第三十二話 名を持たない者に、頼み事が来る
昼前の広場は、少し騒がしかった。
人が集まっている、というより、
何かが決まらずに滞っている空気。
僕はその端で足を止めた。
「……あれ、昨日より人多くない?」
そう言うと、リュシアが周囲を見渡す。
「集まってる、というより……待ってる」
「待ってる?」
「うん。決断を」
嫌な予感が、少しだけ胸をかすめた。
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「おい」
背後から声がした。
振り返ると、エリオが立っている。
昨日より、少し疲れた顔。
「ちょうどいいところに」
その言い方が、もう怪しい。
「……“ちょうどいい”って言い方、やめてくれない?」
エリオは苦笑した。
「悪い。でも、正直に言うと」
一拍置いてから続ける。
「今、あんたに話したい」
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リュシアが、さりげなく一歩下がる。
介入しない、でも聞いている位置。
「何の話?」
僕が聞くと、エリオは腕を組んだ。
「町の外れでな」
「荷が止まってる」
「道が崩れかけてて、通れない」
「修理するか、回り道を使うか、決めなきゃならない」
「……それ、役人とかの仕事じゃないの?」
そう言うと、エリオは首を振った。
「役人は判断を先送りにしてる」
「安全確認が、とか言ってな」
ため息。
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「それで?」
促すと、エリオは僕をまっすぐ見た。
「昨日のこと、覚えてるだろ」
「瓶の件?」
「そう」
エリオは少し言いづらそうに言う。
「あの場で、一番先に動いたのがあんただ」
「名も名乗らず、指示も押しつけず」
「でも、人が動いた」
胸が、少しだけ鳴った。
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「……だから?」
エリオは、少し間を置いてから言った。
「見てほしい」
「判断を下せ、とは言わない」
「責任を取れ、とも言わない」
「ただ」
一拍。
「第三者として、立ち会ってほしい」
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一瞬、言葉が出なかった。
「……それって」
慎重に言う。
「名前も立場もない僕に、頼むことか?」
エリオは即答しなかった。
少し考えてから、こう言った。
「だから、頼んでる」
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沈黙。
広場のざわめきが、やけに遠い。
「……ねえ」
僕は、低い声で言う。
「もし僕が何か言って」
「結果が悪かったら?」
エリオは肩をすくめた。
「そのときは、俺が責任を取る」
「名があるのは、俺だ」
その言葉は、軽くなかった。
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「……リュシア」
思わず、名を呼ぶ。
彼女は静かに顔を上げた。
「どう思う?」
リュシアは、すぐに答えない。
その沈黙が、考えている証拠。
「これは」
ようやく口を開く。
「名を持たない人だからこそ、引き受けられる頼み事」
「でも」
視線を僕に向ける。
「引き受けたら、もう“通りすがり”ではいられない」
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分かっていた。
分かっていたから、胸が苦しい。
「……断ることもできる?」
エリオを見る。
彼は、はっきり頷いた。
「できる」
「誰も責めない」
「それは、約束する」
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しばらく、考える。
名がない。
立場もない。
でも、昨日――
人の中に残ってしまった。
「……分かった」
自分の声が、少し低く響いた。
「見るだけだ」
「決めるのは、君たちだ」
エリオは、ほっと息を吐いた。
「それでいい」
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歩き出しながら、リュシアが小さく言う。
「今の、覚えてる?」
「何を?」
「あなた」
一拍。
「“名前を呼ばれたとき”と同じ顔をしてた」
胸が、少しだけ高鳴った。
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名は、まだない。
でも。
名前がなくても、人は頼ってくる。
そして一度頼られたら、
世界はもう、こちらを素通りさせてくれない。




