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第七話 呼ばれなかった名

 境界の空気が、ひとつ分、重くなった。


 昨日までとは違う。

 夜でも、観測でもない。


 滞りに近い感覚だった。


 「……感じる?」


 僕がそう言うと、

 リュシアはゆっくり頷いた。


 「うん」


 視線は、遠くに向いている。


 「境界が、

 “留まっている人”を見つけた」


 胸の奥が、ひくりと鳴った。


 「……留まっている?」


 「戻らなかった」


 「でも、進みもしなかった人」


 その言葉の意味が、

 少し遅れて胸に落ちる。


 「……名前を、持たないまま?」


 リュシアは、答えなかった。


 代わりに、

 静かに歩き出す。



 境界の先に、

 人影があった。


 最初は、影にしか見えなかった。

 輪郭が曖昧で、

 存在が、半分だけここにあるような。


 「……誰だ」


 声をかけようとして、

 喉が詰まる。


 その人は、

 こちらを見ていなかった。


 ただ、

 立ち尽くしている。


 「……あの人」


 リュシアが、小さく言う。


 「呼ばれなかった」


 胸が、強く締めつけられた。



 近づくと、

 その人は、ゆっくり振り返った。


 年齢は、分からない。

 若くも見えるし、

 ひどく疲れているようにも見える。


 「……まだ、ここにいるのか」


 掠れた声。


 独り言のようだった。


 「……名前は?」


 思わず、聞いてしまった。


 その人は、

 少しだけ笑った。


 「……忘れた」


 胸が、軋む。


 「いや……」


 言い直す。


 「思い出せないんじゃない」


 視線を落とす。


 「呼ばれなかった」


 空気が、震えた。


 リュシアが、一歩前に出る。


 「……どれくらい、ここに?」


 その人は、考える仕草をした。


 「……分からない」


 「戻る音は、聞こえた」


 「進む音も、聞こえた」


 「でも……」


 言葉が、途切れる。


 「どっちも、

 選べなかった」



 胸の奥で、

 鈴が小さく鳴った。


 ――ちりん。


 今までで、一番弱い音。


 「……それで」


 その人は、僕を見る。


 焦点が、合っていない。


 「君は、どっちだ?」


 答えは、分かっていた。


 それでも、

 喉が震える。


 「……戻らなかった」


 その人は、

 少しだけ目を見開いた。


 「……じゃあ」


 希望とも、恐れとも取れる声。


 「進んだのか?」


 僕は、首を振った。


 「……まだだ」


 沈黙。


 その人の表情が、

 少しだけ曇る。


 「……そうか」


 小さく、息を吐く。


 「なら、君も……」


 言葉が、続かない。



 「違う」


 リュシアが、はっきり言った。


 その声は、

 境界に響いた。


 「彼は、

 “留まって”いない」


 その人が、

 ゆっくりと彼女を見る。


 「……何が違う」


 リュシアは、

 迷いなく答える。


 「彼は、

 後悔することを選んだ」


 胸が、強く鳴った。


 「忘れることを、

 選ばなかった」


 その人の肩が、

 僅かに震える。


 「……それが」


 掠れた声。


 「……違い、なのか」


 リュシアは、静かに頷いた。


 「違う」


 「だから、あなたは」


 一拍、置いて。


 「苦しい」


 境界の空気が、

 はっきりと張り詰める。



 その人は、

 俯いたまま、動かなくなった。


 輪郭が、

 少しずつ薄くなる。


 「……このまま、どうなる?」


 僕が、声を絞り出す。


 リュシアは、

 答えなかった。


 代わりに、

 境界の奥を見る。


 「……世界が、決める」


 その言葉が、

 胸に刺さる。


 「……助けられないのか?」


 リュシアは、

 僕を見る。


 とても、

 静かな目で。


 「名前は、

 代わりに引き受けられない」


 鈴の音が、

 鳴らなかった。


 それが、

 何よりの答えだった。



 その人は、

 いつの間にか、消えていた。


 影も、音も、

 何も残らない。


 「……今の」


 声が、震える。


 「僕だったかもしれない」


 リュシアは、否定しなかった。


 「うん」


 「でも」


 そっと、続ける。


 「あなたは、

 留まらなかった」


 胸の奥で、

 鈴が鳴る。


 ――ちりん。


 今度は、

 はっきりと。


 それは、

 逃げ道の音ではない。


 「……これは」


 僕は、空を見る。


 境界が、

 少しだけ遠ざかっている。


 「世界が、

 僕に期待してる音か?」


 リュシアは、

 少しだけ、困ったように笑った。


 「期待、じゃない」


 「……じゃあ?」


 「確認」


 胸が、静かに熱を持つ。


 「あなたが、

 “呼ばれるに足る存在か”」


 夜でもない。

 昼でもない。


 境界は、

 確実に次へ向かっていた。


 そして僕は、

 もう、後戻りできない位置に立っている。


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