第三十一話 名を持たない人としての朝
朝は、
何事もなかったように始まった。
窓から差し込む光は、
昨日と同じ色で、
同じ角度。
それなのに、
胸の奥の感触だけが違う。
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呼ばれなかった夜。
過去の名が、
もう届かない夜。
目を覚ました瞬間、
それを“喪失”としては
感じなかった。
むしろ――
静かな確定。
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「……朝だな」
独り言のように言うと、
リュシアが窓辺で振り返った。
「朝だね」
それ以上、
何も付け足さない。
それが、
今の距離だった。
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宿の一階に降りると、
空気が違っていた。
視線が、
前より少しだけ長く留まる。
詮索じゃない。
警戒でもない。
判断している目。
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「……おはよう」
給仕の女性が、
そう言った。
名は呼ばれない。
でも、
昨日までとは違う。
そこに、
“覚えている”温度があった。
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席につくと、
隣の客がこちらを見た。
言葉はない。
ただ、
一瞬の間。
それだけで、
分かる。
名がなくても、
もう通りすがりではない。
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「……ねえ」
小声で、
リュシアに聞く。
「今の僕って」
一拍。
「どう見えてる?」
彼女は、
少しだけ考えてから答えた。
「境界に立ってる人」
「中にも、外にも
足を置ける人」
胸の奥が、
静かに鳴る。
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通りに出る。
朝の町は、
忙しい。
それでも、
何人かが軽く会釈する。
名は呼ばれない。
理由も分からない。
でも、
認識されている。
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「……名がないのに」
思わず、
呟く。
リュシアは、
歩きながら答える。
「名がない“今”だから」
「世界は、
あなたを観てる」
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通りの角で、
エリオと目が合った。
一瞬、
驚いた顔。
それから、
小さく頷く。
「朝」
それだけ。
でも、
確かな同列の挨拶。
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ミレイは、
まだ店を開けていなかった。
代わりに、
箱が整然と並んでいる。
昨日より、
少しだけ通路が広い。
偶然かもしれない。
でも、
そうじゃない気もする。
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「……ねえ」
僕は、
歩きながら言う。
「名がないままでも」
「世界に
影響するんだな」
リュシアは、
静かに頷いた。
「名は、
影響を説明するための言葉」
「影響そのものは、
行動で起きる」
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町の中央広場に着く。
人が集まり、
話し、
散っていく。
その流れの中で、
僕は止まっている。
拒まれない。
押し出されない。
ただ、
そこに立てている。
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胸の奥で、
鈴が鳴った。
――ちりん。
それは、
名を告げる音じゃない。
世界が「役割」を
静かに探し始めた音だった。
⸻
今日も、
名はない。
それでも。
名を持たない人としての立場が、
はっきり形を持ち始めている。
それは、
不安よりも
少しだけ誇らしかった。




