第二十五話 呼ばれた名に、答えなかった夜
夜の町は、
昼とは別の顔をしていた。
灯りは、
人のために灯されている。
それなのに、
どこか夢の中みたいだった。
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宿の部屋は、
静かだった。
窓の外から、
遠くの話し声が届く。
名を呼ぶ声。
笑い声。
それらが、
膜越しに聞こえてくる。
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「……眠れないな」
独り言のように言うと、
リュシアは椅子に腰かけたまま、
こちらを見た。
「今日は、
音が多いから」
「音?」
彼女は、
少しだけ言葉を選ぶ。
「名前の、
音」
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布団に横になっても、
目は閉じられなかった。
まぶたの裏で、
町の輪郭が浮かぶ。
名のある人たち。
名を呼ばれ、
応えて生きる人たち。
「……いい町だな」
そう言った瞬間だった。
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呼ばれた。
はっきりと。
声は、
すぐそばにあった。
でも。
町の誰の声でもない。
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「……今の」
体が、
わずかに強張る。
リュシアが、
すっと立ち上がった。
「聞こえた?」
「……ああ」
喉が、
少し乾く。
「名前、
呼ばれた気がする」
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部屋の空気が、
静かに沈む。
音は、
もうしない。
それなのに、
胸の奥がざわつく。
「……答えなかったんだな」
自分でも、
驚くほど落ち着いた声だった。
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「うん」
リュシアは、
短く答える。
「答えなかった」
それを、
責めるでも、
安心させるでもなく。
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「……知ってる声だった」
言葉が、
自然にこぼれる。
「嫌いじゃない」
「でも」
一拍。
「今の僕には、
合ってない気がした」
胸の奥で、
鈴が鳴らなかった。
それが、
正しい反応だと
分かってしまう。
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「……過去の名?」
リュシアの問いは、
とても静かだった。
「たぶん」
否定はしない。
「呼ばれたら、
戻れる名前」
「でも」
天井を見る。
「戻るためだけの
名前でもある」
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リュシアは、
しばらく黙っていた。
それから、
ゆっくりと言う。
「答えなかったのは」
「逃げじゃない」
「今のあなたが、
ちゃんと“今”に
立っている証拠」
その言葉が、
胸に深く沈む。
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再び、
名前は呼ばれなかった。
夜は、
そのまま流れていく。
窓の外で、
誰かが笑う。
名を呼ばれ、
名を返している。
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布団に横になり、
ようやく目を閉じる。
眠りの手前で、
思う。
名は、
捨てたわけじゃない。
ただ、
今は答えなかった。
それだけ。
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夜は、
静かに更けていく。
呼ばれた名は、
影のように残る。
でも。
今の僕を
連れ戻すことは、
できなかった。




