第二十三話 名を呼ばれなかった理由
町で過ごす時間が、
少しずつ積み重なっていく。
一日。
二日。
誰も、
急かさない。
名を持たない僕を、
異物として扱わない。
それが、
逆に胸に残った。
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通りの端で、
腰を下ろす。
行き交う人々の声が、
自然に耳に入る。
名を呼ぶ声。
呼び返す声。
それぞれが、
当たり前のように
自分の名で生きている。
「……不思議だな」
思わず、
そう呟いた。
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「何が?」
隣に腰を下ろした
リュシアが聞く。
「名がないのに」
言葉を選ぶ。
「ここにいても、
居場所が消えない」
リュシアは、
少しだけ考えてから答えた。
「この町は、
役割より先に人を見る」
「名は、
あとから付いてくる」
胸の奥で、
静かに納得が広がる。
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「……それでも」
僕は、
視線を前に向けたまま言う。
「名を持たないのは、
楽じゃない」
「どうして?」
問いは、
責めるものじゃなかった。
ただ、
確かめるための声。
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しばらく、
答えが出なかった。
その沈黙は、
嫌じゃない。
「……たぶん」
ようやく、
言葉が落ちる。
「呼ばれた瞬間に、
何かを引き受ける気がする」
リュシアは、
黙って聞いている。
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「役割とか」
「期待とか」
「誰かの中で決まった
“自分”とか」
一つずつ、
言葉にする。
「それを」
息を吸う。
「まだ、
背負いきれない」
胸が、
少しだけ軽くなった。
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「……怖い?」
リュシアが、
静かに聞く。
否定しなかった。
「うん」
正直な答え。
「間違えたら」
一拍。
「戻れない気がする」
彼女は、
小さく頷く。
「それは、
正しい感覚」
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「でも」
続ける。
「だからって、
逃げたいわけじゃない」
言葉にした瞬間、
胸の奥が熱くなる。
「ちゃんと」
「選びたいだけ」
リュシアは、
少しだけ微笑んだ。
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通りの向こうで、
ミレイの姿が見えた。
箱を運び、
誰かに声をかけられ、
笑っている。
名が、
彼女を縛っているようには見えない。
むしろ、
繋いでいる。
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「……ねえ」
僕は、
リュシアを見る。
「名ってさ」
「呼ばれるためのもの
だけじゃないんだな」
「うん」
即答だった。
「呼び返すためのもの」
胸の奥で、
鈴が鳴る。
――ちりん。
それは、
理解に近い音だった。
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名を呼ばれなかった理由は、
逃げでも拒絶でもない。
まだ、
呼び返せる自分になっていなかった。
ただ、それだけ。
そして今。
町の中で、
人の名を聞き、
呼び、
返される中で。
少しずつ、
準備が整い始めている。
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空が、
夕方の色に変わる。
今日も、
名は決まらなかった。
それでも。
名を持つ日が、
遠ざかった気はしなかった。




