幕間 リュシア
彼が、戻らないと決めた時。
境界は、ほんの一瞬だけ息を止めた。
誰も気づかない。
気づく必要もない。
でも私は、知っている。
――ああ、また一人。
戻らなかった人の背中は、
いつも同じ重さをしている。
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彼は、まだ名前を持たない。
それは、弱さじゃない。
名前を持たないということは、
世界に「確定」されていないということ。
つまり――
まだ、選び続けられる。
私は、少しだけ安心した。
そして、同時に怖くもなった。
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彼は、自分を特別だと思っていない。
だからこそ、危うい。
境界は、
特別な人間を欲しがらない。
欲しがるのは、
引き返さない普通の人だ。
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観測点が灯った時、
私は一歩だけ距離を取った。
近づきすぎると、
彼は私を“理由”にしてしまう。
それは、いけない。
彼が選ぶべきなのは、
私じゃない。
彼自身だ。
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それでも。
彼が「戻らない」と言った瞬間、
胸の奥で、
かすかな安堵が生まれた。
――また、会えた。
そう思ってしまった自分を、
私は責めない。
選んだ結果に、
感情が伴うのは、
自然なことだから。
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彼は、まだ知らない。
自分が
どれほど境界に似た選択をしたのか。
忘れないこと。
後悔する可能性を抱えたまま生きること。
それは、
私が、かつて選んだ道と同じだ。
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だから私は、
彼を導かない。
引き止めない。
背中を押しもしない。
ただ、
見届ける。
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名前は、
逃げなかった者にだけ、
必ず追いつく。
それが、
境界の唯一の約束だから。




