第三十三話 名前を呼ぶ準備が、できている
町の外れへ向かう道は、思ったより静かだった。
人の往来はある。
でも、誰も急いでいない。
「……ずいぶん落ち着いてるな」
僕が言うと、エリオは前を見たまま答えた。
「問題が“今すぐ壊れる”段階じゃないからな」
「逆に言うと」
少しだけ振り返る。
「判断を先延ばしにしやすい」
なるほど、と思う。
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しばらく歩いたところで、
リュシアが僕の隣に並んだ。
「さっきの返事」
唐突に言う。
「後悔してる?」
「……してない」
即答だった。
自分でも、少し驚くくらい。
「怖さは?」
「ある」
正直に言う。
「でも、逃げたい感じじゃない」
リュシアは、静かに頷いた。
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道の先で、崩れかけた斜面が見えてきた。
木箱が積まれ、
数人が立ち話をしている。
こちらに気づくと、
一瞬だけ視線が集まる。
でも、名を呼ぶ声はない。
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「……ねえ」
歩きながら、リュシアが言う。
「さっき、エリオに頼まれたとき」
「名前、聞かれると思った?」
「……少しは」
正直な答え。
「聞かれなかったのは?」
少し考える。
「助かった、半分」
「……不思議だ」
リュシアが、かすかに笑う。
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「あなた」
歩みを止めずに続ける。
「もう、“名前を聞かれる側”の振る舞いをしてる」
「え?」
思わず、足が止まる。
「どういう意味?」
リュシアも立ち止まった。
真正面から、僕を見る。
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「以前のあなたは」
静かな声。
「名前を聞かれたら、どう返すかを先に考えてた」
「今は違う」
胸の奥が、少しざわつく。
「今は?」
「呼ばれることを前提に、立っている」
その言葉が、
胸にまっすぐ刺さる。
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「……それって」
言葉を選ぶ。
「準備が、できてるってこと?」
リュシアは、少しだけ首を傾けた。
「半分」
「半分?」
「呼ばれても、逃げない準備はできてる」
「でも」
一拍。
「どの名前で呼ばれるかは、まだ決めてない」
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遠くで、エリオがこちらを振り返る。
「何か問題か?」
「いや」
僕は手を振る。
「すぐ行く」
その声は、
思ったより落ち着いていた。
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「……ねえ、リュシア」
歩き出しながら、聞く。
「名前ってさ」
「自分で決めるもの?」
リュシアは、即答しない。
「半分は、自分」
「半分は、呼ぶ人」
「……じゃあ」
胸に手を当てる。
「今の僕は?」
リュシアは、少しだけ微笑んだ。
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「今のあなたは」
一拍。
「呼ばれるに値する行動を、
もう重ねている」
胸の奥で、
鈴が鳴る。
――ちりん。
はっきりした音。
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「だから」
リュシアは続ける。
「次に名前を聞かれたら」
「答えるか、答えないか」
「それはもう、“怖いかどうか”じゃない」
「……何になる?」
「選びたいかどうか」
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その言葉を噛みしめながら、
崩れかけた斜面の前に立つ。
人々の視線が、
ゆっくり集まる。
誰も、
名前を呼ばない。
でも。
呼ぶ準備をしている空気だけが、
確かにそこにあった。
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名は、まだ出ていない。
それでも。
名前を呼ばれる未来が、
もう“遠い可能性”ではなくなった。




