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最後の春、君に触れた

作者: 星恋 hosiko
掲載日:2026/05/09

この物語には、大きな出来事はありません。

ただ、ひとつの季節と、言葉にならなかった感情があるだけです。


触れたことは、たしかにあったのに。

それがどんな意味を持っていたのか、私は最後まで言葉にできませんでした。


春は、何かが始まる季節だと言われます。

けれど同時に、何かが終わってしまう季節でもあります。


これは、終わりのほうに立ってしまった春の話です。

そして、触れてしまったことを、忘れられなかったひとりの記録です。


読み終えたあと、もしもあなたの中に、名前のない感情がひとつでも残ったなら。

それだけで、この物語は十分だと思っています。

彼女の名前を、私はまだ声に出せない。


 喉の奥で、何度も形になるのに。

 音にしようとすると、どうしても壊れてしまいそうで。


 だから今日も、心の中だけで呼ぶ。


 ——陽菜。



 教室の窓際、一番後ろの席。


 春の光がやわらかく差し込むその場所で、彼女はいつも本を読んでいた。


 ページをめくる指が、やけに白くて細くて。

 光を透かして消えてしまいそうで。


 ——綺麗だと思った。


 それが全部の始まりだった。



 最初は、本当にそれだけでよかった。


 遠くから眺めているだけでいい。

 同じクラスで、同じ空間にいるだけで満足だった。


 でも——


 人間って、どうしてこんなに欲張りなんだろう。


 “知りたい”と思ってしまった。


 彼女の好きなもの。

 嫌いなもの。

 笑う理由。


 全部。



 気づけば私は、彼女の隣に立っていた。


「その本、面白いの?」


 声が少し震えていた気がする。


 彼女はゆっくり顔を上げて、少しだけ目を丸くして、それから——笑った。


「うん、ちょっと悲しいけどね」


 その声は、想像よりもずっと柔らかくて。


 胸の奥が、ぎゅっと痛くなった。


 ああ、ダメだ。


 たぶんこの瞬間、もう戻れなくなった。



 彼女の名前は、陽菜ひな


 私は、美咲。


 ただのクラスメイトだったはずの関係は、ゆっくり形を変えていった。



「またその本?」


「うん、好きなんだよね」


「何回読んでるの?」


「……たぶん、七回目」


「そんなに?」


「結末知ってても、途中が好きで」


 そう言って笑う陽菜は、少しだけ寂しそうだった。


 私はその理由を知りたくて、でも聞けなくて。


 ただ隣で一緒に歩いた。



 放課後。


 オレンジ色に染まる帰り道。


 コンビニに寄って、同じアイスを選んで。


 どうでもいいことで笑い合う。


 その時間が、世界のすべてみたいだった。



 でも私は、ひとつだけ隠していた。


 絶対に、言ってはいけないこと。


 ——私は、陽菜のことが好きだ。


 “友達”じゃなくて。


 “恋”として。



 ある日、陽菜がふいに言った。


「ねえ美咲、好きな人いる?」


 心臓が、止まったかと思った。


「い、いないよ」


 嘘だった。


 目の前にいる。


 でも、言えなかった。


 怖かった。


 この関係が壊れるのが、何よりも怖かった。



「そっか」


 陽菜は少しだけ目を伏せて、笑った。


 その笑顔は、ほんの少しだけ寂しそうで。


 でもその意味を、私は知らないふりをした。



 春が、終わりに近づいていた。


 桜はもう散って、葉が濃くなってきた頃。


 陽菜が学校を休む日が増えた。



「体調悪いんだって」


 誰かが軽く言った。


 軽すぎて、逆に怖かった。


 その言葉の裏に、何か隠れている気がして。



 既読のつかないメッセージ。


 返ってこない「大丈夫?」。


 胸の奥で、何かが静かに崩れていく。



 私は、走った。


 放課後、住所を頼りに。

 息が切れても、足を止めずに。



 白い建物。


 消毒液の匂い。


 嫌でも分かる場所。



 病院だった。



 ベッドの上で、陽菜は笑っていた。


「来てくれたんだ」


 少しだけ細くなった声。


 それでも、あのときと同じ優しさだった。



「なんで言ってくれなかったの…」


 声が震える。


 怒りでも、責めたいわけでもない。


 ただ——


 間に合わなかった気がして。



「言ったらさ」


 陽菜はゆっくり目を細めた。


「美咲、無理するでしょ」


「するよ!!」


 気づいたら叫んでいた。


「当たり前じゃん…好きな人が苦しんでるのに、何もしないとか無理だよ…!」



 ——しまった。


 空気が止まる。


 言ってしまった。


 ずっと隠してきた言葉。



 でも。


 陽菜は、静かに笑った。


「やっと言ってくれた」


「……え?」


「私も、好きだよ」



 その瞬間。


 世界が、壊れたみたいだった。


 嬉しいはずなのに。


 どうしてこんなに苦しいんだろう。



「ねえ、美咲」


「なに…」


「手、握ってもいい?」



 私は、答える代わりに手を差し出した。


 触れた瞬間、分かった。


 冷たい。


 でも確かに、生きてる。



「私ね」


 陽菜は静かに言った。


「あんまり時間ないんだ」



 その言葉は、あまりにも静かで。


 だからこそ、残酷だった。



 それからの時間は、砂みたいにこぼれていった。


 一緒に本を読んだ。

 同じページで笑った。

 同じところで泣いた。



「この話さ」


「うん」


「最後、主人公は大事な人を失うんだよね」


「……うん」


「でもね、そのあともちゃんと生きていくの」



 陽菜は、私を見た。


「美咲も、そうしてね」



 最後の日。


 窓から春の光が差し込んでいた。


 初めて会った日と、同じ光。



「ねえ、美咲」


「うん」


「春って、好き?」


「好きだよ」



 少しだけ間があって。


 陽菜は目を閉じた。



「私も、好き」



 それが、最後だった。



 あれから一年。


 私はまた、あの席に座っている。


 窓際、一番後ろ。



 春の光が、同じように差し込んでいる。



 私は、ゆっくり息を吸って。


 初めて、声に出す。



「陽菜」



 風が、カーテンを揺らした。


 まるで返事みたいに。



 私はまだ、生きている。


 強くなんかない。


 今でも、ふとした瞬間に泣く。



 でも——


 あのとき、繋いだ手の温度だけは。


 今も、消えない。



 もしも来世があるなら。


 また、同じ春に。


 同じ教室で。



 今度は、もっと早く言う。


 怖がらないで。


「好きだよ」

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


この物語は、はっきりとした答えを持っていません。

あのとき触れたことが、正しかったのか、間違っていたのか。

結局のところ、最後まで分からないままです。


ただひとつ言えるのは、触れてしまったという事実だけが、確かに残っているということでした。


言葉にできなかったものや、名前を与えられなかった感情は、時間が経ってもきれいに消えてはくれません。むしろ、形を変えながら、ふとした瞬間に思い出されます。


この物語が、あなたの中のそうした記憶に、少しでも触れることができたなら嬉しいです。


最後の春に触れたものが、あなたにとって何だったのか。

その答えは、きっとそれぞれの中にあるのだと思います。

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