第三十四話 最初に呼ばれた名前
斜面の前に立つと、
思っていたよりも状況は単純だった。
崩れかけているのは、
道そのものではない。
その脇。
雨が続けば、
確実に落ちる位置。
「……ここが、問題か」
僕がそう言うと、
エリオは静かに頷いた。
「そうだ」
「今は通れる」
「でも、放っておけば
誰かが怪我をする」
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周囲に集まった人たちは、
誰も口を出さない。
意見はある。
それでも、
前に出る人はいない。
「……ねえ」
僕は少し声を落として言った。
「これ、誰かが
“決める”必要があるよね」
エリオは、
苦い顔で笑った。
「ああ」
「だから、
あんたを呼んだ」
⸻
そのときだった。
人混みの向こうから、
控えめな声がした。
「……すみません」
女性の声。
聞き覚えがある。
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人をかき分けて現れたのは、
ミレイだった。
両手を胸の前で組み、
少し緊張した様子。
「話しているところ、
邪魔だったらごめんなさい」
「いや」
エリオが首を振る。
「大丈夫だ」
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ミレイは、
一瞬だけ僕を見る。
すぐに視線を外す。
迷っている。
「……さっきから、
見ていました」
喉が、
わずかに渇く。
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「昨日も、今日も」
ミレイは言葉を選びながら続けた。
「誰かを押し切らない」
「でも、逃げない」
「……それで」
一拍。
「この場で、
あなたの声を聞いたほうが
いい気がして」
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周囲が、
静かになる。
誰も遮らない。
待っている。
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ミレイは、
小さく息を吸った。
そして、
はっきりとこちらを見る。
「……名前を」
胸が、
強く鳴る。
「聞いても、
いいですか?」
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一瞬、
世界が静止したように感じた。
今まで通り、
名を持たないままでもいい。
逃げようと思えば、
逃げられる。
誰も、
責めない。
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「……ねえ」
そのとき、
リュシアが、
とても静かな声で言った。
「答えなくてもいい」
「でも」
一拍。
「答えるなら、
それは“怖さ”じゃなくて」
「選ぶかどうかだよ」
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胸に手を当てる。
過去の名は、
もう呼ばれない。
新しい名は、
探していない。
それでも。
今ここで、
呼ばれることを
受け取れるか。
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息を吸う。
ゆっくり、吐く。
そして、
顔を上げた。
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「……僕は」
声は、
思ったより落ち着いていた。
「ミナトです」
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音が、
世界に落ちた。
派手な変化はない。
空も、
地面も、
変わらない。
でも。
空気だけが、
確かに“定まった”。
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「……ミナト」
ミレイが、
ゆっくり繰り返す。
名を確かめるように。
胸の奥で、
鈴が鳴った。
――ちりん。
今までで、
いちばん澄んだ音。
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「ありがとう」
ミレイは、
少しだけ笑った。
「ちゃんと、
呼べました」
その言葉に、
思わず笑ってしまう。
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エリオが、
腕を組んで言った。
「……じゃあ」
視線を向ける。
「ミナト」
名前が、
別の口から出る。
それだけで、
背筋が自然と伸びた。
「どう思う?」
⸻
僕は、
斜面を見る。
人を見る。
選択を見る。
「……通行止めにしよう」
「今すぐは困るだろうけど」
「怪我人が出たら、
取り返しがつかない」
誰も、
反論しなかった。
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決まった。
自然に。
無理なく。
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「……ねえ、ミナト」
小さな声で、
リュシアが言う。
「今の感覚、
どう?」
少し考えてから答える。
「……重い」
「でも」
正直に続ける。
「嫌じゃない」
リュシアは、
静かに微笑んだ。
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名は、
こうして生まれた。
与えられたのではない。
押しつけられたのでもない。
呼ばれて、
受け取った。
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ミナト――
それが、
今の僕の名前だった。




