第二十八話 呼ばれなかったのに、覚えられていた
町は、何事もなかったように動いていた。
昼の騒ぎは、
もう話題にもなっていない。
倒れた箱も、
割れた瓶も、
通りからは消えていた。
「……早いな」
僕がそう言うと、
リュシアは小さく頷いた。
「町は、
日常を戻すのが上手」
⸻
それでも。
歩いていると、
視線を感じることがあった。
じっと見るわけじゃない。
噂話をするでもない。
ただ、
一瞬、思い出すような目。
「……見られてる?」
小さく聞くと、
リュシアは首を振る。
「見てる、じゃない」
「思い出してる」
胸の奥が、
静かに鳴った。
⸻
店先を通り過ぎたとき、
声をかけられた。
「……あの」
振り返ると、
年配の男性が立っていた。
顔は、
さっきまで知らなかったはずなのに、
どこか安心した表情をしている。
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「昼の」
言葉を探すように、
一拍。
「通りの片づけ、
手伝ってくれた人だよね」
名は呼ばれない。
それでも、
はっきりと“僕”を指している。
「……はい」
短く答える。
⸻
「ありがとう」
それだけ。
深くもない。
軽すぎもしない。
ただ、
自然な礼だった。
胸の奥で、
鈴が鳴る。
――ちりん。
記録の音。
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少し先で、
別の人が視線を向けてきた。
子どもだった。
じっと見て、
小さく手を振る。
理由は分からない。
でも、
覚えている。
⸻
「……名を呼ばれてないのに」
僕は、
歩きながら言う。
「覚えられてる」
リュシアは、
穏やかに答える。
「名より先に、
行動が残った」
その言葉が、
胸にしみる。
⸻
「……それって」
問いは、
自分に向いていた。
「もう、
元の場所には
戻れないってこと?」
リュシアは、
すぐには答えなかった。
そして、
静かに言う。
「戻れる」
「でも」
一拍。
「忘れられる側には、
戻れない」
胸が、
ゆっくりと締めつけられる。
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通りの向こうで、
ミレイがこちらに気づいた。
何も言わず、
軽く会釈する。
名前も、
言葉もない。
それでも、
確かな認識があった。
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「……不思議だな」
思わず、
呟く。
「名がないほうが、
軽いと思ってた」
リュシアは、
小さく首を振る。
「軽いのは、
役割」
「残るのは、
選択」
その違いが、
はっきり分かる。
⸻
町は、
何も変わっていない。
でも。
人の中に、
小さな痕跡が増えている。
呼ばれなかったのに、
覚えられている。
名がないのに、
関係が生まれている。
⸻
胸の奥で、
鈴が鳴った。
――ちりん。
それは、
まだ名を告げる音じゃない。
名が生まれる前段階を、
確かに示す音だった。
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「……ねえ」
僕は、
前を見たまま言う。
「このまま進んだら」
一拍。
「名を持たないままじゃ、
いられなくなる?」
リュシアは、
少しだけ微笑んだ。
「そうなる日が、
来る」
「でも」
視線を外さない。
「それは、
今日じゃない」
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町の中で、
夕方の気配が広がる。
今日も、
名は呼ばれなかった。
それでも。
覚えられたという事実だけが、
確かに残っている。




