第二十七話 名のないまま、守ったもの
町の昼は、
思っていたよりも脆かった。
朝と夕方のあいだ。
人がいちばん油断する時間。
通りは賑やかで、
声も多い。
それなのに。
「……嫌な感じがする」
僕がそう言うと、
リュシアは足を止めた。
「気づいた?」
短い問い。
それだけで、
胸が引き締まる。
⸻
通りの奥で、
人だかりができていた。
怒鳴り声ではない。
騒ぎでもない。
躊躇の音。
誰かが困っていて、
でも誰も踏み出せていない。
「……あれ」
言葉にする前に、
体が動いていた。
⸻
箱が、
道の真ん中に倒れている。
中身は、
細いガラス瓶。
割れれば、
危ない。
持ち主は、
通りの端で立ち尽くしていた。
——ミレイだった。
⸻
「……大丈夫?」
声をかけると、
彼女ははっと顔を上げた。
「……あ」
一瞬、
名を呼びかけようとして、
言葉を飲み込む。
それでも、
目は助けを求めていた。
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「動かないで」
自然に、
そう言っていた。
名も、
役割もないのに。
僕は、
割れた瓶を一つずつ拾い、
通りの人たちに声をかける。
「足元、
気をつけて」
それだけで、
流れが変わった。
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人が動く。
誰かが布を持ってきて、
誰かが子どもを遠ざける。
役割が、
自然に生まれていく。
名を呼ばなくても。
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片づけが終わる頃、
ミレイは深く息を吐いた。
「……ありがとうございます」
その声は、
震えていなかった。
もう、
大丈夫だ。
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「怪我は?」
「ありません」
彼女は、
小さく笑う。
「……あなたが、
先に動いてくれたから」
胸の奥で、
何かが静かに鳴った。
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「……ねえ」
ミレイが、
少しだけ躊躇ってから言う。
「名前、
まだ聞かないほうが
いいですよね」
その言葉に、
一瞬驚く。
でも、
すぐに分かった。
彼女は、
選んでくれている。
⸻
「……うん」
正直に答える。
「今は、
まだ」
ミレイは、
小さく頷いた。
「分かりました」
それだけ。
踏み込まない。
でも、離れない。
⸻
通りの喧騒が、
元に戻っていく。
何事もなかったように。
それでも、
確かに何かが残った。
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「……今の」
少し離れた場所で、
リュシアが言う。
「守ったね」
「……名もないのに?」
問いは、
冗談めいていた。
リュシアは、
首を振る。
「名がないから、
できた」
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胸の奥で、
鈴が鳴る。
――ちりん。
それは、
歓迎でも祝福でもない。
記録の音。
⸻
名を持たないまま、
誰かを守った。
それは、
英雄的な行為でも、
運命的な出来事でもない。
ただ。
選んで、動いた。
それだけ。
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でも、
その一歩は確かに、
町に残った。
名のないまま。
静かに。




