第二十六話 今の名が、まだ無い理由
朝は、静かに始まった。
夜に呼ばれた名は、
夢に沈むこともなく、
はっきりと思い出せるまま残っている。
それなのに。
胸の奥は、
不思議と穏やかだった。
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宿の階段を下りると、
朝の匂いがした。
焼いたパン。
湯気。
誰かの生活。
「……現実だな」
そう呟くと、
リュシアは小さく頷く。
「現実だからこそ、
名は急げない」
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通りに出る。
町は、
昨日と同じようで、
少しだけ違って見えた。
人の顔。
声。
名の交わし方。
それらが、
前より近い。
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「……ねえ」
歩きながら、
僕は聞いた。
「もし、
今の僕に名をつけたら」
一拍。
「何が起きると思う?」
リュシアは、
すぐには答えなかった。
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代わりに、
立ち止まる。
「名はね」
静かな声。
「“こうありたい自分”と
“そう見られている自分”が
重なったときに、
自然に落ちてくる」
胸の奥が、
わずかに鳴る。
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「……今の僕は?」
問いは、
自分に向いていた。
リュシアは、
言葉を選ぶ。
「今のあなたは」
一拍。
「途中」
その答えに、
妙に納得してしまう。
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通りの向こうで、
ミレイが誰かに声をかけている。
名を呼び、
呼び返され、
笑っている。
「……完成してる人、
みたいだな」
思わず、
そう言う。
リュシアは、
首を振った。
「完成じゃない」
「続いてるだけ」
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「……じゃあ」
僕は、
空を見る。
「名が無いのは」
少し考える。
「まだ、
続いてる途中だから?」
リュシアは、
小さく微笑んだ。
「うん」
「止まってない証拠」
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胸の奥で、
鈴が鳴った。
――ちりん。
でも、
それは節目の音じゃない。
歩調が合っている、
という音だった。
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「……じゃあさ」
僕は、
足を止めずに言う。
「今の名は、
いつ生まれる?」
リュシアは、
前を見たまま答える。
「選び続けたあと」
「振り返っても、
逃げてなかったと
言えるとき」
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「……難しいな」
正直な声。
「簡単だったら、
名前じゃない」
その言葉に、
思わず笑ってしまう。
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町の中を、
名のある人たちが歩いている。
その中で、
名のない僕も歩いている。
違和感は、
もう無かった。
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今の名が無い理由は、
欠けているからじゃない。
まだ、
選び終わっていないからだ。
それは、
不安でも、
遅れでもない。
進行中、
という状態。
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リュシアが、
隣で言う。
「名は、
あなたを縛るものじゃない」
「あなたが歩いた道を、
あとから照らすもの」
胸の奥が、
静かに温かくなる。
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今日も、
名は生まれなかった。
それでも。
名が生まれる場所へ、
確実に近づいている。
そんな感覚だけが、
確かにあった。




