第二十九話 名を呼ぶ側としての責任
夕方の通りは、
昼よりも足音がはっきりしていた。
一日の終わりに近づくと、
人は周囲をよく見る。
疲れているからこそ、
危うさに気づく。
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店先で、
小さな口論が起きていた。
声は荒れていない。
でも、引かない。
若い男と、
年配の女性。
言葉が、
噛み合っていない。
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「……あれ」
僕が足を止めると、
リュシアも止まった。
「聞こえる?」
「うん」
内容より先に、
距離が近すぎると感じた。
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年配の女性が、
一歩、前に出る。
男も、
無意識に前に出る。
ぶつかる距離。
「……危ない」
思った瞬間、
声が出ていた。
「――待って」
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二人が、
同時にこちらを見る。
名は呼んでいない。
肩書きもない。
それでも、
空気が止まった。
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「……どうした?」
男が聞く。
語気は強くない。
ただ、警戒している。
「近い」
短く、
それだけ言った。
「それ以上、
近づくと」
一拍。
「言葉が、
届かなくなる」
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年配の女性が、
はっとしたように足を引く。
男も、
視線を逸らす。
沈黙。
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「……悪かった」
先に、
男が言った。
「つい」
年配の女性も、
小さく息を吐く。
「私も、
言い方が強かった」
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人は、
名を呼ばれなくても、
引き返せる。
その事実が、
胸に残る。
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二人が離れたあと、
リュシアが静かに言った。
「今の」
「……呼んだね」
「誰も、
名は呼んでないけど」
「関係を呼んだ」
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胸の奥で、
鈴が鳴った。
――ちりん。
少し、
重い音だった。
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「……名を呼ぶ責任って」
僕は、
歩き出しながら言う。
「声をかけること
だけじゃないんだな」
リュシアは、
頷いた。
「関係に、
割って入ること」
「その場に、
立つこと」
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「……怖いな」
正直な言葉。
「間違えたら、
壊す」
リュシアは、
すぐには否定しない。
「壊す可能性は、
ある」
「でも」
一拍。
「何もしないまま
壊れることもある」
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通りの先で、
夕暮れが深くなる。
灯りが、
一つずつ点る。
名のある人たちが、
名を使って一日を終えていく。
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「……今の僕は」
自分に問いかける。
「呼ばれる側でも
ないし」
「呼ぶ側でも
ないと思ってた」
リュシアは、
静かに答えた。
「境目に、
立ってる」
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胸の奥で、
鈴が、
もう一度鳴った。
――ちりん。
それは、
警告じゃない。
立場が変わったことを、
知らせる音だった。
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名を持たないまま、
誰かの間に立った。
それは、
責任を引き受けた
ということ。
まだ名はない。
それでも。
名を呼ぶ側としての重さは、
もう、
確かに肩に乗っている。




