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第三話 境界の夜

 境界に、夜が訪れるのは唐突だった。


 空が暗くなったわけではない。

 星が現れたわけでもない。


 ただ、音が減った。


 風の気配が薄れ、

 足音が、やけに遠く感じられる。


 「……夜、なの?」


 僕がそう言うと、リュシアは小さく頷いた。


 「境界の夜は、時間じゃないの」


 歩きながら、彼女は言う。


 「“考え始めた時”に来る」


 胸の奥が、少しだけ重くなる。


 考え始めた時。

 それはつまり――。


 「……戻ることを?」


 リュシアは、足を止めた。


 そして、ゆっくり振り返る。


 「うん」


 否定しない。


 それが、余計に胸を締めつけた。



 境界の景色は、昼よりも輪郭がはっきりしていた。


 石畳の一つ一つ。

 遠くに見える建物の影。


 夢よりも、ずっと現実に近い。


 「……ここ、本当に夢じゃないんだな」


 思わず、そう口にすると、

 リュシアは少しだけ寂しそうに笑った。


 「まだ、夢だと思っててほしい?」


 「……いや」


 首を振る。


 「違う」


 言葉を探しながら、続ける。


 「夢だと思えた方が、

 楽なのは分かる」


 でも。


 「楽な方を選ぶと、

 後でずっと考え続ける気がする」


 リュシアは、何も言わなかった。


 ただ、静かに歩き出す。


 その背中を見て、

 胸が少し痛んだ。



 しばらく歩くと、

 広場のような場所に出た。


 中央には、何もない。


 噴水も、像も、目印になるものもない。


 「……何もないな」


 「あるよ」


 リュシアは、足元を指さした。


 石畳に、

 かすかな線が走っている。


 円のようで、

 でも完全ではない。


 「ここが、選択点」


 その言葉に、

 胸が強く鳴った。


 「戻る人は、ここで戻る」


 「進む人は……」


 言葉が、途切れる。


 「……進む人は?」


 リュシアは、少しだけ間を置いて答えた。


 「名前を、呼ばれる」


 また、その言葉だ。


 名前。


 ずっと、胸に引っかかっている。


 「……怖くないのか?」


 思わず聞いてしまった。


 「名前を呼ばれるのって」


 リュシアは、少し考えてから言う。


 「怖いよ」


 即答だった。


 「呼ばれたら、

 “戻らなかった自分”を

 全部、背負うことになるから」


 背負う。


 その言葉が、重く響く。


 「……じゃあ」


 僕は、足元の円を見る。


 「君は、どうしてここにいる?」


 彼女は、少し驚いたような顔をした。


 「私?」


 「うん」


 目を逸らさず、続ける。


 「君も……

 選んだんだろ?」


 しばらく、沈黙。


 境界の夜は、

 沈黙を長く感じさせる。


 やがて、リュシアは口を開いた。


 「……私は」


 視線を落としながら。


 「呼ばれた名前で、生きることを選んだ」


 その言葉を聞いた瞬間、

 胸が強く、高鳴った。


 ――同じだ。


 まだ選んでいないのに、

 もう分かってしまう。


 「……後悔は?」


 恐る恐る、聞いた。


 リュシアは、少しだけ笑った。


 「あるよ」


 「たくさん」


 胸が、きゅっと縮む。


 「でもね」


 彼女は、顔を上げた。


 「後悔しなかったら、

 私は私じゃなくなる」


 その言葉は、

 なぜか、とても優しかった。



 鈴の音が、鳴った。


 ――ちりん。


 今までで、一番近い。


 音は、広場全体に広がる。


 逃げ道を示すように。

 同時に、進む道を照らすように。


 リュシアが、僕を見る。


 「ねえ」


 「……うん」


 「戻るなら、今だよ」


 足元の円が、

 ほんのりと光っている。


 そこに立てば、

 目を覚ませるのだろう。


 いつもの朝。

 いつもの天井。

 何事もなかったような日常。


 胸の高鳴りだけを、

 夢だと思って。


 「……戻ったら」


 僕は、声を絞り出す。


 「君のこと、忘れる?」


 リュシアは、静かに頷いた。


 「うん」


 「完全に?」


 「完全に」


 その答えが、

 胸に突き刺さった。


 少しだけ、目を閉じる。


 逃げ道は、確かにある。


 でも。


 この高鳴りを無視した自分が、

 どんな顔で生きていくか、

 想像できてしまった。


 目を開ける。


 「……戻らない」


 声は、震えていなかった。


 リュシアの目が、わずかに見開かれる。


 「後悔しても?」


 「……しても」


 「迷い続けても?」


 「それでも」


 鈴の音が、

 はっきりと鳴った。


 ――ちりん。


 広場の空気が、

 ゆっくりと変わる。


 夜が、少し深くなる。


 リュシアは、静かに笑った。


 「じゃあ」


 一歩、こちらに近づく。


 「もうすぐだね」


 「……何が?」


 彼女は、胸に手を当てて言った。


 「あなたの名前が、

 呼ばれる時」


 胸の高鳴りが、

 今までで一番強くなる。


 境界の夜は、

 まだ終わらない。


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