が振り返ると、大男が立っていた。

 四十ほどで、肩幅が広い。いかにも力のありそうな身体をしているくせに、顔には妙にのんびりした笑みが浮かんでいた。


「なんだ、てめえ」

「鷹取玄蔵」

「知らねえ」

「そうか。俺もおまえを知らん」

「じゃあ失せろ」

「だが、面白いから見に来た」

「何が」

「おまえが」


 朔は殴りかかった。

 拳は何もないところを抜けた。

 次の瞬間、足元が消えた。

 空が見えた。

 背中から地面へ落ちた。


 痛みより先に、何が起きたのか分からなかった。


「……何しやがった」

「投げた」

「それくらい分かる!」


 朔は立ち上がり、もう一度向かった。

 今度は井戸へ落とされかけた。

 三度目には、本当に川へ放り込まれた。


< 三 >


 鷹取道場は町から半里ほど離れた林の中にあった。

 古いが手入れの行き届いた建物で、正面に広い稽古場があり、その奥に玄蔵と娘の住まいが続いていた。


 背後には山があった。

 春には梢が淡い緑に煙り、夏になると山全体が黒みを帯びるほど葉が茂った。秋には風が吹くたび落ち葉が庭へ流れ込み、冬には裸になった木々の間から冷たい風が道場へ吹き下ろした。


 剣も槍も教えなかった。

 鷹取の家に伝わるのは、己の身体だけで相手を制する術だった。

 投げる。崩す。急所を打つ。

 刃を持つ相手に対する術もあった。


「刀を持った奴が来たらどうすんだ」


 初日に朔は訊いた。


「斬られる前に懐へ入る」

「馬鹿か」

「なら、刀を持った奴には近づくな」

「それができるなら苦労しねえよ」

「違いない」


 玄蔵は笑った。

 朔には、その笑い方が腹立たしかった。


 最初のころ、朔は男を玄蔵と呼んでいた。

 弟子になったつもりなどなかったからだ。

 飯を食わせると言われた。

 寝るところもあると言われた。

 その代わり稽古をしろという。

 なら、しばらく居てやってもいい。

 それだけのつもりだった。


 ところが、勝てなかった。

 何度殴っても当たらなかった。

 蹴れば足を払われ、掴めばいつの間にか床へ転がされていた。

 玄蔵は朔より二回り近く年上である。

 力で負けるならまだ分かる。

 だが、玄蔵はほとんど力を使っているようには見えなかった。


「もう一度」

「今日は終いだ」

「逃げんのか」

「飯の時間だ」

「もう一本!」

「腹が減ってる奴は弱いぞ」


 結局、飯を食ってからまた挑んだ。


 一月が経った。

 二月が経った。

 三月が経った。

 いつの間にか、町へ下りて盗みをすることはなくなっていた。


 盗む必要がなかった。

 働けば食える。

 稽古をすれば腹が減る。

 腹いっぱい食えば眠くなる。


 翌朝になれば、また玄蔵を倒すことを考えた。

 ある日の稽古で、朔は床に転がされたまま口にした。


「師匠。もう一回」


 言ってから、自分で気づいた。

 玄蔵も気づいたらしい。

 一瞬だけ目を細めた。

 だが、何も言わなかった。


「立て」


 それだけだった。


 玄蔵には、一人娘がいた。

 澪という。十八だった。

 母親は幼いころに亡くしているらしく、道場の炊事や細かな世話の多くを澪がしていた。

 もっとも身体は丈夫ではなかった。

 生まれつき胸が弱く、少し長く歩けば息が上がった。寒暖の差が大きい日は朝から床を離れられないこともあり、夏の暑さにも弱かった。


 けれど、暗い娘ではなかった。

 むしろ道場で一番よく笑った。

 門弟が玄蔵に投げられれば笑い、朔が投げられればもっと笑った。


「そんなに面白えか」

「だって、朔さんはいつも同じ辺りに落ちるんですもの」

「今度は違うところに落ちてやる」

「投げられないようにする、ではないんですね」


 くすくす笑う。


「うるせえな」

「では、黙っています」


 そう言って、本当に黙る。

 朔が気まずくなって、


「別に喋るなとは言ってねえだろ」


 と言うと、また笑った。


 春が終わり、夏が来た。

 道場の裏山は濃い緑に沈んだ。

 昼になれば蝉の声が幾重にも重なって林を満たし、庭へ出れば白い陽射しが土から照り返した。

 そのころには、澪が体調を崩すと、朔がそばにいることが増えていた。


 玄蔵は薬を取りに町へ行くことがあった。

 門弟たちは薪を割り、井戸から水を汲み、畑へ出る。

 朔は、なぜか澪の部屋に残された。


「俺でいいのかよ」

「おまえは案外、病人には静かだからな」


 玄蔵はそう言った。


 腹立たしかったが、否定もできなかった。

 澪が眠っている間は縁側で稽古の型をさらった。

 咳が聞こえれば水を持っていった。

 夜まで熱が下がらないときには、柱へ背を預けたまま眠ったこともある。

 目を覚ますと、澪の方が起きていた。


「なぜそこにいるんです」

「知らねえ」

「帰って寝ればよかったのに」

「師匠がいねえんだから仕方ねえだろ」

「優しいんですね」

「寝ろ」


 朔は背を向けた。

 耳が妙に熱かった。


 夏の盛り。

 澪が少し具合を悪くした日のことだった。

 午後になって熱は下がったが、身体を起こすとまだ息苦しい様子だった。

 庭の土は日差しに白く乾き、向こうの木立だけが暗く沈んでいる。風はほとんどなかった。

 蝉の声の向こうに、山が見えた。


「朔さん」

「なんだ」

「北の山へ行ったことがありますか」

「ああ」

「頂近くに、大きな桜があるそうですね」

「あったな」

「どんな桜ですか」


 朔は少し考えた。


「……でかい」


 澪は呆れたように笑った。


「それは聞きました」

「桜なんて、どれも同じだろ」

「そんなことはありません」


 言ってから、澪は山を見た。


「私は一度も見たことがないんです」

「なら行けばいい」

「行けないから、訊いているんですよ」


 責めるでもなく言われて、朔は黙った。

 道場から麓へ行くだけでも、澪にはかなりの負担だった。まして山道など歩けるはずがない。


「父さまには、子供のころから何度も連れていってやると言われました。でも、麓まで行ったところで具合が悪くなってしまって」

「師匠が背負えばいいだろ」

「父さまも、そう言いました」

「じゃあ――」

「私が嫌だったんです」


 澪は笑った。


「途中で具合が悪くなって、皆に迷惑をかけるのが怖かったので」


 朔は庭を見た。

 蝉が鳴いている。

 ひどくうるさいはずなのに、そのときは妙に遠く聞こえた。


「来年」

「え?」

「来年の春」


 澪がこちらを向いた。


「俺が背負っていく」


 一瞬、澪は何も言わなかった。


「山ですよ」

「知ってる」

「途中で何度も休むかもしれません」

「休めばいい」

「重いですよ」

「もっと食え」


 澪は吹き出した。

 笑った拍子に少し咳き込み、朔は慌てて水を取った。

 椀を受け取った澪は、一口飲んでから朔を見た。


「では、約束してください」

「何を」

「来年の春」


 その目があまりに真剣だったので、朔も笑えなかった。


「ああ」

「私を山の桜まで連れていってくれると」

「ああ」


 朔は頷いた。


「俺が背負っていく。だから来年は、絶対に見せてやる」


 そのとき、ようやく風が吹いた。

 山の木々がざわりと鳴り、庭の木陰が揺れた。軒に掛けられていた小さな風鈴が、忘れていたように一度だけ涼しい音を立てた。

 澪は目を細めた。


「約束ですよ」

「ああ」


 朔は、もう一度答えた。


< 四 >


 秋になると、朔に勝てる門弟はいなくなった。

 もともと喧嘩だけなら、道場へ来る以前から大人を何人も相手にしていた。痛みに強く、相手の動きを見る勘もあった。

 そこへ玄蔵が、立ち方から呼吸まで一つずつ叩き込んだ。


 力任せに振っていた拳から無駄が消えた。

 殴る前に動く相手の肩が見えるようになった。

 足をどこへ置けば、相手の身体が崩れるのかも分かるようになった。


 そして秋の終わり、初めて玄蔵に技が入った。

 稽古場の戸は開け放たれていた。

 外では枯れ葉が風に流れ、庭の隅へ集まっている。


 玄蔵が踏み込んだ。朔は受けなかった。

 一歩外へ出て、その懐へ入った。

 足で床を踏み、腰を回す。

 掌が玄蔵の胸へ当たった。


 どん、と低い音がした。

 玄蔵の身体が半歩下がった。


 道場にいた者が息を呑んだ。

 朔自身が一番驚いた。


「……入った」

「そうだな」

「入ったぞ、師匠」

「聞こえてる」


 玄蔵は胸を押さえた。


「痛え」


 朔は笑った。

 どうしてこんなに嬉しいのか、自分でも分からなかった。


「あと五年もすれば、俺を越えるかもしれんな」


「五年?」

「五年だ」

「二年で越す」

「言うようになったな」

「一年でもいい」

「調子に乗るな」


 玄蔵の拳が飛んできた。

 次の瞬間、朔は床を転がった。

 縁側から、澪の笑う声が聞こえた。


 冬の気配が近づいたころ、玄蔵が珍しく朔を囲炉裏端へ呼んだ。

 澪もいた。

 炭が赤く熾り、ときどき小さく爆ぜた。


「朔」

「なんだ」

「澪を嫁にもらう気はあるか」


 口に含んだ茶を、朔は本当に吹いた。


「父さま!」


 澪が顔を真っ赤にした。


「いずれ話さねばならんだろ」

「だからといって、そんな聞き方がありますか」

「回りくどいのは性に合わん」

「俺を見るなよ」


 朔は言った。


「聞かれてんのはおまえだ」


 玄蔵は平然としている。

 逃げる場所がなかった。


 敵が百人同時に挑んできたとしても、今よりましなのではないかと思った。

 しばらくして、朔は澪を見た。

 澪は俯き、膝の上で指を重ねていた。


「……俺でいいなら」


 自分の声とは思えないほど小さかった。


「俺は」


 そこで言葉が詰まった。


 盗むことなら迷わなかった。

 殴ることも。

 なのに、これほど難しい言葉がこの世にあるとは知らなかった。


「澪と一緒にいたい」


 ようやく言った。

 澪の睫毛が震えた。


 やがて、小さく頷いた。

 玄蔵は何も言わず、火箸で炭の位置を直した。


「なら、春になったら祝言だ」


 その夜、朔はなかなか眠れなかった。

 道場の外では、北風が林を渡っていた。

 板戸がときおり小さく鳴る。


 春。 祝言。山の桜。

 そういうものが、自分の先にある。

 そのことが、どうしても信じられなかった。


 自分には明日の飯すら保証されていなかったころがある。

 夜を越すだけで精一杯だったころがある。

 それが今は、春を待っている。

 不思議なことだった。


< 五 >


 十二月の初め、朔は源吉の墓へ行くことにした。

 祝言が決まったことを報せたかった。

 墓は峠を越えた源吉の生まれ村にあったから、往復には二泊かかる。


 出立の朝、空は一面に白く曇っていた。

 玄蔵は庭で薪を割っていた。


「雪になるぞ」

「降る前に峠を越える」

「無理はするな」

「師匠に言われたくねえ」


 玄蔵は笑った。

 門まで行くと、澪が待っていた。


「気をつけてくださいね」

「おまえこそ寝込むなよ」

「努力します」


 朔は一度門を出た。

 それから何か思い出して振り返った。


「澪」

「はい」

「春になったら山だぞ」


 澪は笑った。


「忘れていません」

「俺もだ」


 朔は手を上げた。

 澪も、小さく手を上げた。


 それが最後になった。


 二泊して戻る日の昼過ぎから、雪が降り始めた。

 峠を下りたころには、枯れ草の上が薄く白くなっていた。

 道場へ続く林へ入る。

 そこで朔は足を止めた。


 何かがおかしかった。静かなのだ。

 冬なのだから蝉は鳴かない。鳥も少ない。

 それでも、道場には人がいる。

 いつもなら薪を割る音がする。掛け声が聞こえる。誰かが笑う。澪が箒を使う音さえ、林の中では案外よく聞こえた。


 今日は何もなかった。

 雪が葉を失った枝に触れ、かすかな音を立てるだけだった。


 朔は歩いた。

 自然に足が速くなった。

 門が開いていた。

 片側が外れかけている。

 門柱に深い傷があった。

 刃物の跡だった。


 その下に、雪を吸って黒くなったものが落ちていた。

 竹刀だった。

 折れていた。


 朔は走った。

 庭に人が倒れていた。

 門弟の一人だった。


「おい」


 返事がない。

 肩を掴んだ。冷たかった。

 その向こうにも倒れている。

 井戸端にも。縁側にも。

 白くなり始めた庭のあちこちに、暗い血が染みていた。


「師匠!」


 朔は叫んだ。

 声が妙に大きく聞こえた。


「澪!」


 道場へ駆け込む。

 戸が外れていた。


 稽古場の床には泥の足跡が乱れ、柱にはいくつもの刀傷があった。

 壁際に男が倒れている。

 黒い縄を手首に巻いた、見覚えのない男だった。

 その向こうにも、もう一人。

 玄蔵が倒したのだろう。


「朔……」


 かすかな声がした。


 振り向いた。

 門弟の一人が壁際にいた。

 腹を深く斬られている。

 朔は膝をついた。


「誰だ」


 門弟の唇が震えた。


「黒縄……」

「黒縄衆か」


 わずかに頷いた。


「兵馬が……来た。先生が……」

「師匠はどこだ」


 門弟の目が奥へ動いた。


「娘さんを……」


 そこで声が切れた。

 朔は肩を揺すった。


「おい」


 返事はなかった。

 奥の部屋へ行った。

 玄蔵がいた。壁際に、半ば座り込むような姿勢で倒れていた。

 その腕の中に、澪がいた。


 朔は敷居を越えたところで止まった。

 何も考えられなかった。


 玄蔵の前腕には深い傷があった。

 だが、最も深い傷は背中に集中していた。


 肩口から斜めに走る傷が一つ。

 その下に、もう一つ。

 さらに脇の近くには、後ろから突かれた跡があった。


 最後には敵へ背を向けていたのだ。

 澪の前に立ち、自分の身体を盾にして。


「……師匠」


 声が出た。

 当然、返事はなかった。

 朔は膝をついた。

 玄蔵の腕の中から、澪の手が落ちている。


 その手を取った。

 冷たかった。


 夏の午後が浮かんだ。

 蝉の声。青い山。風鈴。笑った顔。


『来年の春』

『約束ですよ』

『俺が背負っていく』


「……澪」


 呼んだ。

 返事はない。

 障子が破れていた。


 その穴から雪が吹き込み、澪の髪へ落ちた。


 白い粒は、溶けなかった。


 朔はそれを見た。

 奇妙に、そのことだけがはっきり分かった。


 春は来る。自分が何をしようと。

 ここにいる人間が一人残らず死のうと。

 春になれば山では桜が咲く。

 だが、澪は見ない。


 来年は来るのに、澪には来ない。

 胸の奥に大きな穴が開いたようだった。

 悲しいのか、苦しいのか、それすら分からなかった。

 源吉が死んだときと同じだった。

 泣くことができない。


 玄関の外に出た。

 雪の上には、まだ新しい足跡が残っていた。

 大勢のものだった。


 門の外へ続き、山の方角へ向かっている。

 降り始めてから、さほど時間が経っていない。

 黒縄衆は、まだ遠くへは行っていない。


 朔は稽古場へ戻った。

 棚に畳まれた白い稽古着を取った。

 袖を通した。帯を締めた。

 床へ手をついた。

 この床で、玄蔵に何百回も投げられた。

 澪に笑われた。

 門弟たちと飯を食った。

 初めて人の中で眠った。

 初めて、明日もここへ帰ってくるのだと思った。


 いつからか。ここが家だった。


「師匠」


 朔は言った。


「行ってくる」


 雪の中へ出た。


< 六 >


 雪は次第に強くなった。

 足跡を追って山へ入るころには、木々の根元まで白くなっていた。


 黒縄衆は、このところ山中に潜んでいた浪人崩れの一党だった。

 戦の時代に食い扶持を得ていた者、主家を失った者、仕官が叶わず荒れた者。はじめは街道で旅人を脅す程度だったらしいが、やがて村へ押し入り、米や銭を奪うようになった。


 玄蔵の道場にも何度か使いが来ていた。

 門弟をよこせ。道場を宿に使わせろ。

 そう言われるたび、玄蔵は追い返した。


「武術は、弱い奴から物を奪うためにあるんじゃねえ」


 笑いながらそう言った。


 頭目は葛城兵馬。

 戦場を知る男だという。


 足跡は山中の廃寺へ続いていた。

 雪に霞んだ山門の向こうで、灯籠に火が入っている。


 二人の男が立っていた。


「誰だ」


 朔は歩いた。


「止まれ」


 男の手が刀にかかった。

 朔は止まらなかった。


「止まれと言っている!」


 刀が抜かれた。

 男の肩が動く。

 玄蔵に何千回と教えられた。

 

 刃を見るな。人を見ろ。

 刃は勝手には動かない。

 肩が動く。腰が動く。

 それから刀が来る。

 男が横に薙いだ。

 朔は刃の外へ逃げなかった。


 半歩、前へ出た。

 白刃が髪を掠めた。

 懐へ入る。

 掌で顎を突き上げる。

 男の身体が仰け反った。


 もう一人が刀を抜く。

 朔は倒れかけた男を押した。

 二人がぶつかる。


 手首を取った。捻る。

 刀が雪へ落ちた。


 肘へ一撃。

 男が声を上げる。

 腹へ膝を入れた。

 崩れたところで首の付け根を打った。

 二人とも動かなくなった。


 息はある。

 朔は刀を拾わなかった。


 寺の中から鐘が鳴った。

 途端に人の声が湧いた。


 戸が開く。

 足音。怒号。

 正面へ出れば囲まれる。

 朔は境内の脇へ走った。


 鐘楼と本堂の間に、人一人がようやく刀を振れるほどの狭い通路がある。

 そこへ入った。


 追ってきた男が突きを放つ。

 壁へ肩を寄せる。

 刃が脇を通った。

 腕を掴む。そのまま壁へ叩きつけた。

 骨の折れる感触が手へ伝わる。


 二人目が前の男を押し退けた。

 刃が来る。


 避けきれない。

 左の上腕が裂けた。

 熱いものが流れた。

 だが、動いたのは痛みより先だった。

 男の喉へ拳を入れる。

 息が止まったところへ身体を入れ替え、背から壁へ叩く。


 三人目。

 四人目。


 朔は後ろへ下がらなかった。

 ここを抜ければ囲まれる。

 だから、来る者を一人ずつ倒した。


 それでも無傷では済まなかった。


 前腕。肩。腿。

 浅いが、いくつも斬られた。

 血が稽古着へ滲み、雪へ落ちた。

 それでも身体は動いた。

 玄蔵に教えられた通りに。

 やがて通路へ来る者がいなくなった。


 朔が境内へ出ると、五、六人ほどが散らばっていた。

 皆、刀を持っている。

 だが、勢いは先ほどとは違った。


「……こいつ」


 一人が言った。

 朔は息を整えた。

 白い髪が血で固まり、頬にも赤い筋があった。

 白かった稽古着は、胸から袖まで斑に染まっていた。


「白鬼だ」


 誰かが呟いた。

 その言葉を聞いた瞬間、幼いころの石の痛みが蘇った。


 白鬼。化生。鬼の仔。


 昔なら、その言葉だけで殴りかかっていただろう。

 今は何も感じなかった。


「来いよ」


 朔は言った。


「刀があるんだろ」


 二人が同時に来た。


 朔は下がった。

 石段へ誘う。

 雪で足元が滑る。

 一人が踏み込んだ瞬間、僅かに足を取られた。

 朔はそこへ入った。


 手首を払い、胸へ掌を打つ。

 男が後ろへ倒れ、後続を巻き込んだ。

 横から刃が来た。

 背を反らす。

 間に合わない。

 胸元が裂けた。

 浅い。

 そのまま相手の懐へ入り、肩を担いで投げた。

 男は雪の積もった石段を転がった。

 起き上がらない。


 残った者の顔に、恐怖が浮かんだ。


「化け物……」


 一人が後ずさった。

 朔は追わなかった。


 呼吸をするだけで胸が痛んだ。

 右の拳は裂け、左腕には力が入りにくい。

 それでも、一歩進んだ。


 男はさらに下がった。


「白鬼だ!」


 叫んだ。

 踵を返して走った。

 別の二人も続いた。

 残った者も刀を捨てた。


「……俺は知らねえ。兵馬に言われただけだ」


 朔は男を見た。


「兵馬はどこだ」


 男の目が、本堂の奥へ向いた。


< 七 >


 本堂の奥には、小さな灯が一つだけあった。

 外の雪明かりが障子を白く浮かび上がらせ、室内には古い木と油の匂いがしていた。


 葛城兵馬は、そこで待っていた。

 五十前後。

 大柄ではない。

 むしろ無駄な肉のない、細い身体をしていた。

 傍らには黒鞘の刀がある。


「ずいぶん減らしたな」


 兵馬は言った。


 朔は答えなかった。

 息を整えた。

 身体のあちこちが熱を持っている。


「鷹取のところの小僧か」


 兵馬は朔の髪を見た。


「ああ。思い出した。白い野良犬だ」

「師匠を殺したのは、おまえか」

「最後に斬ったのは俺だ」


 兵馬は立ち上がった。

 鞘を左手へ取る。


「強かったぞ、玄蔵は」


 朔の拳に力が入った。


「十八人で行った。二人はあの場で殺された。四人はまともに動けなくされた」


 鯉口が切られた。

 小さな金属音がした。


「娘さえいなければ、もう何人か持っていかれたかもしれんな」


 朔の中で何かが切れた。


 床を蹴った。

 兵馬の姿が揺れた。


 次の瞬間、胸元に冷たい感触が走った。

 朔は反射的に止まった。

 稽古着が裂けた。

 一拍遅れて、血が滲んだ。


「遅い」


 兵馬の刀は、すでに正眼へ戻っていた。

 朔は息を呑んだ。


 違う。

 これまでの者とは。


 一歩入れば刃が来る。

 右へ回っても、すでに兵馬の身体が正面を向く。

 足を狙おうとすれば切っ先が落ちる。

 玄蔵以外の者を相手に、ここまで間合いが遠いと感じたことはなかった。


「徒手か」


 兵馬が薄く笑った。


「玄蔵らしい」


 突きが来た。

 朔は首を逸らした。

 耳が裂けた。

 返す刀が横から来る。

 下がる。

 さらに兵馬が踏む。


 速い。

 肩へ刃が落ちた。

 避けきれない。

 前腕で急所だけを庇った。

 布が裂け、皮膚が切れた。

 痛みに身体が強張る。


 刀が上がる。


「終わりだ」


 そのとき、玄蔵の声がしたように思った。


『刃を見るな』


 兵馬の目ではない。

 肩。刀を振り下ろす直前、右肩が僅かに上がった。


 朔は踏み込んだ。

 逃げるのではない。

 刀が最も力を持つ場所よりも、さらに内へ。

 刃が肩口を掠めた。


 熱が走る。

 だが、入った。

 朔の拳が兵馬の脇腹へ沈んだ。


「……ッ」


 兵馬の息が止まる。

 顎へ肘。入った。

 兵馬が二歩下がる。


 朔は追った。

 初めて届いた。


「なるほど」


 兵馬は口端の血を拭った。


「確かに玄蔵の拳だ」


 言葉の途中で踏み込んできた。

 刀ではなかった。

 柄頭が朔のこめかみへ叩き込まれた。

 視界が白く弾ける。

 朔は床を転がった。


 身体を起こすより早く、兵馬の足が腹へ入った。


「ぐっ……」

「素手であれば、剣士は蹴らぬとでも思ったか」


 朔は咳き込んだ。

 口に鉄の味が広がった。


「おまえは玄蔵には及ばん」


 兵馬は言った。


「……知ってるよ」


 朔は立ち上がった。


「俺はまだ、一度しか師匠に技を入れてねえ」

「ならば、ここで死ね」


 兵馬が来た。

 一刀。二刀。三刀。

 朔は下がった。


 胸を切られた。

 腿も切られた。

 避けるたび、少しずつ傷が増える。


 兵馬は息を乱さない。

 こちらだけが削られていく。


 背中が柱へ当たった。

 もう後ろはなかった。


 兵馬の刀が上がる。

 朔は身体を沈めた。

 刃が柱へ食い込んだ。


 ほんの一瞬。

 朔は刀を持つ手首を掴んだ。

 兵馬は迷わなかった。

 刀から手を離した。

 空いた手の指が、朔の目へ伸びる。

 顔を逸らした。

 爪が頬を裂いた。

 同時に、膝が腹へ入った。


 二人で床へ倒れた。

 朔は初めて知った。

 この男は刀が強いのではない。

 人を殺すことに慣れているのだ。


 床の上でも、兵馬は迷わなかった。

 肘。拳。喉。

 急所ばかりを狙ってくる。


 やがて兵馬の前腕が朔の喉へ食い込んだ。

 息ができない。

 視界の端が暗くなっていく。


「玄蔵はな」


 兵馬が低く言った。


「あの娘さえ捨てれば、生きられた」


 朔の手が止まった。


「馬鹿な男だ。娘を抱えたまま敵に背を向けた」


 兵馬が笑った。


「守るものがある奴は弱い」


 違う。朔は思った。


 源吉が浮かんだ。

 自分の飯を子供へ渡した老人。


 玄蔵が浮かんだ。

 背中に傷を負いながら、澪を抱いていた男。


 澪が浮かんだ。

 来年の春を信じて笑った娘。


 皆、死んだ。

 誰かを捨てなかったから。


 だが。

 それは弱かったからではない。


「……うるせえ」


 兵馬の眉が動いた。


「なんだ」

「師匠を」


 朔は兵馬の腕へ両手を掛けた。


「てめえなんかが語るな!」


 兵馬の重心が浮いた。

 何百回と玄蔵に投げられた形。


 今度は、自分が投げる。

 兵馬の身体が床へ叩きつけられた。


 朔も転がった。

 兵馬はすぐに起きた。

 刀へ手を伸ばす。

 朔も立つ。


 間に合わない。

 兵馬の指が柄へ届く。

 朔はその手首を踏んだ。


 骨が鳴った。

 兵馬が初めて叫んだ。

 だが、左手が腰へ伸びる。


 脇差。

 朔は気づいた。

 遅かった。


 刃が横から走った。

 脇腹へ熱が走った。


 深い。だが、刺されてはいない。

 刃は肉を深く裂きながら外へ抜けた。


 兵馬は手応えに笑った。


 その一瞬。

 朔は脇差を持った兵馬の左腕へ絡みついた。


「……何?」


 抱え込む。

 逃がさない。


「離せ!」

「嫌だ」


 頭突き。

 兵馬の鼻から血が噴いた。

 膝を腹へ入れる。


 一度。

 二度。


 兵馬がよろめいた。

 だが倒れない。


 強い。

 それでも。


 朔は右手を開いた。

 秋の日を思い出した。


 道場の板床。

 開いた戸の向こうを流れる落ち葉。

 縁側で笑っていた澪。


 そして。

 目の前に立つ玄蔵。


『腕で打つな』


 足を踏む。


『地面からもらえ』


 腰。


『腰から肩へ通せ』


 肩。


『最後に掌へ渡せばいい』


 兵馬が朔の動きに気づいた。

 右手を上げようとした。


 遅い。

 朔は踏み込んだ。

 掌底が兵馬の胸へ入った。


 音は大きくなかった。

 どん、と。

 ひどく低い音がした。

 兵馬の身体が後ろへ飛んだ。

 柱へ背中から激突した。


 本堂が震えた。

 梁から埃が落ちた。

 兵馬は床へ崩れた。

 朔も膝をついた。


 息ができない。

 脇腹から血が落ちる。

 それでも兵馬は動いた。


 手を伸ばす。

 床に落ちた刀へ。


「……化け物め」


 朔は立ち上がった。

 一歩。

 もう一歩。


「違う」


 兵馬が刀の柄を掴んだ。


「俺は」


 刀が僅かに持ち上がる。

 朔は最後の一歩を踏んだ。


「鷹取玄蔵の弟子だ」


 拳を振り下ろした。

 兵馬の手から刀が落ちた。


 今度こそ、男は動かなかった。


< 八 >


 どれほどそこにいたのか分からなかった。


 外へ出ると、すっかり夜になっていた。

 雪はまだ降っていた。

 境内には、倒れた男たちがいる。


 呻く者もいた。

 動かない者もいた。

 逃げた者もいた。

 朔は彼らを見なかった。


 白かった稽古着は、もうほとんど赤黒く染まっていた。

 右拳は腫れ、左腕は上がらない。

 脇腹を手で押さえた。

 血は止まらないが、歩けない傷ではなかった。


 朔は山を下りた。

 途中で何度も転んだ。


 雪へ手をついた。

 立った。

 また歩いた。


 どうして代官所へ行こうと思ったのか、自分でも分からなかった。

 ただ、一人だけ思い浮かんだ。


 十六の冬。

 自分を憎まず。庇いもせず。

 罪の分だけ罰した男。


 榊重景。

 あの男なら。


 自分を正しく殺してくれるのではないかと思った。



 夜半、代官所の門番は、雪の向こうから歩いてくるものを見つけた。


 初めは人間に見えなかったという。

 白いものが、ゆっくり歩いてくる。


 雪かと思った。

 やがて、それが髪だと分かった。

 男だった。

 髪は雪より僅かに灰色。

 着物は血で赤い。


 歩いたあとには、点々と赤い跡が残った。


「止まれ!」


 門番が槍を構えた。

 男は止まった。


「何者だ!」

「朔だ」


 門番の顔が変わった。

 朔は顔を上げた。


「榊を呼べ」

「何事だ」

「人を殺した」


 雪が肩へ降り積もる。


「何人も」


 白い息を吐いた。


「だから、榊を呼んでくれ」


 ほどなく榊が現れた。

 夜着の上に羽織を着ていた。


 朔を見る。

 傷を見る。

 赤く染まった稽古着を見る。


「黒縄衆か」


 朔は目を上げた。


「……知ってたのか」

「追っていた」

「俺がやった」

「ああ」

「殺した」


 榊は黙っている。


「殺せ」


 返事はない。


「聞こえねえのか」


 朔は笑おうとした。

 笑えなかった。


「俺を殺せよ」


 そこで膝が折れた。

 地面が近づいた。


 雪の白さが視界いっぱいに広がった。

 誰かが身体を受け止めた。

 そこで視界は黒に転じた。


< 九 >


 夢の中では、蝉が鳴いていた。

 澪が縁側に座っている。

 庭は夏だった。

 山は青かった。


『来年の春ですよ』


 分かっている、と朔は答えようとした。

 声が出なかった。


 澪の向こうで桜が咲いた。

 季節が違う、と朔は思った。

 花びらが舞う。

 ひらひらと落ちる白い花びらが、途中から雪へ変わった。

 澪の姿が見えなくなった。

 朔は手を伸ばした。


「目を覚ましましたか」


 知らない声だった。

 目を開ける。

 天井が見えた。

 身体中が痛かった。

 少し動いただけで脇腹が引きつった。


「動かないでください」


 若い娘がいた。

 二十歳ほど。

 髪を簡素に結い、薬の入った椀を手にしている。


「……ここは」

「代官屋敷です」

「なんで」

「死にかけていたからです」

「放っときゃよかっただろ」

「嫌です」


 即答だった。

 朔は娘を見た。


「誰だ」

「榊椿です」

「榊?」

「父は榊重景です」


 代官の娘だった。


「なんで代官の娘が俺なんか看てる」

「皆が嫌がったので」

「なら、おまえも嫌がれよ」

「嫌です」

「俺は人を殺した」


 椿は少し考えた。


「それを決めるのは父です」

「俺がやったって言ってる」

「罪があるかどうかを決めるのは、あなたではありません」


 朔は口を閉じた。

 変な女だと思った。

 澪とは、少しも似ていなかった。


 顔も違う。

 声も。

 澪なら、もっと柔らかく言っただろう。


 けれど。

 相手がどんな人間なのか知る前から恐れようとしない、その目だけが妙に似ていた。


< 十 >


 再び白洲へ出されたのは、それから十二日後だった。

 正座はまだできなかった。

 脇腹の傷が引きつるため、片膝を崩して座ることを許された。


 冬の日差しが庭へ落ちていた。

 雪は軒下に残っている。

 だが、陽の当たるところでは融け始めていた。


 屋根から雫が落ちた。

 ぴちり。

 朔は昔を思い出した。


 十六の冬。

 ここで笞を受けた。

 あのときと同じ音だった。


「沙汰を申し渡す」


 榊が言った。

 朔は顔を上げた。


「黒縄衆については、かねてより街道筋の強盗、人攫い、村への押し込み、役人二名の殺害により追捕を命じていた」


 朔は黙って聞いた。


「所在を掴めずにいたが、此度、鷹取道場への襲撃により居場所が明らかになった。逃げた者のうち三名はすでに捕らえた」


 榊は傍らの書付へ目を落とした。


「その三名の証言、および現場を改めた者の報告は一致している。おまえは無腰で寺へ入り、先に刀を抜いたのは黒縄衆。倒れて抵抗できなくなった者へ追い打ちをした形跡もない」


 朔の眉が動いた。


「葛城兵馬についても、最後まで刀を取ろうとしていたと、生き残った者が申している」


「……俺は仇を討ちに行った」

「ああ」

「殺すつもりだった」

「そうだろう」

「なら、罪だろ」


 榊は朔を見た。


「心の中で何を思っていたかではなく、何をしたかを裁く」

「俺は何人か殺した」

「追捕を命じられた凶賊が刀を抜き、おまえはこれと戦った。その結果として五名が死んだ」


 五人。

 朔は初めて数を知った。


「本来、私怨で一人乗り込むような真似を褒めるつもりはない」


 榊の声は少しも優しくなかった。


「愚かな行いだ。おまえ自身が死んでいても何ら不思議ではない」


 朔は黙った。


「だが、此度の死者について、おまえを罪に問う根拠はない」


 ぴちり、ぴちり。雫の音が響いた。


「咎めなしとする」


 朔は榊を見た。

 榊も見返した。


 憐れんでいるわけではない。

 庇っているわけでもない。

 十六のときと同じだった。


 罪があれば罰す。

 なければ罰さない。

 それだけだ。


「それとな」


 榊は言った。


「玄蔵から、おまえの話は以前より聞いていた」


 朔の顔が変わった。


「……師匠から?」

「二度ほど、ここへ来たことがある」

「何しに」

「黒縄衆について知らせにな」


 これで、なぜ代官が黒縄衆を知っていたのかもつながった。


「その折、おまえのことも聞いた」


 朔は膝の上の拳を見た。


「何を」

「盗みはしなくなった。喧嘩も減った。稽古だけは馬鹿みたいにする」

「師匠がそう言ったのか」

「ほかにもある」

「……なんだよ」

「口は悪い。愛想も悪い。だが、困っている者を見ると案外放っておけん」

「嘘だ」

「玄蔵の言葉だ」


 拳が震えた。

 榊は少し間を置いた。


「朔」

「なんだ」

「ここで働け」


 朔は顔を上げた。


「……何?」

「黒縄衆のような連中は、ほかにもいる。役人だけでは潜り込めぬ場所もある」

「俺に何させる気だ」

「探索と捕縛だ。役人の手先として働け」

「悪党を殴って連れてくりゃいいって?」

「簡単に言えばな」

「殺せってことか」

「必要のない相手は殺すな」

「必要なら」

「その判断も覚えろ」


 朔は乾いた笑いを漏らした。


「よく俺なんか使う気になるな」

「腕が立つ」

「俺は人殺しだぞ」

「此度については罪人ではない」

「そういう話じゃねえ!」


 朔の声が白洲へ響いた。


「俺がいたら、人が死ぬんだよ!」


 榊は黙った。


「俺の親だって俺を捨てた! 源吉も死んだ! 師匠も死んだ! 澪も!」


 言葉が詰まった。


「俺が大事にした奴は、みんな死ぬ!」


 視界が歪んだ。

 朔は目を瞬いた。

 頬に熱いものが落ちた。

 手で触れた。

 濡れていた。


 しばらく、それが何なのか分からなかった。


 涙だった。


「もう何もねえんだ」


 声が掠れた。


「俺には、もう何も残ってねえ」


 涙が次々と落ちた。

 止められなかった。


 子供のころ、石を投げられても泣かなかった。

 殴られても。

 飢えても。

 笞を受けても。

 源吉が死んだときさえ、泣けなかった。

 なのに今になって、すべてが溢れ出してきた。


「頼む」


 朔は床へ手をついた。


「もういいだろ」


 榊を見ることができなかった。


「殺してくれ」


 自分の声が震えていた。


「俺を死罪にしてくれ」


 そのまま朔は目を強く瞑った。

 涙を止める方法も知らなかった。

 ただ、目を閉じても、涙は止まらないということを知った。

 

 ぱん、と乾いた音がした。

 朔の顔が横を向いた。


 頬が熱い。

 目の前に椿が立っていた。

 屋敷から飛び出したのだろう、裸足だった。


「……何しやがる」

「腹が立ちました」

「椿」


 榊が低い声で言った。


「父上、少し黙っていてください」


 榊が僅かに眉を上げた。

 だが、止めなかった。

 椿は朔を見た。


「あなたが死んだら、鷹取様は喜ぶんですか」


 朔の身体が強張った。


「黙れ」

「澪様は喜ぶんですか」

「黙れ!」

「あなたと祝言を挙げることを望んだのを、後悔するんですか」

「知らねえくせに!」


 朔は叫んだ。

 椿は引かなかった。


「知りません」

「だったら――」

「私は澪様に会ったことがありません」


 椿は言った。


「でも、あなたは知っているでしょう」


 白洲が静かになった。

 軒から雫が落ちた。

 ぴちり。


「あなたと一緒にいた澪様は、不幸だったのですか」


 朔は答えられなかった。


 夏の縁側が浮かんだ。

 蝉。

 風鈴。

 青い山。

 水の入った椀。

 笑った顔。


『約束ですよ』


「……違う」


 声が漏れた。


「なら」


 椿の声が強くなった。


「勝手に不幸にしないでください」


 朔が目を上げた。


「亡くなった人たちの人生を、あなたの罪にしないでください」


 何も言えなかった。


「源吉様は、あなたへ食べ物を与えた」


 涙が落ちた。


「鷹取様は、あなたを弟子にした」


 さらに落ちた。


「澪様は、あなたと春を待とうとした」


 朔の肩が震えた。


「それを全部、あなたがいたから不幸だったことにするんですか」

「……俺は」

「生きてください」


 椿は言った。


「生きて、誰かを助けてください」

「俺が?」

「あなたがです」

「俺に何ができる」

「悪い者を一人止めれば、その人に傷つけられるはずだった誰かが一人助かるかもしれない。十人止めれば、十人かもしれない」


 椿は朔をまっすぐ見ていた。


「そうして生きたら」


 僅かに声が震えた。


「あなたを助けた人たちが、あなたを助けたことは、間違いではなかったことになるでしょう」


 朔は俯いた。


 源吉の手。

 玄蔵の笑い声。

 澪の白い指。

 全部、もうない。


 けれど。

 なかったことにはならない。


 朔は床へ額をつけた。

 肩が震えた。

 声を殺そうとした。

 できなかった。


 その日、朔は生まれて初めて、誰にも隠さず泣いた。


< 十一 >


 翌朝、雪は止んでいた。

 屋敷の庭はまだ白かったが、東から差す日の光には、前日までとは僅かに違う柔らかさがあった。


 朔は縁側に座っていた。

 裸の木々を見た。

 まだ芽はない。

 春には遠い。

 北の山の桜は、もっと遠い。


 足音がした。

 榊だった。


「朔」

「なんだ」


 一枚の書付を差し出された。


「西の村で子供が三人消えた」


 朔は書付を受け取った。


「いつ」

「一人目が五日前。二人目が三日前。昨夜、三人目だ」

「役人は」

「探した。見つからん」


 朔は文字を追った。

 立ち上がった。

 傷が引きつった。


「まだ寝ていなければ駄目でしょう」


 後ろから椿の声がした。


「歩ける」

「歩けることと、治っていることは別です」

「うるせえな」

「傷が開いたら、また私が縫います」

「それが脅しなんだよ」


 椿は少しだけ笑った。

 朔は門へ向かった。


「朔」


 榊が呼び止めた。

 振り返らない。


「春になったら」


 榊は言った。


「北の山へ行ってこい」


 朔の足が止まった。

 長いこと、何も言わなかった。


 軒から、雪解けの水が落ちた。

 ぴちり。


 十六の冬。

 笞を受けながら聞いた音。

 あのころは、ただ冷たいだけの音だった。


 今は違った。

 冬の終わりにしか聞こえない音だった。


「……ああ」


 朔は答えた。

 それから門へ向かって歩き出した。


 春には、まだ遠い。

 澪はもう、山の桜を見ることはない。

 失ったものは戻らない。

 死んだ者が帰ってくることもない。


 それでも、季節だけは巡る。

 そして朔もまた、その中を生きていかなければならない。


 白い髪が朝日に淡く透けた。

 かつて、鬼の色と呼ばれた髪だった。

 その男が後に、代官榊重景の手となり、刀を持たずに悪人を捕らえて歩くことになる。

 人々は畏れを込めて、いつしか彼をこう呼んだ。


 ――白鬼。


 これは、その始まりの話である。

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