第三十話 呼ばれなくなった名
その夜は、
不思議なくらい静かだった。
町の灯りはいつも通りで、
人の声も聞こえる。
それなのに、
胸の奥が妙に軽い。
⸻
宿の部屋で、
窓を少しだけ開ける。
夜風が入り、
カーテンが揺れた。
「……今日は」
小さく呟く。
「呼ばれない気がする」
リュシアは、
何も言わなかった。
否定も、
肯定も。
⸻
ベッドに腰を下ろす。
耳を澄ます。
昨日の夜は、
確かにあった。
名前を呼ぶ、
あの声。
近くて、
懐かしくて、
戻れる気がする音。
⸻
でも。
今夜は、来ない。
⸻
「……不思議だな」
僕は、
天井を見ながら言う。
「答えなかっただけで」
「呼ばれなくなるなんて」
リュシアは、
ゆっくり口を開いた。
「答えなかったから、
じゃない」
「……え?」
⸻
「あなたが」
一拍。
「こちら側で、
選び続けたから」
その言葉が、
胸に落ちる。
⸻
思い返す。
町で過ごした時間。
名を呼び、
守り、
間に立ち、
責任を引き受けたこと。
名を持たないまま、
それでも動いたこと。
⸻
「……戻るための名は」
僕は、
静かに言う。
「今の僕を、
呼べなくなったんだな」
リュシアは、
小さく頷いた。
「うん」
⸻
胸の奥で、
鈴が鳴らない。
それが、
はっきりした答えだった。
⸻
「……寂しい?」
リュシアが、
そっと聞く。
少し考えてから、
正直に答える。
「うん」
「でも」
一拍。
「後悔は、
してない」
⸻
過去の名は、
悪いものじゃなかった。
逃げ場所でも、
嘘でもない。
ただ。
今の自分を
呼ぶには、
合わなくなった。
⸻
窓の外で、
誰かが名を呼ぶ。
別の誰かが、
それに応える。
世界は、
何も知らないまま
続いていく。
⸻
「……ねえ」
僕は、
静かに言う。
「過去の名ってさ」
「消えるんじゃなくて」
少し息を吸う。
「役目を終えるんだな」
リュシアは、
微笑んだ。
「うん」
「ちゃんと使われた名前は、
静かに眠る」
⸻
その夜、
名前は呼ばれなかった。
夢の中でも、
現実でも。
でも。
呼ばれなくなったという事実が、
前に進んだ証拠だった。
⸻
僕は、
目を閉じる。
過去の名を、
心の中で一度だけ呼ぶ。
ありがとう、と。
返事はない。
それで、よかった。
⸻
夜は、
静かに終わる。
そして。
明日からは、
呼ばれるための名を
探す時間ではなくなる。
生きた結果として、
生まれる名の時間が、
始まる。




